54.開幕は蒼穹の『剣舞』より④
演台の前に立つかと思えばその横を通り過ぎ、舞台のツラまで来るとその人は立ち止まった。
静かに一階にいる学生たちを見ており、舞台のライトが遅れてその人を追った。――――舞台上ではガレリオだけが色違いに見えるが、深い青い目が違和感を強める。
腰に佩いている剣に片手を置き、もう片方の手はぶらりと下ろして冷静な表情でこの会場を見渡している。
あの位置では集音機が声を拾えないだろう。
この状況をしかと確かめてから何か話すことにするのかと思えば、静かに口を開いた。
「既に私の名を知っている者がいるようだが、改めて名を名乗ろう。蒼家より参じたフィフスだ。――――此度このような機会を与えてくれたこと、お前たちの時間を分け与えてくれたこと、全ての巡り合わせに神とお前たちに感謝する。」
三階まで声が透き通って届く。――声を張り上げているわけではないのに、はっきりと静かな声が届くのはどういうことか。普段であれば集音機を使っても反響して聞き取りにくいこともあるのに、あまりにも明瞭に届く声に上階にいる人間たちがたじろいでいた。
「我らの国にも学校機関はあるが、この学園ピオニールの存在意義には残念ながら遠く及ばないだろう。――なぜならそれは広く人々が知識を得るためではなく、聖国シンの発展のためであり、神に仕えるために理解を深めることが主だからだ。個人が求める学びたい欲求を満たすことが出来ていないのが現状だ。」
淀みなく語られる口調は穏やかで、落ち着きを見せる態度も静寂そのものだ。
「聖都にもこの学園を出た者がおり、幸運にも彼らから話を聞く機会に恵まれた。――――お前たちも既に実感しているはずだ、己の求める真理の追究と研鑽、実現に向けてこの学園にいるからこそできることを。また、己の興味関心以外でも日々幅広く学ぶ機会を与えられていることを――――。与えられた機会は非常に僥倖な事ではあるが、決してただの幸運などではない。連綿と続く長い歴史の中で守られてきた理念であり、学園の名の通り人々の『ピオニール』の精神を尊重したものだ。」
涼やかに届く声が心地よく、気付けば周囲は静まり帰っていた。
頬杖をつき、改めて舞台に立つその人を見る。
普段もあのように皆に語り掛けているのだろうか――――。喉元にかかる黒いチョーカーがここからでもよく見える。
最初に聞いた声はどんなものだっただろうか――。ヴァイスに紹介された時、突然の出来事に付いて行くことで精いっぱいで、凛とした印象の声がどんなものだったか、三日前の出来事だというのにひどく朧気だ。
先程コルネウスたちから聞いた、『逆鱗』などとも呼ばれている話を思い出す。あのチョーカーもある意味そうだろう。――――触れてはならないものだが、あの時の声がもう一度聞きたいと切望にも似た感情が沸き、じっとその首元を視線が追う。
「この場所を、この機会を、学びを求める者たちを守っていのは誰か、当然ながら皆は知っていることだろう。この学園で学ぶお前たちが規律を守り、またここを出て行った者たちが学園に相応しい振る舞いと教養を以て、この場所がどのようなものか今だ多くの者たちが知らしめている。――――だが、忘れてならないのはそれ以上に広くこの場を守ってきたのはこの学園に関わる教師たち、この国に貢献してきた者たち、――そして彼ら為政者の血族たちだろう。」
穏やかな笑みを浮かべ一階を見渡し終わると、こちらへと視線が上がる。――目が合ったかと心臓が跳ねた。
「長き歴史の中で、彼らの家名を聞かないことはなかったはずだ。そんな彼らと同じ場で学べる場がここにあり、同じ目線に立つことができるのは、ここにいる学生であるお前たちの特権だ。もちろん逆も然り――――。……たった数年とはいえこの場ではそれが可能だ。ここにいる者の中でいずれ政に関わる者も現れ、またその彼らが後世のためにこの国とこの学園と伝統、そして学ぶ自由を守り続けるのだろう。」
呆然と見つめ返していると、その目が自信に満ちた眼差しに代わった。目が合ってたのかと戸惑いつつも、信念を湛えた眼差しにふと笑みがこぼれた。――どこにいても変わらぬ芯の強い瞳が心地よい。
届いたのか分からないがフィフスは視線を下ろし、剣に添えていた手を胸に当てた。
「このような場に、聖国シンから来た我々が立ち会えたことに感謝する。この学園で得た知見をひとつでも多く持ち帰り、是非聖国の今後に活かしたいと考えている。――来るべき締結式では両国間の更なる発展を目指し、より良い関係が結べることを祈っている。――私からは以上だ。皆の清聴に厚く礼を述べよう。」
言い終わると瞳を閉じた。静かに終わりを告げ踵を返せば、その後ろ姿に一階から大きな拍手が沸き起こった。
つられて拍手をする。――――適当にやると言っていたが、それ以上に皆の心に響き届けられた言葉があの人の全てに思えて、なんだか心地の良さがあった。
リタの隣に立ち改めてこちらを向く顔が、涼しくも誇らしげな表情が浮かんでいるようにも見えた。
「うまく締めてくれたけれど、まるで先生ね。――教師でもしているのかしら?」
レティシアが拍手をしながら、こちらに頭を傾げ尋ねてきた。
