73.『秋霖』に響く歌声⑧
今朝と変わらぬ雨足のせいか、一層暗さを感じるピオニール城が見えてきた。
学園から出たところにあるので、校内に比べればこの辺りはずっと静かだ。どこよりも重い雰囲気に包まれているため、学生がここに気安く近付くことはなく、警備で立つ兵士の姿の他は全くなかった。
「相変わらずここは暗いな。もっと光量を増やせば良いのに」
「威厳が無くなっちゃうから嫌なんじゃない? 特にゾフィはそういうことに拘るからねぇ」
先日は叔父と姉弟たちと立ち寄ったが、共に連れ立つ人が変われば印象も一気に変わるらしい。重苦しくて苦手だと思っていたが、敢えてだったのか。
「なるほどな。ゾフィの拘りは強いから、誰が口を出そうともあれだけは治るまい。諦めるか」
くすりと笑う母に、道中もこのような話をしてくれたおかげで、三人の緊張が徐々に解けていった。
ふわりと近付くエリーチェが、好奇心に満ちた目を母に向けていた。
「あの、王妃様はティアラ様と仲が良いんですか?」
「学生の頃からの付き合いだ。陛下に、――夫のグライリヒに誘われて、長期休暇の際に聖国へ訪れたときに知り合った。ハインハルトの元で働いておったが、聖都のことは誰よりも詳しくてな。街をよく案内してもらったものだ」
「そうなのですか――?」
両親共に学生の頃聖国へ行ったことがあるという話は知っていたが、街を案内してもらったと言う話に思わず自分のことを重ねた。街歩きは慣れていると聞いていたが、ティアラの影響もあったのではないだろうか。
「あぁ、聖都で知らない者はいないのではと思うほど、あやつは顔が広くてな。――最初はただの余暇としてグライリヒもお忍びで聖国に行ってたそうだが、民の暮らしやあり方については聖国で学び、ティアラに教わったようなものだと言っていた」
「一番最初の頃、お忍びだって言うのにたまにぽろっと王家の出だって暴露してね。でも全然誰にも相手にされなくて面白かったなぁ〜。王子って肩書きがないと、こうも扱いが違うのかと随分と打ちのめされてたね」
ヴァイスが懐かしそうに言えば、母も懐かしそうな眼差しで笑っていた。
打ちのめされる――? どうにも父のそんな姿が想像できずにいると、ヴァイスと目が合った。
「国を出なければ誰もに愛され、大事にされる王子様でいられたけど、聖都ではなんでもないただの『グラン』だ。当たり前に持っていたと思っていたものは全部、女王陛下や周囲の人に与えられたものでしかなかっただけのこと。――――王であろうと庶民であろうと人である以上、そこに違いはないんだってね。グライリヒ陛下は人の本質に目を向け、大事にする人なんだって僕は思ったけどね」
「そこが陛下の良いところだ。お前なら分かるだろ、ディアス」
伴う母には、信頼と慈愛に満ちた暖かい眼差しを向けられた。ここでは横暴な過去の話も聞くし少々面倒な性格であると思っているが、自分たちに向けられるものはいつだって変わらないものだ。
「――存じております」
左腕のブレスレットにそっと触れた。これは姉弟の絆でもあるが、父と母あってのもの――。父のことは敬愛しているし、家族のことを大事にしたいという形でもある。
だが、今朝のティアラの言葉が思い出され心を揺らした。
このブレスレットが何故、クリスに傷つけられるというのか――――。
なにか、――遠くへ押しやっていた記憶と共に、暗澹とした感情が湧いて来そうになるが、もう一度蓋をし、不安ごと深く記憶の底へと押しやった。
「ここでやんちゃしてたのも事実だけどね〜」
「言ってやるな。血統や伝統を重んじてばかりで、自分の頭で考えぬ者たちを払うための振る舞いだったんだ。その上で真に腹を割って話しをし、頼れる者を探すのは容易なことではないからな」
ヴァイスの軽口と、父の横暴を庇う母のやり取りに気を持ち直していると、もう少しで辿り着くであろう祖母の執務室が近付いてくる。
