77.『秋霖』に響く歌声⑫
寮の扉が開かれると、熱気を孕んだ空気と共に、向こうに見知った色をした人が立っているのが視界に入った。
「左翼――! 久しぶりです。左翼もここに来ていたんですか」
短いブロンドと毅然とした立ち姿が一瞬セーレに見えた。だが黒い詰襟と白い仮面、腰に刺した二本の剣が別人だと知らせる。
久しぶりに会えた人物に、エミリオが喜んで駆けて行く。今朝も見かけたが、以前会った時と変わらず静かだ。何を考えているの分からなくても、末弟にとってはそこも面白いようでいろいろと質問攻めにしていた。
先ほどの祖母の言葉を思い出すも、異変があってここにいる、という感じではないように見受けられる。すぐ傍に座れるスペースがあるというのに、静かに立つ姿がこの場の空気に馴染まず、なんだか不思議な光景に思えた。
音楽が止まりこちらを幾人かが呼ぶ声と、どよめきが湧き起こった。――何かと見渡せば数人が床に転がる中、あの人が中心に立っていた。
「ふっははははっ! 全員倒れるとは情けない――! 音楽が止まったら勝負だって言っただろ」
「大馬鹿者……っ! 殿下がお戻りになったと言ってるだろう、この戦闘狂め!! 空気を読め!!」
高笑いしながら、周囲で床に手をつき尻をつく学生たちの真ん中で立つその人が、バイオリンを持つコルネウスに怒られていた。
「――――これは一体……?」
「ディアス、やっと来たな。ふっふふっ……、今遊んでいたんだ。お前も参加しないか」
「殿下、ここは危険ですのでどうか奴にお近付きにならないで下さい!」
バイオリン片手にコルネウスが訴えている。
どうやら演奏していたのは彼のようだ。他にも数名楽器を持つ者や、ピアノの前に立ちバツが悪そうに蓋を閉じる者もいた。
寮内の灯りが消えるまでまだ時間があるとはいえ、もう夜だ。ラフな格好をした者がほとんどだが、こんな時間にここで人が集まっているというのも、なんだか不思議な光景に思えた。
たまに学園を離れ公務から帰った時など、出迎えるように待ち構えられることはあるが、その時と違い各々自由にしている点から、自分たちを待っていたという訳ではないのは明らかだ。
その中にひとり、学生服に帯剣姿の『友人』が中心にいるのも、相容れぬ境界の向こうにいるようで遠く感じる。
「――何をしていたんだ」
「何を……? 我々は一体、何をしていたんでしょう……?」
「……どうして分からないんだ」
困惑しているのはコルネウスだけではなかった。責任の所在を確かめるように、なぜか互いに見合わせている。吹き抜けの二階から階下を見ている学生たちも、同じように説明できないのか困惑気味だ。
「……こちらのご友人と、ディートヘルムたちが悪ノリをしておりまして」
悪ノリ、という言葉に嫌な気分になるが、当の本人はくすくすと楽しげだ。ずいぶんとご機嫌らしいが、こんな姿は見たことない。到着する前に、また打ち解け合ったのかと思えば面白くない。
もうひとり名を挙げられた人物を探してみたが姿が見えず、不快感に眉を顰めていると、案外近くからその人物が現れた。
「殿下、誤解なさらないでいただきたいのですが――、ここに来た時からご友人殿はこんな感じです。彼に確認して下さい。ヴァイス卿もご存知のことですから」
起き上がったディートヘルムが左翼を指し示すと、フィフスがふらりとこちらに近付くのが視界の端に見え、振り返ると胸元にぶつかった。
ぶつかった――? 一瞬、抱擁されたのかと驚きから身構えたが、どうやら違う。何故と疑問に思うも、こちらに体重を預けているのか、よく分からない状況に友人を支えるしかなかった。
「ディアスも踊れるのか? ここの連中もみんな踊れると聞いて驚いた」
「ま、待て貴様! 早く殿下から離れないか……!」
見上げる青色の瞳は大きく、ひどく感銘を受けているのかキラキラしている。吹き抜けから吊り下げられたシャンデリアのせいか――。
「誰か水を――、水を持って来てくれ!!」
周りがうるさいが、友人の顔色は悪くない。ただ、足元がおぼつかないようで、一歩離れるもふらりとバランスを崩しそうなため支えるしかなく、ただ戸惑うばかりだ。
「踊れるけど、――そんなことより、何があったんだ」
「おぉー! お前もできるのか。すごいなここは」
無邪気に感嘆の声を上げ、感心している。笑いは引っ込んだようだし、触れる背中にまた武器がある。忘れ物はもうしていないらしい。
だが、受け答えする口調はしっかりしているのに、気の抜ける返事とふらつく足取りに、どうしたのかと戸惑いが増すばかりだ。
数刻前まではこんなんじゃなかっただけに、ヴァイスが何かしたのか――。ここの学生たちが騒がしいことも合わせて、そんな気がしてならない。
「左翼も踊れるんですか?」
「こいつが――? 愛想も可愛げも趣味もない、これがそんなことすると思うか? 今だってここに居るのがめんどくさ過ぎて、一刻も早く帰って寝たいとしか考えてないやつだぞ」
弟の疑問にぐいと身体を引き離し、仮面をつけ表情も分からない己の兄の元へ行けば、左翼の腕を組む手を退かし胸元に耳をつけている。
「うむ、愛想は既に生き絶えているな。蘇生も既に手遅れだ」
「愛想って聞こえるものなんですか? くすっ、――それは困りましたね」
普段と変わらぬ真面目さを感じるのに、ここで見た行動のどれよりも無邪気で屈託がない。二人の様子をエミリオが面白がっており、真似をし始めている。――彼もされるままだが、フィフスに対しては頭を掴み引き離していた。
「……左翼、ヴァイスが何をしたのか知ってるのか?」
「ヴァイス・ソリュードはなにもしていない。ここの学生も、そこのバカに付き合ってくれていただけだ」
