間奏曲 ――父母――
10月5日火曜日。昼過ぎ。
73.『秋霖』に響く歌声⑧の後の話です。
「抱き合え」
五年振りだろうか――。久しぶりに足を踏み入れたユスティツィア城の最奥にある執務室だった。扉を開けた正面の執務机と革張りの立派な椅子に腰掛けているのは、この国君主でもあるグライリヒ・フェリクス・アルブレヒト、その人だった。
「再会の抱擁をしろ。俺が許す」
流れるように艶のある黒髪を左肩の近くで結び前に垂らしている。まっすぐと伸びた癖のない髪は顔立ちもさることながら、先ほども見かけた随分と大きくなった彼の息子、――ディアスによく似ているなぁ、とそんな感想がティアラの中に浮かんだ。以前会ったときは今の三男くらいの背丈だった気がしたが、あれだけ伸びたのだ。成長痛も相当あったのではないだろうか。
学生の頃はディアスのように髪を伸ばしていたが、王になってからは多忙のため長髪が面倒になり、肩下より長く伸ばすことを辞めたそうだ。
他にも彼と違うところと言えば、ジャケットを脱ぎゆったりとした白いシャツだけの姿になり、王族の象徴でもある角を見せているところか。――女王陛下は白く、天を突くような曲線の美しい形をしているが、王は後頭部から対称的に前に伸びる、太さのある黒い角をしている。鋭い棘っぽさのあるディテールが流曲線を描きながら、鋭く天に向かって伸びている。
以前ここに来た時にあの鋭角の部分にものが引っかかると面倒なんだと、ぼやいていた覚えがある。
そんな現実逃避をしていたのも、仕事の合間だったはずだが部屋にいた者たちのほとんどを追い払い、憮然とした態度と据えた目でそんなことを開口一番にされたため、ただ面食らうしかなかったからだ。
ピオニールで渡されたローブを脱ぎながら、共にここまで来たクローディーヌに耳打ちした。
「……ご機嫌斜めね。どうかしたの?」
「学園に行けなくて不貞腐れているだけだ。なぜかやたらと行きたがっていてな……。しかも子どもたちからも連絡がないし、誰にも構ってもらえないから寂しいんだろ。――だからティアラが来てくれて助かった。こやつの気晴らしに付き合ってやってくれないか」
隣に並ぶクローディーヌの困った笑顔を見てから、もう一度この部屋の主と、何の言葉も届いてなさそうに近くで書類の整理をしている夫を見比べた。
娘と同じブロンドで、――忙しさから放っておいているのだろう、伸びた髪を後ろでひとつに結び、長い前髪が何を考えているのか本心までも隠しているようだった。ここに到着した時は、顔を上げて見てくれたのに、それからずっと顔を合わせてくれない。
「ついでに言うと、今夜は誰も帰らないそうだ。……親離れとはこんなにもあっけないものなのだな」
「なに? ティアラもいるのにか?」
「金曜に舞踏会があるみたいでな。娘たちが企画に関わっているらしく、留学生の世話もあるからと。……少なくともしばらく帰れないそうだ。タイミングが悪かった」
我関せずだったセーレの手が一瞬止まったが、何事もなかったかのように別の書類に目を通している。
クリスから連絡はあっただろうが、黙ってここまで来たことについて怒っているのかもしれない。蒼の当代の勧めで来た、と言えば耳障りがいいが、娘を案じて聖国で待てなかったと言うのが正しいだろう。
怪我は大したことなかったが、あまりの苦しみようから何が起きたのか理解出来なかった。他に倒れた者も多く、四家から大勢応援が来て慌ただしさと共に右往左往しているうちに、娘の症状は落ちついた。――同時に、当代から方天としての役割が果たせない状態だと知らされたのだ。
正直、その言葉を聞いた時喜んでしまった。娘が『昔』に戻ることが出来たのかと――。
だが、束の間の奇跡を誰も喜んではいなかった。
元に戻るため、逃した敵を自ら追うようにと当代から話があり、本人もそのつもりですぐに準備に取り掛かっていた。――場違いな喜びは、この国やいまだ苦しむ民たちのことを思えば、決して許されない罰のように、無力さだけをティアラに与えた。
こちらの気持ちを察してか、慣れ親しんだ東方軍の兵士たちも女王陛下も、友人であるクローディーヌやグライリヒも、誰も勝手を叱るようなことはしないようだった。
だからこそ彼だけは許してくれないだろう――。目も合わせず、何も言わない姿にどれほど呆れ果てているのか、むざむざと知らしめている気がしてならない。注意や忠告は恐れず誰にでもする人だが、本当に怒っている時はとても静かで取り付く島がなくなるところがあると、横目で静かな夫を睨むグライリヒが昔言っていた。
