41.『饒舌』な休日⑦
※一部いじめの描写があります。ご注意ください。
該当箇所は改行していますので、スクロールして頂ければ幸いです。
八階の講堂を後にし階段までくると、上は天文台があることを軽く説明され、そのまま階下へ進む。
先ほどの雑談でまた時間が取られてしまい、天文台を見る時間を削ったのだ。
ひとつ下の七階は、講堂へ向かう途中でも軽く触れられたが、部活動に所属する者たちの部屋や備品をしまう部屋がある。
そこは授業のない休みの日でも学生の往来が多く、随分昔に案内されて見に来たとき以来の場所でもあった。
さらにひとつ下がり、六階に到着する。
先ほどは中央の吹き抜けにある、階段から西側の授業で使うエリアを中心に軽く説明があったのだが、今度は逆側を案内するようだった。
そこは肖像の間と呼ばれ、歴代王の肖像や関係者、偉人の画や彫像などが飾られているエリアだ。
この上は八階の講堂だ。――二つの階層に跨って贅沢に使われた空間でもある。
『間』といいつつ何か仕切りがある訳ではなく、六階の東棟の廊下を使い、いつでも誰でも観覧できるようになっている場所である。申し訳程度に入口もあるが、扉がある訳ではない。大切な場所であると念入りに説明する注意書きと、万が一があった際の罰則が記された立て札が通路の真ん中に立っている。
関心のある学生は来るかもしれないが、飾られている物たちがそう頻繁に変わる場所でもないので、管理は行き届いているもののそれ程人が来る場所でもなかった。
また特別な部屋がここにある。――公務や式典で使う『アウゲンブリック・ホール』がここにある。この学園がまだ城だった名残を残す場所でもある。
普段は誰も入れないよう閉じられているが、19日――、ディアスの誕生日にはここで舞踏会が開かれる。姉たちも同じように、『アウゲンブリック・ホール』を使用したことから、末弟と留学生を除けば比較的記憶に新しい場所でもあった。
ワンフロアの半分を占めるこの場所で、大小様々な絵画が視界に入ってくる。――ラウルスに三千年の歴史があっても、ここにあるものは比較的新しい、ピオニールが創立されてからの作品が中心だ。
初めて訪れる三人がこの場所に圧倒されているようで、歩みが遅くなる。――昔はこの人の顔がいくつも並び、誰もいない場所が怖かったなと思い出す。彼女たちに歩みを合わせた叔父が、近くの作品から説明しているようだった。
ヴァイスも、自分が過去に学び、今も職場としているこの場所を、身内に案内できるのは嬉しかったりするのだろうか。フィフスの傍らで、特に何か言う訳でもなく叔父の案内を聞いているようだった。
姉たちはこの場は何度も見ているし、客人が来た際に案内することもあったので、説明も聞き飽きてしまっている。離れたところで二人で話をしているようだった。
ディアスは少し退屈そうな弟に手を取られつつ、叔父の傍らでぼんやりと並ぶ絵画を見ていた。
徐々に奥へと案内していくと、ひときわ大きな絵画が叔父に指し示された。――ひと際大きなその肖像画は二人の人物が写されており、見覚えのあるそれに嫌な予感がしてフィフスを見た。
皆その肖像に注視しており、静かに見上げている。
「――これは母の友人で、35年前に取り交わされた和平条約のために尽力してくれた方たちだ。君たちの方がもしかしたら知っているかもしれないが、――このヴァイスの父と叔父であるフュート・ソリュード様と、先代東方天のハインハルト様の肖像画だ」
そこには黒髪に青い瞳の優しい眼差しをした長身の男性が立っている姿と、手前の椅子に腰かけている赤銅色の髪に赤い瞳の温和な表情をしている二人の画だ。
血の繋がった兄弟でありながら、容姿も立場も全く異なるその二人は、ここでも敬愛された存在だ。
その二人の要素をそれぞれ持ち合わせた彼女は、今この場にいることについてどんな気持ちなのだろうか――。
一昨日話した時には、ハインハルトの死を招いたことの責任を負っている様子だった。
ただの事故だったのに。――その彼の立場を引き継いで、同じ責務を負うということについて考えてみても、想像力のない己には何も思いつかない。
見上げている横顔はまっすぐで、正面に立とうと移動し、気付いていないのかすぐ隣に来た。
「…………ヴァイス卿、」
じっと絵画に目を向けながら、少し離れたところにいる自分の叔父の名をぽつりと呼ぶ。小さい声でもよく響くこの空間で、皆にも届いたのか何事かと彼に注目が集まる。
「私もこれが欲しいです――!」