「ティアラにもずっと陛下は正体を秘密にしていたんだが、学生最後の休みで会った時に素性を明かしたそうだ。……10年も秘密にしていたんだ、また軽口を言ってると取り合ってもらえなかったと笑っていた。――だから聖都ではグライリヒの戴冠の知らせにだいぶ混乱したらしいな」
その時のことを思い出して母が笑っていると、ヴァイスも感慨深そうに頷いている。
「毎年ぶらぶらと聖都に遊びに来ていた人が、隣国の王子だなんて誰も思ってもなかったからねぇ。義姉さんもグランにはいろいろやらかしたから、ラウルスには絶対に行けないってしばらく落ち込んでたらしいよ」
「なに? いろいろって、……ティアラは何をしたんだ」
「え〜? それ僕に聞いちゃう〜? ……もちろん口には出来ないアレやコレに決まってるじゃないか」
「それはスキャンダルだなっ――! あとであの二人に問い詰めねばなるまい」
面白がる二人にもうついていけなくなるが、父の過去が今の『フィフス』と似ている。――身分を隠し、ただの人として過ごすのはどんな感じなのだろう。
まして今は方天としての力がないのであればクリスも、『初めて出会ったとき』に近いはずだ。
ちらりと軽口を叩き合う母とヴァイスを見た。――――父の経験が今の国の在り方と人に添った政治を成しているというのであれば、誰かがクリスにそういう経験を積ませたいと期待でもしているのだろうか。
祖母の執務室が見えてくると、扉の前に叔父と二人の姉と弟、そしてミラが立っており、母たちの到来に気付けば姉が手を振っていた。
「本当にディアスのところにも行ってたの? 急に現れるから恥ずかしかったのよ。……もう勘弁してよね」
「子どもたちの様子を見にきて何が悪い。本当は陛下も来たがっていたんだが、セーレに止められてな。代わりに見に来てやったというわけだ」
呆れる姉に、自慢そうに母は言葉を返した。
「……だから代わりに参観しに来たのか。急すぎるし、彼らにも立場があるんですよ。勝手にするのもほどほどにしてあげて下さい……」
「ヨアヒムまで。いつも子どもたちと顔を合わせているお前と違って、連絡のひとつも寄越さない子らをせっつきに来たって、しようがないというものだろ」
恨めしそうにアストリッドとディアスを順番に母が見てきたため、なんの言葉も返せず、その視線を躱わすことしかできなかった。
「だって……、毎日お伝えすべきことなんてないし、私たちだって忙しいのよ。ねぇ?」
姉に相槌を求められ、頷こうとした、――が途中でやめる。
「今回の舞踏会は姉上が運営に関わっているのですか?」
「えっ。――まぁ、そうね。レティシアと一緒にやろうと思って」
姉がすぐ隣に立っていた従姉の腕を絡めていた。特に変わりのないレティシアと比べて、何か隠し事をしている姉に気付く。
「わざわざどうして、こんな直前に予定を――」
「その話はまた後でにしましょう。おばあ様がお待ちだし、お昼の時間がなくなってしまうわ」
目を逸らしながら笑顔でごまかす姉。ひとまずと促されると、控えていた兵士たちが執務室の扉を開けた。
二人の姉たちがなにか碌でもないことを思いついたのだろう。厄介事がまだあることを知り、小さくため息をついた。
◆◆◆◆◆
『明日ディアスのパパが来るんだよね』
侍女たちに就寝の準備を整えてもらっていると、ぬいぐるみを抱えたクリスがやって来た。
『ディアスのパパはどんなひとなの?』
小走りで傍に来れば興味をこらえきれないようで、昼間遊んでいたときよりも元気で、ずっと距離が近かった。
ご機嫌なクリスに抱きつぶされているぬいぐるみは彼女のお気に入りで、夜になれば一緒にここに来ていた。いつもならばあばやじいじ、ハルトの誰かが一緒だが珍しくひとりだ。
上機嫌なクリスとは違い、すぐに父のことを言葉に出来ずにいた。
目線を下に落としどうしようと思案していると、クリスは落ち着かないのか、ベッドに勢いよく乗った。腕の中のぬいぐるみを横に並べ、頬杖をつきながら足を揺らし、窓の外の泳ぐ空を眺めはじめた。