久しぶりに会ったディアスにも言われたが、今の状況で娘の側にいても困らせるだけなのは明白だ。――今朝方のやり取りに、セーレも同じことを言いそうだなと正直打ちのめされていた。
思い返せばクリスもヴァイスも、それとなくこちらに来るよう伝えてくれていた。あの時素直に首を縦に振っておけば良かったと、所在のない心をさらに孤独にしていく。
「エミリオも、姉も兄も帰らないならと遠慮してしまってな……。久しぶりに甘やかしてやれると思ったのに残念だ」
やれやれとため息をつきながら、クローディーヌがグライリヒの隣へ行ってしまい、頼る場がなくなり心細くなる。――セーレと揉めたことなんてあっただろうか。こんな時どうしていたかと記憶を辿るが、優しい夫の姿しか思い浮かばず、気まずさにやり場のない感情だけが心を重くするだけだった。
「エミリオもか? いま側にいるのはディアスだからな……、ゼルが居てくれれば――」
姉弟たちの元を離れた実子の名を口にしたグライリヒが深くため息をつき、クローディーヌが彼に寄り添う。――彼らが子どもたちをどれほど心配しているか、絵になるような光景に胸が痛んだ。
「……古い友人が来たんだ。少しは機嫌を直してくれないか?」
「何言ってるんだ。本当に機嫌を損ねているのはこの男だ。――嬉々として連絡してくれるのがヴァイスばかりで、妻が夫に隠れて国外旅行、おまけに念願だった娘の学園生活を見ることもできないんじゃセーレも拗ねるだろ」
「……遊びに来てるんじゃないんだ。もっと緊張感を持ってくれないか」
呆れと苛立ちが込められた言葉を吐き、ようやく口を開いたかと思えば厳しい眼差しを発言者に向けていた。
「…………娘? まさかお前、隠し子が――?」
「いないわよ、クローディーヌ」
グライリヒがさらりと口にした言葉に瞳を輝かせている。――何を期待しているのか。女王陛下の御前で、散々ガレリオに脅された時は塩らしくしていたというのに、もう新たな刺激を求めて止まないらしい。
「先ほど三人の娘たちがいたが、よもやあの中に?」
「へぇ――、今は女学生になってるのか? セーレも会いたいだろ」
「男子の制服を着ているはずだ。スカートは嫌いだからな」
「なんだと? 留学生は彼女らだけじゃなかったのか。玄家の者が来ていると聞いていたが、……他にもいたのか?」
「故あって蒼家から人を追加してな。――そこにクリス嬢がいるんだ」
あの時の様子からそうかと思っていたが、やはりクローディーヌは聞かされていなかったようだ。グライリヒの隣で目を丸くし、言葉を失っていた。
「…………………………………………なぜ誰も言ってくれなんだ」
「はぁ……。そっとしておいて欲しいからだ。ティアラをこちらに引き渡すために、誰かが迎えに行くなら妃殿下に頼むしかなかった。万一うちの子の身の上が周囲に明らかになってしまえば、混乱が起きるだろ」
この国の頂点でもある王と王妃の前だというのに、取り繕うこともせずセーレは大きく深いため息をついている。――彼らは20年以上の付き合いだ。これくらいのやり取りはずっと昔からしているだけに、公務以外ではずっとこんな調子だ。
ソリュードの姓はラウルスでは好意的に受け取られるが、彼の父であるフュート・ソリュードと叔父であるハインハルトの名も常につきまとう。
セーレ自身は目立たず大人しく過ごしたいとずっと思っていたが、この国では彼の名と髪色と瞳の色があまりにも目立ちすぎていた。――かといって、聖国では蒼家の人間があからさまに彼らを冷遇するため、居心地の良い場所とは言い難かった。
子どもの頃から他家の者や方天が彼らを庇おうとするが、無用な軋轢が生じるだけで、創生神の加護が宿るクリシス神殿の中でさえ息苦しい空気が蔓延していた。
だからセーレもヴァイスも、この国にいることにしたのだろう。
大戦の英雄の息子だ。望まなくとも親の威光を背負ってしまった二人に、重なるものがあったのか、グライリヒは昔から彼らに良くしてくれている。長すぎる付き合いから腐れ縁と呼んでもいいだろうが、そんなことを言うとセーレは機嫌を損ねるので、そこだけは心の内だけにとどめておく。
「もういいだろ。――ティアラ、何か俺に言うことはないか?」
不機嫌な顔がこちらに向けられた。――弟よりも明るく透き通るような赤色の瞳だ。顔立ちも背格好もそっくりなのに瞳の色は父親似のセーレ、母親の色が混じったのか赤紫色の瞳のヴァイスとなんだか不思議な双子だ。
