56.開幕は蒼穹の『剣舞』より⑥
授業が終わる鐘が鳴り響いた。
次の時間に向けて校舎内の空気が一瞬で変わる。次の授業まで10分だけ時間があり、移動と準備を済ませなければならない。
エミリオのような低学年生は同じ教室で同じ学生と授業を受けるため今の時間は休息となるが、6学年以上は各個人が必要な授業を選択するため毎時間教室を移動することとなる。
「学生ってずっと忙しないんだな。」
「そう? 向こうでもいつもこんな感じじゃない? 鍛錬したり、仕事したり、たまにサボりに出掛けて、また仕事で呼ばれたりって忙しなくしているじゃん」
隣にいた二人が立ちながらそんな話をしていた。
フィフスの筆記用具とノートはエリーチェが持っている。彼女の私物しか入っていないカバンは、勉学の邪魔だとミラに注意されたようで、結局彼女自身のカバンと必要最低限のものしか持ち歩くことが出来なかったようだ。
「貴方でもサボることが?」
気付けば仕事をしているところしか見ていない。――――以前からセーレもその件で悩んでいたし、今回もヴァイスが休むのが下手だという話をしていた。
ラウルスの文官たちからも休めと言われているのに、この人でもサボるという行為をするのかと意外に思った。
「あぁ。同僚に付き合って街に出たり、食事をしたり、休んだりしているな。」
「あはは、生粋のサボり魔がすぐ近くにいるんだよね~。――フィーたちにずっと隣で仕事されるのが嫌だから、あれこれ理由つけて連れて行かれるよね」
「だがアイツに付き合うことはいい勉強になっている。街の歩き方をアイツが教えてくれたから、お前たちを連れて歩くことが出来たんだからな。」
教室を後にしながらフィフスがこちらへと振り返った。
「そうだったのか……。ならばその人に感謝しないとな」
ヴァイスが街を歩くのは慣れていると言っていたが、この人自身の習慣ではなくその同僚のお蔭だったのか。自信ありげな顔がこちらに向いているが、その自信はその人に裏打ちされたものなのかもしれない。
「感謝しなくていいですからね。殿下にお墨付きなんか貰ったら、アイツ、今まで以上に堂々と仕事しなくなりますよ」
その相手を知っているのか、リタが苦々し声をしていた。
最初にこの教室に来た時にも思ったが、今もコレットと並んでおり、だいぶ打ち解け合っているように見えた。――従妹も多少は気持ちに整理がついたのか、顔は合わせて貰えないものの普通にしようと努めてくれていた。
「いつもどう仕事をしないで済むか、人にやってもらうかってことばかり考えているんだから……。――いい加減自分の立場を顧みて欲しいわ」
「誰にでも得手不得手があるものだ。出来る者がやればいいし、居るだけで十分なんだからあまり無理強いをしてやるな。」
「そんなに甘やかさないでいいのに。だからミラ姉に目を付けられるのよ」
「甘やかしているつもりはないし、アイツもやるべきことはやっているだろ? 異なる立場の存在がいるということは大切だ。同質の存在ばかりに囲まれることは、慣れや安心もあるだろうが、何か問題があった際にどうしたらいいか分からなくなる。目の前にある選択だけが全てでないと、誰かが示してやらねばならないだろう。」
昨日していた兄の話にも繋がるような話題に、耳を傾ける。
同質の存在とは自分たち姉弟のことだろう――。あの時自分も兄も互いにどうしたらいいか分からず、引き止めることも守ることも出来なかった。
じくじくと後悔が胸中に広がるが、リタと話ながら前を向いていたその人がまたこちらに目を向けた。
「それにディアスが感謝したいと思ったならぜひしてやってくれ。いずれここに来る予定だからな。直接お前に礼を言われでもすれば、機嫌も良くしてくれるだろう。」
軽い調子でさらりと言われ、締結式に参加する人なのかと気忙しくなる。
『友人』に尊重され、居るだけで十分などと言われる相手がどんな人なのか興味はあった。
