69.『秋霖』に響く歌声④
過去の話です。
冒頭に自殺の表現が数行あります。
『ゼルディウスさま、ディアスさま、――どちらにいらっしゃいますかー』
誰かの呼ぶ声が、廻廊の先から聞こえてきた。
遊びが終わる時間だ。
侍女たちがこちらにやってくるのが見えれば、兄が耳打ちした。
『にげるぞっ、ディアス!』
弾んだ声に、後ろへ走り出した兄を追いかけた。
こちらが付いてきているか、声をかけ振り返りながら先を行く兄が走る。
城内の庭が見える道をずっと戻りながら、二人で笑い走れば、向かいから兵たちが行く手を塞いでしまった。
なんとか横を通り抜けようとするが、兵たちの手から逃げることはできなかった。
『お元気でなによりですが、廊下を走られては危ないですよ。お怪我でもされたら大変です』
膝をつき言い聞かせるよう諫めの声はどれも柔らかく、後ろを追いかける侍女たちが来るまで話をしていた。
兄と顔を見合わせれば互いに息が切れており、すぐに返事が出来なかったことがおかしくて、周りにいた兵たちも同じように笑っていた。
『ずっと遊ばれて、お疲れではありませんか? 彼女たちが休憩の準備をしています。休んでからまた続きをなさるのがよろしいかと』
息を整えながら彼らの話に頷けば、遅れて侍女が到着した。
話しをした兵たちに手を振りながら、侍女の案内に付いて行こうとしたとき、庭に何か大きなものが落ちてきた。
重いものが落ちる大きな音と共に現れたそれに、誰もが突然のことで動けずにいた。
あれは何だろう。
よくないものだという直感だけはあった。
近くに転がっているものは靴だろうか。見覚えがあった――。
『…………母さん?』
兄の声にもう一度見てみれば、見覚えのある色が母たちが着ていた服だと分かった。――それがふたつ、重なるようにそこにあった。
誰かが悲鳴を上げた。
兵たちが守るように囲えば、兄が隙間を縫い庭に近付こうとしていた。
この場から引き離そうとした誰かの腕の中で、遠ざかる場所で必死に叫ぶ兄の姿を、ただ見ていることしか出来なかった。
◆◆◆◆◆
庭に落ちたのは自分の母と、兄の母だった。
周りは慌ただしく、何人も代わる代わる様子を見に来ていたことは気付いていたけれど、返事をする気力もなかった。
散々走り回ったからだろうか。
身体が重い。
何もしたくない。
母の『どうして』と尋ねてくる声が、どこからともなく聞こえるばかり。
分からないけども、きっとこうなってしまった原因は自分にあるのだろう。
だって、そう母が尋ねてくるから――。
兄にも悪いことをしてしまった。
傍にいてくれたのに、味方でいてくれたのに、自分のせいで母を奪ってしまった。
母たちにも、悪いことをしてしまった。
自分がいなければ、きっとあのふたりは今でも仲良くしていたのではないだろうか。
母をおかしくしてしまった原因が、自分にある。
みんなに悪いことをしてしまった。
いったいどうしたらよかったのだろうか。
消えて、何もかもなかったことにしてしまいたかった――。
◆◆◆◆◆
誰が来ても返事はしなかった。
ここに自分はいないのだから、皆に忘れてもらいたかった。
明るい時間も暗い時間も、誰かが訪ねてきたけれど、誰の顔も見ることが出来なかった。
まだ身体は重く、ベッドからは動けない。
もしかしたらこのまま身体が溶けて、どこかへ消えてしまえるのではと考えていた。
『――むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいました』
誰かの声がした。
『おじいさんは森でまよってしまい、かえれなくなってしまいました』
ひとりの声が、知らない話をしている。
『森のおくには、せいれいたちがくらしていて、まいごになったおじいさんは、せいれいにききました。かえるみちが分かりません』
たどたどしい語り口が続いている。――姉でも兄でもない声だ。
『せいれいは言いました。お、お……、ばあば、ここはなんてよむの?』
『どこかしら、……そこはね、「おしえて」って読むのよ』
『ありがとう! ――せいれいは言いました。おしえてあげる代わりに、このおくのいずみへいってくれないか』
もうひとりいたらしく、元気に礼を言えばそのまま続きを読みだした。
一体誰なのかと気になって、声のする方へ頭を動かしてみた。
朗読していた人物はすぐ傍におり、目が合えば静かになった。
自分と同じくらいだろうか。――青い色の瞳と目が合った。陽光に当たる金の柔らかな色をした髪が肩下まで伸びており、白いフリルがついたワンピースを着ていた。
もしかして人形――? ぴたりと止まってしまった。だが大きな目を一際見開き、隣に立つ人を見てからもう一度こちらを見た。
『――おはよう』
静かだけどよく通る凛とした声だった。笑いもしないけれど、滑らかな声が人形ではないようだ。
隣に立つ人と同じ色の髪をしていた。そちらは紫色の瞳をしており、青い瞳の子に似ているようにも思えた。
