間奏曲 ――従妹2――
10月4日月曜日。
置いて行かれたことはショックだった。
だけど、予想外のところにあの人がいたのだから心配だったのだろう。
心優しいいとこのことだ。
あの程度の勝手、許してしまうのだろうと思えば気分は良くなかった。
「何をむくれているの? ほころび掛ける前の蕾みたいで、可愛いことになっているわ」
姉がこちらの気を知ってか知らずか、面白がるように頬をつついてきた。
「それにしてもあんなに足が速かったのね、あの子。いつものんびりしているから知らなかったわ」
そうなのだ。
さっきも席を立ったとき、歩いているはずなのにあっという間に階段のところまで行ってしまい驚いていた。スラリとした長身に腰も高い、足が長いことは知っていたが一歩があんなに大きいことを今まで知らなかった。
「頑張って追いかけないとまた置いて行かれるわよ、おちびちゃん」
「レティシア、そんな言い方良くないわ。コレットはいつでも可愛いわ、レティシアの言うことなんか気にしないでね」
気にしていることを言われ、恨めしい気持ちで実姉を見る。――もう少し身長があればいいのに。
姉たちはどちらも――――、ヒールの高さもあるが、いつも170センチ程はあり、彼と並んでも絵になるから羨ましかった。二人ほどの身長でもあれば、彼に追いつくのは簡単だったんじゃないだろうか。――背が低いことが恨めしい。
「あら、私もコレットのこと十分可愛いと思っているわよ? たったひとりの妹ですもの」
頭を両手で優しく挟み、キスするような仕草をした。
「もう! 髪型が崩れるからやめて」
「それだけ元気なら大丈夫ね。さあさ、様子を見に行きましょう」
くすくすと茶化すように笑われる。触れられた拍子に崩れた気のする髪型を気にしながら外へと出て行き、いとこを見る。――――エリーチェが呼び止めたようで、彼女と話をしているようだった。
「……ねぇ、コレ大丈夫?」
臙脂色で金糸の刺繍が入った柔らかいリボンを姉に見てもらう。お気に入りのデザインで、――お揃いの色だ。
確認するために姉が足を止めるが、すぐににこりと艶のある笑顔を見せてくれた。
「大丈夫よ。――またアイベルに頼んだのでしょ?」
その言葉に先にいるいとこへと視線を向ける。――彼も同じものを付けているのがよく見える。
「しようもない子ね。でもまぁ、そういうのは嫌いじゃないわ」
「お揃いだったの。あの子、無頓着だからな……。また気付いてないんじゃない?」
ふたりの姉が口々に感想を言ってくるが、まだ不満がくすぶる心が鎮まりそうになかった。
ただ、先ほど怒りっぽいなどと思っていないと彼が言ってくれた。――どちらかと言えば怒りっぽい方だと思っていたので、違うと思ってくれていたことが嬉しかった。
気の短い女だと思われたくない――――。
荒れる心を押さえつけ、ふわりと広がるスカートを確認しながら姉たちと彼の側へと行く。
同い年のいとこは王位継承者としての品格を備え、眉目秀麗な顔立ちにスラリと伸びる四肢が美しい。長くサラサラとまっすぐに伸びる癖のない髪も好きだし、できればあの髪を触ってみたかった。
同い年とはいえお互い良い年だ。気安く触れ合うことなど、特別な仲でもないのならすべきではないだろう。――はしたないと思われたくなかった。
穏やかな性格も、なんでも卒なくこなす器用さも、勉強のできるところも全部好き。
何でもできるのにそれを鼻にかけることなく、誰に対しても穏やかな態度でいるところも、姉弟にもいとこである自分たちにも優しいところも、そのどれもが好きだ。
他のことにはあまり関心がないのか、交わる気のない孤高なところも好きなところだ。――――それ故、誰もが軽率に付くことはしない。
そんなディアスの側に居られることは、選ばれた者だけの特別で――――、ただ隣にいるだけでも幸せがこの胸を満たしてくれる。
