36.絶妙な距離感を維持せよ⑵
◇ ◇ ◇
シキシマ電機の本社にある、人事部の面談室にて。
営業部の志士脇と人事部の面談を、総務部の松永は間仕切りで並んだパーテーションで身を隠し、部屋の奥で密かに傍聴していた。
松永がここにいるのは、上司である隆則に頼まれたからにほかならない。彼女自身にとってもこれは願ったりの役回りだったので、二つ返事で了承した。
「西森、遥子さんを覚えておられますか。以前、本社の社員食堂に勤められていた女性です」
「はい。存じています」
「あなたは最近、西森さんのお宅に訪問されましたね」
挨拶もそこそこに、人事の男性社員は志士脇に確認を入れた。パーテーション越しに聞こえてくる彼の声からは、志士脇を責める姿勢と強い緊張が伝わってきた。
無理もない。メインで話す彼の隣には人事部の部長が並んで座っていて、場合によってこの一件はさらに上の耳に入ることになる可能性があらかじめ示唆されているのだ。
「はい。たしかに、少し前に伺いました」
意外にもあっさりと、志士脇は西森家を訪問したことを認めた。
「訪問理由をお尋ねしてもよろしいですか」
「弁当箱をお返しするためです」
「……弁当箱、ですか」
「そうです。9月に家の整理をしていたら、たまたま見つけてしまって、以前西森さんに渡されたのを、返却できずにいたことを思い出したんです。勝手に捨ててしまうのは申し訳ないと思い、彼女の家を訪ねました。しかし留守にされていたようで、結局お会いすることはできませんでした」
スラスラと志士脇は噛まずに言ってのけた。まるで用意していたセリフを並べたような滑舌のよさだ。松永は渋い顔で無意識に腕を組む。
松永が知るところによると、遥子は社員食堂を辞めたあとに一度引っ越しをしている。それなのになぜ、志士脇は彼女の住所を把握していたのか——? そこを突っ込んで聞いてくれないかなぁと思いつつも、彼女は沈黙を選んだ。
志士脇のことだ。こちらに関しても理由を用意している可能性が十分あり得る。
部屋の中に数秒間の沈黙が流れる。
パーテーションの向こうで担当者と人事部長が視線で意思疎通している様子が松永にはありありとイメージできた。
「単刀直入に言おう。君の行動について、今回加藤フーズの加藤社長より苦情が入った。加藤フーズは西森遥子さんの現在の勤め先だ」
この声は人事部長のものだ。
「はい、えぇ……」
力の抜けた相槌をする志士脇は、おそらく突拍子もなく飛躍した話に理解が追いついていない。
小さくこぼれ感嘆からは、なぜそのようなところが口を出してくるのかという疑問がうかがえる。
「君が家を訪ねたことにより、西森さんはひどく動揺してしまい、業務に支障が出ているらしい。社員の精神状態を守るためにも、この先彼女への接触が必要であれば、互いの会社を通したいという要望があり、こちらからも了承の旨を伝えている。君も軽率な行動は控えるように」
「承知しました。……しかし、会社から……ですか」
驚きと呆れが入り混じる。そんな大袈裟な、と言いたげな口調だった。
松永はパーテーション越しに、人事部の二人が並ぶ長机のある位置からぺらりとか紙が捲れる音を聞いた。
「加藤社長は、過去に西森さんが我が社で起こした問題を承知したうえで、彼女を雇用したそうだ。今は心を入れ替え、真面目に仕事をがんばる社員の過去を蒸し返す行為には、社員を預かる者として遺憾の意を表明する——とのことだ」
かつての遥子と志士脇のあいだで起こったトラブルは、遥子の所属していた派遣会社や食堂の業務委託会社だけでなく、シキシマ本社も巻き込んだ。
当時被害者とされた志士脇が、年月を経たとはいえ加害者のはずの遥子を自ら訪ねたことについては、シキシマ側からしても疑問を呈さざるを得ない。
人ひとりが職を失うこととなったあの時の問題は、シキシマや被害者の社員からしたらその程度の出来事だったのか——。