どちらも知らない人だ。
彼女はベッドの上に絵本を置いており、どうやらここで読んでいるらしい。
それを閉じ、彼女は表紙を見せてくれた。
『この本知ってる? ようやく読めるようになったの』
『よかったら代わりに聞いてあげてくれないかしら。誰かに読み聞かせしたいみたいなの』
くすりと紫色の瞳をした人が笑えば、傍に居る子は絵本を手に、まっすぐこちらを見ていた。
二人ともどこかで見た宝石みたいな目をしてる。こんな色をした人がいるんだと、ぼんやり考えた。
ここにいない自分に許可を取る必要もないと思ったが、さっきの話がどうなるのか少しだけ気になって、小さく頷いた。
◆◆◆◆◆
本が読み終わると、その子はクリスという名だと教えられた。この子と同じブロンドに紫色の瞳を持つ女性と、もうひとり、赤銅色の髪を持った赤い瞳の男性がどうしてか自分の部屋に居る。
三人とも持っている色が違うことが不思議で、見慣れ場所なのにどこか別の場所までやって来たようだ。
『クリスには同い年のお友だちもいないし、ひとりっ子だから他の子と接したこともなくて。殿下、あなたが初めてなの。好きなだけ休んでいていいから、少しだけ付き合ってあげてくれないかしら』
紫色の女性が説明すると、クリスは他にも本を持ってきているようで、それをベッドまで運んできた。
『これと、これが好きな本。いつでも見ていいからね』
勝手に置かれる本を視界に入れてみるが、その文字を読む気力はない。
ぼんやりと眺めているとクリスは離れて行き、何か別のものを手にして持ってきた。
『こっちがハクロで、この子はコユキ』
両手で抱えてきたのはふたつのぬいぐるみだった。――女の子が持つには少々不釣り合いな、みどり色と黒色のドラゴンのぬいぐるみだ。
似たようなものがこの部屋にもあった気がする。
それらの名前を教えてくれると、本と同じようにベッドに置いていく。
『そんなに置いてしまったら彼が休めないんじゃないか。使うものだけにしておきなさい』
男性が優しい声で窘めれば、どれを下げるかと悩んでいるようで、ひとつひとつ手にして選んでいた。
まだ場所はあるし、いない人間のことなんて気にしなくていいのに。
ぼんやりする頭でそう思ったが、クリスは気にせず全部床に置くことにしたらしい。
ひとり忙しなくベッドの上のものを移動させているが、二人はそれを手伝う気はないようで静かに離れていった。
『次はこれをよんでもいい?』
気付くと移動は終えたようで、また隣に来ては一冊の本を見せてきた。――見覚えのないものに、彼女のものなのだろう。
好きにすればいいのにと思いながらも頷けば、またひとりで朗読を始めた。
◆◆◆◆◆
気付けば寝ていたらしく、目を開ければぬいぐるみが目の前に置かれていた。
反対側に寝返りを打てば、そちらにも別のぬいぐるみが置かれていた。
ぼんやりする頭で思い出せば、クリスが見せてきたものだったことを思い出す。
『――――――――』
『――――――――――――――――』
『――――』
誰かがこちらが起きたことに気付き声を掛けてきたが、何を言ってるのかよく分からなかった。
天蓋が閉じられ、部屋も薄暗いことから夜なのかもしれない。
もう一度朗読していた場所を見れば、そこには誰もいなかった。
傍に居るのは黒髪黒目で、侍女が三人いるだけだった。
ブロンドの女性も、赤銅色の男性もいない。
あれは夢だったのだろうか。
だったら、もう一度休めば夢の中で会えるだろうか――。
そう思いながら、もう一度目を閉じた。
◆◆◆◆◆
『お月さまに、いっぴきのうさぎがすんでいました。まいにちまいにち、うさぎは月からみんなことをながめていました』
また朗読の声がして、目が覚める。
『あ、おはよう』
短く声を掛けられるものの、彼女は本の続きを読んでいる。
天蓋は開かれ、この前と同じように彼女は陽光の中にいた。
ところどころ躓きながらも、知らない話を聞かせてくれる彼女に耳を傾けていた。
誰でもない相手に、知らない話をただ読む練習をする彼女の話を聞くだけ。
自分に向けられたものじゃないだけに、この距離感が苦しくなかった。
『お疲れさまです。おなかは空いていませんか?』
反対側から知らない声がし、振り返る。――黒髪に、眼鏡を掛けた青い瞳の男性が穏やかに微笑んでいた。
『いいものがあるんですよ。クリスさんもどうですか?』
読み終わるまでその人は待っていてくれたのだろう。本を閉じ、クリスはその人の言葉に目を輝かせていた。
『うん! なにがあるの?』
『なんでもありますよ。そうですねぇ、お昼も近いので少しだけ食事をして、デザートをたくさんいただくのはどうでしょう? 今なら皆さんお仕事の最中ですからね。内緒にしていればバレません』
男性が人差し指を口に当て、自分を挟んで二人が内緒話をしていた。
『甘いものはお好きですか? クリスさんはずいぶんと気に入ったようでして、味見したくても別腹が足りないみたいなんです。もしお嫌いじゃなかったら、少しだけ付き合ってくれませんか?』