口数は多い方ではないが一緒にいるときの静かな時間が、呼吸すらも独り占め出来るようでとても好き。
どこを切り取っても素敵な人だ。
好いている色目もあるだろうが、皆に慕われるのは当然のことだろう。口にされるのは嫌いだろうが、双角が最も似合うひとりでもあると思っている。
あの姿を望む者は多いだろう。それほどまでに彼は完璧で美しいのだから――――。
『栄光の黒薔薇』、――――騎士道を学ぶ場のひとつであり、多くの貴族が在籍している。
コルネウスのこともディートヘルムのこともよく知っているし、六大貴族でありながらも我々に謙虚なところがあり親しむべき隣人でもあると思っていた。
そこに在籍する者たちの多くはディアスを慕っている。ただ当の本人は彼らをあまり快く思っていないようだ。
それでも彼らはディアスを慕い、尊重してくれている。将来を憂い、良くしたいと望むのはこの国を想う者であれば誰でも同じだろう。――――あんな人に言われるまでもない。
決闘を申し込んだと聞いたときは嬉しかった。ディアスの傍にいるべきなのはこの国の者で、彼を慕う人がいいに決まっている。邪魔な人を離せる機会を彼らが作ってくれたことに、話を聞いたときは思わず胸が高鳴ったことは秘密だ。
「……ミラ、この人は俺のせいで彼らに決闘を申し込まれただけなんだ。どうか怒りを沈めてくれないだろうか」
申し訳なさそうにこの場で怒っているミラに彼が謝っていた。
こうなったのはディアスのせいじゃないのに――――。
巻き込んでしまった罪悪感からひどく落ち込んでいるのだろう。だというのに、
「気にするな。私も腕試しが出来てちょうどよかったところだ。」
「もう、そういうところよ!」
軽率に人の神経を逆なでするような発言をするこの人は一体なんなのか。先程押さえつけていた不満の心が核となり、一気に心中に燃え上がるようだった。
だが感情的になって、この場を荒らすのは淑女のすべきことではないだろう。
――機会は必ず来るはずだ。その時に彼に寄り添うために何が必要か、深く呼吸をしながら荒れる気持ちをなんとか押さえつけていく。
「すまないが、王弟殿下に一言伝えてきていいか。皆先に行っててくれて構わないから――」
「なら俺が付き合おう。――彼らがまた貴方に面倒をかけたら困る」
面倒をかけてしまったからか、そう申し出てしまい一緒に教室へ向かう機会が失われてしまった。
いつもなら二人で行けるのに。
あの人がその場と機会を奪っていく――――。
静かに燃える熾火のような熱さが、胸の内から消えそうにない。だが新たな友人たちをここで待たせてしまうのも悪いと思い、渋々姉たちと校舎へと向かった。
「……ディアス様って結構気にされる方?」
軽いステップで隣に並んだエリーチェが訊ねてきた。ここに来て少ししか経っていないと言うのにエリーチェも分かったんだろう。彼が無用な面倒を引き受けていることに。
「……そうね、優しいからきっと自分のせいだと思っているんだわ」
「そうなんだ。そういうのって本人が気にしないで、って言ってもなかなか伝わらないもんね」
「えぇ、本当に。――そんなに気に病まなくていいのに」
ちらりと振り返れば二人で話しをしているようだった。父に用があるのではなかったのかと息を飲めば、ちりりと心に炎が立ち上がるようだった。
あの性分はきっと母親のせいだろう。――――誰もが彼を愛し慈しんでいるというのに、その事実を今でも素直に受け取れずにいる。
ただこの件はこれからも解消されることはないだろう。
だってその呪縛を植えた本人がいないのに、どう解消できるというのか。――――きっとこれからもずっと囚われたままだ。
出来ることと言えば側にいることだけ。……寮が近ければもっと気軽に会うことも出来るというのに、離れているからこそ理由がないと会えないことがとても歯がゆかった。