『……やさしい人だよ』
侍女たちがいなくなれば、やっと一言だけ言葉が出てきた。
長らく会っていない父と、……ほかのみんなはもう自分のことを忘れてしまっただろうか。
そうだったら、いいのに――。
◆◆◆◆◆
つい先日も訪れた場所だが、祖母の執務室を訪ねることはやはり緊張する。
部屋の最奥に厳しい眼差しをした祖母が椅子に座り、今朝あったばかりのティアラとガレリオの二人が机を挟んだ位置に立っていた。
ゾフィや執事たちもいるが、フィフスの姿はなく、ここにも来ていないようだった。
「ティアラ――! お前が来ていると聞きつけて迎えにきたぞ」
エスコートしていた母が離れ、早足に青い髪の友人の元へと向かった。再会の喜びを両手に託し、ブンブンとティアラの両手を振っている。
「…………もしかしてクローディーヌ? そんな格好しているから誰だか分からなかったわ……。面倒をかけてしまってごめんなさい」
「いいとも。こうして古い友人に会えるだなんて、とんだサプライズだ。久し振りに胸が高なったぞ」
再開を喜ぶ母と、憂愁に沈むティアラとでなんだか対照的だ。
「お友だちですか? 歓迎ムードじゃないですか。いやー、よかったよかった」
「その髪と瞳の色……、もしやそなたが東方軍第三師団のガレリオ・ブランディか? 噂は聞いている。このように若い方だとは思わなんだ」
「お初にお目にかかります。こんなお美しい方に名前を覚えられるだなんて光栄だな〜」
近付く母と握手を交わすと、照れくさそうにガレリオの顔が緩んでいた。
「やるな、ティアラ。こんな若い愛人とよろしくやっていたか」
「違うわよ、クローディーヌ。ガレリオとはそんな関係じゃないんだから」
「皆まで言わずとも良い――。王のせいで、なかなか帰れない旦那に愛想を尽かさぬお前のことはよぅく知っている。……だが、セーレのいる王都でなくピオニールに居るのは、誰かとよろしくやっていたからなんだろ」
自信満々な母にティアラが呆れていた。事情を知らない従姉妹たちは目の前のゴシップに目を輝かせているが、リタとエリーチェ、そしてエミリオは母の勢いにただ呆気に取られている。
「もう……。彼はそんな人じゃないわ」
「ほう……? なら他にいるのか。第三師団は優秀ながら若い衆が多いと聞く。――――まさか、全員か?」
自分で発した言葉に驚きを隠せない母の暴走を見かね、叔父が止めに入った。
久し振りに会った友人に舞い上がっているのだろうが、荒ぶる母の姿にアストリッドもディアスも立つ瀬も遣る瀬もなくなっていった。
「そろそろやめませんか。……陛下も何か言ってやって下さい」
母の性格を知っているはずの祖母は止める素振りがなく、冷然と二人のやり取りを見ているようだった。もしかしたら母の言動に呆れて、何も言う気がないのかもしれない。
「……訂正して下さい」
唐突に低い声がした。聞き覚えのない低さと冷たさだ。――――右肩を掴まれ驚く母がガレリオを見ていた。
「ちょっと、ガレリオ……!」
「お言葉ですが、俺も部下たちも誰もこの人に手を出すようなこと、天地神明にかけ決して致しません」
ティアラが名を呼ぶが、あまりにも冷たい声なので、ガレリオの姿をした別のなにかがいるのではないかと思うほどだった。
何度もここで見た人の良い笑顔も軽口もない。一切の表情が消え、雰囲気も違う彼の変化に誰も動けず、部屋の温度も下がったような気すらして緊張が走った。
「――申し訳ない。この方の悪い癖なんだ」
「彼女はジョークのつもりで言っただけで、本気で言ってる訳じゃないの。許してあげて――」
慌てる叔父とティアラがガレリオを止めようとしているが、彼はじっと母を見てから二人を見た。
「ジョーク? ……世の中言っていいことと、悪いことがあるんですよ。どこの誰であろうと、口にした言葉には責任を持つべきでしょう」
