58.開幕は蒼穹の『剣舞』より⑧
午前の授業が全て終わり教師が部屋を後にすると、隣に座っていたフィフスとエリーチェが机に突っ伏した。
「……今日はもう終わりか?」
「おめでとう。1時間の昼休憩のあと、なんとまだ二時間も授業ありまーす」
リタの冷淡な宣告に、のろのろとした動作で両手で頭を抱えている。
今は法学の授業だった。――――過去の歴史や文化にも触れつつ、様々な出来事の事例から法律の成り立ちや解釈を学び、その時に遭遇した社会問題の話と、それに対する合理的な解決策についてどう成り立ちがあったかという講義がメインだった。
教師は三人のことを認識しており、クリシス神殿に勤めていると知ってか随分と張り切ってくれていた。今までと同じように真摯に聞き入っていた姿が意欲ある教師の琴線に触れたようで、何かとフィフスへ質問や話を引き出そうとしており、そのひとつひとつに真剣に応えていた。
小気味よい問答の応酬に教師も授業中であることを失念していた気がする。聖国の歴史や法について造詣が深かったことから、教師の好奇心を満たすような問答に変わっていってしまい、おかげで普段よりも容赦のない情報量がもたらされた。
周りを見ても二人と同じように疲労の色を見せている学生の姿がちらほらと見える。
話をしているときは普通に見えたが、流石に疲れてしまったようだ。随分と弱々しい姿に聖国最強などと呼ばれる御仁でも、熱意ある探究者に絡まれるとこんな姿になるのかと目を細める。
「昼食を取りに行かないか? ここで休むよりいいだろう」
「……移動が多すぎる。昼がこちらに来い……」
「はい、――これでも口に入れてなさい」
リタがスカートのポケットから手のひらサイズの小さな缶を取り出し、蓋を開けながら突っ伏すフィフスへと差し出していた。中には白くて丸い錠菓のようなものが詰まっているようだった。
「……これは?」
「ただの砂糖菓子です。疲れた時に食べるとちょうどいいんですよね」
緩慢な動きで差し出された菓子を口にしており、思ったより重症だったのだろうかと気付く。
「……もうお昼だというのにお菓子を食べるの?」
「えぇ、この人燃費が悪くて……。少し休めば回復するんで、もしよければ先に行っててくださいね。――確かひとつ下の階でしたよね学食って」
「――三階に殿下達が利用されているお部屋がありますので、そちらまでご案内します」
「あ、いたいた。留学生諸君、お疲れさま~」
侍従が気遣って声をかけた直後、聞き覚えのある軽薄な声が届いた。――――その声に突っ伏していた二人が反応を示す。まだ余力があったのかエリーチェが勢い良く顔を上げれば、声を掛けてきた相手にぱっと明るい表情になる。
「わぁ~ヴァイスさまだー! こんにちはー!」
「エリーチェくんは元気があって何よりだねぇ。――おや、ひとり随分とお疲れのようだけど、どうしたのかな~?」
役目を果たし、人気の少なくなっていく教室へとその人物が入ってきた。――後ろにまとめたブロンドを揺らし、何が楽しいのかご機嫌そうな赤紫色の瞳を持つ人物、――――周囲とは全く違う風貌だというのに、この学園に良く馴染み皆に受け入れられている存在だ。
隣に座るフィフスが力なく上体を起こし、近付くヴァイスに顔を向けている。――偽りがあるとはいえ黒髪に青い眼と彼とは全く異なる色合いに、身内だなんて説明されてもきっと誰も信じないだろう。
背負う家の名も違うのだ。朱に交わればというが、正反対の色合いが混じったところでまた別の色になるだけで、ずっと近付けないような気すらする。
「少々頭を使いすぎまして……。情けないところをお見せしました。」
「そっかそっか、慣れない環境で疲れちゃうのは仕方ないよねぇ。――リタくんもどう? 授業についていけてるかな?」
タイミングよく現れたことから様子を見に来たのだろう、ひとつ離れた席へ座り三人にそれぞれ声を掛けている。教師として近過ぎず遠すぎない距離に、ここでの彼の立ち位置がよく分かる。
「そっちの二人も楽しんでるかい? 三人の先輩として頼りにしてるよ~!」
こちらに向けられる言葉も態度も軽く近い様子から、――互いの立場上仕方のないことなのだろうが、ヴァイスの前で気丈に振る舞おうとしている友人に一抹の侘しさが微かな風のように通り過ぎる。
「……何か用があってきたんじゃないのか」