「昨日話した感じ、もっと気さくな感じがしたんだけどな」
「……気さく?」
変わった評価に思わず聞き返す。――――聞き間違えではないだろうか。
エリーチェは少し天然なところがあるようで、そこが面白いと思う反面よく分からないとも思っていた。
だから何かを勘違いしているのかもしれない。
「うん。ノリがいいというか、親しみやすい方だなーって。だから細かいことに気にされる方じゃないと思ったんだ」
「……え?」
「あ、でも誤解しないでくださいね。いいお友達になれそうだなって思ったんです」
慌てて訂正する彼女に困惑しつつ、実姉を見ればくすくすと笑っていた。ノリがいい? 親しみやすい……? どれもよく分からない話だ。彼女の感性だとそう感じる、ということなのか。
「楽しいお友達が増えてよかったわね。コレットのこともぜひお願いしたいわ」
肩に手を乗せられ、エリーチェとリタの前に出される。
するとエミリオが話しかけていた。
「あの、コレット姉様……。フィフスのこと、どうかよろしくお願いします」
いつになく真剣な顔をして急にそんなことを言い出した。頼みごとをされることも珍しいが、思ってもいなかった人物のことを頼まれて戸惑いが大きくなる。
「……もしかしてディアスから聞いたの?」
「はい、姉様と兄様がフィフスに、……大兄様のことを頼まれたと教えて頂きました」
久しぶりに聞くその呼び名に実姉も驚いていた――――。実姉とも仲の良い従兄の呼び名だからだ。
ディアスに似て口数の多い方ではなく、無愛想ながらも面倒見のいい人だ。その人の好さを特に実姉は好いており、わざと困らせては窘められるというのが二人がやり取りの常だった。
長兄とのことで度々ディアスは自責している。――――これもディアスが悪いのではなく、亡き母親のせいだ。
こんな事は口が裂けても言葉にはしないけれど、彼女の弱い心のせいで彼がずっと傷付いている。周囲にもずっと影を落とし続けているのだ――。
たまにギクシャクすることもあったけど、仲の良い二人だった。エミリオが学園に来る前まで、よくアストリッドが兄弟二人でいると微笑ましそうに見守りながらも、すぐに間に割り込んでは無理やり会話に参加していた。昔からのことなので二人も毎回受け入れてたし、弟たちが彼女の自慢であった。
そんな長兄のことを、ディアスがあの人に話したというのか――――。大切な兄弟のひとりではあるが、ずっと話題にするのも避けてたというのに。
「後で二人にも説明するけれど、そういうことなの。……コレットもどうか彼を邪険にしないであげてね」
アストリッドが弱々しい笑みを浮かべていた。こんな顔をしたのは、長兄がここを出る前の頃か。いつも実姉とどうしたらいいのかと相談し合っていた時によくしていた顔だ。
姿を消してしばらくは塞ぐこともあったが、周りに心配を掛けまいと表では気丈に振る舞ってばかりで、気付けばその態度が板につくようになっていた。
「……頼むって、何を頼んだの?」
問う声が震える。今一体どんな顔をしているのだろう。いろんな気持ちがぐるぐると胸中を渦巻いており、どういう気持ちなのか自分でもよく分からなくなった。
「ゼルが戻ってくる手伝いをしてもらうの。皆の協力が必要だって言ってたわ」
アストリッドがすぐ近くにいるエリーチェとリタを見た。――あの二人も知っているということなのか。
にこりとエリーチェが微笑みかけた。
「フィーは交渉事も得意だから任せて。味方でいるとすっごく心強いんだから。きっと元に戻してくれるよ」
「……そうね、あの御方もついてくれているから間違いないと思うわ」
憮然とした顔で腕を組んだリタの声は少々不貞腐れているようだった。――さっきの自分と似た態度の彼女に、もしかして他の人の目にはこう映っていたのではと冷たいものがひとつ落ちた。
「……あの御方って誰の事ですか?」
