11.二人の距離を縮めるには⑶
基本的に悩みは翌日に持ち越さない。
嫌なことがあっても美奈子やママに吐き出して、一晩しっかり寝て、起きたら気分はすっかり切り替わっている。
私の前向きさはママ譲りだ。
過去の修羅場を引きずっていたら、今をこうして楽しく暮らしてはいられない。
人生でつまずいても大概のことはなんとかなるとは、ママがよく言う言葉だった。
そんなママはここ数日はいつにも増して上機嫌だった。
聞けば出張から戻ってきた溝口さんを「お疲れ様でした」と労うと、とても丁寧で暖かい言葉を返してくれたらしい。
溝口さんとの些細なやり取りを私に報告してくるママは本当に幸せそうだ。
ちょうどお客さんのいないタイミングで溝口さんが来店して、いつもより少しだけ長くお話しができる日が続いているようで、ママのテンションが天井を突き抜けそうになっていたのだけど……、金曜日になって事態は一転する。
「ただいまー」
「……おかえりなさい」
塾が終わって夜に家に帰ったとき、中から聞こえた覇気のない声にああこれは何かあったなと察した。
「どうしたの? 元気ないみたいだけど」
どうせ溝口さん絡みのことだろうと予想しつつ、夕食時に聞いてみる。
しゅんとしたママは煮込まれた大根をお箸で小さくしながら話してくれた。
「溝口さん、明日からお仕事お休みでしょう?」
「まあ、暦どおりに仕事してるサラリーマンだからね」
明らかに一口よりも小さくなった大根をちまちまと食べつつ、ママは言葉を続けた。
「……うん。だからね、今日溝口さんが来られたときに、一週間お疲れ様でしたって言った話の流れで、休日は何をされているのかって聞いちゃったの……」
「がんばったね」
これはすごい進展じゃないか。このままグイグイいっちゃえばいいのに……。
ママの浮かない顔には、自分の勇気を誇る様子がみられない。
「……そうしたらね、溝口さん、休みの日はひとりで家の掃除をしたり、読書や映画鑑賞をしていますって」
「インドア派なんだ」
まあ京也先輩も外でがんがん遊ぶタイプには見えないもんなあ。
呑気に考えている私の前でママのテンションがさらに沈んでいく。
「それがどうしたの? 読書も映画鑑賞も、普通の趣味だと思うけど。掃除も、さすがというか……しっかりしてる人じゃない」
「……ひとり……って」
「んん?」
「溝口さん……休みの日はひとりで過ごすって言ったの……。ここのところ、ママが調子に乗ってたくさん話しかけていたの、本当はうっとうしかったのかも……」
「いやいやいやいや……それはないと思うけど……」
「私ばっかり舞い上がっちゃって、どうしよう、溝口さんが好きなこと、ご自身に知られてしまったのかしら……? それで、自分は誰とも付き合う気がないって、暗にそれを伝えるために……」
「考えすぎ。悪いほうに捉えすぎだよ」
絶対溝口さんもママと話せて喜んでるよ——とは、溝口さんをあんまり知らないことになっている私が言っちゃまずいかな。
……そっか。
本気の恋だと、こんな些細なことにも不安を感じてしまうんだ。
*
ぜっっったいに大丈夫!
溝口さんの発言にはママが心配するような意図はなかった。なんなら新発売のコンビニスイーツを賭けてもいい。
夕食後の片付けをしながらママを励まし、明日も仕事なんだから先にゆっくりしておいでとなかば無理やり浴室押し込めた。
テレビの音にかすかなシャワーの音が混じる。
見ていたニュース番組で暗い事件の報道が始まったので、テレビのチャンネルをバラエティに替えた。
明るいトークと笑い声を聞き流しながら取り込んであった洗濯物を畳んでいく。
自分の分の衣服を持って部屋へ戻り、引き出しタイプの衣装ケースにしまい……勉強机に置かれたスマホをチラリと見た。
元気になってほしくて断言はしたけれど、私だって本当は不安だ。
もしもママの直感が正しくて、溝口さんがママの言動に苛立っていたらどうしよう。
私が絶対大丈夫って励ましたがために、ママが空回りしてしまいふたりの仲がぎこちなくなってしまうとか……。
嫌な想像は考え出したら次々湧き上がってキリがない。
こんなことで……という気持ちもあったけど、申し訳ないと思いつつ私はスマホのホーム画面を開いた。
◇ ◇ ◇
——こんばんは。夜分にすみません。おかしな質問で申し訳ないのですが…今日、先輩のお父さんの機嫌というか、怒ってたりイライラされたりしてませんか? うちのママがお店で溝口さんを不快にさせてしまったかもしれないって、落ち込んでまして…
凛からそんなメッセージが届いたのは、京也が自室で動画を視聴している時だった。
京也はスマートフォンの画面をメッセージアプリに切り替えて、しばらく逡巡したのちに文字を打ち込んでいく。
——ここ数日、風呂場から鼻歌が聞こえてくるぐらいには上機嫌なのが続いてるし、今日も変わってないからお母さんの思い過ごしだと思うよ?
送信すればメッセージ画面を閉じる前に既読となり、凛からすぐに返事が返ってきた。
——安心しました。ありがとうございます。こんなことで連絡してすみませんでした。
明らかに話を終わらせようとしている文面に、密かに焦る。
凛からしたらこちらの手を煩わせたくないという気遣いなのだろうが、ここで終わらされると詳細があまりにも気になる。
——ちなみにうちの親父が何やらかしたのか聞いてもいい?
