59.開幕は蒼穹の『剣舞』より⑨
厄介が舞い込んだせいで普段よりも遅い時間に姉弟の元へ向かう。
賑やかを通り越し、嵐のような騒音となっている学食を通り過ぎようと、コレットと共に先へ行けばよく通る声が耳に入る。
「ここではないのか?」
どんな場所でも声が届くのはどういうことなのか――――。振り返れば三人が戸惑っていた。
食事をとれる場所はいくつかあるらしいが、主な場所はここ学生食堂だろう。
三階と四階の吹き抜けの作りとなっている。通路を挟んで座れるスペースが窓際と壁際で分かれていた。食事を受け取る場所はここ三階だが、四階にも席があり二つある大きな螺旋階段を行き来する学生の姿があった。
街が一望できる大きく連なる窓ガラスは、嵐が来ても簡単に壊されることがない。強化が施されてたガラスで出来ており、たまに現れる嵐にも負けることもなかった。
他の場所も同じように窓には強化が施されてはいるが、ここだけ外が良く見えるよう窓の装飾が少なく、一枚ガラスの不安定さが目につく。
また片方の螺旋階段の近くに、小さな壇上とグランドピアノが置いてある。たまに誰かが演奏しているときもあった。ピアノだけが置かれているのだが、仲間なのか誰かが他の楽器を持ち込んで合奏しているときもあった。
「少々ここは賑やかすぎるため、殿下達や一部の貴族たちが利用できる部屋が三階にはいくつかあります。それがこの先にあるのですが――」
アイベルの説明に、エリーチェの残念そうな顔が見えた。
三人が立つ場所にメニューが置いてあることに気付く。近付きながら、長いこと目の前を通っていたが気に留めたことなどなかったと気付く。
メニュースタンドに冊子が置かれ何がここにあるのか記され、その隣には高さのあるガラス張りのショーケースにサンプルなのかいくつも料理が置かれて並べられている。
どれも普段口にしているものと違うことから、普段の食事は学食で提供されるものとは違うらしい。
四方から様々な香りもし、これだけ様々なものが並べてあれば興味を惹かれるのも無理はないだろう。
「姉上に相談したいこともあるから、今回はこちらに付き合ってくれないか」
「承知した。後でまた見に来よう、エリーチェ」
「デザート食べに来る時間あるかなぁ。ここって何時までやってるんですか?」
傍にいた学生へとエリーチェが尋ねていた。朝から晩までやっていると制服を着ている学生たちが応えており、なんだか親しげな様子だ。エリーチェとフィフスが彼らに別れを告げれば、共に目的の場所へと歩き出した。
「――知り合いか?」
「知らない人だよ~。フィーに電話番号渡してた人じゃないかな。話したそうにしてたから」
「どうやらそのようだ。東方軍からいろいろ聞いたのだろう。概要は聞いているが、詳細を知らせてくれるつもりなんじゃないか。」
「私も聞きたい! 一緒にお話ししについてっていいよね?」
「もちろんだ。お前たちも来てくれるだろ?」
こちらとアイベルやコレットを見て同席を促された。――――誘われることは嬉しいが、よく分からない話に戸惑いの方が大きい。
「別に気分じゃなければ断ってくれていい。何か面白い話が聞けるなら、一緒に聞いた方が楽しいだろうと思って誘っているだけだ。それにここの事を知る者が一緒の方が分かる話もある。……正直ここピオニールのことも、ラウルスのことも私はあまり詳しくないからな。」
「うんうん。解説役が欲しいところだよね~」
「あなたたちね……、隙あらば殿下たちを便利に使おうとするんじゃないわよ」
昨夜アイベルからも似たようなことを注意されていたが、今度は人数が増えた分、リタの口調がより強く感じた。アイベルに注意された時よりもけろりとした表情に、忠告が耳に入っていないように見え苦笑する。
「そういうことなら別に構わないが、――――俺がいても皆が困るんじゃないか」
自分が誰だか分かっているからこそ、この前の街歩きでも周囲の人は畏れ多くて近寄ることすらしなかった。
「……貴方も、そういうことは分かるんじゃないのか?」
「そういうこと? ……って何のことだ?」
まっすぐに向けられる青い眼が、心の底から分からないと言っているように見えた。東方天として聖国に君臨している存在なのに、この意味が分からないというのが不思議だ。
一切の感情を見せず公明正大な振る舞いと、厳正中立でいかなる悪事も断罪する無慈悲な姿に、人々は畏れと敬いの念を以ち『神はここに在り』と言う。