「……聖都で人事をしていると言ってかと」
「そういえばおばあ様も言っていたわね。――ふふっ、まさか私たちが釘を刺されるなんてね。こんな事言われてコルネウスたちはどうするつもりなのかしら」
拍手が静まり返る頃、下手に立っていた教師が集会の終わりを告げれば賑やかさが戻ってくる。舞台上にいた人物たちも上手側へと下がるよう案内があったようで、一同が舞台袖に姿を消していく。
「そうね――――。ロサノワの決闘の理由が、ちっぽけなものになってしまったわ」
姉もくすりと笑っていた。
立っている場所も、見ている先も彼らとあの人では違いすぎるだろう。さらりとその格の違いを見せられ、本来ならば己も身を引き締めるべきだろうが、今の舞台の余韻だけがただ心に残った。
「さ・て・と、ディアスくん、コレットくん。二人ともあの三人のこと、よろしく頼むよ」
ポンと肩に手を置かれ、急に現実に意識が引き戻される。――――置かれた手を見れば、コレットも同じように肩に手を置かれたようで二人して後ろに立つヴァイスを見た。
「あのまま舞台袖で待つように伝えているんだ。今後は君たちと行動を共にしてもらわなきゃだから、悪いけれど迎えに行ってくれるかな? 学生生活をサポートしてあげてね。ヨアヒムもガレリオくんのこと、迎えに行くんだよ」
教師の顔をしたヴァイスは用件を伝え終わると手を放し、こちらに寄ってきた叔父へとついでに声を掛けている。――振り返りついでに王座を見れば既に祖母の姿はどこにもなかった。上階の者から移動するのが常ではあるのだが、もしかしたらそれよりも先に既に姿を眩ませていたのかもしれない。
「――お前はこの後何かあるのか?」
「僕も自分の仕事があるからねぇ。――別にあの様子じゃ僕がいなくてもよさそうだけど、寂しくなったらいつでも求めに来てくれていいからねっ!」
「そういうのはいいから」
バッと両手を大きく広げ叔父に何かをアピールしているが、毎度のことなので彼の行動はさらりと流されていた。――ふとヴァイスのこの動作があの人にも似ていることに気付き、聖国ではよくある挨拶のようなものなのか、それとも血の繋がりのせいなのかという考えがよぎり若干複雑な気持ちになる。
隣に座るコレットは不安とも心配とも覚束ない顔をしていた。人見知りの気がある彼女には、新しい人間関係を作ることが負担なのだろう。
「――――コレット、もし嫌なら先に行っててくれても構わない。あの三人は俺が迎えに行こう」
後ろのやり取りは忘れることにし席を立てば、慌てた様子で彼女も席を立った。
「だ、大丈夫――。私も行くわ」
「あら、ついでにお話しを聞きに私も付いて行こうかしら」
レティシアも何故か立ち上がれば姉と弟も同じく席を立つ。
「あなたまでディアスたちと授業を受ける気なのかしら」
姉が従姉の行動をくすりと笑い、下までどうせ一緒なのだからとエミリオも連れて共に向かうことになった。
集会があるときは一限目はほぼつぶれる。なぜなら校舎が広くて学生たちの移動が終わらないからだ。
低学年は比較的講堂から近い場所にあるため授業を受けることになるが、つぶれた分の時間は担当教師の采配によって遅れを取り戻したり、別途課題が出されることが常であった。最初から諦めている教師もおり、自習の時間に置き換わっている教室もある。
そのおかげで教室へ向かう皆の足はいつもゆっくりしている。その流れに巻き込まれる前に、まだ人気のない通路を進み階下へと向かった。
「――――待って、ディアス」
小走りのコレットと距離が縮まる。後から来ると思っていたが、一緒に行動してくれるようだった。歩調を緩めれば隣に並ぶが、さらに後ろから姉たちがゆっくりこちらに来ているのが見えた。
「すまないコレット、――先走っていたようだ」
「ううん、気にしないで。……あのね、金曜の約束は覚えているよね?」
先の予定に一瞬何かと思ったが、いつもの約束の話だと思い出す。
「――あぁ、もちろんだ」
その答えに安堵したようで、やっと不安そうな顔からいつもの表情に戻る。
「ならいいの。――ディアスはちゃんと約束守ってくれるものね」
くすぐったげに笑う顔に大きなリボンでまとめた髪が軽く揺れる。
「……何かあったのか?」
意図が分からず尋ねれば、慌てて首を振り違うと訴える。
「あ、違うの。――その、最近知り合いが、今度の約束を破られてしまったの……。だから少し私も不安になっただけ」
「そうか……、確かにそれは不安になるな」
気まずげに説明してくれたが、昨日丁度その話をあの人がしていたことを思い出し小さく笑った。
「……どうしたの?」
「いや、すまない。――昨日似たような話を聞いただけだ」
『学園での己の序列が思い知らされる恐怖のイベント』と言っていたが、こうして人を不安にさせるのだからその表現はあながち間違いではないのかもしれない。
「そっちまで噂が行ってたんだ……、ひどい話よね。相手はさっさと別の人に鞍替えして出るつもりらしいの。――まったく、恥ずかしくないのかしら」
親しい知人の話なのか、見えない相手に怒っているようだった。少々気分屋なところもあるが、人に寄り添える気持ちを持っているところが彼女の美徳だと思う。