先程見送りについてきてくれたヴァイスを思い出せば、性格もまとう空気も全然違う。――昔にクローディーヌに見せてもらったルビーという宝石は赤い色が有名だが、ヴァイスのような色のものもあるらしい。同じ石でも色が違うことがあるのだから、彼らも瞳の色が違うのはあり得ることだろう。じっとこちらを見つめるセーレの瞳に、その時に見せてもらった二色の石を思い出した。
温和な両親から引き継がれなかった彼の目の鋭さは、今は娘に引き継がれている。顔にかかる髪を耳に掛けながら、腕を組んでいるが、この冷たく怒った時の顔が娘とそっくりだ、と場違いな感想が浮かぶ。
分かってる、こんなのただの悪あがきだ――。
「……、相談もせず勝手に決めて、連絡もしなくてごめんなさい」
「クリスの事も心配だが、お前の事だって心配していた。……決めるのはいいが、せめてちゃんと連絡してくれ」
最後まで直視できず目を逸らしてしまったが、ため息交じりの言葉にセーレも今回の勝手を許してくれるようだった。
夫の落ち着いた言葉に、思わず目頭が熱くなり、我慢していたものが溢れてきてしまう。――何も言わずに側に来て抱きしめてくれれば、グランの言う通りになってしまったなと自分に呆れつつも、背を撫でる手の温かさがずっと心細く孤独だった心が満たしてくれるようだった。
気持ちが落ち着くまで側にいてくれれば、ハンカチを差し出しこの部屋の隣にある小さな部屋に移動した。
「はぁ……、久しぶりに泣いたわ」
「スッキリしたなら良かった」
そっけないセーレの口調が、いつもと変わらないものでひどく安心した。王の個人的な部屋だろうに、自分の部屋であるかのようになんの気兼ねもなく入り、窓の近い席に案内された。
グラスに水を入れ、コツン止めの前に差し出されればようやくいろんなものが抜け落ちたかのように思えた。
ベルベット張りの椅子だが、クッションの心地よさに、いいものなんだろうなとささやかな感想が浮かぶ。
手に取ったグラスは宝石のように幾面もの面があるため、中の透明な水に模様が入っているように見える。それをあおれば冷たい水が喉を通っていった。――ずっと心配で強張っていた気持ちが、溶けて流れていくようだった。
隣の部屋からクローディーヌとグライリヒが現れたが、グラスと琥珀色の液体が入ったボトルを手にしているのが見えた。
「……まさか飲む気?」
まだ昼過ぎだ。仕事を中断させてしまっただけに、付き合うべきなのか悩む。――ふふん、とご機嫌そうな王がボトルを小机に置くと、すかさずセーレがボトルを奪い、二人のグラスに問答無用で水を入れていた。
「水割りでも構わないぞ」
「ふざけるな。この後会談があるだろ、酔いながら応対する気か?」
「まだ時間がある。――さて話せ。俺を楽しませろ」
「そうだティアラ。お前を迎えに言った分の礼は、楽しい土産話で許してやろう」
二人が前の席に座ると、二人して机をぺしぺしと叩きながら催促している。――彼らの昔から変わらぬ気安い態度に苦笑する。
昔のように王ではなく友人として接してくれるのだが、ティアラは何者でもないただの孤児だ。王の側近の妻、神に選ばれてしまった娘の母と言えども、どちらもただ偶然に得ただけの立ち位置でしかない。
こんな場所にいることなど、本当であれば天地がひっくり返ろうとも決してあり得ないことだろう。貴重な機会と変わらぬ友人たちの態度に心の中で感謝した。
「話しってなにを?」
「それはクリス嬢の学園での様子と、俺の母とのことだ。――どうせクリス嬢に言わず、お前に文句でもつけていたんだろ」
座る気のないセーレを空いてる席に座るよう指示すると、苦い顔でそれに従っていた。――ティアラの横に座れば、彼もしばしの息抜きをすることにしたらしい。深くため息をついていた。
「私は陛下とやましい関係があると聞いた。その件となぜお前の娘がここにいるのか知りたい」
「はぁ? 身に覚えがなさ過ぎて、何の話かさっぱりだな」
「ヴァイスが先ほど言ってたんだが、――陛下が王位を継いだ知らせを受け、合わせる顔がない的なことで落ち込んでいたそうではないか。それだけ何かやらかしたのだろう?」
わくわくと期待する目を交互に向けられるが、大した話でないだけにためらうものがあった。だが、友人に手間を取らせてしまったことを思えば、苦いものが胸の内に広がろうとも、伝えるべきかと観念する。
「……黎明宮に遊びに来た時、最低限自分のことは自分でやるよう雑用させただけよ。元々ハルトも蒼家から側仕えを連れて来ていたけど、全員立ち入りを禁じていて……。あの時人を雇うことなんてほとんどしなかったから、私とあと数人しかいなかったの。自分のことは自分でしてくれないと、手が回らないからやってって頼んだってだけ。――まさか王様になる人にそんなこと頼んでたって、思わなかったのよ……」