今後のシキシマの対応次第では、当時の再調査を正式な形で要求する——加藤はそういったことを、遠回しにシキシマに伝えていた。
ちなみに加藤のいう「正式な形」とは株主総会の議案であり、これを知っているのは、この場では松永と人事部長の二人だけだ。
人事部長はそれらの詳細を志士脇には語らず、これ以上遥子に近づかないようにとだけ通達した。
「西森さんへ渡す物があるなら、総務部へ届けてくれたらいい。会社として責任を持って、加藤社長へとお渡ししよう」
「承知しました。私の軽率な行動でご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした」
志士脇は殊勝な態度で頭を下げ、面談室を退出した。
「ご苦労様です」
奥からひょっこりと顔を出した松永に、人事部長は苦虫を噛み潰したような渋い顔を見せた。
「まったく、溝口も面倒なことをしてくれたものだ」
あいつはどちらの味方なのだと、男は大袈裟なため息を吐き出す。松永はそれを愛想笑いで聞き流した。
人事部長が言わんとしていることはわかる。
遥子がシキシマの社員食堂を辞めたあと、鱈福屋——加藤フーズに就職しなければ今回の件もここまで大事にならなかっただろう。
志士脇と遥子のプライベートでのトラブルに会社が巻き込まれることも、シキシマとしては処理済みである4年前の案件を、こうして蒸し返される恐れが出てきたのも……すべては遥子の後ろに加藤がいるからだ。
加藤にかつて遥子を紹介したのは、シキシマの社員である総務部長の隆則である。人事部長はそのことが皮肉に思えて仕方がないのだ。
4年前の遥子への対応に問題はなかったという姿勢は変わらない。しかし「問題」というものは、重箱の隅を突くようなことをされたら、大なり小なりどこにでも作れてしまうものだ。
痛くもない腹を探られる面倒を回避するためには、今回に限っては志士脇を止めるのが会社としては最善だった。
「しかし思いのほか素直に承諾してくれましたね、彼も」
若い部下がほっと胸を撫で下ろす。
昨今は社員のプライベートへの口出しには、何かと気を使う。越権行為やハラスメントと見做して社員が会社を訴える事例も増えてきており、今回の志士脇への忠告もグレーゾーンとして慎重に扱うと打ち合わせの時点で留意されていたのだ。
「あの様子でしたら、この先は問題なさそうですね」
「ああ、先方へ渡す分も含めて、報告書をまとめておいてくれ」
「承知しました。お先に失礼致します」
人事部の社員は頭を下げてフロアへと戻った。
面談室に松永と二人きりになり、人事部長は机に置かれた資料を手に取った。営業部所属の、志士脇の評価票である。
「彼は勤務態度も真面目で、営業の成績も申し分ない。同僚からの信頼もある——マイナスの評価の付けようがない、社員として完璧な男だ」
胡散臭え……。と思いながらも松永は全く顔に出さない。
「それは素晴らしいですね。私も見習いたいものです」
「……素晴らしい社員でいさせるためにも、間違っても化けの皮を剥がそうとするなと、溝口に伝えておけ。あの手の奴は追い詰めると何をやらかすかわかったもんじゃない」
予想外の飼い殺し発言に、松永がおやと瞠目する。
人事部長は志士脇の異常性を見越したうえで、会社の利益となる扱い方を提示したのだ。
「ま、損得勘定がまともにできているうちは、奴もこれ以上わけのわからんリスクを犯すようなことはないだろう。……しかし、今さら弁当箱の返却か……行動を起こすことになったトリガーがどこかしらにあったんだろうな」
不穏なワードにどきりと心臓が跳ねる。しかし松永は平静を装った。
首を捻ってはて? ととぼけながらも、頭の中でこれまで仕入れた情報を整理しようと努める。
その後は大した話もなく、人事部長と共に面談室を退出し、それぞれの仕事場に戻った。女の勘とでも言うべきか。松永の胸の内には、もやもやとした不快な感覚が尾を引いて残っていた。
