25.元カレ襲来⑴
◇ ◇ ◇
その日、隆則が遥子と共にやってきたのは、山手にあるフランス料理のレストランだった。
住宅地からも離れた場所にぽつんと建つ白い壁にベージュの瓦屋根の店は草木が生い茂る庭に囲まれており、夜ともなればライトアップされた草木が幻想的な雰囲気を演出した。
休日の夜というだけあって店内は常に満席だ。隆則が予約を取っていなければ、相当の時間を待たされることになっただろう。
以前から注目していた店ではあったが、なんせ駅や会社からも離れた位置にあり、平日に仕事の関係者と来るのは難しい。この機会に来れてよかったと、ややぎこちなさを残しつつも隆則は遥子に語った。
「京也くんは、お父さんに付き合ってはくれないんですか?」
「息子も年頃でして……こういったおしゃれな店に父親と二人は恥ずかしいみたいです。大手の牛丼チェーンや浜焼きの店には一緒に来てくれるのですが……」
なかなか判断基準が難しいと隆則は息子を思い浮かべて苦笑した。
思春期を過ぎても京也に反抗期らしい兆候はなく、親子の関係は付かず離れずの安定した状態がずっと続いている。
それが良いことなのかはわからない。聞き分けのいい息子とは喧嘩などの衝突がない代わりに、息子が親に甘えてわがままをぶつけることもこれまでほとんどなかった。
手がかからない子供はありがたいと思いつつも不安になる。
息子は父親に捨てられたらもうあとがないのだと、そんな風に思ってはいないか。だから良い子でいようとしているのではないかと——。
暗い気持ちに蓋をして、隆則は向かいに座る遥子へと微笑みかけた。
「西森さんは、お嬢さんとはよくお出かけされるのですか?」
「今はたまに出かけるくらいになってしまいましたね。昔はよくお弁当を持ってピクニックに行ったのですが、高校生にもなると、あの子も忙しいみたいでして」
そういえば、凛は今日もアルバイトがあると言っていたのを隆則は思い出した。
「しっかりした娘さんですね」
お世辞でもなく自然と溢れた賛辞に、これまた母親の遥子も謙遜することなくうなずいた。
「そうなんですよ。私ったらいつもあの子に助けられてばっかりで……、私も頑張らなくちゃって。いつも気持ちを上向きにさせてくれるんです」
「……わかります」
子供のためになら、何を犠牲にしても構わない。
多くを語らずとも遥子の気構えは隆則にもありありと理解できた。
隆則と遥子はコース料理に舌鼓を打つ。
時間は和やかに過ぎていった。
◇ ◇ ◇
今日家に帰ってきたとき……私、玄関の扉に鍵をかけたっけ……?
記憶は曖昧だけど、多分施錠はされてる。うん。きっと忘れてない。……大丈夫。
何度も自分に言い聞かせる。玄関に近づいて鍵を確認する勇気はなかった。
ピンポーン。
また、インターホンが鳴らされた。
自動で点灯したモニターには男の顔が半分見切れて映し出される。男自身はボタンの前ではなく、扉の正面に立っているのだ。
「西森さーん? おかしいな……」
ノックの音に続いてまた呼ばれる。
タイミング悪く、お風呂のお湯が溜まったことを知らせる音楽が鳴った。
「西森さん、大丈夫ですか——?」
いかにもこちらを心配するような口調に騙されちゃいけない。
どうする……どうしたらいい?
警察はあてにできない。あの男のことだから、自分に都合のいいように相手を丸め込んでしまう。
悔しさしかないけど、うちよりもヤツのほうが社会的地位や信用が上なのだ。これは4年前に嫌というほど思い知っている。
ママに知らせる? ……でも、やっと……やっとママと溝口さんの関係深まりそうなのに……私のせいで台無しにしてしまうの……?