いつもなら、のどかな晴天のような色をしたガレリオの目だが、今は鋭く誰も寄せ付けない冷たさを帯びていた。
怒っているのだろう。今回はやりすぎた母が悪いし、彼の気分を害させてしまったのはこちらだ。姉が母たちの元へ行こうと動いたので追随する。
「ガレリオ、その辺にしておきましょう? ご友人同士で軽口を言うこともあるでしょ」
「ミラ、俺はそんなことを言ってるんじゃないんですよ。――――いいですか? そんな恐ろしい冗談、俺の前だったからいいですけど、ひとつ間違えれば女王陛下でもどうすることも出来ないくらい大惨事になってしまうんですからね」
「私を巻き込むな」
やっと口を開いた祖母はただ冷たく、執務椅子に背を預けているだけだった。
「この方をどこのどなたと心得ているか分かりませんが、これだけは覚えておいてください――」
ティアラのことはここの誰もが知っていることだが、母の肩から手を離したガレリオが目を瞑り、深く呼吸を整えている。――彼の一挙手一投足が何を伝えるのかと皆に固唾を飲ませ、誰もが彼に注目した。
「この方は、――東方天クリス様のお母様です」
言い聞かせるようにゆっくりとした言葉で伝えられたのは、誰もが知っている話だった。渦中のティアラもガレリオが何をしたいのか分からないようで、困っているようだった。
「世界の礎を担う四つの神の一柱、蒼龍神に選ばれ神の代行者としての責を請け負う、我々が仕えるべき方であり聖国になくてはならない存在……。四方天がひとり、東方天クリス様――。……その方の、母親なんですよ?」
「……存じているが、確かに東方天に仕える貴殿らに対し無礼な話だったな。……勝手を言って申し訳なかった」
一周回ってもやはり周知の話しだ。
母も冷静になったようでガレリオとティアラに謝っているが、彼は母を静止するように手の平を突き出した。
「神の力を与えられながらも決して驕らず、聖国最強の名をほしいままにしながら公明正大であり、人々に正しくあれと罪を憎み、邪なるを許さず、正道を説き道を常に道を示す方です。――そんな方が唯一、お身内に対して容赦ないのはご存知ですか」
ティアラを両の掌で示しながら説明した。――容赦ないとは、今朝のようなことだろうか。
『フィフス』としての振る舞いだと思っていたが――。普段からあのようにティアラたちと接していると思えず、彼の話に戸惑う。
部屋の後方にいるエリーチェを振り返り見てみた。――どうにもこの空気を何とも思ってないようで、緊張感もなにもない表情を浮かべているだけだった。何を考えているのか全く分からない。
「万が一、……万々が一ですよ? 俺がこの方に手を出したところを想像してください。俺の不始末の責任を、第三師団に属する部下たちが受けることになります。……全員問答無用で半殺しと蘇生を気が済むまで繰り返され、つらい責め苦に逃げようとでもすれば、神が代行者に与えた力のひとつ、『神剣』で街ごと斬りつける。周囲の人々を無情にも巻き込みながら、行く手を全て封じた上でやっぱり半殺しにされて……。そのあと全員砂海に首から下を埋められ、ジリジリと部下たちが焼けるところを見せつけながら『少しは反省したか?』――と、一言だけ聞いてくるような方ですよ」
ガレリオの言葉が終われば重い静寂が支配する。――叔父が青ざめ、母たちが息を飲んでいる。
容赦ないのは周囲に対してだった。
だが、そんなことをするだろうか――。今朝聞いた聖国でのクリスの様子や、今も浮かべているエリーチェの表情から、どうにも今の話が結びつきそうになかった。
「……そ、そんなことしないわよ!」
「はいっ、すぐ否定しませんでしたー。ためらった分だけ若干そう思ってるって証拠ですぅー」
「思ってないし、クリスはそんなことしないから。ちょっと……、みんな信じないで」
「女王様はどう思いますか? あの人ならやりますよね?」
「さぁ、どうだか」