エミリオがリタに訊ねると、リタの目が大きく泳いだ。――――組んだ腕を外し、憮然とした態度も消えていく。姿勢を正し、気持ちを静めるためか胸に手を当て数回呼吸を整えている。
彼女の様子にエミリオ以外が察した。――――これは初日に見たものだ。
ようやく決心がついたのか、穏やかながらも強い信念を感じさせる眼差しをエミリオに向けた。両手を合わせ制服が地面で汚れるのも気にしていないのか、その場で片膝をつき彼に目線を合わせた。
「――――蒼の当代様です。遠い地に御座しますが、皆様のことを以前から気に掛けて下さっております。……あの御方にも大切にしている御兄弟がおります故、兄弟間の望まぬ不和を憂えておいでなのでしょう。――――『フィフス』をこちらに寄越したのも、協力できることがあればいかなる手を尽くそうということかと、愚見を申し上げます」
今迄と違う言葉遣いをするリタに驚きつつ、思ってもいなかった相手の存在が分かり二人の姉が目を丸くしている。
「……リタ、立ってください。……その、蒼の当代様は大兄様のことをご存知なのですか?」
「はい。――――他家のこと故、詳細は存じ上げませんが、此度あの御兄弟が派遣されたのはそういう御心積もりがあったのではないでしょうか」
「フィーも左翼さんも、当代様が大事にしている兄弟だからね。――――本当ならあの二人に国境なんて跨がせないけど、一番頼りにしているのがあの二人でもあるから、ここを任せたんだと思うよ」
豹変するリタに慣れているようで、立つよう言われてもその場から動かない彼女の隣でエリーチェが自慢げに伝えてきた。
「……フィーも、家族が離れ離れになることのツラさは良く知っているからね。私たちも協力できることがあれば力になるから何でも相談して下さいね!」
おばあ様の話とは違う様子に困惑するだけだった。――――弱った相手に取り入ろうとするために、あの人が遣わされたと考えた方が納得がいくというもの。
『あの小童は既に下流の学生たちの人心を手中に収めている。――数の利を彼奴が手にした以上、ここの全てを変えていく気だ。……くれぐれも足元を掬われるなよ』
先ほどおばあ様が口にしていた言葉が耳の奥で響き、一気に身体の芯が凍るような思いが身を貫いた。――きっと学生だけではない。姉もいとこも、本当に全部変えていく気だ。
今までの暖かで穏やかなこの楽園が踏み荒らされてしまう。
既に二人の姉も従弟も、いとこさえもが彼を受け入れている。
ディアスの大事な兄、ゼルディウスに帰ってきて欲しくない訳ではない――――。だけどこの異様な空気に誰も気付かないのだろうか。
大きな厄災が訪れる前触れのような、気味の悪い空気に。
「あぁ……、聡明でありながら思慮深く、慈悲のお心を持ち合わせていらっしゃるなんて、さすがは彼の御方……」
感極まってしまったのかぽろぽろと涙が零れ落ちはじめ、エリーチェがハンカチを差し出していた。
初日も軽い気持ちでどんな人を想っているのか尋ねたら、涙ながらに切々と説明された。彼女の話を聞いた寮の女子たちも、ここまで誰かを想える程熱い恋心を持っているなんてとリタに畏敬の念を向け、広く彼女たちに受け入れられていたのが記憶に新しい。
「あらあら、壊れてきちゃったわね。ここまで誰かに心酔できるなんて羨ましいわ。そんなに素敵な方なの?」
「えぇ、一目見ればその美しさに誰もが心奪われ、お慕いしてしまうのも無理はないかと……。だからお会いにならない方がいいです。同じ空気を吸うのも畏れ多いし、同じ空間に存在するのも烏滸がましくなりますから……。できることなら砂海の砂粒のひとつになって、認知されずに生きたい」
「……エミリオ様、ごめんなさい。リタってばこうなると長くて……」
感極まった次に卑下し始めるので、一周回って怖い。――好きな人の事を考えている内に、こういう思考になるのが分からなかった。好きなら傍にいたいと思うものではないのか。