その時の事を思い出せば、眼前にいる過去の汚点から目を背ける。――ほうきを持たせ、洗濯を手伝わせ、買い物に付き合わせては荷物を持たせと、それこそ街のガキ大将よろしく彼をこき使っていた。目の前の立派な象徴を持つ友人に、打ち首だとか宣告されても仕方ないだろう。過去に戻れるならその頃の自分の横面を張り倒し、いますぐやめろと言い聞かせてやりたいものだ。
あの頃、侍女も侍従も連れて来ず、二、三名人の護衛だけで来ていたし、ハルトも義両親たちも双子も彼の事を知る人は、ただの『グラン』として接していた。
貴族の学校の通う学校だとは聞いていたので最初は気を遣ったりもしたが、あまりの我が侭の多さと親しみやすさから徐々に遠慮がなくなっていったのが懐かしい。
「なんだその話か……。新しい話が聞けるかと思ったのに残念だ」
「そうだぞ。――だいたいティアラに構うとコイツがすぐに睨む。友に対してそんな不義理をする訳ないだろう」
「……そこいら中の女に手を出しておいた人間が良く言えるな。遊び人の言葉に本気にされても困るし、ハルトや俺の両親がいる手前、大人しくしてて欲しいから注意しただけだ」
セーレがジト目で勝気な友人を睨むも、当の本人はどこ吹く風だ。――学園ではやんちゃしていたらしいが、聖都にいる時はせいぜい言い寄る女子たちをからかったり、街の人と会話する程度だった。もめ事なんて起こすようなそぶりもなかったことから、人見知りもしない根は育ちの良い子なんだと思っていた。――が、蓋を開けてみれば隣国の王子だ。どうりで育ちが良い。
子どもの時の立場を鑑みれば両者には天と地ほどの差があるし、使われるべきは自分であったろうに――。セーレが取り上げてたが、こんな話をするならアルコールが欲しいところだ。
聖国で最も隣国ラウルスに近い都市だっただけに、少しずつ異国文化が流入された混迷していた時期だった。――ラウルスと貿易が始まったばかりだったが、四方天が率先して彼らを受け入れ、人々の不安を取り除こうと頑張っていた。
双子も向こうの学校にいただけに、ティアラも出来ることをしようと街の者たちにグランを紹介しつつ、聞きかじりの隣国の話をしていたことが懐かしい。……そんなにわか知識を披露する自分を側で見ていて、当時どう思っていたのか――。想像するだけでもつらい。思わず嫌な汗が手のひらに出そうになり、机の下で握りながら記憶に蓋をする。
「それからクリス嬢が学園にいるのは、……いろいろと理由はあるが、主に『母』のせいだ。あの人に灸を据えられる人なんて少ないからな。――たまには辛酸のひとつくらい、味わってもらわねば俺の気もすまない」
悪い顔で笑っている。ストレスでも溜まっているのだろうか。セーレが何か言いたげにしているが、言葉を飲み込んでいた。
「……それって、この前のこと? ただの事故みたいなものでしょう。……みんなうちの子の味方してくれるのは有り難いけど、さすがに誰も味方になってくれないのはオクタヴィア様が可哀そうじゃないかしら」
昼頃ガレリオと共に女王陛下に会いに行けば早々に、娘が寝室に勝手に侵入し電話を借りたことや壊そうとしたこと、昨日の朝エリーチェと二人で執務室に忍び込んだことを追求された。――悪知恵のほとんどはガレリオたちが授けたものだっただけに、陛下も分かっていたのかほとんど睨まれたのはガレリオだった。彼は恐いものがないので反省の色も見えず、クローディーヌたちが現れるまでなんとも言えない空気が流れていた。
ピオニールに来ていることは、入国した時点で気付いていたらしい。実名で全ての審査の書類を通していたのだから、女王陛下も気付かない訳がなかったのだ。――取るに足らないやらかしの数々が追加され、居た堪れない気持ちが増えてくる。
「擁護できる要素があったか? この件が公になれば、締結式どころの話じゃなくなるぞ。それを分かってるから、関係者は皆黙ってくれている。……日頃のこともだが、母は彼らの好意に甘んじ過ぎだ」
はぁ、と憂鬱そうにセーレがこめかみを押さえていた。口を挟む気はないようだが、どちらの肩を持つことも出来ず板挟みといったろころだろう。
アレは防ぎようのない仕方のない事故だった。グランは怒ってくれているが、その件を知っている者はあまりの情けなさに口にするのを憚っているだけに過ぎない。――巻き込まれたクリスもしばらくショックを受けていたが、防ぎようのない事故のようなものだったと本人も気付いているはずだ。