端的に返される返事が予想と違っていた。――『友人』同様、彼もヴァイスには好意的なのだろうか。
「左翼はどうしてここにいるんですか?」
「観察をしている」
「観察、……ですか? みんなのことを見てたんですか?」
「……バカがバカをして、ただのバカになったところを観察している。このまま放置しておけば一体どこまでのバカをやらかすのかと、見ていただけだ」
「人のことをバカバカと――、はっ! 気の済むまま好きなだけ言うがいい。軽率に人を貶める者は、自らの価値も毀損していくだけだからな!」
張る声とは裏腹に、立つ姿がふらふらと覚束なく、直立不動で立つ兄に向かう姿はなんだか対照的だ。
「あら、そんなにふらつくほど、激しい何かがあったのかしら」
「レティシア嬢がなぜここに……?」
今頃彼女がいることに周囲も気付いたようで、一瞬どよめきが起こるも、これ以上の厄介は御免とばかりに口を閉じ、見て見ぬふりをしている。
我が物顔で男子寮にいる従姉は既に五人の恋人たちに囲まれ、左翼の近くにあるソファですっかり寛いでいた。
「酩酊しているだけだ」
「……、酔っているのか?」
フィフスがふらりと左翼の前に立つと、くるりと背を向け腕を組んだ。ふらつく足取り、受け答えはしっかりしているのに掴みどころのない態度と、違和感を当てはめれば納得するしかない。
「寄りかかるなバカ、暑苦しい」
「バカって言う方がバカなんだぞ。――それより見たか、今度は全員倒したぞ」
「……王子が帰って来たから全員動きを止めたところ、お前がバカみたいに全員転がしたところは見た。ここまでバカが極まっていたとは……、本当に頭が残念だ」
「あだだだ、ばか! 頭はやめろ!」
「こんなバカに付き合わせた懺悔と共に、全人類と俺に謝れ」
左翼が両の手でフィフスの頭部を挟んでいるだけのように見えるが、あまりの痛がりように圧迫しているらしい。その手から逃げるように身をよじりふらりと逃げ出すが、バランスを崩したのか床に手をついていた。――すぐ傍で倒れたので起こそうとするが、酔っても顔色が変わらないタイプらしい。顔を合わせればくすくすと笑っていた。笑い上戸なのか。
始終ご機嫌な理由は分かったが、こうもあどけない様相をここで晒し続けていたのかと思うと、やはり面白くない――。
「……何故かこちらに来た時からこうでして。殿下とお約束があるからと、ヴァイス卿が彼らをこちらに置いて帰りました」
キールが水を持って来た。ふらつくフィフスへコップを渡せば、人の腕を支えにしながらあっという間に煽り空にしている。
別れた時、エリーチェとリタと揃ってヴァイスが食事に連れて行ったはずだ。毒味の一環で酒を口にしたのだろうか――。それでここまで酩酊しているのだから、不用心がすぎやしないだろうか。
相伴の相手がヴァイスということも相まり、一体どこから考えるべきなのか、折り合いのつけどころが分からなかった。
「フィフスはダンスの練習をしていたんですか? 外にまでバイオリンの音が聞こえてきましたよ」
「いいや、隙の突き方を教えていた。――ここの連中がみな踊れると言うから、どうやって敵の不意を突くか、一緒に考えていたんだ」
「……ダンスしてたんじゃないんですか?」
フィフスが真面目な顔で話すも、話のつながりが見えない。エミリオはすぐに諦めたようで、距離をとったディートヘルムへと尋ねていた。
「……最初はダンスを教えて欲しいと言われたのですが、一曲踊れるから見ててくれという話になり、どうしてか途中から有事の際にどう対処するかという話題になった上に、対応力を鍛えてやると話が変わり――、この有様です」
「ふうん、それで? あなたたちは鍛えられたのかしら」
「残念ながら――。日々の修練に、酔客に絡まれた時の対処法でも取り入れた方がいいかもしれません」
肩をすくめるディートヘルムは、居心地悪そうにしているコルネウスと並んでいた。先ほどディートヘルムの他、数人が床に倒れていたが、こんな状態でも誰もが手に負えないらしい。ひとつ胸を撫で下ろした。
「そうか――。この人の相手をしてくれて感謝する」
「ディアスってば、いつからその子の保護者になったの」
レティシアの揶揄が飛んでくるが、気にはしていられない。
「……アルコールの入った状態で動けば、酔いもさらに回ってしまうのではないですか。落ち着くまでそちらで休まれては」
「確かに。……フィフス、座ったらどうだ」
水差しを手にしたアイベルの提案に乗り、ふらつく『友人』を案内する。
「これだけ人が揃っているならちょうどいいわね。――今度の舞踏会について知らせがあるのだけれど、他の子にも伝えておいてくれるかしら」
事態が収束したことで、集まっていた学生たちが戻ろうとする気配を察知してかレティシアが立ち、そう切り出した。
仮面をつけた兄弟分であるはずの左翼は相変わらず腕を組み、静かに立っているが、手出しも口出しもする気はないようだ。彼の近くに弟が座ったので、同じように席に座り『友人』を座らせた。――はずだった。
「――――誰が殿下を椅子にしていいと?」
なぜか人の膝の上に座っている。聞いたこともないほどアイベルの低い声につられて視線だけそちらに動かせば、静かに怒っていた。気付いた左翼が振り返り、仮面で表情が隠れているが、小さく口が空いているのが視界に入る。
すぐ座れるようスペースを開けていたのに、わざわざ人の腕の中に納まるようにこんなにも近い場所に座るのか。急な距離感の詰め方にいろんな感情が迷子だ。
「ふむ――、ちょうど良く座れるスペースがあったから……? それにいつも上から見下ろされているが、ここなら見下ろせてちょうどいい」
