8.『再会』と『新来』③
-回想中-
ベルベット調の柔らかな座席に腰を据えると、どっと疲労感が滲み出た。
先ほどまでいた非日常空間からよく知る普段の生活圏に帰ってこれたからだろう。明るく暖かな場所に心底ほっとした。
早々に姿を消していた左翼が中にいるかと予想していたが不在だった。束の間だがひとりになれたことに肩の力が抜けた。体重を預けている背面のクッションの柔らかさも心地よい。
開け放たれているドアの向こうで傘を畳み、フィフスの手を借りて中に乗り込もうとするヴィアスの姿が見える。それだけなら別に気にならないが、彼はフィフスの腰に腕を回し、中に入るよう促していた。雨に濡れる様子はないが、まさか歩いて向かうつもりだったのだろうか。
「どうぞお先に。」
「もー、君は本当に頑固だなぁ。こういう時くらい先に入ってていいのに。一応今回君は招かれてやってきたお客さまなんだから」
どちらが先に入るかで問答していただけのようだ。先に入ることを固辞しているようで、苦笑しながらヴァイスが入ると、続いてドアを閉めて続いて乗り込んだ。中に全員が入ったことを確認した御者の鞭をしならせる音が車内にまで届く。
正面には二人が並び、据わりが悪かったのか、居住まいを正したフィフスが膝にトランクを乗せて落ち着いたころ、ヴァイスが彼に身体を向け話し始めた。
「さっき気づいたけど、少し背が伸びた? ――ずばり、三センチくらい」
突然の指摘に一瞬動揺が見えたが、困ったように笑ってフィフスは答えた。――今までで一番自然な表情にも見えた。
「よくわかりましたね。相変わらずのご慧眼です。」
「君のことならなんでもわかるさ。――あんま喜んでいないところを見ると、身長を盛ってるんだね。足疲れないかい?」
余計な気遣いではないだろうか。
「お心遣い感謝します。ですがこの程度で不便になることなどありませんので。」
「そっかぁ。あまり頑張りすぎないでね」
また表情の読めない淡々とした調子に戻っている。――外にいたときとは違いヴァイスにからかうような調子はない。
「到着するまでに話したいことはたくさんあるんだけど、全部は無理だから大事なことだけ伝えるね。ねぇ、――僕のこと信用してくれる?」
室内のオレンジがかった光に照らされ、じっと赤紫色の瞳が青い瞳に注がれる。彼の気持ちを確認しているようだ。一拍程度だろうか、何一つ変わらない調子で返事が返る。
「ご随意に。ヴァイス卿のことは信用しております。」
躊躇いもせずこの男を信用するとすぐに言える気骨に感嘆すら覚える。それだけの信頼関係が彼らにあるのだろうか。
彼の解答に満足げな笑みを浮かべ、ヴァイスは姿勢を正すとようやくこちらに目を向けた。目が合い二ッと蠱惑的に笑う。
「許可がもらえたし殿下、紹介するね。――こちらは青龍商会から来たフィフスくん。『商会』と名乗っているけど、扱っているのは蒼家が持つ技能や技術、――蒼家の人間を使って、主に個人による依頼で調査や護衛、討伐とかといった困った人を助けるお仕事をしています。設立は間もないけど、聖国では名の知れた存在だよ。そして今回は陛下の依頼で遠路はるばる来てもらいました」
父の依頼で来ているということは賓客ではないか、と慌てて疲労で重くなった身体を正す。
「さっき会ったと思うけど、左翼くんもそう。――今回は二人でここ、『学園ピオーニル』でいくつか仕事をしてもらう予定さ。詳細はあとで説明するから、今は気にしないでいいよ」
真面目な紹介の中、当の本人は静かに目を閉じ傾聴しているようだった。
「以上建前でした。ここからが本題ね、――今回は特別に当代さまのお気に入りで、蒼家の中でも最も優秀な方を派遣してくれました。それがこちら」
掌を優雅に翻し、フィフスに向ける。
「第237代目東方天を務めておられる、クリスくんです」
「……」
(東、方天……?)