「……コレットの話とは違うけど、そうだな。――別に無理をして出ることもないし、その知人も今回はゆっくり休めばいいんじゃないか。機会はこの先にもあるんだ」
コレットとの約束とは、舞踏会のことだ。毎月第二金曜日に行われるこの学園の慣例であり、特に成績などに関わるものではないため参加しなくても問題はなかった。
ただの習慣としての嗜みであり、社会に出た際困らないため、また参加者たちで交友を深め将来に備えるために実施されている。参加者は上流階級の者たちが中心であるが、招かれれば誰でも参加は可能だ。
普段は学園の主催で行われるため自分たちは出なければならないが、二、三ヵ月に一度は在籍中の名家の学生たちが持ち回りで企画をしていたりもする。姉たちは過去に企画に携わったことがあるらしいが、ディアスとコレットはまだ経験したことがなかった。どうやって順番が回ってくるのかもよく分かっていないが、話がないなら面倒がなくていいと正直思っていた。
「そうだけど……。もし次出た時にその人たちがいたら、とても気まずくて嫌な気分にならない? ――――ラシェルが可哀そうよ」
コレットと親しくしている知人の名が出てきて、不機嫌の理由を理解する。
打ち解けるまで時間がかかるものの、人が嫌いという訳ではないので友人知人が案外多い。よく女子の誰かと一緒にいるため、後でその時のことを教えてくれることがあった。
「……互いの間に何があったか分からないが、どうありたいかはその二人の問題だろう。しばらくは時間が必要かもしれないが、またいつか話せることもあるんじゃないか」
名前は知っていても積極的にその人物たちと関わることがないので、無難なことしか言えなかった。――だがなんとなしに伝えた言葉が妙にしっくりときて、今の自分のようにも感じられた。
絨毯の敷かれた階段を下りれば、時間を持て余した学生たちの歓談する賑やかな声がこちらまで届く。いつもと変わらぬ賑わいだ。
――――自分の場合は運がいいと言うより他はないだろう。
本来であればこの国に、この街に来るはずのない人が目の前に現れ、もう一度友人からやり直す機会が与えられた。
巡り合わせに感謝するとは、まさにこのことだろう。
「……また会った時に相手の事を許せるかしら? 私だったら許せないわ」
約束を反故にされた友人の立場で考えているのだろう。だが、こういう話は他者がいくら考えても詮無い話だ。結局当人同士の問題なのだから。
少し考えてから、共に階段を下るコレットを見る。
「――――コレットが友人として許せないなら、それでいいんじゃないか。きっと代わりに怒ってくれる人も必要だろう」
「そ、そうかしら……」
戸惑いがちな声のあとしばし沈黙が続き、遠慮がちな視線がこちらに向けられた。
「……私のこと、怒りっぽい人だって思ったりしない?」
「コレットを? そんな風に思ったことはないが」
そっかと小さい返事と共にうつむきがちにそっぽを向かれてしまい、また何か掛ける言葉を間違えたと気付く。
こうなってしまうと、としばらく気まずい空気が流れるためそっと距離を取っている。変に声を掛けると距離を取られ、下手をすればどこかへ行ってしまうからだ。
構わず放っておけばいいとレティシアからも言われている。――――コレットの気持ちに整理が着くまで、時間が必要ということなのだろう。
彼女の思考の邪魔をしないようそっと先を見れば、もう一階にたどり着くところだ。舞台袖にいるとヴァイスが言っていたが、移動を始めようと立つ人々で埋められる出入口の向こうに、該当人物の姿が見えた。
開かれた扉の向こうになぜかひとり、蒼天の下どこへともなく歩いている。
想定外の行動だが、ゆっくりと歩く姿が似合わず、足早に階段横の扉から外へ出た。
ひんやりとした風が微かに肌に当たるが、陽光が当たれば温かさの方が勝った。
先に行くその人はこちらに気付いてはいないようで振り返る素振りもなく、声を掛けるには距離があった。何かあるのかと足を運んでいる方向を見れば誰もいない。――――静かな水上庭園があるだけで、校舎に向かう訳でもない様子だった。
その人の足が止まった。
「あ、ディアス様だ。おはよーございまーす」
間延びした声に気付くと、エリーチェがカバンを手に持ち外にいた。相変わらず胸ポケットにはあの黒薔薇が刺さっており、昨日と変わらぬにこやかな様子に苦笑するしかなかった。
舞台横の扉からどうやら外に出たようで、そちらを見れば先ほどのメンバーがちょうど外に出てきたところだった。
「あぁ、おはよう。――どうして全員外に?」
「えへへ、ちょーっと外の空気を吸いにね」
フィフスを呼びに行くのか、そちらへと軽く走って行くので同じ方向へ歩いて向かう。先にフィフスの側にたどり着いたエリーチェが振り返れば講堂の上を仰ぎ見ていた。何があるのかとそちらを振り返ろうとするが、すぐに別の声がかかる。
「――――殿下、申し訳ありません。ヴァイス様から待つよう言われていたのですが、この子たちが外に出てしまいまして……」
小走りで近付いてきたミラとリタだった。二人とも申し訳なさそうな顔をしており、似た顔に血の繋がりを感じた。