「確かに~。愛想はいいんだけど、意外と人見知りするからなぁ。殿下たちから声かけてくれたら安心すると思う」
「ついでにコレット様もこの人の苦情はソイツに言ってくれていいですよ。それくらいの仕事はしてもらわないと」
「――その人物ってどんな人なんだ?」
「北方天だ。年は私のふたつ上だが、12月生まれだからまだ17か。――そんなに私やお前たちと変わらないから気を遣うことはない。気を使われるとすぐに疲れてヘタってしまうからな。」
気遣っていたのは同じ立場だからかと分かるも、リタの話からこの人とは正反対な性格のようだ。――冷たい物言いのリタから、なんとなく彼の仕事をほとんどこの人が引き受けているのではと言う気もしてきた。
祖母も面倒な性格をしていると話していたが、気難しいという意味ではないようだった。
想像していたものよりかは親しみやすそうな性格のように思えた。
ツンとした態度のリタから、ふとあることが浮かんだ。
「リタは北方天相手にも容赦がないんだな……」
ラウルスの文官たちにも辛辣な評価を付けているだけでなく、東方天だと知っているであろうこの人にも遠慮がない。――身分を隠しているためにそう振る舞っている、または親しい間柄だからかと思っていたが、北方天相手にもこういう態度なのが不思議だった。
アルブレヒト家でも王位に近いかどうかで周囲からの扱いに差はあるし、自然と順位や序列が決められていく。――幸いにも父はそういう扱いをしないよう周囲に伝えているが、人々の中にある昔からの習慣や思想を変えることは難しい。
だというのに、聖国では神に選ばれた人に対してこうも気安いものなのか。元の習慣が違うのか、彼女たちの気質のせいなのか気になった。
「それはまぁ、身内なので……。立場もお役目も大変なのは分かるけど、それ以上に甘ったれなんで敬う要素がないと言うか……。――公式な場とかではこんな態度はしませんよ? 内々の時だけですから……!」
話しながらまずいと思ったのか、慌てて訂正してくれたが、彼女の素直に表現するところは存外嫌いではなかった。きっと本人にもこういう態度なのだろうし、変に取り繕われ裏表があるよりかは気安くて丁度良いと思えた。
「……聖都に来たばかりの時は、リタも大人しかったよな。いつからこんな風に……?」
怪訝なフィフスに見られたからか、リタの顔が一気に紅潮した。――――四年前にクリスが聖都に来たはずだが、それ以降に聖都にリタが聖都に来たということなのか。その頃から親しくしていたのだろうか。
「もうっ!! 誰のせいだと思ってるのよ!?」
「……誰のせいだ?」
「フィー、そっとしておいてあげて。……リタにもいろいろあったんだよ」
エリーチェが静かに二人の間に入りフィフスを離せば、リタがエリーチェの背に隠れながら火照る顔を扇いでいた。――初めて顔を合わせた時も自分の意見をはっきり言うタイプだと見受けたが、大人しい時分のリタというものが想像できなかった。
仕方なしにフィフスが二人から距離を取るので、隣へ行き話題を変えることにする。
「さっきノートを使ったことがないと言ってたが、普段記録はどう取っているんだ。覚えることも多かったんじゃないのか?」
「記録は別の者が取るし、それ以外だと玲器を使って記憶を残すことが多いから、メモを取るくらいしか自分で書かないな。」
「記憶を残す……?」
軽い気持ちで訊ねただけに、想像外の話だった。――玲器とは精霊術が込められた道具のことだ。特殊な道具を使ってでも記録を残すというのか。
「昔から聖国では記録を残すことを大事にしている。四家にはそれぞれ記録を保管する部門があるんだが、蒼家は主に玲器を使って、家の者たちの記憶を残しているな。人が意識している間の記憶は頼りないが、無意識下の情報が頭の中には膨大にある。それを収集分析して、また別の者が体裁を整えた上で記録を保管をしているという訳だ。」