何故か祖母に同意を求めるガレリオに、つれない返事をしている。よく見ればなにか書類に目を通しており、目の前で繰り広げられている出来事に少しも関心がないようだった。
「ミラ、――玄家の方から見ても我らが東方天様は過激だなーって、そう思う時がありますよね?」
「……そ、そうね! ティアラとセーレが絡むと厄介だって、みんな知っていることだわ。そうでしょ二人ともっ!」
急に話題を振られたからか、ミラが慌ただしく同意し、更なる同意をエリーチェとリタに求めていた。
「そこまでやらないと思うけど」
「えー……、やるでしょアイツなら」
若干ガレリオの意見を支持する数が多くなるが、この空気はどうしたものだろうか。祖母の後ろで立つゾフィはいつも通り穏やかに微笑み、叔父や母は戸惑いで顔色が悪く、姉弟たちはただ困惑している。
「っふ、っくく、……ちょっとそれって、ガレリオくんはされたことがあるの……?」
ヴァイスだけが笑いのツボに入っているようで、震える声で確認していた。
「ここに五体満足でいる時点で、俺も部下もそんな大罪を犯していないということです。――でもですね、ここまで護衛する上で俺らがどんだけ圧を掛けられているか想像出来ますか? 先日ヴァイス様は、俺たちの元に墓地の購入案内なんて持ってくるし」
「僕がクリス君に協力できることなんて、微々たるものだからね。出来ることをしたまでさ」
「ヴァイスまで……。どうしてみんな、そんな協力ばかりするのかしら」
ティアラはジト目で大人しくなったヴァイスを睨むも、当の本人はやれやれと謙遜していた。
ガレリオのオーバーな悲しみ方と軽快な話し方に、いつもの態度に戻ってきていることに気付いた。――少なくともここ数日は本人と仲良くやっていたし、小突かれるくらいのやり取りを見ていた。かなり話を盛っているのではないだろうか。
「日々慣れない現場で、不安とストレスに苛まながらも、我々は与えられた任務をこなしていたんです。……奥方に何かあれば、死よりもつらい暴虐が待ち構えていると思うとあまりの恐ろしさに夜も眠れず、食事も喉を通らない始末――。……俺たちがどれだけの重圧を抱えていたか分かりますか?」
「ちゃんとみんな食事もとってたし、ちゃんと休んでいたじゃない。いたずらに怖がらせるのはやめてちょうだい」
ひたすら困惑しているクローディーヌを庇うようにティアラが二人の間に入り、ガレリオの止まらぬ大仰な話を止めようとしていた。
暴走気味だった母を、言外に諫めるための話なのだろうか。姉と目を見合わせれば、同じような事を思っているようで黙っているつもりのようだった。
ガレリオが物憂げに息をつくと、声を抑えた。
「じゃあ、仮にですよ? ティアラ様やセーレ様によからぬ輩が近付いたけど、お二人の立場を鑑みてあの方が我慢していたとしますよ。……そんな状況を蒼家の当代様が、見過ごされるとお思いですか?」
フィフスの兄でもあると、何度か話に聞いていた人物だ。――祖母もその彼を警戒しているからか、書類を見ていた手を止め顔を上げた。
「大事な兄弟の不遇を想えば、きっとクリス様に言いますよ、『何も我慢することはない』ってね。――当代様が命じてそいつを捕えそいつの故郷まで連れて行き、『神威』で大地ごと大海の底に沈め、土地も人も何もかもを巻き込みながら水と共に撹拌して更地にしたあと一から開墾させるんです。そこで採れた農作物をそいつに食わせながら、『少しは反省したかい?』って、――――あの当代様ならやりかねません」
「奴ならするな」
祖母の間髪入れぬ同意に、深くガレリオだけが頷いている。
「え……? そんな恐ろしいことをする人なの……?」
姉が困惑しつつエリーチェたちに振り返っていると、エリーチェは眉間に皺を寄せ答えに窮しているようだが、リタが感慨にふけながら深く頷いている。――荒唐無稽な話にも拘らず否定が出ないということは、今の話は”是”なのか。