機嫌を崩す侍従に真面目に答えているが、目が合えば悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。ふらふらとした重さが足と背を支える手に伝わるから、酔っているのは分かる。
「今すぐ降りなさい」
こんなに無邪気でいられるのは、心臓に悪い。
「……この俺を椅子代わりにするのは、あなたぐらいだ」
手に入らないものがこんな傍にあっては、届くものだと勘違いしてしまう。もしこんな場所でなければ、抱きしめていたかもしれない――。背に回す手を我慢させれば、腕を組みその人は得意げに座っている。
こんな尊大にしているのも、その実代えがたい立場にいる人なのだから性質が悪い。この有様に苦笑するしかなかった。
「すまない、バカを放置しすぎた」
金色の懐中時計を手にした左翼が何かを確かめるように開けるも、すぐに蓋をした。もう片方の手で一枚の札を取り出せば、傍らで手を出そうと迷う侍従を下がらせ、左翼がこちらにやって来た。何度も見かけた薄くて白い紙を、『友人』の額を叩くように押し付けた。
鈍い音共に、腕の中にいる『友人』がのけぞった。――結構な力が支える腕に掛かり、倒れると思い慌てるが、張られた紙が青白く模様を浮かべ、端からすぐにその姿を消していく方が早かった。
もう終わりかと、直感的にそんな感想を浮かべるよりも早く形を失えば、その人がゆっくりと身体を起こした。
「……なるほど――、これが酩酊状態か。」
額につけられた紙も消えれば、しみじみとそんな感想を口にしていた。
「気まずいからもう帰っていいか」
「……できるならなぜ、早く治してはくれなかったんですか」
侍従だけでなく、この場の空気の全てが左翼に向いていたのは言うまでもない。何を言う訳でもない視線をこちらに送るのは従姉だけだが、どうにかする術を有しているのにも関わらず、何もしなかったことを責められても仕方がないのではないだろうか。
誰のことも気にした風もなく膝の上に座っていた友人は一瞬こちらを見たが、すぐに立ち上がる。ご機嫌に緩む顔も失せ、ただ一言、
「すまん。」
それで済ませるつもりなのか、呆れるほどすっきりとした表情をしている。その顔になんて返事をすればいいのか困ってみるが、もう関心が消えたのか考え込むような素振りをしていた。
「人が酒を好む意味が分からなかったが、理解が深まった。うむ、なかなか代えがたい経験だった。」
「関心している場合ではありません。この国では飲酒は二十を超えてからです。二度目はありませんから」
静かに窘める侍従に、分かったと小さく返事をし、険しい視線から逃れるように顔を背けていた。向かいに座る弟も呆気に取られているようで、今の出来事に心奪われているのか動きがない。
「あら、もうおしまいなの? 面白いからそのままでも良かったのに」
「もう大丈夫だ……。こちらを気にせず続けてくれ。」
話しは聞いていたのか、こちらを離れ先ほど左翼が立っていた場所へと移動した。――ふと、あれだけ目立つ存在が、今はどこにもなかった。侍従に心配されるが、扉の方を見ても彼が出て行った痕跡は見当たらず、一体どこへ消えたのか。先ほどの言葉通り、もう帰ったということなのか。
そのことに気付いた者は他にいたのか分からないが、少なくとも従姉は気を取り直し、悠然と皆の前に立った。
「金曜の舞踏会では花を用意してね。ここで随分とやんちゃしていた彼と、私たちの弟、――どちらに花を贈るか考えておいてくれないかしら」
「……花?」
「えぇ、19日の予行練習ね。見返りは特にないけれど、せっかくの異文化交流ですもの。――あなたに評価を送るくらいは良いでしょ?」
従姉の権高な態度が、平静を取り戻したばかりの友人へと向けられる。――昼間の姉の態度からも、良い話ではないことは予想がついたが、余計なお世話と言わんばかりの内容にため息が出た。そんなことをして何の意味があると言うのか。
「そういうルールなら承知した。ならば先にここで宣言しておこう――。」
今までの失態はなかったかのように振る舞う『友人』にいつもの強さを見出すが、先ほどまでの記憶はあるのだろうか。切り替えの早さに感心するが、酩酊する前からここまでの出来事について、全て問い詰めてやりたいものだ。
「花は全てディアスに贈るといい。私に贈るべきは、果し状か挑戦状だ。それ以外は受け取らないからな。」
まだ酒でも残っているのか。きっぱりとこの場で従姉よりも強く伝えられる言葉に、ディートヘルムだけが小さく噴き出していた。
「えぇ、是非そうさせていただきます」
バイオリンを既に片付け、手ぶらになったコルネウスがそう答えているが、その意見に同意するように周囲の人間が頷いていた。
「そんな――、そんな風に先に通じ合ってしまったら、面白くないじゃない」
「私に花なんて不要だ。それに予行練習なんだろ? なら受け取るべき人が受け取ればいい。貰っても扱いに困るし。」
さっさと勝負を降りてしまったことに不満を示すが、誰も異議を唱えてくれないことから、姉たちの算段があっという間に崩れてしまう。
きっと女子寮でも同じように姉が話しているのかもしれないが、参加者の半数がこれでは盤上をひっくり返すのは難しいのではないだろうか。ここでの話が広まるのも時間の問題だろう。――また場の空気を制している。
「ちなみに一対一じゃなくていいからな。昨日今日の辛酸を晴らすために、いつでも挑戦してくれていい。」
両手を腰に当て好戦的な宣言をしているが、先ほどまでの呆れるほど緩んだ様子を見てしまったからか、皆一様に毒気が抜かれてしまったようで、真面目に取り合う者はないようだった。
いつもであれば、もっと険悪な空気になったかもしれない。もうこの場を後にしたそうに『栄光の黒薔薇』の代表でもあるコルネウスがしているものだから、周囲にもお開きの空気が流れている。