無駄なく合理的な記録方法が、向こうでは確立されていることを初めて知る。――――人の記憶に直接関与するなど神の国では普通の事なのか。個を尊重しないやり方に眉を顰めざるを得なかった。
気安い口調で説明してくれているが、きっとこの人の全てが記録されているのだろう。――――情報を自分で制限してしまうのも、家の所為かと思えばいい気はしない。
「あと、思考をまとめるのは筆記だと遅くないか? サイン程度なら別に構わないが、手で書くのが煩わしいときは精霊を使って一気に記録してしまうな。早く終わらせたいときに使うんだが、綴られるとめくる手間があって面倒だ」
心底面倒だと思っているような口調だが、こちらを見て眉尻が下がった。
「……どうして怒っているんだ?」
「ちょっと……、なんで目を離すとすぐに問題を起こすのよ!?」
「待った、別に怒っている訳では――――」
顔色が落ち着いたリタがまたフィフスに絡みに行く。不快感が顔に出ていたかと眉間に手を当てると、またエリーチェが二人の間に入って仲裁していた。
「まぁまぁ、フィーがノート嫌いってことは分かったからこの話はやめよう。ね?」
「なるほど、お前が引っかかっていたのはそこか。別に筆記具を貶す意図はなかったが、すまなかった。」
「そこなの? 本当に殿下が引っかかってるのそこだった?」
素なのか分からないが、二人の誤解にリタが呆れていた。
「……ディアス、どうかしたの? 何か嫌なことでも……?」
反対側からコレットが心配そうに様子を伺ってくるも、何事かと周囲の人間が横を通り過ぎるのをやめ、遠巻きに見ていた。
――――唐突にいつぞやのヴァイスの話が思い起こされ、この状況に居たたまれなさが襲う。
普段身内と一緒に共にいることはあっても、それ以外に余計な関心を持たれたくなくて誰かといることなど滅多になかった。
気安い人柄に随分と気を許していたが、周りから見れば好奇の対象だろう。先程衆目の前で顔を見せていた異国の学生が三人もいる。――――フィフスだけでなく、リタとエリーチェもきっと周囲の関心を引いているはずだ。
ヴァイスが茶化していたが、学園ハーレムなどと下らないことに興じるつもりは毛頭ない。だがそんな噂でも立たれてしまっては困る。ふたりの様子からこちらに気のないことは分かっているが、彼女たちをきっかけに人に寄り付かれるのは避けたかった。
誰かを選ぶことも、誰かと共になることも、今は考えていない――――。
「……どれも違う。――、」
謝罪の言葉が出そうになるが、目の前にいるその人と目が合った。もう困った顔はしておらず、腕を組みまっすぐにこちらを見ている。――――これがノートを貶したことに対して謝罪している態度なのかと思えば、苦笑するしかなかった。
先ほどの話もこの人が悪い訳じゃない。
――気になることは後程個別に伝えればいいだろう。例えそれが蒼家に伝わることになっても、恐らく自分がフィフスが誰かを知っていることも分かるはずだ。
だったらリタのように、どんなことでも素直な感情をこの人にぶつけるのは悪いことでないように思えた。取り繕ったところで、本人に届かなければ意味はなく、――――もっとクリスを大切にして欲しい。
「――いや、本当になんでもない。もうフィフスも気にしないでくれ」
一瞬きょとんとした顔をしたが、分かったと返事をしていた。リタは納得していないようだが、これ以上追求するのもやめたようで落ち着きを取り戻す。
「――教室はもうそこだ。次は歴史だったか」
「えぇ、……そうね」
横にいるいとこに訊ねれば小さく返事が返ってきた。好奇から集まっていた人々も、こちらの動きに合わせてか散っていった。
「歴史か! こちらはではどのようなことを教えているのか非常に興味があるな。」
組んでいた腕を解き、嬉々とした声に変わる。
「……文学には全然興味なさそうだったな」
