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37.絶妙な距離感を維持せよ⑶





——ただ、弁当箱を返したかっただけ。




加藤さんから伝えられた志士脇の我が家への訪問理由は、突っ込みどころがありすぎた。


弁当箱って、いつのものよ。っていうか、アイツは毎回、ママに作らせたお弁当は好きなおかずだけ食べて、あとはママに返してたでしょ。

自分で弁当箱を洗ったことなんて一度もないくせに。


ママいわく、最後に志士脇にお弁当を作ったときに、今日で終わりにすると言って物を押し付けた記憶があるらしい。

食べ残しも含めて入れ物は捨ててくれて構わないって、はっきり伝えたはずだとママは困惑していた。

そもそも奴が持ち出しているお弁当箱が、かつてママの用意した物と同一かどうかも怪しい。


それに百歩譲ってお弁当箱の返却という目的があったとしても、しつこくインターフォンを鳴らして、玄関扉を叩いて大声で呼びかけるってのはどうなの。

こっちからしたら、私やママを怖がらせて楽しんでるようにしか思えないよ。

いやそれよりも、どうして引っ越したはずの私たちの家を志士脇が知ってるの。


私からしたらママの報告は腑に落ちないところだらけだった。


志士脇は勤め先で厳重注意を受けた。今後ママへの用事がある場合は会社と加藤さんを挟むようにして、自分が直接会いに行くのは控えるようにと勧告され、志士脇自身もそれに同意した。



「だからもう大丈夫よ」



そう言ってママは安心した顔で笑う。

私は一緒になって笑えずに、複雑な気持ちでママから顔を背けた。



「本当に、大丈夫なのかな……」



志士脇は何の罰も受けずに、会社での信用を失うことはなく、今ものうのうと働いているのだ。


正直に言ってしまうと、私はあの男になんらかの処分が下ることを期待していた。

降格、左遷、減給……? 会社がする罰則がどの程度のものなのかよく知らないけど、ママや……私にしたことへの報いを受けてほしかった。


だって、私はアイツが怖かった。これから先も、また志士脇が家に来るかもしれないと、怯え続けなければいけない。


私は馬鹿みたいにあれもこれも不安にさいなまれているというのに、元凶の志士脇は普通に日常を謳歌していると考えるだけで、強い憎しみが心を埋め尽くす。


でもこれは少数派の意見で、ママも溝口さんも、加藤さんたちも——、この結果をよしとしたのだ。だったら私がとやかく言ったところで変えられることはない。

物事を割り切れる大人たちが、ちょっとだけ羨ましかった。


志士脇が不幸になることを望んでるとか、やっぱり性格悪いよなあ……。


自分のドス黒い部分を悟られたくなくて口を閉ざす。家には私とママしかいないから、そうなると当然会話は終わってしまった。


キッチンで夕飯を温めるママの後ろ姿をぼんやり眺めて、どうにか心に折り合いをつけるように努めた。


多分、志士脇のことは忘れるのが一番だ。あんな奴なんてどうでもよくなるぐらいに、ほかのことに一生懸命になって、日常を楽しむのが正解だって……、理性的にはわかっている。


わかってはいるんだけど……。


むしゃくしゃしてても体はいつもどおりに動く。

うつわに盛られたおかずをママから受け取り、テーブルに並べていった。


——ママは、それでいいの? ……って。


別にいい子ちゃんぶりたいわけじゃない。でも、それを聞く勇気はなかった。


私たちのために動いてくれた、加藤さんや溝口さんを否定したくない。ありがたいと思う気持ちは本物だ。


だから私のこの、納得できない部分を表に出すのは違う気がして、いろんな言葉を飲み込んだ。



「そうそう。ママ週末のお休みに、いくつか物件を見て回るつもりなの。加藤さんが良さそうなところをピックアップしてくださって。たくさん写真を撮ってくるから、凛ちゃんの気になるところがあったら、次は一緒に見に行きましょう」



テーブルにつくとき、ママは思い出したようにそう告げた。



「……引っ越しはするんだ」



これはちょっと意外だった。

てっきり会社を通して志士脇と話を付けたのだから、一連のトラブルは終わった扱いになると勝手に思い込んでいた。



「明菜さんが、この際だからもう少し利便性のいい場所に住んでみたらって言ってくださったの。鱈福屋さんや、……その、溝口さんのお住まいに、近いところで探しましょうって……」