男がいなくなる気配はない。
このままいくとあいつは「部屋の中で何かあったのではないか」と緊急事態を装ってお隣さんや大家さんを味方につける。そうして居留守を使う私を悪者にするるんだと悟った。
扉をドンドンと、焦ったような叩き方をされると恐怖で頭が真っ白になって、咄嗟にスマホへと手を伸ばした。
メッセージアプリを開き、気づいたら無我夢中で——京也先輩へと電話をかけていた。
呼び出し音から通話モードになるまでは早かった。
「もしもし……どうしたの?」
電話口に聞こえた先輩の声にはっとして少しばかり冷静さを取り戻す。私は今、一番頼ってはいけない人に連絡してしまったのではないか……。
でも、玄関扉を隔てた先にある気配は一向に消えてくれなくて、怖くて怖くて……スマホを持つ手が震えた。
「先輩……どうしよう……。……変な人が、うちの前にいて……玄関の扉を、しつこく叩いてきて……」
「……凛の家の住所、俺のとこに送れる? ……いや、メモするから口頭でいいよ。今言える状況?」
「あっ……えっと……」
促されるままに小声でここの住所を伝えた。
ママが溝口さんと夕食に出ているのを先輩も当然知っている。
京也先輩は私の話を疑うことなく、さらに早口で続けた。
「俺のとこからそう遠くないからすぐに行く。何を言われても応対しないで待っていて。……できそう?」
「……はい」
「一度切るよ」
言うが早いか、すぐに通話は切断された。
「西森さん……おーい……」
「…………最低だ、わたし……」
男の声をどこか遠くに聞きながら、スマホを片手にフローリングにしゃがみ込む。
京也先輩の優しさにつけ込んだ自分の矮小さに吐き気がした。
いずれバレることなのに、私はこんな時まで保身に走ってしまったんだ。
私は家に来ているのはママの元彼だ——って……溝口さんの息子である先輩に言う勇気がない。
助けを求めなきゃならないほど逼迫しているはずが、案外私は冷静だった。
体は震えてしまって動けない。そんななかでもこの先どうするのが最善なのかと思考は止まらずに回転し続けた。
あの男……そう、名前は確か……志士脇だ。
かつてママが志士脇さんって呼んでたから間違いない。
ママの前の職場——溝口さんが勤める会社で営業職に就いている、ママの元恋人。
どうして志士脇がここにいるの?
しかもこんなタイミングで……いや、それ以前に、あの男が私たちの住所を知っているのはなぜだ。
だって、私たちが逃げるように前の家から離れたのはあの男が原因だ。ママが前の職を辞めなければならなかったのだってそう。
この家に越して、やっと平穏な生活ができるようになったってのに……まさかママは、今でもあの男との関係が続いていたとか……?
溝口さんに対して一途だと思っていたのは、私の勘違いだったの?
私があまりにも志士脇に拒絶反応を示したから、ママは私に志士脇のことを隠すしかなかった……?
「ちがう。そんなことないっ」
ぶんぶんと頭を振って嫌な想像を追い出す。
ママの嘘をつけない性格は、私が一番よく知っている。
溝口さんのことが大好きなことだって、毎日のようにママから聞いていたじゃない。
どうして私は大事な人を疑おうとしてるのよ。
「ああ、もう……」
頭の中はぐちゃぐちゃだ。何を考えても最終的には自己嫌悪に陥ってしまう。
いつの間にかこちらに呼びかける声はなくなっていた。
あいつはまだ、扉の先にいるのだろうか。
万が一、志士脇が侵入してきた場合は窓から逃げよう。
ここはアパートの1階だから、いざという時は大丈夫。
静かな室内で息を殺して、ちらりとテレビの横の窓に目をやった。
あそこよりも、ママの部屋のベランダからのほうが外に出やすいか……。
外に出たあとの逃走経路をあれこれイメージしていると、ガガガ……と低い音が室内に響いた。
音の出どころはすぐにわかった。
アパートの角部屋であるここの外壁を、硬い何かが擦れながらぐるりと移動しているのだ。
表から裏側へ回ったところで不気味な音はぴたりとやんだ。
息を止めて固まっていたが、数秒もたたないうちに苦しくなって肺の空気を吐き出した。同時に脱力するようにして肩が下がった。
その時——。
コン、コン……と。
リビングの窓を、外側から何かが叩いた。
さっと頭から血の気が引いた。
視線だけを動かして音のした窓を凝視する。
あとに続く音はなく、部屋の中には時計が秒針を刻むカチカチ音がやたら大きく響いていた。
もしかしてコウモリが窓にぶつかっただけ? でも……だったらさっきの壁を擦るような音はなんだったのか。
あいつが窓ガラスを割って入ってきたらどうする?