質問の答えが返ってくるまでに、やや時間がかかった。
——お返事遅れてすみません。今日溝口さんが鱈福屋に来られた際、ママが溝口さんに休みの過ごし方を質問したら「休日はひとりで過ごしてる」って返ってきたらしく、どうやらママは「ひとりで」ってところに引っ掛かっちゃったみたいです。ほんと、それだけなんで…大したことなくてすみません。
メッセージを読む京也の胸中は複雑だった。
自分自身、かつて休日に遊ぼうと誘ってきた異性の同級生に「自分はひとりで過ごすのが好きだから」という文句で断った経験があったからだ。
「ひとり」が牽制の言葉として十分有効なのは京也自身が実証済み。凛の母が拒絶の意として受け取ってしまったのも……まあわからなくもない。
何をやっているんだ親父は。
こうなると出張から帰ってきて以降、ひとり呑気に機嫌良く過ごしている隆則が無性に腹立たしくなってくる。
——俺の予想だでしかないけど、おそらく親父は「自分はひとり身だから、特別な相手はいない」って西森さんに伝えたかったんだと思う。紛らわしくてごめんね。
息子が父親のフォローに入る構図がおかしいやら呆れるやら。文章を打ちながら乾いた笑いが込み上げた。
——いえ、こちらこそすみませんでした。
このままだと不毛な謝罪合戦になりそうなのでアプリを閉じた。
しかし京也はしばらくホーム画面を眺めたまま固まり、悩んだ末に再びメッセージアプリを開く。
——気にしないでいいよ。また何かあったらいつでも相談して。おやすみ。
こんなこと送るつもりもなかったのに、気づけば送信ボタンを押していた。
普段はメッセージの返信がマメなほうではない。それを自覚している手前、ここまでやり取りが繰り返せた自分に内心驚きつつ、動画配信アプリのアイコンをタップする。
彼女は「おやすみ」を終わりの合図としたのだろう。
いつまで経っても凛からの返事はなく、それがなんとなく気になって、動画に最後まで集中できなかった。
翌朝、京也はあえて朝食を隆則と同じ時間にかぶせた。
休日の起床時間は親子で決めておらず、それぞれが自分の分は自分で用意する。
タイミングが合えば今日のように同じ食卓につくが、たとえ息子が夜更かしして昼まで寝ていたとしても、隆則が苦言を呈することはない。
マグカップにインスタントスープを入れて、電気ケトルの湯が沸くのを待ちながら京也は昨夜の凛とのやり取りを思い返した。
父親は気遣いができないわけではない。遥子とのあいだに生じたのは小さな言葉のすれ違いだ。
隆則からすれば遥子へ寄せる恋心は誰にも知られていない、彼だけの秘めた感情である。はっきり言って周囲にモロバレであるが。
バレバレながらも父親からすれば大切に隠している想いに、息子といえど他人が口出しすれば、話がこじれるのは避けられない。父親にヘソを曲げられては面倒が加速してしまう。
どうしたものかとため息を吐いた京也に、新聞を読む隆則が顔を上げた。
「寝不足か?」
「まあ、そんなとこ」
あんたのせいだと言いたい気持ちをこらえ、沸騰したお湯をマグカップに注いだ。
スープの入ったカップをテーブルに運び、定位置である父親の向かいに腰掛ける。
いただきますと手を合わせ、先に用意しておいたトーストをかじった。
「……成り行きでスマホの連絡先を交換した同じクラスの女子から、ちょくちょくメールが来るんだけどさ、……宿題でわからないとこの質問とか、時々俺の個人的なことを聞かれたり……」
厳密にはスマホのメッセージアプリだが、父親にはメールとした方が伝わりやすいと判断した。
「ほう」
隆則が興味を示したので言葉を選びつつ京也はさらに続ける。
「別に彼女のこと、俺としてはクラスメートって認識しかなかったから、彼女が不快にならない程度に無難な返事をしてたんだけど……、そしたら急に怒られた。——いつも自分が質問するばっかりで、俺のほうからは何も聞いてくれないんだね——って」
「……そうか」
「興味がないから聞くことがないなんて直球で返すわけにもいかないから、週明けに直接会って話すつもり。彼女には期待させて申し訳ことしたとは思ってるけど、正直面倒だなって……」
まるで昨夜あったように話しているが、これは京也が高校1年の時に経験した過去の出来事だ。嘘は言っていないが件の女子とはとっくに和解済みである。
ただ、遠回しではあるがこれは割と隆則に刺さるのではと話してみた。
鱈福屋の店主・加藤いわく、隆則と京也はよく似ているらしい。容姿だけでなく、性格も含めてさすがは親子だと頻繁にからかわれる。
自分がこんなわかりやすい優柔不断な男と一緒にされるのは大変遺憾だが、類似しているという点から父親の思考は京也にもなんとなく推測できた。
どうせ鱈福屋で想い人と話す際も話題を振るのはいつも遥子からで、隆則はそれに乗っかる形で浮かれているばかりだろう。
少しは積極的にならなければ、いずれ遥子にも諦められるぞ。親父は彼女の人気にも気づいてないだろう。
かなり回りくどいがこれが京也のできる精一杯だ。後は見守るしかないと心の中で天に祈る。自然と脳裏に浮かんだのは京也の同志である凛の顔だった。
◇ ◇ ◇




