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3.両片思いが動きだす⑶





私のママと先輩のお父さん——溝口さんは元々、他人以上・知り合い以下の、互いに顔は知っているという程度の関係だった。


ママは以前、溝口さんが勤める大手家電メーカー「シキシマ」本社にある社員食堂で働いていた。

シキシマ本社の社員食堂には、業務委託を受けた食品会社が入っている。ママはその食品会社の派遣社員だったのだ。


溝口さんは毎日の昼食を社員食堂で食べている。食事の受け取り時や食器の返却の際「いただきます」と「ごちさそうさまでした」を必ずキッチンに声かけしてくれるから、ママたち食堂スタッフの評判も大変良かった。


溝口さんとは私も一度だけ顔をあわせたことがある。

ママがシキシマ本社の社員と男女関係のトラブルになり、それが問題視されて社員食堂を辞めることになったときだ。


個人的な交際から発展したいさかいであっても、当時ママの彼氏だったシキシマ社員の男がどんなにクズだったとしても……、問題が大きくなればなるほど立場的にママが不利になっていった。圧力のかかった表面上の自主退職はその結果だ。


しかもクズ男のでっちあげた悪評のおかげで、ママは派遣会社の登録すらもを抹消されることになってしまった。




食堂で一緒に働いていた人たちはママに対して同情的で、職場を辞す一週間前にはカンパを募って送別会を開いてくれた。


当時はママについて社内でいろいろな噂が流れていたけど、社員食堂でいつも明るく働くママは本社の社員からも人気があったらしい。

送別会にはシキシマ社員の人たちも多く集まりそれなりの大所帯になったという。


そこで話が終われば、ママはみんなに慕われていたんだって、ちょっとした感動話になるのだけど……。


わがわからないのはここからだ。



その送別会にはなぜか、ママが辞めさせられる原因を作った元カレまでもが出席していた。


ヤツはママの軽薄な行動を許す優しい男を演出し、なおかつ(あくまでも悪いのはママだけど)自分のせいでこんなことになってしまったとみんなの前で落ち込んでみせた。


酒の入った宴の席で社員たちは元カレの空気に流され、同情する者が多数派となった。

立場的に弱い食堂スタッフは何も言えず、雰囲気的にママが元カレを許さなければならない流れにされてしまったのだ。


そこからママはあれよあれよと酒を飲まされ、送別会が終わるころには足取りがおぼつかない酔っ払いができあがった。


家を知っているから送って行くと言い出した元カレを、出席したほかの社員たちが止めなかったのはホントにどうかしてると思う。

それだけ普段の元カレが社員としては有能で、普段は誠実の仮面を被っているからなんだろうけど……。


さすがにヤバいと思ったのは食堂のスタッフさんたちは連携して、宴会中にすがるような思いでシキシマ本社に連絡してくれた。

それで送別会終了時、ママがお持ち帰りされる寸前で駆けつけてくれたのが本社で残業していた溝口さんと、同僚の女性だった。



——たとえ両者が和解したとしても、片方は職を辞すことになった事案だろう。シキシマだけでなく方々を巻き込んだトラブルになった者たちが、問題の処理も終わっていないなかで夜に二人きりになるのは、社員として軽率ではないか。




社内でもそれなりの立場にいる溝口さんの静かな叱責に社員たちの酔いは覚め、食堂スタッフさんたちは一同胸を撫で下ろした。


こうしてママは溝口さんに支えられて、同僚女性の運転する車で無事にうちまで帰ってくることができた。


私が溝口さんの顔を見たのは、その時だ。眉間のシワが消えない、まじめでちょっと怖そうなオジサンだと思った。


帰りの車中でなんのスイッチが入ったのか、酔っ払ったママは帰宅時にとにかく泣きじゃくっていた。

それもあって最初は溝口さんに警戒していたのだけど、私の誤解は同僚の女性がといてくれた。


ママが酔っ払って帰ってきたなんて初めての経験で、どうしていいのかわからない私に代わって同僚女性がテキパキとママの世話を焼いてくれた。

その間も溝口さんは玄関にいて、一歩もうちに上がることはなかった。


時間にして5分も経ってなかったはずだ。

お茶を出すとか気の利いたことが一切できないうちに、溝口さんと同僚の女性は夜も遅いからとすぐに帰ってしまった。


泣きべそをかくママに薬と水を渡しながら「泣いてばかりじゃなくて、もっとしっかりしないと。娘さんを守るんでしょ」と怒っていた同僚女性が「私たちが出たらすぐに鍵を閉めるのよ。あまりお母さんを責めないであげてね」——と。

帰り際に私に優しく言ってきたものだから、態度の違いにびっくりしたのは今でもしっかりと覚えている。





翌日になって正気に返ったママの慌てっぷりは、そりゃあもうすごかった。


どうやら帰りの車中で酔った勢いに任せて元カレから受けた仕打ちを延々と愚痴ったらしい。

さらには次の仕事が決まらないとか、お金がないと娘を育てられないとか……、ウチの家庭事情まで喚き散らしてしまったそうだ。


記憶がとんでいないのが不幸中の幸いか、ママはその日のうちに菓子折りを持ってシキシマ本社の総務部へ謝罪とお礼に赴いた。


その時溝口さんは不在だったけど同僚女性が対応してくれて、お酒の失敗を豪快に笑って許してくれたという。



——溝口部長もひとりで息子さんを育ててるから、他人事だと思えなかったんでしょうね。



車中で親身になってママの話を聞いてくれた溝口さんについて、同僚女性はこっそりそんなことを教えてくれた。


さらに彼女はママが退職に追い込まれた今回の一件について、調査のし直しと委託会社への異議申し立てをするかと伺ってくれたが、ママはこれを断った。

たとえ逃げる形になったとしても、少しでも早く元カレと縁を切りたかったのだ。



とはいえ元カレから離れたいのは本心だけど、その一方でママが仕事探しに困窮していたのも事実だった。

次の職が決まらないまま社員食堂の出勤が最後となったその日、なんと溝口さんが食堂にママを訪ねてきた。


ママが求職中だということを聞きつけた溝口さんは、行きつけのお惣菜屋さんがちょうど人を探しているからと、ママにそのお店を紹介してくれたのだ。


お惣菜屋さんの店主は溝口さんの大学時代の先輩にあたる人らしく、弟分の紹介ともあればと快くママを雇ってくれた。


以来ママはずっとそのお惣菜屋さん——「鱈福屋(たらふくや)」で働いている。



恋愛体質のママが恩人ともいえる溝口さんを意識するのはわりと早かった。


仕事から帰るたびにいかに溝口さんがカッコいいかを語るママにそうか次はあの人かと、最初は私も身構えた。


溝口さんも、なんとも思わない相手に自分と関わりの深い店を紹介するはずがない。ママに恩を売って、逃げられないようにして囲い込むつもりではと、子供ながらに警戒していた時期もある。



しかしそれまで取っ替え引っ替え彼氏が変わっていたママの恋は、今回ばかりは訳が違った。



自身で「行きつけ」と言っていた通り、鱈福屋の惣菜は溝口家の夕食になっていて、溝口さんは毎日仕事帰りにお店へ足を運んでいる。


ママとは毎日顔を合わせて、たまにちょっとした世間話をして……。


ママが溝口さんを好きなのは、娘から見ても明らかだ。

だけどなぜかこれまでの彼氏のようにとんとん拍子で関係性が変化することはなく。

二人は店員と客としての体裁を保ったまま、今日に至っていた。





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