どうやら自分に尋ねている。――同じ色をした目がふたり分、こちらに向けられた。
男性は部屋に満ちる陽気と同じような温かさで、クリスはただまっすぐとこちらの様子を伺っていた。
真剣さのある眼差しのまま尋ねてきた。
『おなか、空かないの?』
聞かれて考えてみれば、しばらく食べ物を口にしていないことに気付く。
なんだか空いている気がして身体を起こした。
『いいですね。じゃあ用意するのでお二人とも少しだけ待っててくださいね』
『わかった! あなたもありがとう。楽しみだな。ここって、いつでもケーキが食べられるの?』
男性はくすりと笑えば、静かに部屋を出て行った。
先程までの真剣さは消え失せ、まだ届いてもないデザートに想いを馳せているようで、ベッドの傍らで頬杖をつき頭を楽しそうに揺らしている。
まだ身体が重い気がして、返事もせずに枕を潰して凭れ掛かる。
『あの本はあなたの? こんど読んでもいい?』
指を差すのは部屋の隅の本棚で、そんなものもあった気がするとぼんやりする頭で考えた。――あれはもう必要ないものだ。
じっとこちらを見る目に気付けば、また頷いて返事をした。
あんなの、好きにすればいい――。
『ほんとに――? ありがとう』
ぱっと嬉しそうな表情に変わった。
投げやりにしたものを、そんな嬉しそうにするなんて思わなかった。
少しだけ悪い気がして、クリスから目を逸らした。
◆◆◆◆◆
クリスと一緒に来るのはブロンドの女性、赤銅色の男性と、クリスと同じ青い目をした男性の三人で、代わる代わる来ていた。
誰なのか知らなくても髪と瞳の色で区別がつくし、クリスがそれぞれをばあば、じいじ、ハルトと呼んでいることからそうなんだと思っていた。
彼女が持ってきた本も読み終わってしまったようで、気付けば自分の本を手にしていた。
だけど以前とは違い、初めて見る話しに彼らが代わりに読むことが増えた。
どれも知っている話だったが、そばで聞くクリスがひとつひとつに反応する。
三人ともそれぞれが違う読み方をするので、知っている話でもなんだか初めて聞く物語に聞こえ、クリスと一緒になって聞くことが増えた。
床にたくさんの絵本が散らばりはじめた。
この部屋にクリスが来るたびに、どれを読んで貰うかと本棚から出して並べているとそうなってしまうのだ。
踏まないように本の間を飛び越えるように歩けば、たまにバランスを崩しそうになるたび、みんなで手を伸ばして支え合う。――たまに失敗して転んでしまいそうになるが、ハルトがいるときはどうしてか誰もいないのに支えられる。
どうして、と周りを見てみればハルトがにこりと笑顔を向け『大丈夫ですよ』と言う。だから彼がなにかしているんだと思った。クリスもそれを分かっているからわざと危なっかしい場所へ跳ぼうとして、止められている。
散らばる本の間で三人で座って今日も本を読んでいた。
『つぎはどれ読んでもらう?』
ここにあった本も読み終わってしまえば、クリスがまっすぐに青い瞳を向けて尋ねてきた。
どれ、と言われても選べなくて困っていると、ハルトがクリスの本をひとつを手に取った。
『せっかくなのでまた最初から読んでみたらどうですか? 最初の頃よりもまた読むのがお上手になってるかもしれませんからね』
『また聞いてくれる?』
ハルトから手渡された本を見せながら、尋ねてきた。
嬉しい反面、不思議だった。
本がもうないのであれば、どうして部屋からこの子は出ないのだろうか。
こんなつまらない場所に、つまらない自分の相手をするのは退屈なのではないかと心配になった。
戸惑いながら二人を見れば、ハルトがひとつ手を叩いた。
『じゃあ、こうしましょう。今からお見せるものは秘密ですよ。じゃないとオクタヴィアさんに叱られてしまいますからね』
何を始めるのかと二人で立つ彼を見上げれば、部屋の片隅に置かれた机の上から何かを持ってきた。
目の前に置かれれたのは白紙の大きな紙とクレヨンだ。
『さて、クリスさんは僕が何をするか分かりますね? よかったらディアスさんにお手本を見せてあげてください』
『うん、見てて。――ハルトはね、すごいんだよ!』
何をするのか分かったようで、彼女が白紙に絵を描いていく。
いびつな形だけど、恐らく魚だろうか。
色とりどりにいろんな形をした魚を描いていけば、はさみを渡された。
『一緒に切ってくれませんか? こんな感じです』
ハルトが彼女が書き終わった紙を適当に切り分け、さらに魚の形が残るようにそれをひとつ切って見せた。
『失敗しても大丈夫です。また描けばいいんですからね』
にこりと笑いはさみと紙をこちらに渡せば、クリスにもはさみを渡した。
『いっぱいあった方が楽しいですからね。少し大変ですが、ご協力お願いします』
クリスもその言葉ににこりと笑えば、三人で一緒に作業することになった。
ちらりと見れば二人は楽しそうで、これから何が始まるのかと少しだけ気になり、紙にはさみを入れてみた。