少々やり場のない想いをぶつけてはいるが、あんなのいつもの二人のじゃれ合いだ。互いに本気のようでいて本気じゃないから、ゾフィも二人のことを暖かく見守っている。
「……まさかアレを取りに来たのか?」
ガレリオの散々な脅しの理由も伝えていたが、クローディーヌは少しクリスのことをまだ怖がっているようだった。
あの雷は一体誰がどうやったのか分からないが、ガレリオの様子から何か仕込みをしていたのだろう。娘の名を使って好き勝手やるところがが玉に瑕だが、当の本人が許しているのだから仕方ない。
「そうだ。いつでもお渡しできるが、俺が勝手に返しては話が違うだろう。まずは母の出方次第だ」
「だから、ココとモモをピオニールに返すのか……」
「……そんな今生の別れみたいな空気を出さなくても。人様の子犬をいじめたりしないって」
「いいや、……無事を確認するまで安心できない。あの二匹を連れて行くときは私も同行しよう」
「やめろ」
「確かに心配だ。俺もついて行こう」
「絶対に、やめろ」
徐々に険のある声と目つきになる夫の顔が、方天として振る舞う娘と同じ表情をしている。――離れていても、あまり会えなくてもやはり親子だ。
「……なんでお前は、そんなに会いたがるんだ」
王に味方が付いてしまった今、ひとりで二人の自由さを止めるのも限界か、深く脱力しているようだった。
「昔会ったきりだし、お前が親バカになるほど溺愛しているんだ。実際どんな様子なのか見たいと思うのは当然だろ。――それにだ、……ディアスもまさか、すぐ傍に昔馴染みがすぐ近くにいるなんて思ってもないだろうな。冷やかしに行かねばなるまい」
ご機嫌そうな王に対し、セーレの赤い瞳がスッと細められた。透き通った石みたいに綺麗な色をしているが、暖かいはずのその色はずっと冷たく、間違って触れでもしたら燃えなくとも火傷するようだった。
「……馬鹿かお前は。殿下に伝えるのもやめろ」
「仲良くしていると聞いているし、どうやら男子寮内を闊歩しているそうではないか。……空いている部屋もあるし、気にしないのであれば貸し与えてもいいんだぞ」
「クリスは女子だぞ。何かあったらお前が責任を取るのか」
「何かって……、ロサノワの手練れをのしたと聞いている。――いつも思うんだが、聖国最強の肩書を持つ御仁に対して、お前は少々過保護すぎじゃないか? どちらにせよ宿舎だってティアラのいない今、男ばかりだろ。年も離れているようだし、退屈なのではないか」
「第三師団はまだ理解があるが、上流男子寮は……、あんな魔窟に娘を置いておけるか。――必要最低限しか出歩いていないし、万が一があれば、階級に関わらず手を出した者は全員病院送りにしていいと伝えている」
「お前な……。男子寮の者たちがどうなってもいいつもりか? 貴族連中を相手にさせるのは面倒だぞ」
「別に野郎に限らないだろ。学生であれ教師であれ誰であれ、危ないときはいつも通りやっていいと伝えている。馬鹿をする方が悪いし、何かあれば俺が手を回そう」
しれっと己の立ち位置を振りかざすセーレが席を立ち、冷ややかに王を据えた目で睨んだ。
「貴族の連中もだが、王族が一番信用ならない。――だからこのままでいい」
「……そういや、夜這いしに行ったとかいう、どこぞの御令嬢の家になにかしてたな」
「当然だろ。隣国の客人を招いているというのに、子どもに手を出そうとする輩にまともな道理が通じるか。然るべき処置だ」
ぽつりと王のつぶやきに、既に耳に入っていたのかと呆れた。
道中、娘と護衛役の左翼が休んでいる部屋に薄着で女性が現れたらしい。夜遅かったのもあり左翼の判断で部屋を捨てたようだが、急にいなくなってしまったがために騒がれ、娘も左翼に促されて周囲の警戒に出てしまってすぐに見つからないわで小さな混乱が起きていた。
ただ、他の誰でもない左翼がついているのだ。セーレも良く知る相手だけに、信頼して任せている。愛想はなくとも昔から共に育った仲だとヒルトからも聞いてるし、普段彼らのやり取りから本当の兄弟のようでもあった。
風邪も引かず、怪我人もなく、大事もなく済んだことだと思っていたが、無事では済まなかったようだ。
「長年付き合いのある俺の前で言うべき言葉か? だいたい息子たちは俺に似て聡明で道理を弁えている。別に問題ないだろ」
「ますます信用できないな。いいか、この件は口外するなよ。でなければコレだ――」
ジャケットの内側からひとつの封筒を取り出し、片手で掲げれば、悠然と足を組み座る王に見せている。
「この仕事、辞めてやるからな」
