56.温泉旅行⑶
◇ ◇ ◇
人間は合理的な生き物ではない。
社会は矛盾に溢れている。
個人のプライベートが尊重され、プライバシーの保護が重要視される一方で、個々に守られるはずの他人の生活を知りたいという欲求を胸に秘めているのも、また人間だ。
共感は、大衆を動かす大きな力になる。
隆則のプライベートを用いた「子育て部長」の宣伝は、隆則の勤める企業にとって絶大な効果を発揮した。
これまで散々私生活を曝け出してきたのだ。「子供が成長したから、以降はプライベートに関する取材を控える」と言い出せば、たとえ事前に根回しがあったとしても、ある程度の摩擦が起きるだろうと隆則は想定していた。
社員向けのメールマガジンに載せた記事である「子育て部長・卒業宣言」を裏読みする者が現れるのはごく自然のことである。
「——で、実際のところはどうなんだ?」
「どう……とは?」
「あんたにいい人がいるのかいないのかって話だよ。ここらではっきりさせといたほうがいいんじゃないのか?」
仕事終わりの飲み会の席。
隆則の隣に座る同僚の口は酒の力もあってよく回った。
しかもよりによって、営業部の——あの彼の上司に当たる男だ。
自分の噂が社内で囁かれていることは報告で聞いていたが、まさかここから質問が来るとは。
興味本位な質問なのだろうが、どう答えたものかと必要以上に慎重になる。
「別に隠すことでもないんじゃないか。溝口は独り身なんだから、そこら辺は自由だろ。嫁さんに首根っこつかまれてるわけじゃねえんだ」
いいよなあ……とのぼやきは聞き流しておく。
階級が同じ者が集まれば威厳も何も関係ない。飲み会の出席者たちは口々に隆則を茶化した。
全員が面白がっているわけでない。
この場で腹の探り合いが発生していることを、隆則は十分承知していた。
「あの肩書きは息子が高校を卒業するまでと、早い段階から決めていましたからね。広報部とも話し合った結果ですし、邪推されてもこちらは何も出せませんよ?」
「またまた〜。本当は子供が手を離れるのを待ってたんじゃないのか?」
「息子に対し、これからも親としての責任を放棄するつもりはありません。——ですが私も息子も、それぞれが独立した人間でもありますから。いつまでも親の関心が子供にあり続けるのは、息子にとって窮屈のようで……」
日本酒の入ったグラスを片手に、隆則は小さく肩をすくめた。
「ずいぶん前に『子供を再婚しない言い訳に使うな』と息子に怒られ済みでしてね。子育て部長の卒業と私の色恋沙汰を結びつけるのは、親子間の信頼に亀裂が入りますので勘弁してください」
途端に周囲からどっと笑いが起こった。
「親父思いのよくできた息子だなぁ。いや、これは一周回って親に無関心ってことか」
「いかにも思春期の子供の言いそうなことだな。でも実際に溝口さんが誰かと交際したら、また態度がころっと変わるんじゃないか?」
「そうかもしれませんねえ」
のほほんと愛想笑いで相槌をうつ。
「息子が公認してくれるなら誰か紹介してやろうか? 子供が巣立つとひとり寂しくなるんだろ?」
斜め前に座る同期の申し出はきっぱりと辞退しておく。
「お気遣いはありがたいですが、仕事と私生活の境界が曖昧になりそうなことはやめておきます。私自身、そこまで器用な性格ではありませんので」
息子の京也が隆則の恋愛に反対しないからといって、社内にプライベートを持ち込むつもりはないと暗に伝えた。
たとえ隆則自身が遥子との交際にやましいことはないと認識していても、胸を張って意思を貫き通して円滑に進めるほど、世間の目は寛容でない。
隆則にとって大切な人たちに害が及ばないためにも、手順を踏む必要があった。
◇ ◇ ◇
バイト、学校、塾。自宅学習と、たまに息抜き。
頭に詰め込む内容は毎度変わるが、私自身の日々の行動はさほど変わり映えしない。
大きな出来事が起こることなく、1学期が終わった。
そうして迎えた夏休み。
塾の夏期講習は苦手な数学と英語の2教科に絞った。努力の甲斐あって勉強に余裕ができてきたのと、全教科を申し込むのは経済的に厳しかったのが選択の理由だ。
土日にフルタイムでバイトをしなくなると当然給料も下がる。覚悟はしていたものの、最近の懐具合はなかなかに寂しかった。
ママは受けたい教科があるなら家計からお金を出すとの申し出はあったが、これは断った。
お金は際限なく湧いてくるものじゃないから。大学進学を応援してくれて、授業料をこつこつ貯めてもらってるママに、これ以上の贅沢は言いたくない。
塾の費用は自分で捻出すると高校1年の時に宣言したのは私だ。それもあって、意固地になっているのは自分でもわかっていた。
とはいえお金の有無は生活の質に直結する。
世の中お金じゃないとか、そんな綺麗事今はいらない。
せめてお盆だけでも短期バイトがあればと、7月に入ってから無料の求人雑誌を持って帰っては眺めてたら……。
「——凛ちゃん、お仕事探してるんですって?」
ママから聞きつけたであろう明菜さんに声をかけられた。
ちょうどいいわ。夏休みは人手が足りないから会社にいらっしゃいな。ウチはいろいろと融通がきくわよ?