それに聞いたことのある名前だ。クリス――、『よくある名前』といえばそうだろう。少なくとも知っている人物とは違いすぎてどこにいるのか、向けられた掌の先を見てもわからなかった。
「ねぇ、その声変えるのってどうやってるの? 元の声を聴かせてくれないかな」
もう説明は終わりと言わんばかりに真面目モードをやめ、隣に座るフィフスに気安く話しかけている。黒髪短髪の少年は閉じてた目をゆっくりと開き、首元に手を伸ばすと閉じられてる縦襟部分を軽く引く。白い首筋に添えられた黒いチョーカーが現れた。非常にシンプルなデザインで、飾り気のない漆黒のリボンだ。それに指が触れる。
「これが声帯の振動を調整し、別の声に成りすましています。」
唐突に凛とした少女の声が馬車内に響く。一体だれの声だ――?
「へぇ~すごいね! それって誰の声にでもなれるの?」
「調整さえすればどのような声でも再現可能かと。ただ無用な混乱を招きかねないので推奨はしていません。」
「なるほどねぇ。あとその髪とかどうしたの? 地毛じゃないよね?」
「これはかつらです。地毛だと伸びた際に目立つので。――さすがに元の毛量だと納めるのが面倒だったので、多少は切りました。」
「え! 髪切っちゃったの? もったいないなぁ」
「皆がそう言うので、切ったのは10センチ程度です。またすぐ伸びるかと。」
「まーた短くなっちゃったかと焦ったよ。今や君のトレードマークだし短くするのはダメだよ絶対!」
「覚えておきます。――こちらの学園に着いてすぐにガレリオたちに命じて救援を要請したのですが、やはり伝わっていませんか?」
「聞いたよ~。ごめんね、街の治安は警邏隊の仕事なんだけど、ここ数年で連携が悪くてね……、前はこんなんじゃなかったんだけどなぁ」
「他にも近衛や警護隊もいると伺っていますが。」
「近衛隊が主に屋内の警備を、警護隊――こっちは三部隊あるんだけど、主に上流階級を中心とした警護を担当しているよ。こっちは今のところ問題ないかな~。ただ警邏隊とはやっぱりうまくはいってないねぇ」
「なるほど。」
「さっきもガレリオくんたちが会ってたけど、警邏隊の隊長をしている人がねぇ……、予想はしてたけどだいぶ失礼な態度取っちゃってたから、後で話聞いてあげてくれないかな」
「アイツらを連れてきて正解ということですね。――あと私より叔父上に気にかけていただけた方がアイツらは喜びます。叔父上のことを大層慕っておりますので。」
「おや、そうかい。そういってもらえるのは嬉しいな~。なら今度飲みに誘ってみようかな」
「万一調子に乗ってご迷惑をおかけした際はお知らせください。――ついでにこちらの葬儀についての案内を下さい。土葬が主流ですか?」
「ふふ、みんな無事に帰れるといいねぇ。――ところでディアスくん、だいぶ固まってるけど大丈夫?」
「…………え、あぁ」
名前を呼ばれるもうまく反応ができず、適当な相槌しか打てなかった。――目の前にいるのは一体――ヴァイスのことを叔父と呼んでいたなと、遅れて耳に届く。
「ところでさっきなんで殿下のこと疑ってたの? 嘘を言ってるかどうかなんて、君ならわかるでしょ」
先ほどのやりとりを思い出しのかくすくすと笑いながらヴァイスは隣の人物に聞く。
「――アレが大層目にかけていると聞いていたもので、余計な先入観がありました。勘違いをして申し訳なかった。」
屋内に灯る明かりに照らされたからだろうか、深い紺碧色になった双眸がじっとこちらを見つめた。
自分のことを話している、ということは分かるがいまだ何を話しているのか理解できなかった。――いや、この状況がわからなかった。
「だいぶ困惑させているようだな。……迷惑をかけるなと皆に言われていたので、早々に約束が果たせませんでした。」
「それ、だいぶストレートだけど、みんなはそこまで言ってないんじゃない?」
「――同じ意味では?」
「違うと思うよ~。というか他になにか聞いてるかな? さっき親睦は深められた?」