「気にしていない。外に姿が見えたから、何かあったのかと心配しただけだ」
「ご心配下さりありがとうございます。……閉め切られた空間があまり得意でないようでして、少しだけ外の空気を吸いに出ただけです」
困ったようにミラが二人の事を見ているが、言い方が他人行儀なことからエリーチェの事ではないだろう。ミラは二人の様子にため息をついていた。
「あなたたち、もういいでしょう? 皆さまがいらしたんだから、そろそろ戻ってちょうだい」
呆れが混じった呼ぶ声にフィフスはようやくこちらを振り返るが、皆さまという言い方に後ろを向けば姉弟といとこたちの姿が近付いていた。少々不貞腐れたコレットが、レティシアに背中を押されていた。――――そっとしておこうととは思っていたが、何も言わずにコレットを置いて行ってしまった。
「――――コレット、置いて行ってすまなかった」
「ふふ、足の長が違うから仕方がないのだけれど、貴方って案外足が早いのね。コレットも頑張らないとまた置いて行かれるわよ」
揶揄うレティシアに、何か言いたげな顔をしたが、言葉を飲み込んだようでこちらを気まずげに見てきた。
「……大丈夫。置いて行かれて少し驚いたけれど、心配だっただけよね」
「あぁ、……でも置いていくべきではなかったから、本当にすまなかった」
ぎこちないながらも笑顔を向けてくれたので、なんとか許してくれたのだと思う。ほっと胸をなでおろした。
「ねぇ、エリーチェ。その薔薇はどうしたの?」
「これ? 朝宿舎に行ったときに見つけて貰ったんだ~。綺麗だよねー」
姉がエリーチェに例の件を尋ねた。――――ご機嫌そうな様子に、あの花の意味を知らないのだろう。エリーチェの隣に立つその人は何か言うつもりはないようで、静かにそこに立っている。
「まぁ、フィフスってば悪い人ね。そんな花を何も知らない子に渡すなんて」
レティシアが悪戯っぽく、フィフスを見た。
「あぁ! 違うの、本当に私が貰っただけなの。フィーは悪くないよ!」
「あら、だってそれ決闘のお誘いじゃない。ちゃんと教えてあげなきゃエリーチェが可哀そうよ」
「――――決闘……? えっ?」
エリーチェがまずいという顔になり、恐る恐るミラをみていた。
移動するエリーチェにつられると、ミラが呆然とした表情でエリーチェとフィフスを見ている。
諦めたようにひとつ、嘆息したフィフスがミラに言った。
「だから処分すると言っただろう?」
「け、決闘ってなに――? どこの誰に何したの……? 喧嘩は売らないよう言ったじゃない!」
徐々に険しい権幕になるミラから、エリーチェがフィフスに抱きつき庇った。
「もう怒らないであげてよー! フィーは喧嘩を売る人じゃないって知ってるでしょ? お花だって可哀そうだからってミラ姉が活けるから、困ってたのを私が貰っただけなの」
エリーチェは何も知らないかと思っていたが、どうやら違ったらしい。おまけに余計な厄介を増やしてしまった気配に姉たちが何とも言えない顔をしていた。問い詰められている当の本人はどこ吹く風と気にした様子はなく、冷静な表情をしていた。
「……ミラ、この人は俺のせいで彼らに決闘を申し込まれただけなんだ。どうか怒りを沈めてくれないだろうか」
元をたどれば自分のせいだろう――。フィフスの前に割り込み、荒ぶる彼女に懇願する。事を大きくするつもりはないのか、なんとか落ち着きを取り戻してくれた。
悠長に構え過ぎていた。味方でいてくれるからといって、友人の立場を失念し甘えているのだと気付く。――6つも下の弟にも分かっていることが出来ていない。あまりの情けなさに後悔の波が押し寄せた。
「私も余計なことを言ってしまったわね。エリーチェが何も知らないでつけているのかと思ったの」
「ミラ、決闘を申し込んだ人たちは少し排他的なところがあるから、きっとフィフスは巻き込まれただけよ。一部の生徒について、初めに伝えておくべきだったわね」
二人の姉が同じように弁解してくれた。姉たちの心配りに感謝しつつ、庇ったその人へと向き合う――。
「……フィフス、面倒に巻き込んでしまってすまい」
「気にするな。私も腕試しが出来てちょうどよかったところだ。」
「もう、そういうところよ!」
せっかく鎮まってくれたのにミラの沸点が一気に上がる。――距離を詰めてきたミラがエリーチェをくっつけたままのその人の腕を引き、少し距離を取られる。
「――申し込まれたなら仕方ないけれど、お願いだから手加減して。絶対手を抜きなさいよ」
「その言葉は相手に失礼だろう。誠意をもって挑戦する者を侮る発言だ。」
腕を組みミラを正面から静かに言い返していた。互いに引く様子のない言葉の応酬に姉が呆気に取られていた。
「……ミラはフィフスが勝つと思っているのね」
「フィフスってそんなに強いんですね」
弟が傍に来て、小さく声を掛ければにこりと微笑んだ。この顔にどう応えていいか分からず、気持ちが急速に陰っていく。
「そうじゃなくて……! 怪我をさせたり、無茶をしないかってことが心配なだけで――――」
「別に病院送りにするつもりもないし、きちんとルールの中で行うつもりだ。――――相手が早々に負けを認めるならな。」