王がパチンと指を鳴らすと、手にした封筒の頂点が燃えた。――だが動じることもなく適当な皿に載せると、灰になっていく封筒ごと机の上に置いた。
くすくすとクローディーヌが笑っているが、この手慣れたやり取りに、よくやってるんだろうなぁとぼんやりした感想が浮かぶ。
「ティアラもロディも分かっただろ? 情緒不安定になるほど機嫌を損ねてるのが誰なのかをな――。それにお前に辞められたら困る。お前ほど優秀で面白くて、俺のサポートもこなせるやつは少ないんだ」
不機嫌なセーレに、褒めているつもりなのかグライリヒがそう口にした。ピクリと眉が動くが、面白がる友人とこれ以上口喧嘩するつもりはないようで、小さく吐いた息と共にそれを捨てたらしい。
「セーレ、このままティアラが逗留する用意をしてやれ。今日の勤めももういい。夫婦水入らずで、たまには二人だけで過ごせ」
王が席を立てば、王妃も立ち上がった。
「ひとりの時間が長すぎたのかもしれないからな、――ティアラも、辞表を書き溜める妙な趣味をやめさせろ。見つけ次第全て処分しておけよ」
びしりと指を差されれば、執務室に二人で戻るようだった。――毎回燃やされるから書き溜めているのだろうが、ひとりでそんなことしている夫の姿を想像し心苦しくなった。ストレス発散のためだとしても、少々根暗すぎではないだろうか。
「おい、グラン――」
「準備は既に終わっているだろ? ――この後はロディに補佐を頼むから今日は下がれ。これは王命だ」
セーレの言葉を遮るように扉を閉めた――。
「あといい加減髪も切れ。これも王命だ」
勢いよく扉が開き追加の王命を出されれば、大きな音と共に閉められた。なんとも気安い王命だ。
扉が閉め切られれば、先ほどの賑やかさがずっと遠くに行ってしまったような静けさがやってきた。
「……全く、どいつもこいつも自分勝手な――」
今度こそ疲れたのか、セーレが席に座った。
「勝手した私が言えることじゃないけど、貴方のことを心配してるのよ」
「……クリスは元気にやってたのか?」
「うん……。エリーチェも一緒だし、ディアスくんも良く気に掛けてくれているみたい」
「あ゛ぁ? なんで殿下が」
急に声が低くなり、不機嫌さが戻ってきてしまった。
「……さぁ、いい子だからじゃない?」
こちらの真意を確かめるように振り返っているため、無難な返事をしておく。――娘に近付く男が許せないようで、セーレはずっと過保護だ。なかなか会えないからということもあるのだろうが、自分を慕う娘が可愛いのだろう。
蒼家では男児として育てられ、色恋にもまるで興味ないので少し前までは比較的セーレも穏やかだったのが、聖国にやって来たノルベルト・フォン・クローナハのせいか、だいぶガラも悪くなってしまった。
まぁ、年始の内々の宴席の最中、ほろ酔い気分でいたところ目の前で娘が求愛される姿を見てしまったのだ。取られると不安に思ってしまったのか、それから過保護に拍車が掛かってしまった。
そんなに心配しなくても、クリスは問答無用で彼を投げ飛ばしていたのだから、どちらの肩を持てばいいのか分からない。まして蒼家の当代もセーレに代わりノルベルトのことは牽制している。ただ、ノルベルトの扱いについて、頑丈な玩具だと蒼家の当代は思っていそうだが――。
あの子が置かれた立場上仕方がないのだが、万が一あの子に好きな人が出来たとしてもセーレは許さない気がする。そういう意味では、普通の女の子でなくてよかったかもと、砂海の砂一粒程度は思わなくもなかった。母親としてはつまらないが、荒れる夫を見るのは楽しいものでもないので。
夫の肩を揉みながら、なんとか気持ちを静めてもらう。――子どもの頃の約束を大切にしてくれている大きくなった友人のことは、余計なことに巻き込まれないためにもティアラは伏せておくことにした。
束の間の休憩の後、埋め合わせをするかのように人の往来が増え、仕事が積み上がり、この状況に若干嫌気がさしたが時間になった。
ジャケットを羽織らされ、身支度を整えながら傍に居る珍しい恰好の妻に尋ねた。
「そういえば、なんでそんな恰好をしているんだ?」
「内密で参観するには、このような格好が望ましいとヴァイスに言われてな。――なかなか良いだろ?」
胸元のポケットに掛けていたサングラスを自慢げにかけ、珍しい姿を夫に見せていた。
「あぁ。日頃の姿も良いが、この姿も様になっているな」
下ろしていた髪を顔に掛からぬよう結い上げ、ささやかながら髪飾りを付けた。――いつもよりも控えめな格好だが、これから会う相手も少々驚かせられていいかもとしれない。