指差し、よく通る声がひと際この場に響く。
「君って二人のこと大好きだもんね~。――だけど残念ながら僕は雇われ理事だからそんな権限はないんだぁ。そういうのはヨアヒムとかに頼むといい。――ね?」
元気な様子に受けているようで笑いながら叔父の肩に手を当て、彼の期待を交代してもらっている。
「……さすがにそれはできないが、確か、購買にポストカードとかそういうのはあったと思うぞ……」
今までで一番元気のある様子に驚いているようで、叔父がたじろぎながら答えていた。
「それと、仮に持って帰っても聖都って空気が乾燥してるから、こういう絵画の保存に向かないと思うなぁ。あと大きすぎるけど、一体どうやって持って帰るつもりだい?」
腕を組み、試すようにフィフスに尋ねている。同じように腕を組み、真剣に考えているのか絵画を見ながら方法を模索している。
「…………………………沈めるか?」
「なんでも力業で解決しようとするんじゃないわよ。油断も隙もなく脳筋なんだから……」
「購買ってどこですか? 私もあれ欲しい~。たくさん買っちゃお~」
呆れた様子のリタと、新しい目的が出来て楽しげなエリーチェに、手を離れた弟が購買の場所を教えていた。――そういう反応になると思わず、すぐ隣にいたもののまだ理解が追いつかない。
「買占めはだめだからね~? 節度を持ってお買い物はして下さいな」
「沈めるってなに…………?」
意味深な言葉に叔父が慄いていた。――今だ絵画を見ている隣の人物の顔を覗いてみると、目が合った。
「もし持ち帰れたら、神殿の目立つところに置くとかどうだろう? 皆も見れていいと思わないか。」
相談されたのかと少し遅れて気付く。今も真剣に考えているのか、きりっとした青い瞳がどこまでもまっすぐこちらに向けられる。
「……いいんじゃないか」
適当に返事をしてしまったが、あながち外れていなかったようで満足そうなものに変わる。――肖像を見つめる目は尊敬と敬愛に満ちているようだ。
余計な心配だったらしい――。
友人の元気そうな姿に安心し、もう一度その肖像を見た。
「フュート様にお会いしたことが?」
「あるぞ。ご壮健だ。――最近はパンに凝っていらっしゃる。」
「それまた地味な……。それって作る方? 食べる方?」
ヴァイスが自分の父の話が耳に入ったからか、呆れた声で尋ねている。珍しく素を表したかのような、態度と物言いだ。
「両方です。――以前北方天が土産に渡したパンを気に入って、自分でも作れないかと奥方様と二人で試行錯誤されています。」
「たまに聖都に戻られた時に作ってくれるから、いつもごちそうになってるんですよ~。お料理上手で素敵よね」
「しばらくお名前も聞かなかったが、相変わらずなのだな――。またこちらに遊びに来てくれればと思うが、……お元気でいらっしゃるなら何よりだ」
「……フュート様って、昔はここに来たことがあるんですか?」
末弟が叔父に尋ねている。エリーチェの言葉からもよく聖都に顔を出しているのだろうと分かる。
朧気だが二人に会った記憶があり、ハルトが亡くなってからフュート様の名前を聞くこともなくなって久しい――。弟もきっと彼らの名前を授業で聞くくらいではないだろうか。
姉も兄も学校に通っているため、王城で年の近いものなど少なく、話し相手も少ないはずだ。父か母が教えているかもしれないが、その他の者が弟に教えているともあまり思えなかった。
接点が少なくなってしまっただけに、自分たちだってここで姿を拝見する以外に思い出すこともなかったのだから。
「子どもの頃に、セーレとヴァイスの様子を見に、何度かピオニールにもいらっしゃったな。お優しい方で、少しも偉ぶるところもなく、誰に対しても親切な方だった。――来るたびによく母の横暴に付き合ってくれていたが、あの人くらいしか母を宥められる人がいなくてな……。気軽に来てくれとは言いにくい」
過去にどんなことがあったか分からないが、叔父の顔が思い出と共に晴れたり陰ったりと忙しそうだった。
「僕もいつかお会いしてみたいです」
「そうか。――お前がそう思っているなら必ず伝えておこう。きっとお喜びになる。」
ぽつりと呟いたエミリオへ、向ける眼差しが優しくなる。
「ありがとうございます。ぜひお願いしますね!」
エミリオが嬉しそうに跳ねると、フィフスへと返事をした。――だが、彼は腕を組み目を閉じ、何か思案する姿に変わっている。
「……どうかしましたか?」