リビングじゃなくて、ひょっとしたら私やママの部屋から侵入してくるかも……。
悪い方向に考えすぎかもしれないけど、注意するにこしたことはない。
すぐにどこからでも逃げられるように耳を澄ませてじっと周囲の音に警戒した。
そこから1分も経過しなかったと思う。
ガン——ッ!
玄関扉に響いた衝撃音に肩がびくりと大きく跳ねた。
ひっと息を吸い込むのと同時にリビングに尻餅をついた。
顎がガクガクと震えて、恐怖のあまり目から涙がこぼれた。
身構えたところに追撃はなく、外の男はこちらに呼びかける声すら発しなかった。
あいつが今どこにいるのか、次は何をしようとしているのかがわからず、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「……っ、……ママ……っ」
怖い。……助けて——。
ひとりうずくまってからどれだけの時間が過ぎただろう。
玄関の扉に強い一撃があって以来、物音はおろか男の気配ひとつしない。それがこちらを油断させるための罠かもしれないと考えると、自分で外を確かめられなかった。
スマホから音楽が聞こえてきて大げさなまでに驚いた。
画面に京也先輩の文字が映し出され、また涙腺が緩む。
「——凛? アパートに着いたけど、大丈夫?」
「……あ……大丈夫……です」
通話口の向こうで先輩がほっと息を吐いた。
「交番に寄って、警察の人にもきてもらったんだけど……出て来て自分で事情を話せるか?」
「……あの、アパートの周りに、変な人はいませんか?」
「いや、見える範囲には誰も……」
「変じゃないかもしれない。普通の、どこにでもいそうな、怪しさなんてまったくない、人当たりの良さそうな人とかも」
「いないよ。凛の家の前には俺と、制服を着た警察の人しかいない。呼び鈴を押すから、モニターで確認できる?」
「……はい」
のろのろと立ち上がるとインターホンの音が鳴り、モニターにスマホを耳に当てた京也先輩と警察の人が映し出された。
罪の意識に胸が締め付けられるのを感じながら、玄関に進んで鍵を開ける。
「…………すみません」
「ううん。ほんと、無事でよかった」
京也先輩の顔を見て、私はまた泣いてしまった。
先輩に同行してくれた警察官がアパートの周りを懐中電灯で照らしながら見回ってくれた。結果として敷地内に怪しい人物は潜んでいなかった。
助けを請われて出動した手前、警察官の男性は気丈に振る舞っていたものの、うちの隣が墓地であることに気づいてから若干の怯えが見え隠れしていた。
どことなく頼りない雰囲気はいいとして「窓を叩かれるとか、よくあることなの?」などというオカルト色の強い質問は冗談でもやめてほしかった。お化けは私も怖いんだから。
「……いいえ。今回が初めてです」
こんなことが頻繁にあってたまるか。
そもそもこれは幽霊とかの仕業じゃなくて明らかな人災だ。
しかしながら肝心の怪しい不審者はすでにこの場を立ち去っており、これ以上は何もできないのが現実だった。
インターホンの録画機能はあの男がここに来た証拠になっても、結局はそれだけだ。志士脇に悪意や嫌がらせの意図があったことを証明できるものは、何ひとつ残されていない。
警察官は近辺のパトロールを強化することと、また不審者を目撃した際はすぐに通報してほしいとだけ私たちに伝えて戻っていった。
京也先輩がアパートの敷地や玄関前を見渡してこちらに顔を向けた。
「防犯カメラ、大家さんに言って付けてもらったほうが良いかもしれないな。今日の警察が来たって実績は後押しになると思うよ」
「そう、ですね」
志士脇は一見すると普通の人間の、善意ある行動に見せかけて精神的に追い詰めてくるようなやつだ。そんな男に防犯カメラがどれだけ役に立つかはわからない。
そのことを京也先輩に伝えられずに押し黙るしかなかった。
ひとまず助かった。ここにもう志士脇はいない。
気が抜けてよろよろと玄関の段差にへたり込んだ。
「大丈夫?」
「……平気です。なんかもう……いろいろすみません」
今になって、どうして京也先輩に助けを求めてしまったのかと後悔が押し寄せる。
何もしなくたって志士脇がいなくなるのなら、あとちょっとの時間をひとりで息を潜めて我慢したらよかったんだ。結果論なのは承知しているけど、自分の堪え性のなさに嫌気がさす。
「本当に……すみません」
不審者の素性を知っていながら私は先輩にそれを言えない。
父親が好意を寄せている女は、父親を好きだと思わせておいて、今でも元カレと繋がっている。
このことを知ったら京也先輩はママをどう思うだろう。
ママを軽蔑して、溝口さんとの関係に難色を示すかもしれない。
志士脇のことをママに問い詰めるのが先だ。
申し訳なさに押し潰されそうになっても、口を閉ざすしかなかった。
「気にしないで。とにかく無事でよかった。……正直、どうして今日に限ってとは思わなくもないけど……」
先輩の呟きに背筋がぞっとした。
どうして今日、ママがいない夜にあの男が現れたのか……。
偶然で片付けていいの……? ……まさか、監視されてた……?