質実剛健という言葉が良く似合う相手だ。妻もそのことを知っているから、あえて質素な装いを以前から用意していたのだろう。共に話すことはしない予定だが、いつ何があるか分からない。――備えは多いことに越したことはない。
「話せる時間は短い。――行くぞ」
会談の前に個人的な話をする約束を取り付けていた。妻と二人、護衛と側近たちを引き連れ、約束の場所へと向かった。
秋のユスティツィア城は木々が色付き、青々とした色は少ないが、庭師たちが日々手入れしてくれるお蔭でいつ見ても見事なものだった。
その庭の一角に一目をしのぶよう、生垣に隠された東屋がある。手入れされた庭と水辺が一望できる場所だ。息抜きしたり、雑談するのに丁度よく、今回ひとりそこに呼んでいた。
冬を渡る前にこの水辺に数羽の鳥たちが、水面を切りながらのびのびと浮かんでいる様を眺めているひとりの人物の姿が見えた。
「待たせたか」
「いいえ、つい今しがた到着したことろです。お呼び下さりありがとうございます、我らが王よ」
こちらに深く礼をし、近付くが顔を上げる気配がなかった。
「お前には息子が世話になってるからな。楽にせよ」
年は40半ばか、――王位を継いでから、何度も意見が衝突し折り合いがつかないせいで苦労を掛けてしまったからか、白の多い灰色の髪を短く切りオールバックにしている。
許しに応じ顔を上げれば、愛想のない皺の刻まれた顔が見えた。
「いいえ、私ではなく息子がしていることです。少しでもお役に立てればなによりです」
「楽に、と言っただろ。マティアス」
マティアス・フォン・ハイデルベルク――、母の代から王家に仕え、六大貴族のひと柱として貴族たちをまとめ上げる実力の持ち主だ。
そしてジュール・フォン・ハイデルベルクの父親でもある。息子が世話になっていることは知っているため、以前一度だけこうして人目を避け話したことがあった。
「同じ子を持つ親として話をしたいと言ってるんだ。仕事じゃない」
「はい、――ですが、息子にはあまり干渉しておりませんので、陛下のご期待に添えることがあるか……」
「普段どう過ごしているのかなど、折々で話さないのか? 学園での生活をサポートするくらいのことはしているのだろ」
「……お恥ずかしながら、ここ最近は連絡しても話すことも出来ず、足りないものを催促されるばかりで。親と名乗る資格があるのかどうか怪しいところです」
苦々しい思いを自嘲で笑い飛ばせば、遠くにいた鳥たちが飛び立っていった。雲が高く涼やかな青色が空を覆っている。その中をあっという間に飛んでいく鳥たちに苦笑した。
5年前はティアラが来ていると言えば三人とも帰って来たというのに、王であり父でもある自分よりも、やるべきことを優先させている。――10になったエミリオまでも帰らないとは、思ってもみなかっただけに寂しい話だ。
「親の手を離れるのはどうやら一瞬のようだ。――どこぞの誰かは、なかなか手放さないつもりのようだが」
小さく親友の悪態をつく。
「……貴重なお時間を使ってまで、私とこのようなつまらぬ雑談をするために呼んだ訳ではないのでしょう。――ゼルディウス殿下のことでしたら、長らく息子がお預かりしているようですが、――残念ですがどうされているかまでは存じ上げず……。必要があれば使いを出しますが」
「ゼルにはしばし時間が必要だったのだ。その件を問うつもりはないし、あの子の場所を作ってもらったことには感謝している」
日頃対立しているが、それは『自分』が未熟だからこそ。――王に立てつこうとも、人民と貴族たちを守りつつ、真に必要なことを指摘する貴重な人材だ。
両者のバランサーとして矢面に立っているだけに、本来であればこのような密会はすべきではないし、息子たちがしたこととはいえ、王位継承権を持つゼルディウスを側に置いていることについて快く思わない者も出始めている。
他人には厳しくできるというのに、己の子のこととなると及び腰になるのは、どこの誰でも同じことなのかもしれない。この国の頂きに立とうとも、苦悩していた自分の子の力になってやれなかった無力に自嘲の笑みが口の端にこぼれた。
「だが、お前はもっと自分息子のことに関わるべきだ――。親しくする者は選ぶべきだと、息子に言え」
懐に忍ばせていた一枚の書類をマティアスに渡す。
「今朝受けたばかりの知らせだ。――諜報員をピオニールにやっていて、その報告書だ」
ピオニールにセーレの娘と蒼家の人間をやっているのだが、最速の知らせはいつも聖国から届く。――どういう連携を取っているのか分からないが、情報量の多さと迅速果敢な応対は目を見張るものがある。