「もう、せっかく考えたのに……、こんなのつまらないわ」
落胆した従姉の言葉を慰めるように、恋人たちが彼女を支えていると、キールが馬車を呼んでいたらしい。出入口が開かれ、レティシアを回収する迎えの到来を知らせれば、この場にあった茶番があっけなく幕を下ろした。
「もう酔いは醒めたんですか?」
「酒は抜けているはずだ。」
「金輪際、このようなことは勘弁してください。他の学生たちにも悪影響ですから」
「相分かった。」
末弟と侍従に挟まれ、先ほどの失態についてひとつひとつを確かめるように『友人』が窘められている。口を挟む隙もないほどだ。
「どれくらい飲んだんですか?」
「そうだな……、ボトル半分ほどだろうか。」
がっつり飲んでいた。思わぬ告白に皆の足が止まる。
「……ちなみに何を?」
「蒸留酒だとおっしゃっていた。お気に入りの品だとか――。わざわざお持ち下ったから相伴にあずかっただけだ。」
「随分と強い酒を……。だからと言って口にすることもないでしょう……」
「普段ならいくら飲んでも酔わないし、さっきもしばらくは平気だったんだが、――酩酊していると気付いた時、酒を飲めば強くなる者の話をヴァイス卿から聞いて、ちょうど良い機会だからと手合わせの相手を探していたんだ。もちろん手加減はしてな」
案の定、ヴァイスが愉快犯だった。焚き付けたまま寮にこの人を置いて行ったのだから、性根が曲がり過ぎてもはや迷宮だ。
人に問題を起こすなと言いながら、方々にこの人を使って種火を撒いているのだから、さぞかし奴は楽しいことだろう。――掴むことも出来ない陽炎のように揺らめく存在に、どう報いるのがいいかと思い巡らせる。
同時に左翼が言っていた通り、階下に集まっていた彼らが『友人』に付き合ってくれていただけだと分かれば、悪い気はしなかった。相容れないからと突き放してきたが、少しは理解し合えるものもあるのかもと、静かに濡れこの場を反射させる真っ暗な窓の外を見た。
七階に到着すると末弟が辺りを見回し、フィフスの手を引っ張っていた。
「フィフス、聖国が今大変だと聞きました。――そんな中、来てくれてありがとうございます」
膝を折り、弟と目線を合わせたその人に小声で謝意を伝えていた。
「わざわざ礼を言われるほどのことはまだしていないと思うが……、その心遣い、ありがたく頂戴しよう。」
「叔父上も喜んでいらっしゃいましたよ。それに僕も、――兄さまの膝に乗ってみたかったのに、フィフスに先を越されてしまいました。今回の活躍に免じて許しましょう」
弟の唐突な告白に、フィフスの心底申し訳なさそうな顔がこちらに向いた。
「そうだったのか……、それはすまなかった。」
「……そんなこと考えていたのか」
当の本人は口にしてから気まずいのか、こちらと侍従たちの目を避けるようにフィフスの影に隠れた。手を取ったり、傍に来ることは昔からあったが、甘えたい気持ちがまだあったのか。――素直に表に出す弟に面食らう。
「エミリオ、別にいつでも言ってくれれば良かったのに」
「だって……、子どもっぽいと呆れられてしまうかと」
「お前の兄はそんなことでお前を見限ったりなんてしないだろ。さっきの左翼を思い出してみろ。口を開けばバカバカと人を小馬鹿にしてばかり――。アレに比べれば、大抵のことはどうでも良くなる。」
「……その説得は、少々自暴自棄すぎるのではないでしょうか」
キールも呆れたように口を挟んだが、肩を掴まれ力強くフィフスに言われたからか、はにかんだ弟の顔が友人の影から現れた。
「今の話、誰にも言わないでくださいね。……ここだけの秘密ですから」
「承知した。ディアスもエミリオの件、頼んだぞ。」
立ち上がりながらテキパキと返事をし、こちらにバトンを渡すように腕に触れた。強くもなく、弱くもないその温度が、一体どの立場からの頼みなのかと苦笑する。
「――東方天さまも、ずっとお目覚めにならないのですか?」
急な質問を、アイベルが『友人』へと投げた。
「お元気にしていると伺ったので、てっきりご無事なのだと思っておりました……」
「何か知らされたのか。――悪いが今後も似たような質問をされても、我々は同じことしか言わないし、お前たちも深く気にしなくていい。どういう状態であれ、東方天に関しては何も問題はないからな。」
初めて尋ねた時と同じように軽い調子で、大したことはないと言わんばかりの返事をフィフスはしていた。
現にここに当人がいて、つい先程までこの寮の一階で酩酊しながら数多の学生たちを転ばせていたのを思えば、元気が過ぎるくらいだろう。呪いという制約を受けているとは思えないほど、伸び伸びと過ごしているように思える。
「そうですか……」
「もしかして、代替わりを気にしているのか? 心配するな、ここでは起こらない。」
他の人たちは目が覚めないというのに、クリスだけはまるで普通だ。ここで与えられた慣れない学生という身分に馴染まないくらいで、誰かを助け、誰に対しても気安く接している。
先ほどされた祖母の話が本当のことなのかと、疑いたくなるくらい軽い調子で言うものだから、アイベルは戸惑っているようだった。
「そんな不謹慎なことを考えていた訳では――、」
「たとえ死んでも、次にその役を任される者がすぐ出てくるだけのこと。方天など、代替え可能な交換品だ。選ぶのは神だが、選ばれる側も準備している。――きっと次の者はこんな失態をしないだろう。」
あまりにも――、あまりにも軽い調子でさらりと言うものだから、一体誰が誰の話をしているのか分からなくなった。
「今は聖都に三人揃っているし、何より南方天にシャナがいる。――両国に争いがない以上、シャナたちがこれからも聖国に希望をもたらすだろう。憂いが少ない今、我々がなすべきは目の前の問題の解決と和平条約の更新、それだけだ。」