「本当にもう! そういうところよ! あぁ、どうしよう……」
「……私の能力を買ってくれるのは有り難いが、別にどちらが勝つと決まっている訳じゃないだろ? 余計な心配だと思うが。」
思ったより謙虚な様子に、ミラが静かになった。どうやら落ち着きを取り戻したようだった。
「……あなたも怪我とかしないでよね。あなたに何かあったら困るんだから……、本当に――――」
頭を押さえながら、姿勢を正せばまた何か懸念が生まれたのかミラが苦い表情をしている。
「もし、あなたが負けるようなことがあれば、アイツが絶対横やりを入れてくるわよね……。前言撤回。平穏無事、安泰かつ穏便に勝ってくれないかしら」
フィフスの両肩を掴み強く訴えている。
「なんて面倒な注文なんだ……。――まぁ、なんとか最善は尽くそう。」
始終冷静な態度だったが、最後のミラの言葉に気圧されたようで若干困っていた。――――誰の話なのか分からないが、面倒がまたひとつのしかかってしまったようだ。
この状況にどうしたらと思い悩んでいると、
「あの――、移動しなくていいんですか? 授業があるんですよね?」
リタがおずおずと皆に声を掛けてきた。こちらを遠巻きに見ている学生もいるが多くは校舎へと向かっており、講堂からどんどん人気がなくなる。
「――そうね、移動した方がいいかも。……ミラもいいかしら、フィフスを借りていくわ」
そんなに急ぐ必要はないのだが、姉がこれ幸いとミラに掴まれていたエリーチェ付きのフィフスを回収した。
「……皆さんの足を止めさせてしまって、ごめんなさい。リタ、あとはよろしく頼んだわ」
「はいはい、分かってますよ。ほらそこの二人行くわよ――」
ようやく厄介から解放されたためか、エリーチェがようやく離れ、その人の腕を引きこちらへとやってきた。
「すまないが、王弟殿下に一言伝えてきていいか。皆先に行っててくれて構わないから」
離れたところで話す、叔父とガレリオが見えた。少し離れたところにいる二人からは、どちらも朝の暗い雰囲気はなく、どうやらわだかまりが解消されたようだ。
「なら俺が付き合おう。――――誰かがまた貴方に面倒をかけたら困る」
昨日のように後から追いかけてくれるつもりなのだろう。講堂から出てくる人は制服の者が多いことから、既に貴族階級の者たちはこの場を去っているかもしれないが、また自分のせいで面倒をかけられたらと思うと気が重い。
姉はひとつ頷き、エリーチェとリタを連れて校舎へと向かってくれた。
離れる皆を少し見送ると、
「気にする必要はない。今回の事も別に面倒だと思ってないし、むしろ自分の本心を相手にまっすぐ伝えてくるだけ偉いと思ったが。それだけ自分たちの立場も、お前のことも大事なのだろう。」
冷静に諭されるが、あまりいい気分はしない。思わず眉間に皺が寄った。――――フィフスが小さく口角を上げると、何も言えなくなった。
叔父の元へと並んで歩き始めた。
「どうやらお前が迷惑を被っているようだな。昨日も心配してくれていたし、――――そんなに嫌な奴らなのか?」
「……昔から兄の事を軽んじるところが苦手だ」
ふと思い出す苦い過去にため息をつく。
「大切なものを貶されることは気分が悪いし、度し難いものだよな。――いいだろう。ミラにも勝つよう言われているし、お前のためにも彼らに少々灸を据えてやろう。」
先ほどまでの落ち着いた気配から、穏やかだが強さがのぞく青い瞳が向けられた。
心強い言葉を掛けられて嬉しい反面、巻き込んでしまった後悔に素直に喜べなかった。
「……面倒をかけて――、」
「まてまてまて。……あと何回このやり取りをするつもりだ?」
一歩前に出て立ちふさがり、人差し指を胸に突きつけられた。
「いちいち謝る必要はないし、人からの好意は素直に受け取れ。悪いと思うなら謝る代わりに、……そうだな、菓子でも用意して歓待でもしてくれればいい。」
呆れたように窘める口調から、徐々に楽しげな空気に変わる。突きつけた手が離れれば、腕を組みながら身体を横に向けて話しを続けた。
「何度も謝罪を聞かされるより、そっちの方がずっと生産的だ。美味いものが食べられればこっちも気分がいいし、お前も侘びの形になってちょうどいいだろ? 別に菓子じゃなくてもいいが、ここで見たことやあった事、お前が面白かったこととか興味のあるものなんか教えてくれれば私はそれでいい。」
「……それは釣り合わないんじゃないか?」
気を使ってくれているのだろうか、随分と安上りな提案にさらに沈痛に気持ちが沈むばかりだ。
「お前が先に言ってくれただろ? 友人になりたいと。――私は友の助けになれば嬉しいと思うし、そう言葉にした者を大切にしたいと思っている。損得なんて物差しで測るのは商売人なら常だろうが、別に私は商売人じゃない。個人的にお前と対等でありたいと思っている――」
もう一度こちらを正面に向き直るが、すぐに近くにいる侍従へと顔を向けた。
「アイベル、悪いが少し離れてくれないか。――少しだけディアスと内密な話をしたい。」
「それはどういった……?」