中には共感する者もあったようで、寮内で何度かリタが他の女子たちと熱心に会話している様子を見かけた。
「うぅ……すみません……。気持ち悪いことは重々承知してるんです……。だけどあの方のことを考え始めると止められなくて……。いえ、私如きがあの方のことを考えるのも厚かましいというもの……。消えたい……」
まだ立つ気がないようで両手で頭を抱えて懊悩としている。実姉がリタの頭を撫で始めた。あまり身近にいないタイプなので、姉に新鮮な満足を齎してくれるらしい。
「消えたくなるほど好きだなんて素敵ね。リタってば可愛いわ」
姉にされるがまま、めそめそと泣いているリタを立ち上がらせ校内へと進んだ。
西口エントランスを入ってすぐに曲がればエミリオの教室は近いが、まだ気になることがあるようでそちらに向かう気配はなかった。
「……当代様はお顔が良いと聞きましたが、もしかして会うとみんなリタみたいになってしまうんですか?」
「うん、だいたいこんな感じかなぁ……。だからフィーがいつも大変そうにしてるねぇ」
その言葉にちらりとアストリッドを見て、不安そうにぎゅっと手を繋いでいる。
「あはは、リタのせいで怖がらせちゃったね」
「すみません、私が理性を失った面食いなばかりに……!」
涙は止まったのか、エミリオとアストリッドに悔しそうに謝っていた。
「ねぇ、……私の弟も器量はいい方だと思うのだけど」
何を張り合う気なのか、アストリッドがぽつりと呟く。
「……アストリッド様ごめんさい。殿下も悪くない方だと思いますが、……私の心が死んでいるばかりに、誰に会っても有象無象だと思ってしまって心が一ミクロンも動かないんです」
あまりの言い草と思いつつ、いとこの側にいても余計な気を起こさないような気配に安堵の方が勝る。
「ふぅん……。――ならその『弟君』とやらをぜひ並べてみましょう。ちょうど良い機会が金曜にあることだし」
手入れの行き届いた白い指を口元に運んだ実姉が、何か思いついたようだった。
「私たちの可愛い『王子』と蒼家の当代様とやらの『御曹司』、どちらに華があるか、――――ぜひみんなで鑑賞して比べてみるのは面白いと思わなくて?」
空いた手で肩を掴まれる――――。振り返り見れば、悪いことを思いついたときの顔をしており、絶対に逃がさないという意志が掴んだ肩から伝わる。
妖艶を湛えた瞳をこちらに向けて、にこりと笑った。――――有無を言わさぬときにする表情だ。
「あなた、今回も頼んでいたでしょう? しっかりと華らしく際立たせるのよ。リタとエリーチェも参加してね。……だけど|華《》がふたつもあるんじゃ、ディアスが可哀そうね」
口元に宛てていた手を頬に添え、思案している。
アストリッドは呆れてもいたが、先ほどリタにディアスを有象無象だと評されたことが引っかかっているようで口出しする気配はない。
リタとエリーチェは急な話に戸惑っているようだが、少しだけ見返す機会が得られたと思えば悪い気はしなかった。
――――好きになられるのは困るけれど、いとこが素敵な人であることを周囲に知らしめたい気持ちはある。
「あなたたちは私の知り合いを紹介してあげるから、フィフスには誰か別の人を用立てましょう。いろいろと寮で話が伝わっているから名乗り出てくれる人がいるか分からないけれど、――ふふっ、自らこの状況を招いた責任くらいは取ってもらいましょう」
実姉の言葉にリタが失言に気付いたようで顔が白くなり、エリーチェは状況が分かっていないのかぽかんとしている。
「さてと、どうやって採点しましょうか。――あぁ、予行練習だと思えばいいわよね。良いと思う方に花を送りましょう。どう? 楽しくなりそうだと思わない?」
エリーチェの胸ポケットの薔薇が視界に入ったからか、19日の事を思いついたからか姉がそう提案した。