「少し話した程度なのでどうでしょう。あと叔父上がわざわざ内密に紹介した理由についてですが、――彼にファンサービスしろってことですか?」
「全然違うよ」
予想が外れたからか、真意を確かめるように自分に注がれていた双眸がヴァイスに移った。一瞬の沈黙が訪れ、耐えきれずに抑えるような笑い声が響く。
「ふっ、くくくッ……なんでそんな結論に? ディアスくんから何か言われたのかな」
「先ほど話している最中に東方天のファンだと確認したので、てっきりそういう目的で紹介されたのかと思いました。」
「え? ディアスくんがそんなこと言ったの? ふふっ、殿下が君のファンだったとは知らなかったなー。そしたら僕からサービスしてあげたのにっ」
心底面白がっている様子が癇に障り心がざわめく。――そのおかげか停止していた意識が戻ってきた。
小気味よく続く会話のやり取りから、ヴァイスの身内、ということだけは理解した。――いや、それはさっきも確認したはずだ。まだ頭が働かない。
「それ以外で内密にとなると、――女王絡みですか?」
「ちがうちがう。――やっぱり覚えていないかぁ。彼、君に会ったことあるんだよ」
「……私が聖都に着任してからオクタヴィア女王とテオドア王弟殿下が来訪したことは覚えていますが、王子が来たという話は記憶にないかと。それ以前のことであればシャナがわかるかもですが――」
「ハルトさんがいた頃の話だから、さすがにシャナ太子も知らないかな」
『ハルト』という名が出て、思わず話しかけられていた相手を見る。先ほどから泰然とした様子の人物からは特になにか変化がある訳ではなかったが、血の気が引くような悪寒が一気に走る。ヴァイスの話にも、こちらの様子も一切意に介した様子もなく、再びディアスに視線が注がれた。
「ハルトの知り合い? なるほど。」
悠揚とした動きでトランクに肘を乗せ手を手を組み、少し身を乗り出た。組まれた手がまるで祈るようだ。少しでも近くで話そうとしているのだろう、じっと目を合わせて言葉を紡ぐ。
「それは済まなかった。私がハインハルトを殺したようなものだ。――恨んでくれてかまわない。」
「――違うッ」
組まれた手を思わず両手で掴んだ。――ここでようやくこの人が誰なのか理解する。
彼女の名はクリス。セーレの娘でヴァイスの姪にあたる人物だ。先代の東方天ハインハルトが可愛がっていた少女でもあり、彼の死によって次の東方天に選ばれたその人である。
「貴方が悪いわけじゃない……」
ただ悲しかった。普通の少女がこうなってしまったことが。
「あれは事故で、君が悪いわけじゃないからね。――あと、その言い方は殿下が苦手だからやめようね。僕もそういうつもりで紹介したわけじゃないから誤解しないでほしいな」
「そうか、失態だ。重ねて失礼した。」
神色自若といった謝罪だ。きっとまた顔色はなにひとつ変わっていないのだろう。――自身に与えられた役目に忠実で、負わなくてもいい責任まで背負ってしまうほど真面目な人だ。直接見ていたわけじゃないが、今も話を聞く限り想像していた通りだと分かる。
はぁとわざとらしい大きなため息が聞こえる。
「まーた殿下を悲しませたね、クリスくん! 君にはしっかり責任を取ってもらおうか」
「……また?」
「君が怪我をしたって聞いて、心配しすぎて落ち込んでたんだよ。――ディアスくんは僕やセーレと同じで蒼家に行く前の君を知ってる、たったひとりの友だちだったからね」
「そうなのか……。すまない、その頃の記憶がなくて、お前のことがわからなかった。まさか知らない内に危ない目にまで合わせていたとは。」
知っていることとはいえ、直接本人から事実を伝えられることは結構きついものだと傷つく心に刺さる。
「そうだよ~。君が覚えてないから殿下は傷ついているし、いまだに友だちがいないし、無断で外出しちゃうし、危ない目にあうし、体調不良で授業も休みがちだし、成績は優秀だけど運動神経は悪いしと不幸の連続で……。きっと陛下の心中も穏やかじゃないだろうね。しくしく」
「……ヴァイス」