様子が変わったことに不安を感じたのか小さく尋ねる。今までの穏やかな様子が消え、周囲から音まで消えたように感じた。
「――ヨアヒム殿下、いくつかご確認したいことがあります。」
閉じていた目が薄く開き、叔父に硬質的で、今までの和やかさを消し去った視線を送っている。――張り詰めた空気に皆に緊張が走る。
「今この学舎に12名の巡回している警備がおりますが、彼らは同じルートしか回らないのでしょうか。」
「っえ、あぁ、――今いる人数は分からんが、そうだな……。決まった順路があり、そこを回っているはずだ」
「彼らが声をかけるのは一部の者だけのようですが、他の者たちに声を掛けるなどは普段はしていないのですか?」
身体の向きを変え、叔父の正面に立つ。目線はどこか別の場所をみているのか、叔父ではない方に向けられている。仕事の話だと分かったのか、姿勢を直し彼の質問を考えている。
「いや、特にそういった指示はしていない。恐らく個人的にしているはずだ……」
「――ならば今後は、いかなる人物にも声を掛けるようにした方がよろしいでしょう。もっとも簡単で費用対効果の高い警戒方法です。慣れた仕事に学生も兵もどちらも背景になっており、まるで意味をなしていません。」
「一体何の話だろうか……?」
何を確認されているのかが分からず、叔父が尋ねた。少し離れたところにいた姉たちも何事かと叔父の近くに集まっている。
「学舎の警備についてです。――警備のチェックが私の仕事なので気になる点を申し上げました。兵が異変を探す以上に、周囲も怪しい気配には敏感です。気に留められないと分かれば、人目を避け密事を成すことなど簡単でしょう。――おかげで彼らは見逃してはならない事態をふたつも見落としている。気付かないことも、気付かれないこともどちらも問題だ。」
「密事って――、何か良からぬ輩がいるということか?」
緊張した面持ちの叔父に、侍従たちが周囲を警戒した。
「ただの学生です。――こんな些末なこと、本来であればあなた方の手を煩わせることはないだろうが、小事を見逃し続けていては、彼らの信頼を損ない続けるだけだ。すぐに別の問題が起こるでしょう。」
「学生って、この前のような――?」
こわごわと尋ねる姉を彼が見た。姉が大きな弟の肩に手を置き、そのはずみでついこの前の事態を思い出す。
「彼らにとってはただの暇つぶしにすぎず、ただの遊びなのでしょう。――だが、それは緩やかに人を死に至らしめる遊びだ。今すぐ止めるべきだろう。――警備の目を搔い潜り、周囲の人間の口を塞ぐことを快楽とさせてはいけない。――そうでしょう?」
叔父に再び向き合う。目の前の事や話に戸惑うばかりの叔父に、温和な声が入り込む。
「案内してくれるかな。――すぐに止めた方がいいんだろ?」
「こちらです。」
ヴァイスの声にフィフスが歩き出すも、付いて行くのはエリーチェとリタだけだった。
「――君たちも早く付いて行った方がいい。置いて行かれちゃうよ?」
「すまない、まだ状況についていけてないんだが……?」
ヴァイスに促されたため、重い足取りで彼の後に続こうとする。
「殿下を助けに行った時と同じさ。――でも今回彼がすぐに向かわないところをみるに、今すぐ誰かが害されるわけじゃないけど、誰かの指示がないと動けないみたいだね。……介入したいけど、あの子が直接手を出せない状況が今学校の中で起きているってことさ」
「なら急ぐべきだろう。お前たちは安全な場所に――」
「殿下達も一緒に行った方がいい。学生が起こしている問題なら、殿下たちがいることで収まる事態もある。それに本当に危険なことが起きているんだったら、必要な指示を出すさ。――あの二人も付いて行ってるけど、何も言わないところを見るとどうやら人手も必要そうだ」
先を行く三人は既に階段に差し掛かり、階下へ降りていく。――あの二人にも何が起きているか分かっているのだろうか。
歩みを早めながら、遅れた分を取り返そうと追いかける。行くべき場所が分かっているのだろう。迷うことなく進むと、五階でひとりの警備兵が、ちょうど教室のある通路から出てきたところだった。
警備兵の横を三人が通り過ぎ、彼が出来てた道を逆に進んでいく。小走りで階段を下りると、我々の存在に気付いた兵が廊下の端により、敬礼をした。
――先ほどフィフスから出た話のひとつがこれかと気付く。
確かに今そんな話をされるまで、彼らが校舎を巡回していることなど、気にも留めたことがなかった。
このような挨拶もよくあることなので、彼らの存在をひとつひとつ認識したこともない。これが互いに背景になっている、ということなのだろうか。