「……悪くないんじゃないかしら。たまには違う遊び方もすべきよね。――久しぶりに楽しめそうで嬉しいわ」
アストリッドが同意をすれば、この思い付きは実行されることが決まる。
先ほどまで立ち込めていた異様な空気が、姉たちの思い付きによって霧散して行く。――だどのような意図を持って近付いたのか分からないが、ラウルス建国の時からこの国の中心でもあるアルブレヒト家の人間に、畏敬もなく近付く者など許しはしない。
神の国だかなんだかしらないが、己の分を弁えるべきだろう。誰を相手にしているのか――――。
仮に従兄が帰ってくるのであれば、その主導権は我々が握るべきだ。
昨日おばあ様が釘を刺したのは、こういうことなのかもしれない。
いつもは恐いと思ってしまうが、この時ばかりはあの人が自分の祖母で良かったと小さな胸を鼓舞してくれた。
まだ来ないいとこを置いて、教室へ三人で向かえば見知った者たちが朝の件でエリーチェとリタに話かけていた。
話題の中心はエリーチェが身に着けている花と、ここにはいないあの蒼家の人間だ。
ついでに先ほど姉たちの話を友人たちに伝えれば、皆が新たな試みに胸を高鳴らせているようだった。
「ディアス様って人気があるんだね」
嬉しそうにエリーチェが集まる人々の前でそう言った。……分の悪い賭けが行われていることに気付いていないのか、彼女の純粋さにわずかばかりだが心が痛む。
「普段はみんなディアス様とどんなお話しをされるの?」
「あまり賑やかなのは好きじゃないから、静かにしていることが多いわ」
昨日は不貞腐れて校内を皆で回るという話を辞退していたから、詳しくは知らないが――――、アストリッドが言うには朝から一緒にエリーチェたちがいとこといたらしい。
リタもエリーチェも、どちらかと言えば賑やかなので一緒にいて大丈夫だったのだろうか。
個人的にはこの二人の事は嫌いではないが、ディアスは女子が傍にいることをあまり好まない。――多分『ロマ学』のせいだ。
あれは男女に別れて行うため、一コマだけではあるが側に居られないことが残念だった。――昔はそうでもなかったのに近年はあの授業を受けるのが苦痛なようで、何も考えないようにしているのをよく見る。
受講した学生の反応は半々なので、ディアスだけが特別苦手に思っているという訳ではないだろう。
なんとなく皆の反応を察するに、生々しい話も普通にされているのだろう。情操教育の一環なので、あれだけは受講が義務付けられているため誰も避けられない。――――女子の方は比較的受け入れてる空気だし、自分も嫌だと思うことがあまりないので、男子だけ別の話をしているのかもしれない。
いとこの不幸とも不運とも言えない境遇を哀れに思う。
こちらの返事にふーんと言い残し、ロサノワに属する者がいたことからエリーチェの興味はそちらへと移していた。
気さくで天真爛漫なところが珍しいのか、男子たちには好意的に受け取られているようだった。――多分、何かに巻き込まれていることを察しているのだろう。
紳士な彼らが、エリーチェの質問にいろいろと応えているようだった。
「あの、コレット様、さっきはご面倒をかけてすみません……」
申し訳なさそうにリタがこちらに声を掛けた。この教室に入るまで、道すがら周囲の人間の注目を浴びていたのが慣れないようで、萎縮していたリタがやっと口を開いた。
「大丈夫よ。リタはあまり人前が得意じゃないのね」
自分の意志をはっきり伝える強さがあるのに、急に萎縮する姿が意外だった。
注目を集めることが苦手という部分がいとこに似ており、少しだけ頼られることが嬉しくて余裕が出てくる。
「普段は人前に出ることなんてないから、緊張しちゃって……。でもコレット様が良くして下さるから今は安心しています」
先ほどの情緒不安定なところはすっかり鳴りを潜め、今は落ち着いていた表情を浮かべていた。