「それは、なにかの冗談のつもりか……?」
だとしたらセンスがないと言う他ない。今の話でどれだけこの場の温度が下がったか。――最初に尋ねてしまったアイベルも、聞いてしまったエミリオも、あまり動じるところを見たことのないキールでさえ言葉を失っている。
「可能性を話しているだけだ。次がどんな者であれ、互いに歩み寄り道を示せる者が多い今、心配することは少ない――」
すぐ目の前で、腕を組んでいた『友人』の手を掴んだ。
「……口にしていいことと、悪いことがあるだろ」
血が通った小さな手のひらは暖かく、指先に触れる感触に硬さがあるこれは、幾多の困難を乗り切って来た証ではないのか。
あまりにも自身の扱いが軽く、他人事と言わんばかりの態度に、こう言わしめてしまったことに悲しみと苛立ちが襲う。
「最悪の事態を想定した時にこそ、取るべき行動が分かることもある。物事の本質を見誤らないためにも、そう伝えただけだ。」
手を振り払うことはしなくても、こちらを見つめる瞳は掴めないほど遠い色をしている。
「……本当に分からないのか、クリスがどんな存在なのか」
「この国にとって、今の東方天は脅威だろ。今まで対外的にそう振る舞って来たのだから、別の者に変わる方が安心だと、思ったんだが……」
深く、長いため息をついた。
「…………呆れ果てるほど、何も分かってないんだな」
こちらを見る青色の瞳も説明も、噛み合わない話しを察すれば悲しみが引いていき、空虚な感情を通り越し憤りに近い何かにぶつかった。
「あぁ――、よく考えたら、『フィフス』は知らない話だったか」
この人に、誰も俺のことを教えてくれなかったのと同じことだろう。傲岸不遜な独り言に、動じる事のない青色がこちらを機微を察したのだろう。一瞬揺れるも、すぐに鳴りを潜めた。
「俺にとっても、セーレたちにとっても、――ここでは誰もクリスの代わりなんて求めてない」
父や母、姉弟たちだけでなく侍従たちも周知のことだ。だが、この人がその時の記憶を持っていないことを失念していた。――忘れていた自分にも腹が立つ。
「アイベル、悪いが二人で話したい」
不機嫌で、有無を言わせずアイベルを頷かせれば、こんな態度など見せたこともない弟たちと別れ、手を掴んだその人を部屋へと招き入れた。
開かれた部屋に灯りをつけるため、指を鳴らした。
手を掴んだまま、目に映る全てが虚像でしかない『友人』が、廊下よりも強い光の下に照らされる。部屋へ入り後ろ手で鍵を掛ければ、急な断絶がその人を振り返らせた。
「話をするだけだ。それ以外に何もする気はない」
パチンとさらにひとつ指を鳴らせば、部屋に施されている魔術のひとつが起動する。壁紙に紛れた模様が一瞬紫色の光を帯びた。
「この階は、王家に名を連ねるものしか使えない部屋しかない。セーレが知っていたか分からないが――、俺たちに都合のいい部屋でもあると、知っているか」
説明しながら手を引くクリスを部屋の中央へと連れていき、もうひとつ指を鳴らした。また別の模様が一瞬光ると、静寂が深まった。
周囲の音を確かめているのか、耳の近くに手を当て戸惑うクリスも気付いたようだった。
「……音を遮断したのか」
「もう誰もここには入れないし、誰に聞かれることもない。――ここはそういう部屋だ」
王家に名を連ねた祖先が作った学園であり、街である。何か後ろ暗いことをしたとしても、誰に明かされることなく、特別に守ってくれる部屋が古くからここにある。
魔術を学び、知識が増えてから気付いたことだった。その内弟も気付くのだろう、部屋に他人を軽率に入れず、安易に訪うべきでないことを――。
父もこの仕掛けは知っているが、これらは使ったことがないと話していたことを思い出す。あの時兄弟二人でそのことを確かめに行った際、兄がげんなりとした顔を見せていた。
連綿と続く歴史の中で、神が与えた命題を自分たちの先達が、どう受け取り行っていたのかと思えば複雑だ。名も記録も残る立場だからこそ、振る舞いには気を付けるべきなのに、――すぐに失念してしまう。
「それって……」
「ずっと、誰が何のためにって思っていたけど、今はこれほど都合がいいこともない。……腹を割って話そうか、クリス――」
この趣味の悪いもの以外何の用意もされていない部屋では、手の中にあるクリスの温度が心地よい。
確かめるように周囲を見回すこの反応から、やはり知らなかったのだろう。カーテンで閉め切られた窓も、この人の動揺を誰に知らせることはない。
部屋に満ちるひんやりとした空気に気付いた。
「寒いのが苦手なんだったか――。部屋が温まるまで傍にいればいい」
もうひとつ指を鳴らし暖炉に役割を果たさせ、いまだ戸惑うクリスをきつく抱きしめた。
「さっきの話……、本気で言ってたのか」
いつもならすぐ腕を伸ばし手を回してくれるのに、今は返してくれなかった。
「……変えようのない事実を述べただけだ。方天とは、神の代わりを請け負うだけのただの人。私も例に漏れず、やはりただの人だ。今まで力があるからこそどうにかなることも多かったが、借り物を振りかざしていただけに過ぎない、ただの凡俗だ。」
淡々と告げる説明を言い聞かせるように、ようやく手を伸ばし背をさすってくれる。
いつもより緩慢で弱い動きが、なんの執着も未練もないように思えた。
「今まで俺に言っていた言葉はなんだ。エリーチェやガレリオたちだって、そんな風にクリスのことを見ているとでも思っているのか。……代替え可能な交換品だなんて」
「伝えた言葉に嘘偽りはない。それに、別に死に場所を求めに来たわけじゃない。最悪の場合を想定しての話だと言っただろ――」