*
部署に戻った松永は自身の仕事を再開した。
それからしばらくして会議で席を外していた隆則が帰ってきたので、部署内のミーティング室へと彼を誘った。
「——という感じででした。ひとまずは彼も身を引く姿勢を示してますので、あとは様子見ですかね」
「ありがとう。忙しいところすまなかった」
報告を聞き、隆則は松永を労う。
志士脇の面談の立会いは、私情が入った頼みだった。その自覚がある隆則の態度にはどことなく申し訳なさが感じられた。
「いえいえ、これぐらいのことならいつでも仰ってください。部長にようやく春が来たってんですから、こんなの応援するっきゃないじゃないですか」
茶化しながらもぐいぐいくる松永に、隆則は若干引き気味だ。
松永のことは部下としても信頼している。彼女は4年前の件でも遥子のことを気にかけていたので協力を仰いだのだ。
乗り気になってくれるのは嬉しいが、志士脇の件について隆則よりも松永のほうが処理に意欲を出しているこの現状はいかがなものか。
「……ほどほどに頼むよ」
暴走だけはしないでくれと苦笑気味に告げると、松永から鋭い眼光が飛んできた。
「溝口部長も浮かれてないで言動は慎重にお願いしますよ。社内の世間話だって、どこで誰が聞いているかわかりゃしないんですから。西森さんと親密な関係になられたというのは、今のところ私ぐらいしか知らないんですよね?」
隆則が肯定すると、松永は腕を組んで考え込む。
「私も、このことは社員に口外しません。……様子見と言いましたが、この先もしも『子育て部長に女の気配がある』みたいな噂が流れたら、間違いなく出所は彼でしょう。そうなった時の対処は、今から考えておいてくださいね」
「まるでそうなると決まっているような言い方をするが、思うところがあるのかい?」
「根拠と言えるものはありませんが、タイミングは怪しいでしょう。だって、彼が西森家を訪れたのは、部長が西森さんに夕食を作ってもらえるって舞い上がってたあたりですし」
これには隆則も難しい顔をして唸る。
「逃した女が予想以上の大物を釣り上げて、今さら惜しくなったか。弁当返却したいなんてみみっちい理由で自宅に突撃かますんだから、そこら辺の動機はなんでもアリでしょう」
「……あまり考えたくはないが、気に留めておくべきか」
「そうしてください。あと、私はちょっと4年前のトラブルをもう一度内密に洗ってみます。この際なのではっきりさせておきましょう」
4年前、志士脇は「社員食堂に勤める遥子に過度な言い寄りをされて迷惑している」と本社に報告した。
その訴えを受け、シキシマは社員食堂を業務委託している食品会社に苦情を入れた。それと同じタイミングで、遥子は派遣の契約終了を言い渡された。
通達から遥子の処分までの時間は驚くほど速かった。誰かが裏で手を回していたのは明らかである。
当時の隆則たちは志士脇がシキシマの会社を通さず、食品会社に個人的な苦言をしていたことを掴んではいたものの、それ以上の言及はしなかった。
真相解明を当事者の遥子が望まなかったというのが最もな理由であるが、今となってはその判断も悔やまれる。
「何から何まで、すまない」
「この程度どうってことありません。大船に乗ったつもりでいてください」
「……重ね重ねになるが、ほどほどに頼むよ」
やる気をみなぎらせる松永に隆則が再三ストップをかけるのは、自分が彼女にとって娯楽的な観察対象になっていると知っているからだ。
上司の恋愛を楽しむ部下の構図に複雑な気分を味わうも、松永が優秀なことには変わりはない。
「大丈夫ですって。そこら辺はちゃんとわきまえてますよ。人事部長からも忠告をいただいてますからね。下手に彼を追い詰めるようなことはするなと」
これには隆則も同意である。
極論、志士脇の性格に難があったとしても、社員として企業に貢献しているなら、社内上層からの行動の抑圧には慎重になるべきである。