「いいと思う」



明菜さんの提案は、もしもの時に誰かがすぐに駆けつけられるようにって気遣いだ。



「凛ちゃんは建物の一階がいいのよね?」


「いや、それは忘れて。ママが気に入ったとこならどこでもいいよ」



一階へのこだわりは、ここへ引っ越す時に絶対に譲れなかった条件だった。ママが覚えていたのに驚きだ。


当時はたとえアパートが墓地の隣だったとしても、場所にこだわらなかった。ただ建物の一階住まいじゃないと、不審者が家に侵入した際に窓から逃げられないって、そればかりが強迫観念として頭の中にあったのだ。



「何階でも大丈夫だから、場所を選んで。ママが安心できるとこが一番だから——」



言葉に出してから、はたと気づく。


——違う、か。

今も志士脇が怖いのは私だけじゃない。


ママだって、不安と戦っている。

引っ越しを勧める明菜さんや加藤さん……溝口さんも、済んだことにしたのは表面上だけで、アイツへの警戒はといてないんだ。


……それにしても。

心配してもらえてるから安心するとか、もしかして私はかまってちゃんなのか。


志士脇の不幸を望んだり、身近な人たちに同情されて喜んだり。

メンヘラじみた思考回路に「これでは駄目だ」と自覚して危機感を抱く。


しかしそれとは別に、志士脇への大人たちの対応は、所詮事なかれ主義のその場しのぎだと、穿った見方をしてしまう自分もいたりして……。

でもその憤りだって、時間が経てば次第に自己嫌悪に変化していく。


自分では何もできないくせに、周りに多くを求める私は何様だ——って。



「あー……」



ぐちゃぐちゃになった感情を処理しきれず、箸が止まってしまう。



「私ってだめだめだぁ……」


「いきなりどうしたの?」


「……なんか、周りの人たちはちゃんと先のことまで考えてるのに、私だけ視野が狭いっていうか、感情的になっちゃってるっていうか……」



上手くまとめられないモヤモヤなだけに、的確な言葉として伝えることもできない。

しょぼくれる私の正面で、ママはきょとんと首をかしげる。



「凛ちゃんがダメなら、ママはどうなっちゃうの?」


「どうもこうも、加藤さんたちが味方してくれるのは、ママが信頼を積み立てた結果でしょ。……溝口さんも」



私なんか、ママに遠く及ばないよ。



「何言ってるの。ママが溝口さんとお付き合いできたのも凛ちゃんのおかげなのに」


「でも、みんなすごい人たちばっかりで……」


「それはすごいところばかりに注目しているだけよ。ママなんて凛ちゃんが背中を押してくれなかったら、今でも一人で悩むだけで、なーんにもできなかったでしょうし」


「……私は、志士脇さんが、お咎めなしで普通にすごしてることに、納得できてない……」


「…………そうね」



ママは私の醜い感情を、決して諌めようとはしなかった。



「ママは志士脇さんのこと、もうなんとも思ってないの?」



恐々としながら聞いてみると、ママは「まさか」と即答で否定した。



「でも……彼に思うところがあるのと同じぐらい、ママにも落ち度があったから。彼のことを見抜けなくて、凛ちゃんに怖い思いをさせてしまったのは、ママにも責任があるわ」


「……ずるいよその言い方」



確かに志士脇を家に連れてきたのはママだ。二人が付き合ったりしなければ、私は嫌な体験をせずに済んだ。

ママがもっと早くに別れを切り出して毅然と対応していれば、志士脇との関係もこんなに拗れなかったかもしれない。


私がママを責めないのは、ママのことが大好きだから。

私が志士脇の不幸を望むのは、志士脇が大嫌いだから。


感情ばかりが先走って、公平になれてない。

そんなの自分でもわかってる。



「ママを責められないなら、志士脇さんも許せって言いたいの?」


「そんなことないわ。ママと凛ちゃんで志士脇さんへの考えやスタンスは違って当然よ。そもそもの立場も違うのだし、凛ちゃんがママと同じになる必要はないの」



ママはお味噌汁のお椀に口をつける。

もやもやは依然として残っていたが、私も食事を再開した。



「凛ちゃんはえらいわね。ママが凛ちゃんくらいの時は、そんなに色々と考えてなかったわよ」


「そうかな?」


「そうよ。でもたくさん考えすぎてしまって、自分を悪く思うのはダメよ。志士脇さんのことで、凛ちゃんに反省するところなんてひとつもないのだから」


「う……ん」


「嫌なこととか、納得できないことは今みたいに吐き出していいのよ。嫌いな人に対して、地獄に落ちて二度とこの世に生まれてくるなって思ってても、ママは全然驚かないし……」