「だとしてもそんな簡単に、自分を捨てるようなことを言わないでくれるか」
縋るように力を込めれば、苦しそうな息遣いが聞こえた。
「……少し座ろうか」
誰にも邪魔されないこの場所で、意地悪くなってこの人に全ての我が侭をぶつけてしまう前に、腕に込めた力を解いた。
身体を離して改めて向き合えば、落ち着き払い一分の隙も見せることのない深い青色の瞳がまっすぐこちらを見上げている。ただここに立っているだけなのに堂に入った立ち姿が、何度も色のない記事で見てきたクリスがここに現れたように感じた。
だがここにあったのはもっと気安く、破天荒で何をするか想像もつかないことばかりの暖かな温度だ。
「今朝の件と、――クリスの話をしよう」
エリーチェがよくこの人にくっついているのは、きっと放っておくとすぐに遠くへ行こうとするから、繋ぎ止めるためなのかもしれない。隣に座ったクリスを改めて見ながら、今朝も元気にずっとしゃべっていた新しい友人のことについて、そんな感想が浮かんだ。
暖炉の火を見ているのか、今は顔を合わせようとしなかった。
「……今朝は、母のことを引き受けてくれたことに感謝している」
「俺も久しぶりに元気そうなところを見れて良かった。どうしているか気にしていたから」
細い喉元にかかる黒いチョーカーに目が行くが、今は色も声も違うこの境界が程よく感じた。ありのままの姿で取り繕われるよりずっとマシだ。
「……ガレリオから聞いたが、妃殿下とも親しい間柄だったんだな。それすらも知らなかった」
「あぁ、叔父上も姉上たちだってティアラのことは良く知っている。こちらでは珍しい見た目だし、セーレの令室だ。――王城では広く知られている」
「そうなのか……。もっと、母から話を聞いてみればよかったのかもしれないな」
急にしぼむ声に、後悔が滲んでいるようだった。
「二人が話そうとしなかったんじゃないのか」
「それもあるかもしれないが、私も聞きたくなかった。……恐らく父も母も察していたから、話題を避けてくれていただけだ」
「……想像がついた。三人とも、根が同じなんだな」
一瞬こちらを向こうとしたのか頭が動くが、避けるように視線を落としている。
ティアラの今朝の言葉に、三人が互いに阿って話す事を避けていたのだろう。――ここに来てからセーレのこともヴァイスのことも尋ねて来ないし、なんならヴァイスにいいように遊ばれているところを見るに、深く立ち入ることをしたくないのかもしれない。――ヴァイスもそれを分かっていてらずっとクリスを試してるのだろう。アイツなりの気遣いかと分かれば、数々の不可解な行動に合点がいき、ため息をつく。
「さっきみたいなこと、二人にも伝えているのか……」
セーレとティアラの娘なのに蒼家では息子と呼ばれ、素直なのに素直じゃなくて、誰に対しても距離が近いのに本当に深い場所には立ち入らせないちぐはぐな存在。
言動に一貫性があるのに、たまに脆く危うげに見えるのは、アンバランスな境界の上にずっと置かれているからなのだろうか。
「――当然だ。私は生涯何かの本物にはなれないし、誰かの望むものになることもない。数少ない選択肢の中から選ばれるだけの代わりに過ぎないからな。」
「……そんなことで、強がらなくてもいいんじゃないのか」
「強がってなどいない。」
毅然とした言葉と眼差しが向けられるが、あの二人だけでなく目の前の俺も立ち入らせない壁を感じる。でも気にせず問いかけた。
「前にヴァイスが俺を紹介したとき、会ったことがあると伝えていたけど、いつどこで会ったか聞いているのか」
「……たとえ過去に何があろうとも、それは今の私とは関係ないことだ。その頃の記憶はないし立場も異なる以上、同一人物であるとは言い難いだろ。……もし、その頃の何かが欲しいのであれば、あいにくと渡せるものは持ち合わせていない。」
「……そうやって強がるところも、自分に平気だと嘘をつくところも、大事なものをすぐに手放そうとするところも、どれも全然変わってない――」
背もたれに肘を載せ、今朝のことや昔のことを思い出す。
「話を誤魔化すのが下手なところや、困っている人がいれば大事なものを置いてでも、誰かの元に駆け付けるところはティアラと同じだ」
二人の母が亡くなった知らせを受け、すぐに聖国からティアラが来た。家族の誰もが悲嘆にくれ、セーレも深く傷付いていたところ、皆の傍に付き右も左も分からないだろうに、弔いの手伝いを積極的に進めてくれていたと後で知ったことだ。
ティアラも何度も会う仲ではないものの、母たちと仲が良かっただけに思うところはあったはずだ。――それでも気丈に振る舞う彼女に、王城にいた者たちも励まされたと聞く。
「街での振る舞いも、リタたちは北方天と一緒に過ごしているからと言ってたが、ティアラとよく出掛けているんじゃないのか。――あんなに学生たちに寄り添って、俺のように慣れない者が一緒でも連れて歩けたのは、ティアラがクリスに手本を見せていてくれたからだと言われた方が納得する」
昼間にしていた母の話を思い出せば、やはりそちらの方がしっくりくる。――今朝、エリーチェが写真を見せながら話ししていたが、普段クリスは人々の好意は決して受け取らないそうだ。他の者が何か好意を受けた際、彼らが受け取った分の対価を代わりに払うため、それが理由で北方天に連れて行かれている節があると不満げに言っていた。
「職務に忠実なところや、筋を通し、何事も真面目に取り組むところも、誰に対しても平等に言うべきことを言うところはセーレと同じだ。――そういうところは、本当に似ていると思うよ」