「――昨日はみんなで校舎を見て回ったのよね。どうだったかしら」
その話題に友人たちが集まってくる。姉たちが留学生たちと校内を回った話は知っており、好奇心から話を聞きたがっているようだった。
「はい、ヨアヒム様の案内で校内の主要な場所を案内して頂きました。私も学校には通っていましたが、偉人を多く輩出しているとかは特にないので、この学園の重厚な歴史を感じられて、始終圧倒されるばかりでしたよ」
ぱっと表情が明るくなる。
父の案内に委託感銘を受けてくれたのだろうか、そんな素直な感情を表す彼女を可愛いと思う。
「――――ねぇ、例の御曹司サマが貴女と一緒に女子トイレに入ったと聞いたのだけど、それって本当なの?」
くすくすと友人のひとりが訊ねていた。いじめの現場に駆け付けたと聞いていたが、大胆すぎる行動に様々な噂が女子寮にも広まっていた。
下流の学生たちが起こした事件だ。もしかしたら今朝の講堂での賑わいもその事が原因なのかもしれない――。
結構な人数がその現場を目撃したそうで、昨夜幾人からか話を耳にしていた。
「……えぇ、そうですね。あの人は体面なんか気にしないので少々困ることもあるんですが、困っている人がいたので一緒に駆け付けただけです。どうか誤解なさらないで下さると助かります」
粗野な身の振り方に、周囲の人間が困っている。出来れば早く仕事を終えて帰ってくれればいいのにと、また気持ちが重くなった。
「殿下も哀れに思ったのか、その彼を庇っていらしたそうね――」
思わずその発言者の顔を見る。―
―――庇う? 誰が誰を?
「でも無碍になされたそうよ。殿下の優しさを大事になさらないなんて――――、流石によろしくないのではないかしら」
「……そうフィフスに伝えておきます。皆様のご忠告、感謝いたします」
胸に手を当て、少々硬さのある笑みで彼女たちに言葉を返していた。
すると周囲が静かになり、皆が見つめる方向に視線を添わせる。
ディアスだった――――。静かながらも皆の注目が集まるこの状況、きっと戸惑っているだろう。
だけど、今された話がよく分からなくて、何をどうしたらいいのか急に覚束なくなってしまう。
入口といとこの隣から、一人の学生服を着たその人が前に出た。――――王子であるディアスよりも先を行くなど、不遜で無礼ではないのか。
そんな空気が周りに漂うが、誰もそれを口にする気はない――――。変わらずに静けさが周囲に満ちている。
「二人ともおかえり~。今は授業がないんだね。自由時間があるなんていいね!」
エリーチェが無邪気に彼らの側に向かった。
「そうなのか。自由時間って何をするんだ? 学生は学ぶのが仕事なのでは?」
周囲を一瞥した後、いとこのことを二人が見ている。
……さぞかし困惑しているのではないだろうか。何か助け船を出した方がいいと思うのに、心が引っかかり自由にさせてくれない。
「……自由時間じゃないから。課題をやる時間みたいだから、二人ともこっちに来なさい。――殿下の分もお持ちしていますから、どうぞ」
先程とは違い、呆れながらも棘のある口調のリタが彼らを招く。――今まで普通に話していたのに、口調も態度も変わる彼女に側に居た自分も女子たちも驚いていた。
「あと来るの遅すぎ。――無駄に殿下をお待たせしたんじゃないでしょうね?」
この態度はいとこにしている訳ではなく、蒼家の人間に対してのようだ。それでも遠慮のない彼女の口調と態度に、ただただ困惑するばかりだった。
「外からここまで距離があるんだから、こんなものじゃないのか。――というか、随分と人がいるんだな。机と椅子も固定されているのか?」
「人数の多い授業ではこういった場所を使っている。――聴講式授業の時は、この形式の方が都合がいい」
リタのことも、不思議そうに教室を眺めている彼に対しても、気にすることなく説明していた。――――自分の位の高さを鼻に掛けることはないと分かっていたが、随分と彼に親切にしていることに驚く。