そんな人物が突如街中に現れでもすれば、自分の時よりも一層周囲に緊張が走るものなんじゃないか。
北方天に連れられてよく街に行くと言っていたが――――、向こうでは方天が街にいることすら『普通』のことなのだろうか。
少々機嫌の悪いリタと、のほほんとしたエリーチェに挟まれ、言葉の意味を考えているのか疑問符を浮かべているその人を見る。
今まで耳にした話はどれも誇大表現で、今のように普段から気さくに振る舞っている、と言われる方がなんだか納得がいく。
「なるほど――――、頭のいいヤツは妬まれるからな。不用意に成績優秀者を連れて歩くのはよくない、ということか。」
「……位がある方が不用意に傍にいるのは周囲を萎縮させてしまう、ということを殿下は言いたいのではないでしょうか」
得心のいく結論を出したが、すぐにアイベルに訂正されひどく驚いているようだった。
「……そんなことを気にしているのか?」
切れ長だった目を丸くさせこちらを見ている。――今にも眼窩に嵌められた宝石が零れ落ちそうで、そんなに大きくなるのかとそんな余計な感想が浮かんだ。
「――理解なく、ただ畏れられることがお前たちの望みなのか?」
瞬きと共にいつもの切れ長の鋭い眼差しに変わり、順番に視線を注がれる。
「聖国とラウルスでは勝手が違うんだから仕方ないでしょ? どうか、皆さん気にしないで」
「馬鹿を言うな。この学園の理念に背いているじゃないか。――お前たちも彼らもこの国の者である以上ずっと関わっていく。お前たちにとっては直接じゃなくても、彼らにすればずっとお前たちを見上げて生きていくんだぞ。彼らに『夢』や『希望』を見せてやらないでどうする?」
リタの前に手の平を翳し制止すれば、強い口調で諫められコレットもアイベルも呆然としていている。
「お前たちも彼らを見てやるべきだ。全てを知る必要はないが、この先迷うことがあってもここにいる者たちを思い出すことで決められることもあるだろう。――学園ピオニールはそういう場所ではないのか。」
誰よりもここにいることが許された時間が短いその人が、誰よりも強くこの学園の事を理解し、この国の将来を考えている。
……格の違いとはこういうことを指すのだろう。王家の出とは言え、神に選ばれるだけの人とは違う。改めて遠い存在なのだと実感が湧いた。
リタを制止していた手が、ディアスの手を取れば互いの距離が近くなり、この人の顔の近くへと運ばれその手を握られる。
「畏れたい者はそのまま畏れさせるがいい。お前が遠慮する理由にするな。誰よりも地位があるというなら、その分お前は彼らよりも自由に、どこまでも遠くまで行ける可能性があるということだ。……この手の中にあるものはお前を守るものでもあるが、同時にお前を支える力になる。それはお前のものだが、同時に彼らのものでもあることを忘れるな。」
両の手で握られ、言い聞かせるように強く深い色をしたその双眸がずっと心の奥にまで入って来る。――その言葉の意味が別の意味にも聞こえ、寂しさで冷えた心に熱い陶酔感が満たされていくようだった。
この手の中にあるものは神のものでありながら、今は友人として傍に居てくれる。俺の友人でありながら、誰のものにもならないクリスが手を取ってくれれば、どこまでも心を自由にしてくれて、どこまでも遠くへ行ける可能性を見せてくれる――。
この言葉、まるで――――。
遅れて握り返そうとするも、両の手を放された。そっとその人が離れればまだ学食を通り抜けていないことから、多くの学生たちがこちらを注目していることに気付き夢心地から我に返る。
「地位のあるやつはそれだけ面倒も多く責任もあるが、お前から自由を奪うものではないはずだ。……グライリヒ陛下だってそういうことをお前たちに望んでいるんじゃないのか。」
急に父の名が出され一瞬戸惑ったが、考えてみればそうだ。――不自由を強くことはせず、姉弟たち皆に自分らしくやりたいことをやっていいと背中を押してくれる。
「確かに、――そうだな」
昨日、菓子の礼をアイベルから伝えて貰ったが、今の話で父を思い出せば直接話してみてもよかったかもしれない。
「そうだろ? それにな、お前たちは幸運だ。――あの女王もこの学園の卒業生だというじゃないか。」
今までよりも少し大きな声量で腕を組み頷けば、こちらを指し示し周囲の者に語り掛け始めた。