ここの貴族たちとも臆せず接し、対話していたところはまるでセーレだ。先ほどの階下での騒ぎほどではないが、中庸なセーレは周囲の人間とうまく折り合いをつけてしまうのだから、そういう素質をクリスも持っているだろう。
「クリスが覚えていなくても俺は知ってる。……どうしようもなくクリスはあの二人の子で、それだけは疑いようもなく事実なのに、……どうしてそんな自分を切り捨てるようなやり方をしてしまうんだ」
「……別に、こう教えられたからしていることで、父と母とは関係ない。」
つまらない道理を曲げる気がないのか、頑なに切り分けようとしている。
居心地悪そうに逃げる目線に気付き、肩を引き寄せた。
「普段、よくセーレと電話で話しているだろ。――ここに来てから連絡は取れているのか」
「――いや、宿舎はこの街の中しか通じないから、今はあまり……」
「なら今頃、相当機嫌を損ねているんじゃないか。セーレはクリスと話さないと不機嫌になるから、忙しい時ほど父が時間を作らせているんだ。――空気が悪くなるから周りも気にかけるようになったし、早めに仕事を終わらせようと父たちの仕事の効率も大きく変わったんだ」
「……そうなのか? そんな事、一言も……」
「そんなこと、いちいちクリスに知らせる訳ないだろ。心配かけたくないから、いつも何でもない態度で接しているんじゃないのか」
頑迷な色をしていた瞳が揺れた。
「セーレが聖国に帰る際、よく出迎えに出てるだろ。最初は神殿の入口までだったけど、次第に街から砂海、――今では関所までわざわざ来てるって」
「……手隙のついでだ。警戒のついでに足を運んでいるだけのこと。」
そこで意地を張るのか――。近い距離が居心地悪いのか、目が合えば本心を隠すように目線が逃げている。
「……クリスが急に現れるようになったから、関所のトラブルがずっと減ったと聞いている。――問題があればクリスが応対してくれるし、予告もないから関所の人間もあそこを通る人たちも行儀が良くなったっていうのは、こちらでは有名な話だ」
同時に王城側の人間も現れるので、あそこで問題を起こせば即刻出国停止となり、場合によっては即逮捕となる。――クリスが睨みを利かせているから、境界の警備が質も意識も向上し、あの一体も数年前に比べると治安も良くなった。
それまでは聖国の貴族たちが汚職に手を染め広く不正も横行していたため、有り余る惨状に誰も近寄らず、関所の周りも長らく荒れていたと聞く。――ハインハルトの死後、聖都中枢には南方天がいたが、まだ幼く修羅憑きという危険な存在でもあったため、聖国へ近寄るものはほとんどいなかった。
クリスが聖都に戻るまでの間、聖国との国交はほぼ行われず、停滞した空気があるのみだった。前回と前々回の和平条約の締結式も、南方天が聖国を離れられないのと、王である父に何かあれば困ると、祖母が代わりに聖国へ参じ行われていた。
15年振りにラウルスで行われる締結式の成功を、クリスは望んでいるのだろう。だから、再び哀しい気持ちが湧いてくる。
「……クリスが聖都に帰って来てから、本当に多くのことが変わったし、いい方向に物事が進んでいる。――セーレだって、少しでも早くクリスに会えるから、迎えに来てくれる事を喜んでるのは知ってるだろ。……これが誰か別人間に変わっても変わらないと、――本当にいいことだと思っているのか?」
聖国にクリスが東方天として参じると知らせがあった際、この国でも多くの者たちが注目していた。大戦を終わらせた大英雄の孫であり、王の側近の娘であり、先代東方天ハインハルトの後継者として、――そして南方天の代わりに対話が出来る相手なのかと、多種多様な期待を向けられていた。ひとりで負うにはひどく重く、大きくしがらみのある期待だ。
だがそんな期待も、全て覆してしまった。聖都へ戻ってすぐ聖国に蔓延っていた不正を取り払い、力を以て他を圧倒し、今日までその存在を知らしめてきた。
「王都でもここでも……、異国人だったセーレやヴァイスを快く思わない人もいたけど、クリスが現れてからそういったこともなくなったんだ。――今までずっと、その立場でセーレたちのことを守って来たんじゃないのか。そんなに簡単に手放していいものじゃないだろ……」
「どうして、それを……」
「分かるよ。大事なんだろ、特にセーレのことが。――昔も会えなくて、ずっと我慢してたのを傍で見ていたから」
片腕に動揺が伝わるが、どうしても聞いてほしくて細い肩を抱いた。
「俺も、……別に覚えてなくていいけど、俺も昔、クリスのおかげで救われたんだ。だからもう一度会いたかった――」
心の中にあった言葉を表に出してみれば、ずっと忘れていた寂しさが胸に溢れた。なにもなくとも安心できる人たちは、誰もこの手を取ってくれず、離れるばかり――。
「欲しいものはないし、遠い昔に帰りたいとは思わない。――ただクリスが無事に居てくれれば、それでいい」
肩に顔をうずめれば、この人が目に映すものはずっと広く、先の事ばかりなのだろう。――ここでの用が済めばまた離れていくだけの、通過点のひとつでしかないことを思い出した。
「……『友人』として関わりが出来ただけでも俺は嬉しい。クリスの代わりは居ないし、誰にも出来ないことくらい分かってくれないか……」
躊躇いがちに背に手が回されれば、慰めるように添えられた。
「お前が、そんなに深く心配してくれていたとは知らなった……。母の事も、父の事も本当に良く知っているんだな……。私のことも、ずっと気に掛けてくれてありがとう」
肩の力が抜け柔らかくなった言葉が、寂しさに染みる。
「今後、言い方は改めよう。……他のやり方を知らなくて、出来ることをしてきただけなんだ。私にはこれしかないから」
「誰にでもできることじゃない。それにあの二人だって、今のままでも充分クリスのことを大事にしているのは、分かってるだろ。……簡単に手放すようなことは言わないで欲しいし、して欲しくない」