「普段触れないから、よく分からないだけだ。――こちらの文学を嗜む者は多いから教えて貰えることは有り難いし、良い機会を得られたと思っている。」
教えると言っても別に作品の解説をした訳じゃなく、課題に対しての考えを伝えただけだった。――エリーチェはおぼつかいなところがあったが、この人は理解が早く対応力があるのだとよく分かった。
『青龍商会』は物事を解決することを生業にしていると説明があったが、問題の本質を見抜き解決に至るための思考訓練でも行っているのだろうか。
そうでなくてもこの人は神の代行者として祀られている存在だ。こうしてその座を降りれば普通の、――――他愛ないことに一喜一憂するひとりの人間だと分かる。
「……気になる話があれば解説しようか。どちらかと言えば本は読んでいる方だと思うから、分かることも多いかと」
「ならお前たちの好きな本を教えてくれないか? 最近読んだものでもなんでもいい。――できれば本屋で手に入るやつがいいな。」
コレットにも伝えているようで、ちらりと隣を歩くいとこにも目を配っていた。
「もちろんアストリッドやエミリオ、レティシアの好きな本もあればそれも知りたい。ヨアヒム殿下やお前の両親でも構わないぞ。」
にこりと笑顔を見せているが、思ったより広く身内の名を出されて呆気に取られる。
「良い機会だからな。お前たちのことを良く知りたいと、私は思っている。」
「……叔父上や父がどんなものがお好きか分からないが、時間のある時に聞いてみよう」
一体何冊の本を紹介しなければならないのかと一瞬考えるが、ご機嫌そうな様子にただただ苦笑するしかない。
「待て待て。アンタ、殿下の弱みでも握ってるの?」
「失礼だな。ディアスはいい奴だという結論にはならないのか。」
「そうだよリタ。殿下はいい人だねぇ」
昨日と似たやり取りをする三人に、コレットだけでなく周囲の人間も呆気に取られているのか静かになった。――ヴァイスの戯言に一瞬心を乱されたが、落ち着いてみればどうということはない。
そうだ、今まで通り気にする必要はない。
週末の舞踏会も、誕生日の件もそうだ。――今は先の事に思い悩むより、今の時間がずっと大事だ。
少し離れたところで見ていた制服を着た学生たちが、「あれが蒼家の御曹司……」と口々に話していたが、その声はこちらまで届くことはなかった。
目的の教室へと着くと、少ないながらも授業が始まるまでの短い時間を堪能している者たちがいた。――先程に比べて教室は半分程度の広さで、椅子と机が固定されている。最大50人程度は学生が使うのだが、満席になることは少ない。まもなく次の授業が始まる時間だが、教室には40人いるかいないかといった人数しかいなかった。
三人掛けの席が四列並んでおり、窓からはこの街が見渡せる位置に面している。
先ほどいた教室は中庭に面しており、窓の向いはまた別の教室となっていた。陽光はあまり入らないがこの教室に比べれば静かな場所であった。
こちらは窓から日差しが良く入るため明るく、それにつられてか賑やかな学生たちも多い印象があった。
教室の後ろから入るなりエリーチェは窓際まで駆けて行った。小さく空いていた窓を勢いよくエリーチェが開ければ、後からフィフスも窓の外を見にそちらへ進んだ。
「……もう授業が始まるわ」
戸惑いがちに二人に声をコレットが声を掛けると、フィフスがこちらを振り返る。昨日はもう少し高い位置から外を眺めていたが、この高さでも満足なのかエリーチェは景色を堪能しているようだった。
移動する様子がないことから彼女らの側の空いている場所を取れば、やっとエリーチェが窓から離れ隣のフィフスに声を掛けた。
「ねね、また黒猫がいるよ。さっきと同じ子かなぁ」
「目印を付けられないから何とも言えないが、そうかもしれないな。」
「……猫?」
「そうそう、あの屋根のとこ。今朝も講堂に来てたみたいなんだよね」