「個人的な話だ。お前の主を困らせるつもりはないが、お前の耳には入れ難いことだから少し時間が欲しい。すぐに終わる。」
迷いながら主とその友人を見比べたのち、
「なら、ヨアヒム様にお声掛けして参ります。……殿下も何かあればお呼び下さい」
そう侍従が声を掛ければ、少し離れたところにいる叔父の元へとひとり足を運んだ。
アイベルの姿を見送れば、フィフスはジャケットの内ポケットから銀色のケースを取り出し、紙を一枚取り出しその場で振る。
いつぞや見た動作だ。
人差し指と中指でその紙を挟むと、もう一度腕を組んだ。
「以前私の事は口にするなと伝えたが、今だけ許そう。――――個人的な話をしよう。もしお前の考えと違うなら、その違いを教えてくれないか? お前は誰とどうしたいと考えている? 『友人』というのは東方天としての私か、それとも青龍商会のフィフスどっちだ? 仮にどちらでもあっても構わない。そのどちらもが私なのだから」
まっすぐにディアスを見据えた。冴えた色をした青い瞳が、今まで見た中でどれとも違う表情をしている。
「王家の血を引くお前は、いずれこの国に立つ人間のひとりになるだろう。だから既に国の運営に携わり、聖国のことをよく知る東方天として付き合いたいのであればそう接しよう。――一時ここにいるだけのただの人間として、何の後腐れもない私として付き合いたいのであればそれでもいい。今の私はそのどちらの役も持っているのだから、どちから一方でなくてもお前に与えてやれるものはあるだろう」
指に挟んでいるその紙は、うっすらと模様とも文字とも言えない印が青白く浮かんでいる。何か精霊術が発動しているのだろう――――。学生たちの声が遠くで聞こえていたはずだが、風が木々を撫ぜる音も、鳥の声も聞こえていたはずだがその全てが消え失せ、ただ目の前にいる人の声だけがこの場に響く。
「……あまり長くはもたないが、今は全ての音を遮断している。だから今だけは、何を言ってくれても構わない」
手にしているものを見たからだろう、同じ方向へちらりと視線を向けてそう伝えた。ヴァイスが馬車でこの人の話をしたのは、きっと同じ術を行使していたからかもしれない。あの時はもう少し外の音が聞こえていただけに、今はあの時よりも強力な術を使っているようだった。
燃えている訳でもないのに、ちりちりと紙の端から揺らいで消えていく。本当に時間が長くある訳でない様子がそこから伝わった。
突然現れた限られた時間の中で、何をどう伝えるべきか考えねばならなくなる。
――――伝えられた言葉を確かめた。
「……その二択なのか?」
「それ以外になにかあるのか? 私が提示できるのもはこれだけだと思ったが、お前が他に考えていることがあるならそれを教えてくれ。……でなければお前が何を考えているのか私には分からない」
向けられる瞳が憂愁に染まり、沈んでいくようだった。そんな顔をすると思わず、札を手にしているその手を片手で掴んだ。
「俺はあなたと、――――クリス個人のことを知りたいと思っている。東方天という立場も、蒼家の人間であることもどれも関係ない。……今の話もそうだけど、昨日クリスもそう思ってくれていたから、あぁいう態度だったんじゃないのか」
気安くも無邪気なところをここでは見せてくれていた。
本気と冗談がないまぜになった提案や、素直な好奇心を見せてくれていたこと、そのひとつひとつがここで初めに会った時よりもずっと近いものに感じられていた。
触れた手の傍で、どんどん小さくなっていく札に焦らない気持ちがない訳ではない。だが伝えるべきことを誤らないよう、慎重に言葉を選んでいく。
「仮にその二つの立場だとしても、あなたは別に俺を王子だからって別に畏まる気はないだろ? なんのしがらみもなく、同じ立場に立ってくれていたのかと思っていた。……それこそ違うのか?」
まっすぐに向けられていた目が困ったように逸れたが、迷いながらも戻って来た。
「……確かにお前が王子であるからって、畏まったことなんかなかったな」
引っかかったのはそこなのかと、思わず眉根を顰める。掴んでいない方の手を軽く握り口元に当てており、今までの事を振り返っているのだろうか。
聖国では頂きに立つ人だ。他者にそういう態度を取る様子が思いつかなかったし、始終祖母に対しても遠慮のない態度ずっと見てきた。一部の人には丁寧に接するところも見たが、普通は逆ではないのだろうか――――。
その少しずれた対応も、誰に対しても遠慮のないところや気安さのどれもが心地よかったことを噛み締め、ふと思う。
「――――俺も別にあなたが神の代行者だからって、畏まった態度を取ってなかったな……。命の恩人だからでも、父の招きで来た賓客だとしてもやっぱり関係ない。今言ってくれたようにクリスとは個人的に、対等でありたいと思っている」
ちりちりと消えていく札が挟んでいる指まで届いてしまう。消えていく時間に名残惜しい気持ちもあったが、掴んでいた手を放した。
「……なんだ、同じか。……ならいちいち迷惑をかけたなんて思うな。その分私もお前に迷惑をかけるし、悪いと思ったら侘びにいこう。だからお前も私に遠慮する必要はないし、頼りたければ頼るがいい。私もお前を頼りにするし、遠慮もしない」