叔父も状況を理解したのか、慌て始めた。――クリスの悪名の大半は、その『兄』のせいではないのか。
「……そ、そんなひどいこと、あの子たちはしないわよ」
「気まずげに目を逸らしても、弱々しく否定しても、全く説得力がないですねー。心の奥底ではやるかもなって思ってる証拠ですぅー。血も涙も人の心もない当代様のことだから、お二人になにかあればここぞとばかりに、陰湿な手を使ってこちらに攻め入ってきますよ」
人差し指をティアラに突きつけながら、ガレリオが追い打ちをかけている。
刹那、大きな音が床を揺らし、強い光が窓の外に現れた――。
「きゃっ」
「なんだ――っ!」
叔父の声と急な出来事に小さく声を上げた姉たちの悲鳴に、すぐ側の姉の手を取り支えた。
「落雷……?」
雷が落ちたらしい。窓の外にある木のひとつに当たったらしく、白い煙を登らせながら雨を浴びているのが静かに見えた。
部屋にいた執事や兵士たちが庇うように窓に向かって立っているが、ガレリオとティアラ、祖母やゾフィは動じていないようだった。
「お分かりいただけましたでしょう。この人らに何かあれば、どこであろうと皆あんな風になりますからね。変な噂になるようなことを軽々しく口にするようなことは本当にやめてください」
またティアラを手の平で示すガレリオが、淡々と母に伝えた。
雨雲がずっと空を覆っているが、雷が鳴る予兆なども見えず、薄ら明るい灰色の空が窓の外に見えるだけだ。
だからこそ、不自然に近くに落ちた雷の異様さが際立った。
「え……? あれをお前の娘が……? 聖国にいるはずでは……?」
「違うわよ、クローディーヌ。うちの子なら一本だけ雷を落とすなんてなんて、せせこましいことしないもの」
「遊びは仕舞だ。――ゾフィ、外の状況を調べておけよ」
短い命を侍女に伝えれば、黒く大きな革張りの椅子からゆっくりと祖母が立ち上がった。
「いいかクローディーヌ、戻ったらよくよくあの阿呆に伝えておけ。災厄を二人も招こうだなんて馬鹿なことは考えるなと。――ティアラ・ソリュードがここに連れられて来たのは、小癪な蒼の当代の企みのひとつだ。ゆめゆめ浮かれるな」
「……企み?」
段のある場から広く皆を見下ろす祖母の声と瞳には、いつもの苛烈さが含まれていた。今までガレリオの独壇場だったこの場の空気を制し、誰よりも高い位置から冷たく母の事を見下ろしている。
「東方天にも来て欲しいなど、そんな寝言を王が言ったことを私が知らないとでも? ――そんな話を聞いた小僧が、誤解を生むようティアラ・ソリュードをこの連中に連れさせただけだ。コイツを王都で披露でもしてみろ。……此度の締結式に奴も来ると思う者が出てもおかしくはない。若造共が泣く泣く連れて来たというのも納得できる話だ」
父が、クリスも締結式に参加することを望んでいた――。思わぬ話に舞い上がるも、祖母はそれを拒んでいる。
ティアラがここに居る理由と、今までのガレリオの振る舞いを思えば、全てはこの話をするための筋書きだったのだろうか――。なんだかあまりの無力さに眩暈がするようだった。
「――良いではないですか、方天のひとりやふたり。数が増えようとも彼が大きな存在であることは変わりませんし、我が国は今も昔も世話になっている」
急に肩を引き寄せられた。――自分よりも低い母の腕が肩に回されたようだった。
「それに息子も以前世話になったし、お前もできたら会いたいだろ? 日頃王にこき使われているセーレの事もあるし、私からも直接礼を言いたいと思っていたんだ。拝謁の機会があればそれに越したことはないと、私も王も思って口にしただけのこと」
「日和るのは頭の中だけにしておけ。元は、この国に参じるのはひとりだとこの私が決めたこと。――それを戯言で勝手に塗り替えるな」
はぁ、と深く母がため息を吐き、肩に回していた腕を離した。
「……なるほど母上は東方天に来て欲しくないのだな。よほどやましいものがあるらしい」