通勤は徒歩圏内。2、3時間の時短勤務OK。
こんな好条件の仕事を断れるわけもなく。夏休みの期間限定で私は加藤さんのところに雇われることとなった。
職場は鱈福屋さんと隣接する食品加工工場だ。
飲食店に納品する食材の下準備が主な業務となる。仕事中はひたすら作業に集中して、時間がくればサッと帰る。
建物が分かれているため、鱈福屋さんで働いているママとは一切顔を合わせない。甘えが出てしまいそうだから、これでよかったと思う。
「本当に、お盆が明けたら終わりでいいの?」
ある日の仕事終わりに明菜さんに言われた。
お盆が過ぎたらパートさんたちの人手は回復するが、働きたいならいくらでも仕事はあるから居てくれて構わないという。
ありがたいことだけど、誘惑には負けずにここは首を横に振る。
「月末に模試があるので、少しはそっちに集中しようかと」
「そうなの。惜しいけど仕方がないわね。——結果はいつ出るの?」
「ええっと……一ヶ月後くらい? だっけ……」
記憶が曖昧であまり自信がない。
しどろもどろに答えた私に、明菜さんは何かを思いついてにっこりと微笑む。
「がんばりなさいね。結果がよかった時はご褒美あげるわ」
「それは……がんばります」
具体的に何がもらえるのかは、雰囲気的に聞きづらかった。
明菜さんは有言実行の人だ。私のやる気を出させるためにその場のノリで「ご褒美」などと発言するはずがない。
そうは言っても期待しすぎるのはあんまりよろしくない。
自制する反面、ご褒美の正体が美味しい何かなのはまず間違いないと確信している自分がいた。
単純で結構。これはもうやるっきゃない。
早朝バイトの強みは朝に何がなんでも起きないといけないところにある。
品出し業務で軽く体を動かして、帰宅後にベッドに横にならない限りはそれからの時間を勉強に回せた。
模試が終了して、9月になった。
しばらくぶりの美奈子との再会を喜び、また通常の生活がスタートした。
志望する短期大学への指定校推薦を勝ち取った美奈子は小論文と面接の練習に心血を注いでいる。
「大学が決まったらバイトの許可が下りるんだっけ」
「そうよ。チビに思春期がくるまでには家を出るつもりだから、これからガンガン貯めていくわよ」
妹に一人部屋がないのは可哀想だと嘆きつつ、それを口実にして一人暮らしを計画しているらしい。
「おじいちゃんとおばあちゃんをウチで引き取るって話もあるみたいだし、そうなると一軒家でもさすがに狭すぎるわ。デカくなったのからどんどん独立していかないと」
「一人暮らしかあ。すごいなぁ」
自分が家を出るとか、全然想像できない。
ああでも、いつかママと溝口さんがゴールインしたら、私も独立したほうがいいのか。
その時、京也先輩はどこで何をしているだろう……。
「いつ家を出るとか、将来のこと、なーんにも考えてないや」
「そんなものでしょ。私だってなんだかんだで行き当たりばったりよ。それに部屋数に余裕があれば急いで家を出たいなんて思わないわ」
別に家族仲が悪いというわけでもない。
必要に駆られたから選択しているまでだと美奈子はキッパリ言いきった。
「まあ一人暮らしをするにしても、1年は先の話になるわね。出費を抑えるには実家暮らしが一番よ」
「一人暮らしを反対されたりはしないの?」
「それはないわ。常々親からは成人したらあとは自分でどうにかしろって言われてるもの。その代わり、家賃の援助は期待できないから自力で資金を調達しないと」
高校生の間はバイトが禁止で、成人後は放任。家庭によってルールはそれぞれだ。
うちのママの場合、私が一人暮らしするって言ったらよっぽどの理由がない限り反対するだろう。
「家賃を安く済ませるなら、学生寮とかルームシェアとか? 通学可能圏内に自宅があっても、寮の審査ってとおるのかな?」
「寮生活は考えてないかしら。ルームシェアも。それするぐらいならすぐ下の弟に声をかけるわ」
「なるほど……鳥元先輩とは最近どうなの?」
「急に話変えてきたわね。どうってどうよ?」
いやだって……美奈子が一人暮らしを画策してるって聞きつけたら、鳥元先輩はアクションを起こさないのかなぁ……と。
勝手な印象だけど、あの人だったら「弟と住むぐらいならミナちゃん俺とルームシェアしようよ」ぐらい言いそうだし。
「最近は会ってないわね。あっちはあっちでキャンパスライフを謳歌してるみたいだから、高校生を相手にしてる暇はないみたい」
意外だ。……いや、失礼かもしれないけど、逆に鳥元先輩らしい、のか?
「連絡も取ってないの?」
「そういうわけじゃないけど、前ほど頻繁じゃないわ。物理的に距離が離れたらこんなものよ……って、どうして凛が不満そうな顔にしてるの」
「……だって」
釈然としないこの気持ちは自分本位のものだ。
美奈子がそれでいいと判断したなら、私が口出しすることはない。
わかってる。私だって中学生のころの友達ともうほとんど連絡は取ってない。ある種それと同じ。
人との関わりが移り変わるのは自然なことなのだ。
自然消滅という単語が脳裏を掠めるも、言葉にするのは憚られた。
……わかってはいても、どうしても寂しさを拭い去ることができなかった。
「卒業しても友達でいようね」
「当然よ。まだ先のことなのに今からしんみりしてんじゃないわよ」
昼休みにお弁当を食べながら、ふたりでこうしておしゃべりをする時間は永遠じゃない。
年が明けたら私たち3年生は高校に来ること自体が少なくなる。
迫る別れを惜しむ気持ちと同じぐらい、来年になれば入試のプレッシャーから解放されるのを心待ちにしている自分もいて。複雑な感情は焦りに集約されて勉強へと突き動かされた。