「学園にいる全ての者に干渉するわ、圧政を布くわで大変だったと聖国まで噂が届いているぞ。――お前たちの自由を尊重し権利を侵害しない者たちが傍にいてくれてよかったと、そうは思わないか?」
振り返り彼らに語り掛ければ、周囲が一瞬鎮まるが同意をするかのように騒がしさが戻り、何故だが拍手が起きている。――なんだか今朝の集会のようだ。
呆気に取られこの場の様子を見ていると、にこりと満足そうな表情がこちらに向けられているのに気付く。
「お前たちが思っているより彼らは見ているし、お前たちの味方だ。遠慮せずに、大事にした方がいい。」
エリーチェまで嬉しそうにフィフスにくっつき、この様子を歓迎しているようだった。
小さな話をしていたはずなのに、すぐに周囲を巻き込んでしまう。嵐のように強く鮮烈に周囲へ影響を与えながらも、その後には新たな息吹が生み出されるような温かさを感じるようだった。
そうやって周りに影響を与えていくのは天賦の才なのか、神に見初められた素質ということなのだろうか。
「さて、本当に昼にしよう。アストリッドにも用があるのだろ?」
「あぁ――。……祖母の話がそちらまで行ってるなんて知らなかったな」
賑やかなこの場を皆で後にする。――父の悪名は知っていたが、祖母も別の意味でそうだったのかと初めて知った。
「ゾフィが自慢げに話してくれてな。――まぁ、あの時代それを耐え抜いた者たちだからこそ、強く頼もしい精鋭が揃っていたのかもしれないな。」
「すごかったんだろうなぁ。ゾフィさんもそこで女王様に惚れて付いて行ってるんでしょ? さぞカッコよかったんだろうな~~~」
憧れにきらきらと目を輝かせ、過去に思いを馳せているエリーチェがうっとりとしながら言っている。その勢いで隣に立つフィフスにぶつかった。
「あ、ごめん」
「エリーチェ――――、どう考えても私の方がマシだしカッコいいだろうが。」
先ほどと同じような力強さでエリーチェへ訴えている。――ぶつかったことを怒っているのだろうか。
「あ~はいはい、そうだね~。フィーもかっこいいよ~」
「ねぇ、それここでもやるの? 自分で言ってて恥ずかしくないの?」
慣れてるのかエリーチェが気のない返事をし、リタが心底冷めた口調で距離を取りながら聞いていてる。
「恥ずべきことなどひとつもない。この顔は父に似ているからな。むしろ誇らしい。」
手を胸に当て、リタに真剣に訴えている。
ナルシストと言われていたが、そういう理由かとその人のまじまじと顔を見た。――――セーレに似ているということはヴァイスにも似ているということで、なんだか複雑な気持ちだ。
いつだったか、クリスが聖都に戻る前シューシャの新聞で取り上げられたものを見せて貰ったことがある。――修業中の身でありながら、周辺地域の治安統治に貢献しているとかで遠くから取られた写真が載っており、確かにその時はセーレに似ていると思った。
そのせいかセーレが聖都に戻るたびにクリスに世話になった人が聖都に訪れ、そっくりな彼に礼を伝えるといったことがよくあったそうだ。――セーレたちも遠く離れたクリスのことを教えて貰い、随分と励まされているようだった。
今は変装しているからか、なんとなくセーレに似ていると思わなかった。ヴァイスと並んでも気付かなかったし、意図的に分からないようにしているのかもしれないが――。
「……どちらかというと母親に似ている気がする」
「何? だが、母に似ていても嬉しいから良いだろう。」
つい口を挟んでしまったが、満更でもない様子にやはり二人の事を大事にしているのだろうと分かり口の端に笑みが浮かぶ。
「――ところで母を知っているのか?」
「いや……、そんな気がしただけだ」
余計なことを言ってしまったことから顔を背けた。初対面ということになっているのに、両親のことを知っているというのはおかしいだろう。
この人の母親であるティアラは何度も王都に来ては、自分によくしてくれた人だ。
今は王都にセーレがいて、ピオニールにクリスがいるが、当の本人は聖国にいるのだろうか。――――ひとりで?
「……どうかしたのか?」
気になってその人を振り返るが、よく考えればフュート様も聖国にいらしたはずだ。一緒にいるのだろう。
「やっぱり、なんでもない――」
さすがにティアラをひとり残してくる訳ないと思い直せば、すぐに目的の場所へと到着する。