「そんなものはない。用は済んだならとっとと王城へ帰るがいい。――ヨアヒム、若造、お前たちはここに残れ」
離れた母がティアラに耳打ちしていたが、別に声をひそめる訳ではなかったので、祖母にあっけなく一蹴された。叔父とガレリオを呼べば、こちらに関心を失くしたようで祖母はなにか書類を叔父に渡していた。
仕事の話だろうか、近付き難い空気が一層濃くなったため、母を筆頭に執務室を後にした――。
「妃殿下はこれからどうするんだい? 皆でお昼に行くのかな」
「……悪いが食欲が失せてしまった。食事は夜にしよう。誘ったのにすまなんだ。夜は皆で王城へ帰ってきてくれるだろ?」
「今夜は先約があるの。もうすぐ舞踏会だから、その準備と留学生たちに手ほどきしてあげないと」
「先程もディアスが言ってたな。何か面白いこともでやるのか?」
「別に普通よ。――ここに来てたった数日、参加するにも準備期間がない彼らのために、サポートしてあげなくては不親切でしょう?」
笑顔で母の興味を退けようとする姉に、レティシアがくすりと笑っていた。
「彼女たちの衣装の準備もまだだし、今日は授業が終わったらアシェンプテルに連れて行こうと話していたの。一から見立ててあげなくてはだから、今日は長丁場になるかもしれませんわ」
「ほう、それは楽しい準備になりそうだな。ならディアスとエミリオは帰って来てくれるだろ」
「俺も今日は予定があるので――」
ティアラが両手を合わせ小さく詫びているのが、母の後ろに見えた。今朝ティアラとも約束したことだし、毎夜の『練習』の約束がある。断りの言葉に大きくショックを受ける母が目に入っているが、こればかりは先約のため譲れなかった。
「ティアラが来ているのにか……?」
「……たしかに以前は帰っておりましたが、俺にも予定があるのでしばらくは帰れません」
「なら、エミリオは? 帰って来るだろ?」
「兄さまも姉さまもお残りになるなら、僕も残ります」
はにかむ弟が母ににべもなく伝えていた。
「お前まで――? ……………………これが親離れか……」
哀愁に満ちた背をこちらに向け、ティアラの肩を掴んだ。立つのもようやくといった衰弱ぶりに少々心が痛んだが、姉たちの言う通り、舞踏会についての準備も行わないといけない。『フィフス』には特に準備のために取る時間が少ないことを思えば、諸々を教えるための時間も必要だ。
「仕方ない……。このまま二人で帰ろうティアラ」
「帰ったら話を聞いてあげるわ。元気出して」
よろよろと覚束ない足取りで先を行こうとする母が、急に足を止めた。
「――そういえばエミリオ、長くかかったが週末にココとモモがこの城に戻れるそうだ」
「本当ですか! やっと帰って来るんですね。しつけをするためだって言っていましたが」
可愛がっていた愛犬の戻りを伝えられ、喜ぶ弟の頭を母は撫でていた。――王都へ連れて行かれたのは約二、三週間ほど前だったろうか。
「あまり成果は上がらかなったそうだ。……やはり元の魔狼としての性格なのだろう。子どもらしく好奇心旺盛で遊びたいばかりで、原種と同じで従順にはならないらしい。皆お手上げだった」
ここへ来て二年ほどだが、今までエミリオの好きにさせていたのに、何故か急に訓練させることになって連れて行かれてしまった。そのため随分エミリオも寂しくしていたのだが、嬉しい知らせにいつになくはしゃいでいる。微笑ましい眼差しが弟に集中した。
転移装置はここピオニール城にある。母たちと共に歩ける時間は短く、分かれるまでの間久しぶりの団欒を楽しんだ。ヴァイスが母とティアラを見送りに付いて行き、ミラは締結式実行委員との会談があるようで、案内と共に仕事へ戻っていった。
威厳で作られたピオニール城を姉弟たちと二人の留学生と後にすれば、学園の賑やかさに迎え入れられる。
それにしても、――母に会いたいだろうと尋ねられると思わなかった。
もし頷いたら、何か変わっていただろうか――。