「もちろんだとも。伝えたいことがあってきたんだ~。――舞踏会に参加するにあたって、君たちの衣装のことは任せなさい。僕が見立ててあげるからねっ!」
既に話を知っているのか、大仰に胸に手を当て得意満面に宣言した。
「……制服が正装じゃないのですか?」
「確かに正装って扱いだけど、周りが着飾ってる中そんな恰好じゃあ浮くだけさ。――さすがに僕も、皆に不憫な想いはさせたくないし、着せ替えていろいろ遊びたいからねっ」
心配はしているのだろうが、本音が漏れ出ている。
「それに男子三日会わざれば刮目して見よ、とも言うじゃない。――――もしかしたら身長が伸びているかもしれないからね、入念に測った方がいいだろ?」
ジャケットの内ポケットから取り出したものを両手で持って見せた。メジャーのようだが何故彼も持参しているのか――――。見覚えのある行動に、血の繋がりというものを感じた。
聖国ではよくあることなのだろうか。それともソリュード家の常識なのか。言葉の意味が違うことについてよりも、そちらの方が気になった。
「――もしかして、もう?」
幾分回復したのか、何か期待の籠った輝きが力強く現れた。
「……昨日も今朝も会っていただろ。そんな一朝一夕で変わらないのでは」
「身長のあるやつは少し黙っててくれないか。」
冷たく制され、釈然としない。――――ヴァイスの含みのある言い方や、あの揶揄う顔が視界に入っていないのか。
「些細なことに囚われているヤツに、身長だって急に伸びるわけないでしょう。――殿下、ごめんなさい」
「そうだよ、ディアスくんだって大きくなりたくてなった訳じゃないのに。冷たくすることはないじゃないか」
「……言い過ぎた、悪い。」
面白がる目付け役に促される形で謝られ、ため息が出る。――――始終遊ばれているだけなのに、どうして真面目に全て受け取っているのだろう。なんとなく理由は分かるだけにもどかしい。
「……気にしなくていい。――お前の要件はそれだけか」
「あぁ、もうひとつあるよ。僕の執務室ってここから近いし、もし疲れたら僕の部屋に来るといい。――ベッドもあるからね、自由に使っていいとも」
「不潔だからやめた方がいい」
絶対阻止せねばならない話題に思わず前のめりで制した。――さすがにこんなことを本気に取られては困る。
コレットは意味を察しているようで気まずそうに顔を背けており、三人がこちらの言い方が強かったせいか振り返る。
「失敬な。――いつ来客があってもいいようにしているんだから、不潔だなんてことないけどなぁ。――もしかしてあれかな? 思春期だからかい? 君らもいずれ通る道だというのに今からそんなんじゃ先が思いやられるなぁ」
いつの間に持ち替えていたのか扇子を広げ、したり顔で白々しくそんなことを言う様子に眉間に皺が寄る。
ヴァイスとディアスを見比べ、掛ける言葉を選んでいるようだった。
「……掃除が必要なら手伝いしましょうか?」
戸惑いながらヴァイスに声を掛けることにしたようだった。――神の代行者自ら掃除なんてことをするのかと一瞬耳を疑うが、そういう意味でもないためどう説明すべきか悩む。
「フィフスくんはいい子だねぇ。でも掃除は人にやってもらってるし、わざわざ君の手を煩わせることもないさ。――ただ本当にその辺で倒れられると困るからそう言ってるだけで、他意はないんだけどなぁ」
席を立ちフィフスの側に来るとそっと頭を撫でた。――倒れられる? どういう意味かと本人を見るが、表情が見えず分からなかった。
「……そのような不様な真似、しないつもりですが。」
「フフッ、僕が君の悪癖を知らないとでも? ――聖国では皆が君を大事にしてくれているけど、こちらでは君はただの学生のひとりで、ただの異邦人だ。君が安心して休める場所は多いに越したことはないからね。そのひとつとして提案しているだけだし、関係ない人が近寄らないよう人払いしておくから安心していつでも来るといい」
相変らず揶揄うような笑みをしたヴァイスの手をそっと払い、席を立った。
「ヴァイス卿のご心配には及びません。私のような者が安心できる場がここにないというのなら作るまでです。」
払った手を胸に当て、ヴァイスをまっすぐに見据えている。
「ご提案には感謝いたしますが、私は庇護されるべき対象ではありません。それにやるべきこともある。――ただ休むなど、そんな時間も今は惜しい。」