明らかに余計な話を交え始めたこの道化を放っておけなくなり、思わず顔を上げる。わざとらしくハンカチを目に当て、大仰に泣いているふりをしているが、隣にいるクリスはなぜか本気にしているようだ。
「そ、そんなに迷惑を――? 一体どうすれば……」
「本気にしないでくれ。――父もそんなこと思ってないし、どれも関係ない」
この質の悪い男の言うことをまともに受け取ってほしくないと思い、手中にある彼女の手を力強く握る。握られたからかこちらに顔を向けると、その顔は戸惑っているようだ。
「うんうん。だからね、殿下に挽回のチャンスをいただきましょう。――改めて友だちから始めるのはどうかな?」
思いがけない提案に思わず二人でヴァイスを見た。
「殿下のお許しがもらえるかわからないけど、もう一度友だちから始めて学園生活を味わってくれないかな。――だって君、休暇中でしょ? きちんと余暇は楽しまないと。せっかく遠路はるばるここまで来たのに仕事で終わる気?」
「…………さっき、長期休暇中だと言ってたが、仕事で来たというのは……」
恐る恐る尋ねる。小さく引っかかっていたが、休みを取っているはずの人間が仕事でここにいるということは矛盾しているのではないか。
「あぁ、――暇だから本家に来ている仕事でも引き受けようかと。」
「もーそういうとこだよ本当。ディアスくん、わかる? 無限に仕事しちゃうんだよこの子は。でも学園に興味がないわけでもないし、やってみたいこととか行ってみたい場所があっても仕事を優先しちゃうんだよね。だから学園のことを知ってて、一緒に付き合ってくれる友だちが必要なの。――ね、クリスくんの無礼を許してくれないかな?」
先ほどの調子のよさは鳴りを潜め、今は頼りになる目付け役の顔をしていた。
「長いことクリスくんのこと心配してくれてるけど、君が思ってるよりこの子は普通だよ。――子供の頃と違ってお互い分別もあるから、昔みたく『仲良しこよし』って訳にはいかないかもしれないけど、気が合う友だちくらいにはなれると思うんだよね」
ヴァイスの話に呆気に取られていると、握っていた手を強く掴み返された。
「長らく私のために心を痛めていてくれたことに感謝する。叔父上の言う通り許してもらえるのであれば、挽回のチャンスをもらえると嬉しい。」
真摯な眼差しを向けられて気圧される。いろいろと想像していなかったことが起こりすぎて、返事が出てこない。挽回などと大げさにされるとは思わなかったからだ。
「そそ。殿下にとってもクリスくんにとっても都合がいいしね。殿下が付き合ってくれるとこの子の仕事もしやすくなるから、僕からもぜひお願いたいなぁ」
ヴァイスの含みのある言い方に眉を顰めた。
「どういう意味だ――」
「あ、着いちゃった。――詳しいことはまた後にしよっか。フィフスくん、予定通りよろしくね」
いつの間にか目的地に到着していたようで、揺れが止まり馬車の中が静かになる。
「承知した。――王子、不躾ながら今すぐ聞いてほしい頼みがふたつある。」
掴んだ手を力強く引き寄せられ、なんとか最大限の誠意を見せようとしている様子が伝わる。
「私の本当の名と身分について決して口外しないこと、決して女扱いしないこと。この二つだけはどうか頼む。――すでに面倒に巻き込んでいるのに、さらなる面倒を押し付けて本当にすまない。――さきほどの件について、返事の如何はどうであれ受け入れる。だが、お前にかかる火の粉は必ず振り払うと約束しよう。」
ドアが開けられ、冷たい風が舞い込む。外に人がいるためか、今のやり取りがなかったかのようにその人物は立ち上がり颯爽と外に出た。校舎に向かって何人かの迎えの者たちが礼をして道を作っている。
その先に壁にもたれかかる様に立つ金髪に仮面の男が見え、フィフスと呼ばれたその人が彼に近付いて再会を果たしているようだった。
「さ、殿下。みんなが待ってるから行こうか」
いつもの場所に戻ってきたはずなのに、現実感だけがいまだ戻ってこない。ヴァイスに促されるまま外へと出ることにした。