しんみり口調でさらりと出てきた過激発言に、飲んでいたお茶が気管に入りかけてむせた。



「……っ、ママ、嫌いな人にそんなこと思ってるの?」


「む、昔のことよ……、ママが高校生くらいの時はそうだったってだけ。今はもうそんなこと思ってないわ」


「ふーん」



必死の弁明は信じよう。……っていうかさすがに信じたい。



「じゃあ今のママは、地獄に落としたいぐらい憎い人が出てきた場合、どんな感じで心に折り合いをつけてるの?」



これは純粋な疑問で、他意はない。

心構えの参考までにと聞いたのだけど、ママは「そうねぇ」と考え込んだ数秒後、顔を赤くしてあわあわしだした。



「まあ、そうね……考え事の優先順位の一番を、別の楽しくて幸せなことに置き換える……とかかしら」



回りくどくして誤魔化そうとしてるのがバレバレだよ。



「そっか。ママは溝口さんのこと考えてたら、志士脇さんなんてどうでもよくなっちゃうか」


「〜〜っ! 凛ちゃんも、学校で好きな人とか、気になる人はいないの? 恋愛とかおしゃれとかお化粧とか、学生なんだからたくさん楽しまないと」


「いやいや学生なんだから、まず大事なのは勉強でしょ。でもそっか。ママは今幸せの絶頂で忙しいもんね。前に進めて、いいことだと思うよ」


「凛ちゃんっ!」



照れ隠しに怒るママをからかって笑う。幸せそうでなによりだ。


ママに「気になる人」って言われた時、ちょっとだけドキッとしたのは、内緒。



「それはそうと凛ちゃんっ、あなたいつの間に明菜さんと仲良しになったの? ママなんにも聞いてないわよ」


「あー……、成り行きで?」


「どんな成り行きでそうなるのよ」


「学校で知り合った京也先輩に紹介してもらったの。明菜さんも、ママと溝口さんのじれじれにずっとヤキモキしてたんだよ」


「〜〜〜〜っ!」



話題を逸らすことに失敗したママが羞恥に悶絶する。

ママの慌てふためく姿を見ていると、単純な私は面白くなってつい笑ってしまう。



「明菜さん、今度はママも一緒に女子会しようって言ってたよ」


「……ママもお誘いいただいてるわ。引っ越しが終わって落ち着いたらってことになってるから、凛ちゃんは今からちゃんと部屋を片付けておきなさいね」


「はーい」



引っ越しかあ。

次はどんなところだろう。



「鱈福屋さんに近いとこに移るんだったら、ママの自転車、私がバイトに行くのに使ってもいい?」


「そうね。……凛ちゃんさえよければ、思い切って原付きの免許を取ってみない? 試験に受かったらバイク買ってあげるわよ」


「これから引っ越しでお金かかるってのに、散財はやめてよ。運動にもなるし、私は自転車で十分だよ」


「……便利なのに」


「だいたい運転免許なんて、何日も教習に通わないといけないんでしょ? そんな時間ないよ」


「原付きは学科試験と技能講習だけだから、免許センターに行けば一日で終わるはずよ。お金もそんなにかからないし、ママもそれで原付の免許だけはそれで取ったの」


「そうなの?」



これにはちょっと心が揺れる。

漢検とか英検の資格試験に挑むのに似た感覚で、やってみるのも面白そうだと興味が湧いた。



「原チャに乗るかは別として、ちょっと試験のこと調べてみる」



嬉しそうににこにこするママと食後の片付けをしていく。


先のことにワクワクし出すと、単純な私は志士脇への憎しみなんてすっかり忘れてしまっていた。







      *






私の脳みそは優秀じゃないから、一度に多くのことで悩めない。

あれもこれもと問題が重なってしまうと、目先のことばかりに意識が向いて、その時だけはほかの悩みを気にしなくなる。


それは憎い人、嫌いな人、苦手な人も同様だ。

志士脇について考えているあいだは、私が最も嫌いな人間——父親については頭の中から抜け落ちているのに落ち着いてから気づいた。


決してあの怒鳴り声を忘れたわけじゃない。それでも、こうやってだんだんと、トラウマ級の嫌な記憶も脳みそは風化させてくれるのだと、前向きに考えることにした。


今は怖い志士脇だって、いつか過去のことになる。

いつまでも囚われていたら、楽しい出来事が頭の中に入ってこない。

警戒はするけど、アイツに拘りすぎない。これって結局ママのスタンスなんだよなあ。


私がこの結論に行き着いた時、ママが人生を楽しくすごしてる理由がちょっとだけわかった。








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