66.『秋霖』に響く歌声①
その日、知らせがあった。
知っている名だっただけに、またこちらに来ているということが嬉しくて、いつ会えるのだろうと考えていた時間が華やかに散っていく。
天井高く明るい日差しが差し込むこの部屋は、二人で使うには広すぎて寂しいときがあった。
その空白を埋めるかのような、嬉しい話だった。
様子を見に来てくれていた兄が、『終わったら会いに行こう』と言い、それに頷けば、『アズも呼んで三人で行こう』と改めて約束をしてくれた。
もしかしたらなにか新しいことが聞けるかもと、期待しながらその日は一日を過ごした。
授業が終わり、待ち合わせた場所に行けば兄と姉が待っていた。
そこから自分たちの育った場所へと帰る。
久し振りの帰省だ。
部屋の中央に姉弟揃って並び、淡い光に包まれれば見知った場所へ辿り着く。
早く会いたいと、廊下を足早に駆けて行く。
後ろから姉と兄の諌める声がしたが、アイベルが『困ったお方だ』と苦笑しながら側に来た。
だけど姉も兄も少しも急いでくれる気配はなく、『先に行きます』とアイベルが言えば転ばぬように側にいてくれた。
目的の場所はもうそこで、扉を開けて貰えば父や母、家臣たちとも違う、目的の人がそこにいた――――。
「――おはようございます、お目覚めでしょうか?」
微かに届くさざなみのような音と共に、耳に入るのは先ほどより低い声。うっすら目を開ければ、暗さが勝る。
「お時間になりましたので、起こしに参りました。……いかがいたしますか? 私ひとりでも構わないのですが」
声のする方へ頭を動かせば、先ほど目にしたよりも頼り甲斐のある侍従の姿がそこにあった。――――どうやら昔のことを夢に見ていたらしい。
彼の声に身体を起こせば、さざなみだと思っていたものは雨音だと気付く。室内灯の明るさだけで、窓はカーテンで閉じられている。
きっとまだ外が暗いからだろう。
「……いや、俺も行こう」
暗い部屋の中、髪を踏まないようベッドから降りれば、普段より早い時間ながらもいつものルーチンが始まる。
着替えを手伝ってもらいながら、先ほどの夢を思い出す。――幼い姿をしていたが姉と兄の二人が並ぶ姿が懐かしい。
あの頃はまだ三人とも同じくらいの背丈か、少し自分が低いくらいだったろうか。同じようにものを見ていた気がする。エミリオはまだ五つほどで、ユスティツィア城に父と母と一緒にいた。
自分を含め姉も兄もこの学園で生活していたため、たまに顔を出せば非常に喜んでいたのを思い出す。――今年四人が揃ってこの学園で生活が始まった。
久しく思い出さなかった過去だけに、暖かな気持ちになる。――あの時にあの人と話した内容はどんなものだったか。
「雨のため、馬車を呼んであります」
侍従の声に現実に引き戻される。
「フィフスから、雨に濡れないよう札を預かっている――」
口にしてから昨夜のことを思い出す。――気安く触れた温もりが、跳ねる鼓動と共に身の内に蘇った。じんわりと満ちるのは、また友人が側にいるという実感と充足感があるからだ。
だが外が雨だからだろうか、その熱もすぐに引いてしまい寒さが強まる。
「机の上のものですよね。――預からせて頂きました」
テキパキと返事をするもののいつもより声が硬く、どこか違和感があった。
「……どうかしたのか?」
「いえ、大したことではないのですが、……昨夜のことですが、殿下がお部屋に鍵をかけたのでしょうか?」
「特に何もしてないが」
いつも部屋を後にするアイベルが部屋に鍵をかける。
侍従の顔が徐々に険しくなり、何もしなかったことについて咎められているのだと気付く。
「なら、彼に鍵を渡したのでしょうか?」
「フィフスにも頼んではない。……すまなかった。先に返した以上、自分で戸締りすべきだった」
「――――、実は退室を命じられてから、フィフスが殿下の部屋を後にされたところと遭遇しました。……その後、こちらの部屋に戻れば扉に鍵が掛かっていたので、どうしてかと考えていたのです」
「……鍵が?」
外から出て施錠するには鍵が必要だ。一応自分と侍従がここの部屋の鍵を所持しているものの、あの人には何も渡してはいない。二人になったときもただ話しをして休んだだけに、どうやって鍵をかけたのか見当がつかなかった。
侍従が何かを決めかねているのか視線が彷徨うも、最後にこちらをまっすぐと見た。
「殿下が信頼しているご友人であり、陛下たちに認められた人物であることは重々承知しております。――ただ、やはりこういう不審なことがあれば、殿下とお二人きりにすることは賛成できません」
アイベルの諫める厳しい眼差しに、一歩も譲る気のないことが分かる。――――小さな我が侭のつもりだったが、許されないものだったかと後ろめたさから目を逸らす。
「……分かった」
「今夜もお約束があると聞いております。――個人的にしたいお話もあると思いますので、その時は席を外します。……ですが、いましばらくの間殿下おひとりにすることは出来ない事、どうかご容赦下さい」
多少譲歩してくれる気はあるようだが、随分と過保護な話にアイベルの信頼を損ねてしまったらしい。
これは戒めだろう。欲しいと思っても、手を伸ばさない方がいいこともある。――手を伸ばしてはダメだと、分かっていたはずなのに気が緩んでいた。
カーテンで隠された窓に雨が当たっている。――ようやく忘れられそうだったのに、嫌な記憶が心地よかった数日を遠ざけていく。