軽い調子だが、満悦らしい笑みを浮かべて口元に当てていた手を腰に当てていた。偉そうな友人の姿が、心に巣食っていた後悔や自責の念を消していってくれるようだった。
「……迷惑をかけるなと、誰かに言われていたんじゃないのか?」
堂々とした宣言に苦笑するしかない。
腕を組み、まじまじとこちらを改めて観察しているようで、――――挟んだ札を持ち替え、弾くような動作をすれば紙が消えた。
内密な話ができる時間は無常にも終わりを迎えた。
はっきりと互いの気持ちを確かめられたからか、今は清々しさすらあった。
「あぁ。……ここに来る前ラウルスの文官たちから、第二王子は繊細で傷付きやすいから迷惑をかけるなと念押しされていてな。確かにそういう面もあるのかもしれないが、お前はしっかりと立ち上がってもう一度前を向ける人間だ。――まだ数日だが一緒にいてそう感じた。だからお前の事を信頼している」
一瞬言葉を失う。自分の性分であると自覚していたが、向こうでそう周知されているのかと知り気恥ずかしさとも不名誉とも言えない居心地の悪さが襲った。――――先程のミラや昨日のエリーチェたちの態度からも、恐らく今回ここに来た者たちも同様に知らされているのだろう。
だがそれとは別に、『クリス』からの評価と信頼が晴れた胸に高く響き、じんわりとした暖かさが満ちる。――この身に降る秋の陽光のせいかもしれないが、暖かくなる心に華やぐ喜びが訪れるようだった。
「なぜお前は自分に自信がないのか分からないが、私のことくらいは信じろ。――この私をどこの誰だと思っている?」
当然知っているのだろうと、勇ましくも凛々しい視線が向けられる。
「この私が味方についているんだぞ? ――それはお前の自信にはならないのか」
「……あぁ、確かに心強い」
まっすぐに向けられた深い青色をした双眸が、心の一番奥にある弱い部分を打ち消し、まるで殊勲を立てたかのような誇らしげな想いが沸いてきた。
「なら、もう些末なことでいちいち謝るな。いちいち違うと否定するのも面倒なんだぞ」
「もう内緒話は終わったんすか?」
軽快なガレリオの声が届く。
友人のすぐ後ろまで近付いていたようで、彼の声にフィフスが振り返った。叔父とアイベルが彼から数歩離れてこちらへ来ており、その顔に少しだけ不安の色が見えたが、何ともないことが分かったからか安堵の笑みを浮かべていた。
「あぁ、待たせて悪かったな。――ヨアヒム殿下、昨日はガレリオが面倒を掛けて申し訳ない。」
「いや、彼を困らせてしまったようでこちらも申し訳なかった……」
「以後またガレリオが面倒を起こした際は、この書類に署名を頂けるでしょうか。」
学生服の内ポケットから、小さな封筒をひとつ取り出し、叔父へと差し出した。精霊術で使う道具も入れてたが、他にもまだ入っていたらしい。
この前部屋で使ったメジャーなんかも、制服のどこかに持っているのかと余計な考えがよぎった。
封蝋がされている面を上にしており、差出人の名前が見える。――――誰かに宛てた手紙のようだが、フラップに切れ込みがあり既に開けられていることが分かる。
「……なんですかそれ」
「お前の妹の婚姻届けだ。殿下には保証人としてお名前を頂きたい。」
言葉の途中で、封筒を奪おうとガレリオが動いた。――――だが、小さな動きで躱している。何度か目の前で攻防が繰り広げられるも、ガレリオが奪うことはできなかった。
昨日は簡単に書類を取り上げていたが、あの時は『友人』も本気を出していなかったのだろう。
「……妹君の婚姻届とは?」
「なんでそんなものここにあるんですか……っ! ヨアヒム様に渡さないでくれます?!」
「私がずっと持っているのは知っていただろう? お前を慮って今まで書かなかったが、いい加減ルチアのことは諦めろ。」
冷たい視線をガレリオへと向けている。
今まで二人には対等に見えていたが、明らかな上下関係がここにはあった。ただならぬ話と空気に動じることしか出来ずにいれば、ガレリオが悔しげに、だが敵わないことを悟っているようないつもと違う表情をしている。――当の本人は意に介さず見向きもしなかった。
「……悪いが、流石に彼が納得していないことを私が代わりに受けることは出来かねる」
叔父が困惑しながらも申し出を断ると、ガレリオがぱっと明るい表情になった。
「なんていい人……ッ! ――どっかの誰かさんと違ってヨアヒム様は人の心がありますね。はー誰かさんも見習ってほしいですね〜〜〜」
ワザとらしく大きなため息を付きながら、やれやれといった態度で腕を組んで横目でフィフスを見ていた。
やはりその様子も意に介する気がないようで、冷静にひらりと封筒を表面にすれば、宛名がよく見えた。――それはガレリオ宛ての手紙のようだ。
「毎回話合いを無碍にし逃げ回るり、二人からの手紙を開けもせず破り捨てている奴のセリフか? お前と話すのが難しいからと、何度も私のところへ相談しに来ているのは知っているだろう? ――――最近はお前の代わりに両親に合わせようと画策しているみたいで、私も困っているのだが。」
「なん――? ……てっきり君と妹君の話かと思ったぞ」