五階に降り立ち、同様に通路へと進むと、幾人かの生徒の姿が見えた。こちらの存在に気付くと驚いたような声をあげ、そっと道を開けていく。同様に教室の中からこちらの様子を伺う者も見える。
彼らが気に留めることのない存在が、通路の真ん中をまっすぐ進んでいる。リタがついてきているか振り返るなどもあったが、フィフスは足を止めることはなかった。
先を行く友人のために道を開ける者はおらず、自分たちの存在に気付き後からどよめきと、道が広がっていく。
「彼はどこに向かっているんだ――?」
目的がはっきりしないことに叔父が小さくぼやく。すると、廊下の途中にある階段の前にいた人物の肩に手をかけ、その場で膝をついた。――エミリオと同じくらいの年だろうか。小さな女学生だった。
「――困っているな?」
急に止められたことに驚いているようで、身を竦ませている。目的地が思ってよりも近かったことに、叔父たちと小走りで向かった。
少女はかなり動揺したようで、急な呼びかけに身を堅くしていた。
「ねぇ、きみ大丈夫ー? 顔色が悪いけど、具合がよくないのかな? どこか怪我でもした?」
エリーチェが反対側にしゃがみ、優しく少女に声を掛けている。
「お前が困っているなら、彼らが力になってくれるだろう――。」
怯える少女の目の前で、後からついてきた王族一行を指差さす。
「この学園の管理者たちだ。これほど心強い味方もないだろう。――彼らはお前を助けに来たんだ。」
「……君、一体何があったんだ?」
叔父が腰を落とし、少女に一緒に声を掛ける。
『助けにきた』なんて大げさなことを言うが、彼に付いてきただけで、誰も何も状況が分からず立っていることしかできないだけなのに。
目の前に揃う人物たちに呆気にとられたようで、少女は口を開けてこちらを見ている。その様子とは裏腹に黒い大きな瞳が不安げに揺れていた。――この子に何かあったのは間違いないと姉も気付いたようで、彼女の側にしゃがんだ。
周囲にいた人間も何事かと遠巻きに見ているが――、これだけの人がいてもこの少女の異変に気付いたのは、ひとつ上の階で一緒にいたこの人だけだったのかと血の気が引くような思いだ。
改めて彼を見れば、上にいた時と何も変わらない淡々とした、でも落ち着いた声色で少女のことをじっと見ている。
「……彼らがこうして一同に揃うことなど滅多にない。求めなければ応じることはできない。」
少女はフィフスの声に恐る恐る振り返り、彼の目を見た。何か言いたげに口元が震えるが、声が出ないようだった。彼女が何か言うのを待っているようで黙っている。姉がもどかしげにちらりと二人の様子を確認し、
「――困っていることがあるなら話を聞くわ。貴女の助けになりたいの」
姉の言葉に不安げに揺れる瞳が大きく歪み、ぽろぽろと涙が溢れ出た。次第に息が乱れ、しゃくりあげながら、漏れ出る嗚咽の隙間からわずかばかりの言葉が聞こえる。
「………………メルちゃんを助けて」
助けを求める声だった。――彼女の異常事態と共に、どうしてわかったのだろうかと目を見張る。
「承知した。悪いが誰か一緒に来てくれないか。ここはヴァイス卿とエミリオに任せる。」
そう言いながら立ち上がり、名を出した相手を確認すると、そのまま踵を返し階段を下りて行った。
「――行くなら行先を教えなさいよ!」
リタが怒りながら階段を下りていき、エリーチェもすぐに追いかけた。
「ブランシェかジゼルも付いて行ってくれないかな。女の子がいた方がいいだろう。――エミリオ殿下以外の皆も出来たらついて行ってあげて。でもそのヒールじゃ歩きにくいだろうからレティシア嬢はここにいてくれるかな」
エミリオの肩に手を置き、ヴァイスがそう指示をした。姉の侍女のひとりが指示されたため、先に階段を駆け下りていく。レティシアが大泣きしている少女に傍らに立ち、どこか一目を避けられる場所を探していた。
「――お前たち行くぞ」
----------以下いじめの描写があります。ご注意ください。---------------
叔父の声と共に階下へと下る。
エリーチェがひとつ下の階におり、行先を教えてくれるようだった。もうひとつ下の階に降りるよう案内され、三階に着き廊下を少し進むと甲高い声がした。
「――なんで男子がこんなところに入ってくるのよ! あったまおかしいんじゃないの?」