その嫌な記憶から離れようと、侍従の言葉に分かったと返事をし足早に寝室を後にした。まだ暗い早朝だからか、それとも部屋が冷えているからだろうか、暖炉がつけられた部屋に来たものの心の置き所が見つからない。
「……強く言うつもりはなかったのですが、ご気分を害したのであれば謝罪致します。――昨夜フィフスに会った際、夜部屋に来るのはあまり良くないことだと伝えたのです。……近く、ヴァイス卿の授業もあることですし、万が一殿下に何かあればと心配から申し上げました」
「……ヴァイスの? なんでそんなことを伝えたんだ――」
後ろに来ている侍従へと振り返る。――本当のアイツのことなんか知らせて、失望させてしまったのではないだろうか。
「勝手をして申し訳ございません。ヴァイス卿を慕っている様子でしたので、あの方の教えに共感でもするような――」
「する訳ないだろう。ヴァイスとあの人は全然違う……、知らないままで良かったのに――」
本音が口からこぼれたが、その言葉が自分の耳に入ればなんてひどい言い草だ。
「アイベル、……あの人は聖国でも立場ある人で、神職だ。――神に仕えているから、生涯純潔でいなければならないし、誰かを特別にすることもないだろう」
目を覆い、口にした言葉を後悔すれば、知らないままで良かったのは自分だと気付く。――知ってることが多いから余計な気を回し、優越感を覚え、足りないものを求めようとする。
神の代行者は間違いを冒さないだろう。――もし過ちを冒せばどうなるかは分からないが、少なくとも大切にしているものと離れてしまうことは想像に難くない。
だというのに、側に居れば湧き水のように次々に溢れる欲と、自我を押さえられない自分はどうだ。己の浅ましさに、すぐ目の前のことに眩むばかりだ。
まるで舞台だ。舞台上で神の威光を浴びて立つクリスと、ただ客席にいる自分は決して交わることはない。上演中は決して誰も邪魔をしてはならないのだから、安易に手を伸ばしてはらない――。
ふと、耳の奥にヴァイスから言われた言葉が思い出される。
『僕から君に頼みたいんだ。あの子のこと、――助けてあげてくれないかな?』
小さい頃から知っている。――ずっと会えなかった分も話を聞いていたから知っている。だから、アイツは自分に頼んできた。
身の程を弁えながらも、こちらの『常識』にクリスが翻弄されないよう助力しろ、――そういう意味だ。
変に含みのある言い方をせず、明確な言葉にしてくれればいいのに――。
「だから間違いなんて起こらないし、起こさせない。――ここに来ているのは父の依頼のためだが、同時に多少の自由を許された身だ。……伝えていなかったのは悪かったが、軽率に言えない事情もある。……これ以上余計なことはするな」
少なくとも自分の名を使うことで、ここでの自由を保障してやることは出来る。
振り回されてもいい。――ここへ来ることが出来たクリスの、束の間の気晴らしに付き合うべきは自分しかいないだろう。昨日の自分勝手な自分へと、言い聞かせる。
「……そうでしたか。事情を知らず、先走った真似をして申し訳ございませんでした」
「分かってくれればいい。……あの人はヴァイスのことも慕っているが、別にアイツを理想としている訳じゃない。何も知らないから興味があるだけで、ヴァイスの本性もなにも知らない――」
遡るように、あの時のやり取りが思い出される。――そうだ、アイツは性格を知っているから、きっと注意したはずだ。
あの雨の中驚きながらも見つめていたのは自分ではなく、自分を通した父親の姿だった――。あの人が大事にしているもののひとつで、邪魔にできないものだ。
何度か頼られるのは、もしかしたら自分の中にセーレに似たなにかを見出しているからなのか。そう思えば正直複雑だ。
だが、好きだと公言しているものが自分の中にあるのなら、側にいることを許されているような気にさせる。
「……恐らくセーレからもヴァイスには全部付き合うなと言われているはずだ。――だから、アイツに弄ばれるのを見かけたら止めてやって欲しい」
「セーレ卿から……、ですか?」
「あぁ、――フィフスはセーレへ顔向けできない事はしない」
「……エリーチェ嬢もそのようなことを仰っていましたね。承知しました、以後気を付けます」
昨日のことを思い出したのか、小さく笑いアイベルは慇懃に礼をした。
「そうであれば、ロマ学にフィフスが出るのは少々酷かもしれませんね」
「……あぁ、俺もそう思っていた」
乱れた心が言葉と思考で整理されたからか、ずっと一緒に傍にいるアイベルが味方になってくれたからか、ようやく落ち着きを取り戻す。
聖都テトラドテオスに比べればここはずっと小さい。神が与えた舞台では何も気にせず自由に振る舞えていても、人が作っただけの舞台ではその手を振るうことも気を遣うのではないだろうか。昨日の驚いた顔を思い出す。
騎士見習いたちにとっては誇りを掛けた決闘だったが、祖母も児戯に過ぎないと言っていた。
皆から手加減しろと念押しされ、本気を出さない勝負で彼らに華を持たせた。
もしかしたら、ここにいることはあの人にとって窮屈なことなのでないか――。
「その時間どうされるおつもりなのか会ったら尋ねてみます。――何かされるご予定なのか、ロマ学を受けるおつもりならお止めした方が良いかもしれません」
「……そうだな」
まだ日が出ないからだろうか。暗くなる思考に、声色も暗くなる。
暗澹としたものをここに留めさせまいと侍従が促せば、それに従って部屋を後にした。