楽しげにエリーチェが窓の外を指させば、貴族街の方だろうか、――黒い小さな点のような姿が見え、それは屋根伝いを歩いてどこへともなく姿を消していった。
「……今朝見ていたのはそれなのか?」
「うん。フィーが気になるって言ってたから」
鐘が鳴り、次の授業の時間に切り替わる。――幾人か席を立っていたが、音と共に慌ただしく席に着く。その慌ただしさにつられてフィフスをこちらに押しやりながらエリーチェが座り、前にリタとコレットが並んで座った。窓際の一番後ろとひとつ前の席を陣取ることとなった。
教師も鐘の音が終わる前に教師も入れば、授業が始まることとなる。
エリーチェがカバンからどれを出せばいいか分からなくなったようで、結局全部を並べていた。――見かねたようで反対側にアイベルが移動し、必要なものを手先で伝え不要なものを机の端に置いていた。
「――ありがとうございます、アイベルさん」
小さな声でエリーチェが侍従に礼を言えば、静かにその場を離れていった。
前回の続きから授業を始めるようで、簡単な復習を交えながら教科書の説明に入る。
教師の講義を聞くことがメインで、必要なことや重要なことは黒板へと書いてくれる人なので比較的簡単な授業でもあった。
教師の指示に従い教科書のページを開き、隣に見えるように差し出す。エリーチェからノートと筆記用具を渡されているその人は、白紙のノートに何か書いている。
まだ何も板書する必要はないのだが、興味のある話がさっそくあったということか。――右手に持った手はさらさらと動くが、何を書いているのかは右側にいる自分には見えない。反対側のエリーチェがそれを見ているようで、同じように目で何かを追っている。
すると、手が退かされ二人の視線がこちらに向く。
『この時間はどうすればいい?』
まっすぐな性格が出ている。端正な文字が並んでおり、筆記で訊ねられていることに気付く。どこに返答をすればいいのかと逡巡すると、今使っていたノートを差し出される。――――ここに書けということなのだろう。
少し引き寄せ、続きの行に記す。――自分の字ではない続きに文字を書くという行為が初めてで、すぐに返事が出来る手紙のようでなんだかくすぐったい。
『指示されたページの説明をしている 教師の話を聞いて、必要なことがあればノートにメモを取るといい』
教師が話しているあたりを指先で示せば、エリーチェは自分の教科書を手元に引き寄せ、前後を確認しながら読んでいるようだった。――今は1,500年前の政治を中心とした、その頃の出来事や文化について解説しており、前提知識もだいぶ必要なことから隣に座るその人も話が分かるのかと横を見る。
教科書は見ていなかった。肘をついているが真剣な眼差しで教卓に立つ教師を見つめ、単調な口調で伝えられる話に耳を傾けている。
傾聴する、といった姿勢か――。深い空の色をしたその瞳が、遠い過去に想いを馳せているのだろうか。
途中大戦の話にも軽く触れられるが、どの話題にも微動だにせず静かに話を聞いており、本家でもこのように教えを受けていたのだろうかと想像した。
途中教師が背を向け、黒板へとまとめや教科書に記されていない事柄を書き始めた。――周囲の人間も一斉に板書をするが、短い筆談で使ったそれを使う気配はなく、悠然とした態度で周囲を見ているようだった。学生というよりは教育実習を受けているようだ。
従姉が教師かと訊いていたことを思い出し、可笑しくなる。この姿があながち間違え出ない気がしたからだ。
教師が黒板を使い終わると、板書をする学生たちのために窓際へと移動した。ひとまず板書を写していると、じっとこちらがノートに写している様子を見ているようだ。
ひとつ前の時間でノートを見せると言ったからだろうか。ただ書き写しているだけなので、真剣に注目されるのは些か戸惑うものがあったが、頼られるのは気分が良かった。