叔父がたじろぎながら、誤解していた旨を伝えた。昨日のアイベルもそうだが、やたらと誤解を生みやすい言動が多い。
『友人』は神によって選ばれた特別な人で、神の代わりを行う役目を背負わされた人だ。――――故にその生涯を神と国に捧げなければならず、誰のものにもならない人でもある。
その冷たい事実が、寂しさを持って来た。――事前に立場を知らなければ、叔父のように誤解をしていたかもしれない。
そして――、考えていたよりも、ガレリオが妹に冷たい態度を取っていることが判明し、風向きが変わる。
「まさか。ガレリオを聖都に連れて来てから共に面倒は見ていますが、妹には妹の人生があります。その道を祝福しようとしないコイツに手を焼いているところです。」
皆の視線がガレリオに向けば、バツが悪いのか誰とも顔を合わせようとはしなかった。
「一応ガレリオを立てるために話は断っていますが、……いい加減妹のことを考えてあげてあげるべきだ。それに王弟殿下は私よりも人生経験が豊富でしょう。中の手紙も読んでくださって構わないので、ご判断頂ければ私も助かります。――ガレリオ、署名されたくなければ殿下を困らせるなよ。」
もう一度差し出せば、叔父がそれを受け取った。旗色の悪い顔をしている彼に、フィフスがため息をついていた。
「……もし王弟殿下に署名を頂いても、カイはその書類は使わないだろう。アイツは王族を敬愛しているからな、きっと受け取っても記念に飾るかなんかして満足するさ。」
「……それって聖国にいるシャッツ社の?」
昨日もエリーチェから出た名前に、思わず尋ねた。
「そうだ、よく知っているな。……まぁ、妹の方はそういうことは気にしないだろうから、その書類をどうするかはガレリオの態度次第だろう。なのでヨアヒム殿下もこの件に関してはあまり気負わなくていいです。妹の婚姻を認めていないのはコイツだけなので。」
聖国にいるラウルスの出版社に属するという彼の名を何度か耳にしていたが、随分と『友人』とも近しいのだろう。勝手にしているという広報も、なんだか納得のいく話に聞こえ、――叔父も何かを察したのか、手にした封筒を大事そうにポケットへと仕舞っていた。
ガレリオは悔しそうにしながら、フィフスからの呆れた目から逃れていた。昨日のヴァイスとの様子からそんな気配はなかったのだが、もしかして妹離れが出来ないタイプなのか。
「そういうことならこれは預かっておこう。――――ガレリオ、君にも何か言い分があるのだろう。これから共に仕事をする仲だし、いい機会だから君のことをもっと教えてくれないか」
年長者として、また頼れるひとりの大人としての顔がそこにあり、苦い顔をしたガレリオを伴い叔父がこの場を後にしようとした。
「では後はお任せします。――で、どこへ向かえばいいんだ?」
両手を腰に当て不遜な態度で尋ねられる。周囲から学生の姿はすっかりなくなっているが、次の授業まではまだ余裕はある。校舎を仰ぎ見れば、窓から外に残る自分たちを見ている者の姿がいくつも見えた。
普段と違い彼らの注目などどれも気にならず、穏やかな天気に気分まで軽くなるようだった。
「案内しよう」
隣でカバンも何も持たない姿がなんだか可笑しく思え小さく笑った。歩き出せば隣にその人が付いてくる。
「彼は叔父上に何をしたんだ?」
「……いつもの事ではあるんだが、あまりにも阿呆過ぎて口にするのも憚られるな。」
苦々しい顔をこちらに向けそうつぶやくと、まっすぐと先を見据えた。
「でもまぁ、あの手紙がヨアヒム殿下の元にあればあれ以上の馬鹿はしないだろう。――別にアイツも本気で反対している訳じゃないようなんだが、なぜか頑なに認めてくれなくてな……。そういう気持ちは私には分からないし、殿下のように落ち着いている方であればアイツも多少は素直になるだろう。」
「そうなのか……。裏表のないタイプかと思ってた」
「……人は好きなんだが、過去に手酷く傷付けられたことがあるからか素直じゃないところがあるんだ。―――だからこそ人の弱さを知っているし、困ったヤツが何を欲しているのかが分かるヤツでもあるんだがな。」
冷静だが、確かな信頼が彼にあるようで淡々とした言葉がそう教えてくれた。
昨日も周りのことは叔父と彼に任せればいいと言っていた。――――この人の信があるならと同じように前を向く。
「それは頼もしいな」
慣れた歩幅で歩くも、隣にいる友人も同じ歩調で安心する。
初めこそは取り繕うこともあったが、改めて気兼ねしなくていいと思えば肩の力も抜けるようだった。
見慣れた景色だというのに、視界に入るもののどれもが色鮮やかになった気すらする。色付く木々も、大地に落ちる枯れ葉も、前にある校舎も、そこにいる学生たちの賑々しさも、どれもが眩く感じるのはこの蒼穹のせいだろうか。ひとつ目線を上げれば雲が高い位置に見え、虚空を飾っているようにも見えた。
他愛無い話をしつつ、西エントランスを潜れば、屋内の暗さと外よりも冷たい空気が立ち込めていた。
これから共に同じ時間を過ごせることも楽しみではあるが、外の暖かな空の元でまた知らない場所に行くのもいいなと、小さな願望が沸き立つのを止められなかった。