「まあ、変質者的なのは凛のお母さんが一緒にいたとしてもどうにもならなかっただろうし……連絡してくれてよかった」
開かれたままの扉から、京也先輩が玄関へと足を踏み入れかけた。
途端に全身が総毛立つ。極限の緊張から震えそうになる体を、ぎゅっと自分を抱きしめることでどうにか耐えた。
助けてくれた人に対してこんな反応は失礼すぎる。
「ごめんなさいっ。……無駄足踏ませちゃって……、なんか、いい年になってひとりで留守番もできないのかって話ですよね」
先輩はそれ以上私に近づくことはなかった。
扉の境目で膝を曲げてその場にしゃがみ、私と目線の高さを合わせる彼へと、恐る恐る顔を上げる。
「俺は迷惑だなんて思ってないし、凛が俺に謝る必要もないよ」
「でも……結局何もなかった」
「そこは何もなくてよかった、だよ」
「……変質者なんて、本当はいなかったかもしれない。全部、私の妄想からくる嘘だったとは思いませんか?」
私はなんでこんなに突き放す言い方をしてしまってるんだろう。夜にわざわざ警察官を連れて家まで来てくれた彼に対してあまりにも失礼だ。
京也先輩は私の言葉に首を捻り、しばし考え込む仕草をした。彼に気分を害した様子はなく、純粋な心配が私の心をさらにうちのめす。
「——嘘だったら、凛を怖がらせた男ってのは存在しないことになる。それはそれで良いことなんじゃないの? ……たぶん、そんな都合のいい話じゃないだろうけど……。変質者なんていなかったって、そう思いたいのは凛のほうじゃないのか?」
「…………そうかもしれません」
ああ、こうしてまた、京也先輩の優しさに甘えてしまう。
「身に危険が迫った時に、凛はちゃんと助けを呼べた。えらいことだし、俺に電話したのは正しい判断だ。ひとりで抱え込まなくてよかった」
「うん……」
そっか。先輩は私の話を信じてくれるんだ。
そりゃそうか。京也先輩はあの男じゃない。誠実さから思いやりまで、何から何まで違う。一緒にして考えるほうが失礼だろう。
「ありがとうございました」
立ち上がって深くお辞儀をする。
先輩との距離が近くなったものの、体が震えるような緊張は感じなかった。
京也先輩も腰を上げて、気まずそうに頭を掻いた。
「いや、そもそも今夜凛がひとりになる原因を作ったの、俺だから。……親父に一週間の夕飯のお礼に西森さんを外食に誘ったらどうかって、提案したの……俺なんだ」
「や、京也先輩はまったく悪くないです。むしろそれはナイスとしか言いようがないんだから、こんなことで思い詰めないでください」
「こんなこと——ってわけにはいかないだろ……」
呆れ口調の京也先輩の声に、足音が混ざった。
「——うちに何かご用でしょうか。……もしかして、京也君?」
京也先輩は弾かれたように顔を上げる。
聞き慣れた声音に私もはっとして玄関扉から外に出た。
アパートの敷地内。
うちの家の扉のすぐ近くに驚いた顔をした——ママが立っていた。