あの母を警戒させるのだ。やはりそれだけの技能と能力を今の蒼家は有している。――東方天の派手な話ばかりに気を取られるが、根のように広がる目に見えぬ脅威のような圧を感じない訳ではない。
だが、彼らが何を望んでいるのか、欲しいものがないような淡泊さも感じる。今回深く関わることになったが、友好的な態度ではあるが、こちらに来ている文官たちと同じような無欲さが目立ち本心がまるで見えてこない。
当主の方針の違いだといえばそれまでだし、神の盟約や和平条約に基づき行動していると言えばその通りだが、求めるものは綺麗ごとばかりだ。
ラウルスに好意的なのも――、蒼家と袂を分けた先代ハインハルトの時と違い、現東方天であるクリス嬢を家から離れないようにコントロールしているだけに過ぎないのではないか。
だからセーレも娘に対し不安を募らせ、過保護にならざるを得ないのだろう。娘を取り上げただけでなく、男児と勝手に育て、武人にし、只人であることを国も神も許さないのだから。
それにしてもだ。――不機嫌なことが増え、血圧が年々高まりそうな態度ばかりを見るに、セーレは少々生活環境を改めた方がいいと思う。しばらく休みでも与えてやろうかと、静かに報告書に目を通すマティアスを見ながら考えた。
書類に目を通しているマティアスの顔が、徐々に強張っていく。
「――、これは……」
「俺の息子がお前の息子のところで世話になっているが、他にも世話をしている者がいるそうだ。――さすがに反社会組織と親しくするのはよろしくないだろう。……まして無辜の学生たちを捕らえることも、な」
今朝の報告で来たことは主に五つのことだった。――ピオニール内で活動している『Avici』の人物の情報と、彼らの計画内容。連続学徒失踪事件の被害者の状況と事件関係者のリスト、そして城壁の向こうで被害者の一部が見つかったということだった。
方天としての力を封じられていると聞かされたが、『神』でもなければこれだけ多くの事を短期間で知りえなかっただろう。のうのうとここまで事態を放置し、後手に回る不甲斐なさを感じないわけではなかったが、此度彼らの協力が得られたことはかなり大きい。
「俺の息子がどうやらすでに、Aviciの手に掛かっているらしい。……奴らに呪いの刻印を与えらたと聞いている」
使節の到来と共に渡された呪いの資料に、ふたつだけ異様なものがあった。――どうやらそのひとつが東方天と息子のゼルディウスにつけられているようだった。
解明にはまだ時間がかかりそうだったが、他の聖都の民たちが受けたという命を奪う呪いは着々と呪解が進んでいる。――少しずつ変化をつけ、解明に時間がかかるよう手の込んだ仕掛けだ。
どれだけの周到に用意されていたのかと思えば、これから起こる事態も大きいものだろう。
その話は一部伏せ、信頼に足る者たちにだけ伝えており、解明できる者たちを集め応対していた。――その内のひとりがマティアス・フォン・ハイデルベルクでもあった。
「……そんなまさか、――ジュールは、そんなこと……」
「信じられないなら、会って確かめに行け。――と、言いたいところだが今は人をやるな。お前にまで何かあれば困る」
鉄や鋼で身体が出来ているのではと思うほど、張り詰めた空気と威厳で固められた立ち姿だったが、今は背を丸めただの人となり果てている。
「こちらの動きに感付かれでもしたらことだ。――このまま事態の収束のために動くが、然るべき対応をお前は迫られるだろう。覚悟はしておけ」
「…………息子がよからぬ輩と付き合いがあることは、それとなく知っておりました。……ですが、まさか……」
バシっと背を叩いた。よろめくほど強くは叩かなかったが、気が遠くなりそうなマティアスはそれでも倒れ込みそうだった。
「安心しろ。幸いなことに学園には我らが女王もいるし、聖国から強力な助っ人を頼んでいる。大事にならないよう我々も動くし、必要があればお前にも協力を要請する。……全て終わったら、ちゃんと親子ですために準備しておけよ」
そう、――不運に見舞われ、現在不遇を強いられている方だが、味方であればこれほど心強いこともない。
彼女が幼少の頃、短い期間だったが息子共々世話になったこともよく覚えている。――つまらない意地なのかセーレは会わせたがらないが、少しでもその頃の恩返しが、あの子が通うはずだった場所で出来るなら幸いだ。
大事な親友の子だ。――母が多大な迷惑をかけているが、少しでも羽を伸ばしてくれと願って止まなかった。