弱くなる言葉に、今までの道のりがどれほどのものか想像がつかない。平坦なものでは決してなかっただろう。――強さに自信があるように見えていたが、好戦的な態度は自分を確かめるような自傷行為に思えた。
「分かった、善処しよう」
短くも簡単な返事に、理解しているのか不安になり顔を上げた。すぐ近くで顔が合えば、一瞬気まずげに逸らされた。
「すぐに改善できるとは思わないでくれ。……私はそんなに器用じゃない」
「確かにそうか。――なら、これから先も俺が見てるから」
こちらの宣言に言葉を詰まらせていたが、互いに目が合えば笑みがこぼれた。
「それは困ったな。早めに監視が取れるよう、努力しないといけないな」
気取ったものでも、取り繕ったものでもない穏やかさで笑った青色の瞳がこちらを映していた。ずっと、この時間が続けばいいのに――。詰まる想いが後ろ髪を引くが、今はこの笑顔が見れただけでも充分だと自分に言い聞かせた。
「……今朝ティアラが心配していた。アイベルたちもみんながクリスのことを心配してくれているんだ。身体に異常はないのか?」
「不便はあるが、この通りだ。そんなに心配しなくてもいい」
「……詳しくは教えてくれないのか」
自分の手を胸に当て、アイベルたちの前でしていたようなあっけらかんとした言い方をするので、不安になった。
「詳しくと言っても、私もよく分からないんだ。今の私は自前の霊力が扱える程度なのと、少しの権能が働いているくらいか。――周囲を察知する能力が方天の力だ」
エリーチェと似たようなことを言うので、それ以上のことは本当に分からないのかもしれない。元気な姿を見せてくれているだけでも、良かったと言うべきかもしれない。
「そうか。あと、二百余名の民が目覚めないと聞いたが……」
「彼らのことは案じているが、必ず目覚めさせる。今はつらいだろうが、必ず皆を助けるつもりだし、そのように皆が動いている。ここで失踪した者達も同様だ。――これ以上誰も失わせはしない」
真剣な眼差しに変われば、頼もしいクリスが戻って来た。――気安い関係も心地良いが、誰も寄せ付けない強さを持つこのクリスのことも好きだと、自覚が胸を締め付けた。
「私の身に受けたこれも、時間は掛かるだろうが必ず解いてみよう。……母たちの晴れ姿は見てみたいからな」
小さく本音を出して貰えたことに嬉しさが募り、もう一度両手で抱きしめた。
「それから、部屋の外にエミリオとお前たち侍従たちがまだいる。……もしかして、謝った方がいいか?」
「エミリオもいるのか――。俺が怒っていたから、不安に思ったのかもしれない」
アイベルはいるだろうと思ったが、弟たちもいるとは――。休むよう勧めていただろうが、離れなかったということだろう。
「なら今夜は一緒にいてやればいい。お前に甘えたがっていただろ」
「――あぁ、そうだな。三人にも」
名残惜しさもあったが、さすがに廊下に長々と三人を居させるのも申し訳なくなり、友人から離れ指を鳴らした。この部屋の仕掛けを解除すれば、遠くなっていた音が戻り元の隠された秘密に戻る。
席を立ち、緩んだ気を引き締めればクリスは『フィフス』に戻り、感情任せに振る舞った兄ではなく、いつもの自分を扉の向こうにいる三人の前に見せた。
◆◆◆◆◆
『さっきは、……ひどいこと言ってごめん』
ハルトの大きな手になだめすかされ、ふたりの涙も落ち着いたときに顔を拭われるクリスへと言った。
『だいじょうぶだよ』
『いたくなかった?』
『いたかったけど、もうへいき』
叩いてしまったところだろうか、手の甲をこちらに見せながらいつもの笑顔に戻ったクリスにもう一度謝った。あんなことを言ってしまったのに、姉兄や父たち家族のように許してくれたことに安心した。
『ちゃんと自分たちで仲直りできてご立派ですね。明日ここに来るおふたりもよーく伝えておかなきゃですね』
『『ふたり?』』
ハルトの手が二人の頭に載せられながら、声が揃えば互いに顔を見合わせハルトを見た。
『えぇ、セーレとグライリヒさんはクリスさんとディアスさんのお父さまですけど、あのお二人はお友だちなんですよ』
『セーレが……?』
良く知る人の名にもう一度クリスを見た。――ずっと父や自分たちの側にいる人だから気付かなかったが、クリスの髪色がセーレと同じだ。あまりにも近くにいたから、セーレに家族がいたなんて考えたこともなかった。
『ケンカされることもありますが、お二人みたいに仲が良いんです。お揃いですね』
『……ディアスはクリスの友だちなの?』
クリスの疑問にハルトの優しい眼差しが崩れ、数度まばたきをしていた。
『僕はそうだと思っていましたが……、ディアスさんはどうですか?』
友だち――、クリスにはここにたくさんいたが、自分にはないものだった。あのたくさんの『友だち』の中に自分がいてもいいのだろうか。
落ち着かなくなる心から逃げるように視線を彷徨わせれば、クリスが膝を近付けた。
『クリスのお友だちになってくれませんか』
部屋の中なのに、きらきらと輝く明るい夜空がそこにあるようだった。さきほどハルトと行った空中庭園よりも暖かく、触れることができそうな近さに手を伸ばしてみる。
『……うん。クリスもおれの友だちになってくれる?』
伸ばした手を両手で掴まれると、満天の笑顔に変わった――。
『うん! よろしくねディアス!』
クリスの弾む声のせいか、泡のように湧き上がる何かが心を満たしていく。満ちるなにかが熱くてどうしてしまったのかと少しだけぼうっとした。――でも目の前でハルトと、喜ぶ友だちの温度が伝わってきたのかもと思えば、嬉しい気持ちでいっぱいになっていった。