心優しいいとこのことだ。良かれと思って口にしているのだろうが――、なんだか違和感がある。
エリーチェの招きで席に着こうとしており二人が彼を真ん中に据え、ディアスがいつも通り隣に座ってくれた。――いつもと違う状況だが慣れた関係に少しだけ安堵する。
少しすると前の三人がノートを手に、なにやら筋違いな話を始めて恥ずかしさが襲う。
――こんな基本的なことも知らないのか。
先程ここにいた女子たちも彼らのやり取りを聞いていたようで、離れた場所で肩が小さく揺らしてる。小さく後ろのやり取りを見る者もいた。
リタがレベルの低い会話に苦悩しているのが伝わる。だからあんな棘のある態度を取っているのだろう。彼女の豹変する態度の理由が分かると、隣のいとこが前に身を乗り出していた。
「――――フィフス、ノートなら俺のを見ればいい。いきなり授業についていくことは難しいだろう」
とても優しい声色だ。一体誰に話しかけているのというのか――――。
すぐ横を見れば、嫌でもその状況が視界に入る。
「教科書も渡されてないならなおさらだ。――説明するから隣に来るといい」
わざわざ隣に座るよう招いており、いつもと違う彼の行動にただただ呆気にとられる。
どうして――――。
「リタひとりで二人を見るのは大変だろう。最初にも彼の事は引き受けると伝えていたし、フィフスのことは任してくれ。この課題も後で一緒に説明する、エリーチェもそれでいいか?」
誰かに手を差し伸べる姿なんて、見たことがない。
あってもエミリオや私が少々覚束ない時に、手を差し伸べてくれるだけだった。――――誰にも交わらないところが好きなのに、どうして今は『隣』ではなく下を見ているのか。
普段不得手にしている女子にも優しくしている。
素直で天真爛漫なところが、ディアスにも響くのだろうか。
リタのこちらではあまり見ないツンケンした態度が気になるのだろうか。――――二人にその気がなくても、もし彼が興味を持ってしまったら困ると慌てて追いかける。
今朝姉が言っていた。頑張って追いかけないとまた置いてかれる――――。
「……わ、私も、――私もサポートするから、全部ひとりで背負わなくても……」
すぐ隣に座るその人がこちらを向いてくれた。
いつもより穏やかで、優しい表情をしている。
「あぁ、コレットの事も頼りにしている。――二人とは同じ寮だし、俺には及ばないことも多いだろうから、力になってあげてくれ」
暖かな眼差しを向けて貰えるだけでも嬉しかったが、頼りにされていること、小さく微笑みかけられたことに心臓が大きく跳ねた。――――これ以上直視できずに反対側に顔を背ける。一気に顔が紅潮するのが分かる。首まで赤いんじゃないかと、気付かれるのではないかと気が気じゃなかった。
そんな顔をされるなんて思わなかった――――。
「……その、……無理はしなくていいから」
「……うぅ、その、大丈夫……」
知らない一面がまだあったことを知るも、彼にこんな優しい顔をさせるあの人がずるい。
優しいのは知っていたが、身内でもない彼がディアスに大事にされているのか分からない。――ずるいではないか。
同じ男子だから通じるものがあるのだろうか。――『弟』同士だから分かり合えるものがあるのだろうか。彼の興味を引くその青い眼のせいなのか。自分にはないものを持っているこの人がずるい。ずるい。ずるい。
悔しさと羨ましさがないまぜになりながらも、でもやはり彼が好きだという気持ちで胸がいっぱいになり、涙が溢れそうになった。
先ほどのリタみたいだなと、冷静な自分が語り掛ける。
でもこんな人のたくさんいる場所で涙を流すなんてこと、まして隣に好きな人がいるというのにそんな恥ずかしい姿をこんな場所でさらけ出す勇気がなくて、じっと息を飲んで気持ちが鎮まるのをひたすら待っていた。