意外だった。大事にしているものだろうに、――――ヴァイスのことであればなんでも受け入れるだろうと思っていただけに、その手を躊躇いなく振り払うなどとは思ってもみなかった。
「己の力量も分かっておりますが、足りぬことがあれば然るべき者たちに任せます。――――当面、私の世話はディアスがするので問題ありません。」
名を出しながらこちらに青い眼が向けられた。この人の言葉にヴァイスだけでなく皆の顔がこちらに向くのが分かった。
「へぇ~~~? それは随分と頼りになるねぇ。なら僕も安心だなぁ」
「………………授業の事だろう」
唐突な話題に静かながらも大きく心が乱されたが、朝に申し出たことを言っているのだろう。鬱陶しいほどに良い笑顔をしているヴァイスから視線を逸らした。
「ここでのことがよく分からないから、教えてくれと頼んだだろう。……了承を得たから任せたつもりだったのだが。」
自信を無くしたのか言葉尻が弱くなっていく。――言いたいことが実直過ぎて意味が足りていないことに気付くも、ヴァイスの話からどうしてその言葉を選んでしまったのか少々問い詰めたい気持ちが湧く。――――本当に他意はないのだろう。
この空気を誤魔化すように席を立ち、フィフスの横に並ぶ。こちらの真意を測ろうとしているのか、まっすぐと青い瞳がこちらを見上げている。
「――確かに任せてくれていたな。その話だと思わなかった」
近くなる距離にこの人が自分の掌握の中にあるような感覚になる。
――――それに、ヴァイスよりも自分を選んでくれたということが気分を良くしてくれた。
エリーチェが先ほどコレットに軽率に抱き着いていたが、そうしたくなる気持ちが今ならよく分かる。言葉がなくても気持ちは伝えられるのだとこの人も昨日言っていたし、腕を伸ばせば叶うだけの距離が今はある。
心地好い高揚が伝わったのか、自信のある顔に戻っていく。――この表情をしている方がずっとこの人には似合っている。
「ふふっ、なら舞踏会の事もディアスくんに任せよう。もともと何かを教える気なんてなかったんだ。僕が学生の頃とは全然違うからねぇ、古い話を参考にしても戸惑うだけだと思ってたし」
「……左翼から聞いたので?」
「そうだよ。君のお兄さん方が心配しててね。――――別に当時も僕らだって周りを気にしなかったし、君たちも空気に飲まれずに自由にやればいいんじゃないかな。なんたって舞踏会だもの。自分が楽しんでこそでしょ。その方がきっと楽しめると思うし、せっかくの機会だ。のびのびとここでの学生生活を謳歌して欲しいと、僕は願ってるよ」
久しぶりに聞く左翼の名に、この学園にいるもうひとりのブロンドの人物を思い出した。
学園で流れる噂でも耳にしたのだろうか。初めて会ったときから適当にこの人を扱っているように見えたが、エミリオが懐くほどだ。嫌な気がしないのはこういうことろが要因な気がした。
心配している者が複数いるような気配に、ガレリオもその話を聞いて気にしているということなのだろうか。他の者という可能性もあるが、この短時間にヴァイスへ話があったことを考えるとその二人が妥当な気がする。
「――承知しました。ならディアスに教えを乞うことにします。」
「うんうん。ディアスくんはコレットくんと毎回参加しているからね、二人もよーく彼女に立ち振る舞いを聞いておけば間違いないよ」
リタとエリーチェへとヴァイスが助言しており、はーいと元気にエリーチェが返事をしていた。――――祖母は三人を姉たちに任せようとしていたが、もしかしたらこの辺りのことも見越してヴァイスは自分たちに三人を任せているのかもしれない。
なら舞踏会の件は元々予定されていたことなのだろう。用意周到なところがある奴だ、衣装の件を先に伝えたのも既に準備を進めているからに違いない。
「あともうひとつ、楽しいお知らせがありまーす。――今度のロマ学、担当のひとりはこの僕だよ。男子諸君、心して受講してくれたまえよっ!」
完全に人がいなくなったこの教室で大きく両手を広げ、ヴァイスの心底楽しんでいる声がそう宣言した。
「……ロマ学ってなんですか?」
聞きなれない言葉だったようで、三人が不思議そうにこの学園に関わる者たちに尋ねてきた。――だ意図的に記憶から消していた存在を急に突きつけられ、暗雲が立ち込め始める。
「君たちが聞いたことがないのも無理はない。『ロマンス学』――――、通称『ロマ学』は月に一度行われるこの学園ピオニールにしかない特別授業のことさ」