しばしこちらを注目していたが、自分のノートに何かを書きこちらに差し出した。
『教師は何をしているんだ?』
顔を上げて教師を確認すれば、薄く空いた窓の隙間風を感じているようだった。――――老齢な教師だ、いつも穏やかながらゆったりとした授業を行う。周囲を見ればまだ書き写しているような姿が見受けられ、それを待っているように見えた。
『学生が書き写し終わるのを待っている』
一言書き返せば、納得したようだった。
『貴方は書いて覚えたりはしないのか?』
気になり追加で質問を添えてみた。小さくノートを引き寄せ、続きを書けばすぐにこちらに見えるように差し出してくる。
『見て知り、聞いて教わり、実践で覚える』
実技の話だろうか。――自信ありげにこちらを見ており、もう一度ノートを手元に持って行った。
『実務も公務も周りの人間に教えて貰いながらやっている 何度かやっていれば身につくから、本当に覚えるべきことは少ない』
『友人』が東方天として聖都に戻ったとき、祖母も周囲の人間もその立ち居振る舞いや言動に圧倒されたと言っていた。――今隣にいるこの気安い姿から想像できないが、そのような振る舞いを教えてくれる存在が常に傍にいたということなのか。
『学生でいることの方がやることも覚えることも多いだろう 試験が特に大変だと聞いた』
『普段の授業に付いて行ければ、それほど難しいことではないかと』
返事を書き終わると、こちらで筆談をしていることに気付いたエリーチェが催促をしていた。――どうやら混ぜて欲しいようだ。
真ん中に座る友人が彼女に静かにノートを渡せば、嬉しそうに短いやり取りを見た後、続きに何かを書き始めた。
『朝教室に向かう時、レティシア様に舞踏会に出るよう言われたよ フィーはどうする?』
ずいと出されたノートに角の取れた文字が並んだ。その文字に訝しげに眉を顰め、そのままこちらに視線を向ける。――その顔は、レティシアをどうにかして欲しいということだろうか。
意図を測るも、続きをその人が書き、エリーチェへと見せていた。
『どうするとは参加の是非についてか? 参加が必要ということであれば相手役が必要ということか?』
『絶対参加だって 私もリタもレティシア様に人を紹介してもらう予定だから、フィーも相手を見つけなきゃかも』
教師が教卓へと戻り、止めていた授業を再開した。
『後でまた話そう』
大人しくエリーチェが頷くと、また先ほどと同じように静かに教師の話を聞いていた。
あの従姉なら確かに言いそうな話だ。――――だがこの人もあの場に参加すると思わず、一体どうするつもりなのか、誰と参加するつもりなのかと気になった。
社交的な人だから、誰か適当な人を見つけてくるかもしれないし、従姉が誰かを用意するつもりなのかもしれない。
いや、たかだか二、三時間で終わる行事だ。そんなに真剣に悩まなくてもと思ったが、貴族の女子たちからの評判をわざわざ下げていたことを思い出す――――。
相手になってくれる者は、果たしているのだろうか。
元は男女で行われる行事ではあるのだが、同性同士、友人同士で参加する者も多い。――だが男子寮でもコルネウスたちに目を付けられたことから、相手になりたがる者はいないだろう。
一般生徒から見繕うつもりかもしれないが、その相手は舞踏会でのマナーやルールを知っているのだろうか。上流階級が中心で行われる中、この人が相手の格を気にしなくても周囲は無用な揶揄を飛ばすかもしれない。
相変わらず静かに教師の話に耳を傾けている姿を見れば、この人がつまらない者たちに貶されることなどあれば我慢できる気がしない。
教えられることはあるだろうが、それでも相手が必要なことだ。――詳しいことを確認する必要があるだろう。
この人の隣に相応しい相手がこの学園にいるのか、正直見当もつかなかった。
この件は気にしないでいいと思っていたのに、こんなにもすぐ頭を悩ませることになるなんてと、小さくため息をついた。