個人的には隆則自らが志士脇に直接「遥子に接触しようとするな」と忠告したいところだが……。遥子との交際を社内でも堂々と公言できるようになるまでには、周囲への根回しが足りていない。
「根性なしと思われるかもしれないが、私も穏便な解決を望んでいるよ。彼が西森さんへの接触をやめて、これからも真面目に勤めてくれるなら、それがありがたい」
「いやいや、部長がくだんの彼に『俺の女に手を出すな!』とか言って突撃するなら、そっちの方がドン引きですよ。長年ついていく人間違えたなーって、私が後悔するのでそれはやめてくださいね。勧善懲悪のざまあは物語の中だからこそ面白いんですよ。現実で無敵の人を作るようなことはそう簡単にしちゃいけませんって」
時々、隆則は松永の話についていけなくなる。
しかし後半でかろうじて意味合いを理解できた「無敵の人」については、隆則もそうだなと神妙にうなずいた。
長話もそこそこにして、隆則と松永はミーティングルームをあとにする。
そこからはお互い何事もなかったかのように通常業務に戻った。
シキシマの社員というネームバリュー。
社会的な信頼に、普通に生活するには十分な給金——。
志士脇がそれらに価値を見出しているうちは、遥子への嫌がらせを早々に諦めるだろう。
彼が真っ当な社会人の仮面を剥がさないでいてくれるなら、それに越したことはない。
*
仕事帰りに隆則は鱈福屋へと足を進める。
慣れた道にも関わらず、遥子と正式に交際してからというもの、店に辿り着くまでの緊張は二割り増しになった。
これまで鱈福屋へ赴く目的は、日替わりおかずを受け取ることにあった。そこに遥子と顔を合わせることも、堂々と目的のひとつに追加されたのだ。隆則の心境の変化は、とても大きなものだった。
店の近くまで行くと、遥子の明るい声が聞こえてきた。
ショーケースの前で品物を受け取り立ち去る客に礼をして、頭を上げた遥子が、ふと隆則のいる方へと顔を向けた。
20メートルほど距離が開いていても、彼女が嬉しそうに笑うのがわかった。つられて隆則も顔を綻ばせ、どちらからともなく互いに小さく会釈した。
店頭に人がいないタイミングで遥子は店の奥へと引っ込む。溝口家のための日替わりおかずを取りに行ったのだろう。
「こんにちは。お疲れ様です」
鱈福屋の手前にある精肉店を通り過ぎたとき、ちょうど店頭にいた明菜に声をかけられた。
明菜は普段通りの上品な立ち振る舞いをしているが、笑顔に含みがあると感じたのは、おそらく気のせいではない。
「こんにちは。いつもありがとうございます」
「こちらこそ。それはそうと、おめでとうございます。大事にしてあげてくださいね」
誰とは言わず、明菜は隣にチラリと視線を送った。
顔が熱くなるも、隆則は仕事用の当たり障りのないスマイルを顔に貼り付け、ぺこりと明菜に会釈する。
志士脇のことを相談した時に、遥子と交際することになった経緯を加藤に包み隠さず打ち明けた。だから妻の明菜にそれが伝わっていてもおかしくはないのだ。
出くわせば空気を読まずにひやかしてくるであろう加藤がここにいないことに安堵しつつ、隆則は遥子のいる鱈福屋のショーケースの前に立った。
「こんにちは。お仕事お疲れ様です」
遥子の朗らかな表情に癒されながら、彼女の手から日替わりおかずを受け取る。
お疲れ様です、いつもありがとうございます、と。隆則の返しはいつも変わり映えがしない。それでも遥子は楽しそうにしてくれるのだ。こんな幸せなことは他にない。
仕事中の遥子の邪魔はできない。長話はせず、早々に切り上げて鱈福屋の前を去る。
店での滞在時間は交際前とほとんど同じだ。それでも、二人の間にはそれまでになかった種類の空気が流れていた。
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