妙に決めているポーズと共にウィンクを飛ばしてその男は言う。
「教養や素養、感情や情緒の成長を促し、創造的かつ個性的に心を豊かにさせるため、倫理、哲学、宗教、文学、歴史といった様々な要素を絡めた講義を受けてもらうことになっているんだ。――ここで学ぶ学生諸君が社会を生きていくために大切なことを知ってもらうための授業だよ」
「へぇ……、そんな立派な授業があるんですね」
リタが関心しながら話を聞いている。
概要だけ聞けば確かにその通りだし、高尚な授業だと言えなくもないだろう。
「5年生までは基礎を学ぶため男女別れずに行われるけど、6年生からは具体的かつ実践的な話も含まれるから、細かく分かれて受講してもらっているんだ。――いつ社会に出ても問題ないようにしっかりと話を聞いてくれないと困るんだよねぇ~」
こちらを見てくる気配を感じたが、決して目を合わせないように廊下へと目をやる。――皆食堂のある階下へ行ったのだろう。人の気配はほとんどしないが、微かだが賑やかそうな声が耳に届く。
「女性陣はまた別の教師が担当するから、その時をお楽しみにっ。木曜の七限目だから、みんな忘れずに参加してね。――さて、僕からの話はこれで以上だけど、何か質問はあるかな?」
「はいっ! ヴァイス先生、『合歓の帝王』ってどういう意味ですか?」
エリーチェが元気に手を挙げ席を立ち質問した。――口に出された単語に思わずコレットと同時に彼女を見る。
「帝王……? 『王』とは違う存在がいるということか?」
「ヴァイス様のあだ名だって。この前聞いてからずっと気になってたんだ~。すっごくカッコいいあだ名だよね~!」
興奮気味にエリーチェがフィフスに説明しており、話を聞いたフィフスもきらきらと尊敬の眼差しをヴァイスに向けている。――――女子寮で聞いたのだろうか。禄でもない名をまさかこの場で聞くことになると思わず、頭が痛くなってくる。
当の本人はニコニコと毒気のない笑みを浮かべている。
その名の由来をはっきり伝えるならいい機会かもしれない。慕っている二人がどういう反応になるかは分からないが、彼がどういう人物なのか少しは警戒してくれるだろう。
「おやおや、随分と懐かしい名前だこと。――まぁ、よく我らがグライリヒ国王陛下といたから戯れにつけられたあだ名だね~」
無邪気な畏敬の眼差しを二人から受け、満更でもなさそうだが、ひどくもったいぶった様子だ。
「何か大事を成されたということでしょうか。」
「大した事はしてないさ。――ただいろんな人と仲が良かったから付いたあだ名だよ。僕は博愛主義なんでねぇ」
「……人気者だったってことですか? ――まさか学園アイドル? 王様とユニットでも組んでたんですかっ!」
はわわと興奮したエリーチェが盛大に誤解している。
学園アイドルってなんだ。
まして父とだなんて最悪の組み合わせ過ぎて、眩暈までしてきそうだった。――アイベルが傍に来たが、もしかして本当にフラついていたのかもしれない。
「――ふっ、昔の事さ。……もう引退したからそっとしておいてくれないかな」
誤解させたままにするつもりか、背を向けそう締めた。二人ははっと口を閉じ、その名を口にしないようにするつもりのようだ。
「そろそろ僕はお暇しようかな。――――午後の授業と、楽しい放課後のためにしっかりご飯は食べるんだよ学生諸君――!」
ひとつ振り向きピンと立てた二本指を軽く振り、軽快な足取りで教室を後にした。逃げ足が速い。
騒がしい奴があっという間に消えたため、静寂が訪れる。
「あの、……今の話、もしかして本気にしてる?」
「違うのか?」
躊躇いがちに二人に尋ねるコレットへと、二人の迷いのない目が向き、耐えきれずにリタを伺っている。
「ヴァイス様とはこちらで初めてお会いしたので私は詳しくなくて……。何か違うんですか?」
二人とは違う反応に期待があったが、望みが絶たれたようでこちらに最後助けを求めてきた。――困惑するコレットと、純粋に疑問に思っている三人の顔が揃う。
「……俺に聞かないでくれ」
期待に目を逸らし、これ以外に伝えられる言葉があるだろうかと考える。
厄介だけ残していく奴の後始末をする気はないし、あのような口の塞がれ方をした以上、真相を伝えたところで泥を被るのが誰なのかは目に見えている。
伏したままでいいこともあるのかもしれないし、学園にいる以上きっと真相を知ることもあるだろう。この空気をしばらく壊すことはやめた。