声のする方に向かうと、どうやら女子トイレの前で女学生二人が中にいる誰かを非難している。――エリーチェの目的地はここだったようだ。先ほど先に走らせた侍女も彼女たちの後ろに立っていた。新たな登場人物に睨みを利かせるが、その後ろにいる存在にすぐ気付いたようで姿勢を正した。
「うそ――。王子さまと姫さまだっ!」
「どうしてこんなところに……!」
先ほどの柄の悪さが一瞬で消え、憧れに目を輝かせる姿がそこにあった。――その声に中からぞろぞろと四人の少女が開け放たれた扉から顔を出した。
皆、先にいた少女たちと同じような顔をしている。居住まいを正しながら、トイレから出てくる。全員制服を着用しているが、胸元のブローチの色からふたつ下の学年だと分かる。
「なにかあったのかしら――?」
「さっき急に男子生徒がここに入ってきたんです……。すっごく怖かったぁ……」
急な侵入者に心底驚いているようで、皆一斉に表情を曇らせた身を寄せ合っている。
そのセリフの後から、フィフスが現れた。
「この人です! 近付くので来ないでって止めたんですけど、無視してむりやり……」
「――フィフス、さすがに女子トイレに侵入するのは……」
リタともう、ひとりずぶ濡れの女学生が出て来た。同様に濡れた文具やノートの類を持ったリタは、心配そうにその女学生の様子を気にしているが、うつ向いたまま何か言う様子はなかった。
「……君、一体どうしたんだ?」
「この子、誰かに虐められてて……。さっきもここで見つけて、彼女に声をかけていたんです。こんなに濡れているからどうしようかと相談していたら、急にこの人が――」
先ほどと違ってフィフスは何もしゃべらなかった。何を見ているのかどこともない場所を観察している。その様子に叔父は困るも、すべきことは目の前にあるのだ。そちらに意識を向けた。
「――大丈夫かね? 何があったんだ」
「………………なにも」
「……あなたがメルちゃん?」
姉の問に一瞬反応を見せるも、濡れた女学生はどこか痛むのか自分の左腕を掴んでいる。
――こういう場合、どうしたらいいのか分からない。ただただここに立ち、成り行きを見ることしかできない無力感にさいなまれる。
「さっき女の子が泣いていたの。――誰か、知らないかしら」
叔父が来ていた上着を脱ぎ、彼女に差し出すが受け取る気配もなく立つのみだった。数人の側仕えにトイレの中を確認せ、何か痕跡はないかと見てもらうも、特に収穫がなかったようだ。狭いそこからすぐに出て来た。
気付けばどこからともなく人が集まっていた。――一介の女子トイレの前に、目立つ人物が揃っているのだ。何事かと人が集まるのも仕方がないだろう。
彼に連れられるまで、こんな場所があったことなんて気付いたこともなかった。横にいるアイベルを見ると、同じように困惑していた。
「泣いている子なんて知らないです。――誰か見た?」
ひとりが尋ねると皆一様に首を振った。
「誰も何も知らないみたいです」
「――知らない、か。……それは本当か?」
ようやくフィフスが動き出した。
「――知らないって言ってるでしょ! さっきからなんなのアンタ」
「お前も何もなかったと言っていたな。……それで間違いないか?」
突っかかる女子を無視し、ずぶ濡れの少女の側に行き声を掛ける。彼女は返事もせず顔を背けた。
――どうして乾かしてやらないのだろうかと疑問が胸に浮かぶ。日中の屋内とはいえ校舎の空気は冷たい。
この前の自分たちのように、彼女を守りに来たのではないのか。
「――――申し訳ありません。どうやら何もなかったようです。」
開け放たれている扉に手を掛けた。
「フィフス、頼むから説明してくれないか? どうしてここに来たのか、何があったのか――」
「ここにいた者が何もないと言っているのです。――お前たちはそれでいいんだろう?」
「はぁ? 本当になんなのアンタ……! まるで私たちを疑っているみたいじゃない。何もしてないし何も見てない、なんにも聞いていないっていってるでしょう! ――メルからも言ってよ。誤解されちゃうじゃない」
手に掛けた扉に少し力を加えると、ゆっくりと閉まった。困惑するばかりだが、とにかくこれで事態が終わりなのかと思った刹那、――盛大な甲高い笑い声が周囲に響き渡る。
『キャハハハ! さっきのアイツの顔みた~? あんなに絶望した顔なかなか見れないわよね~』
『あ~~本当本当マジウケたわー。アンタも友だちがあんなちびっこしかいないなんて本当に可哀そう~。根暗だから仕方がないわよね』
『それにしてもくっさいわ~。このままじゃ根暗が移っちゃうじゃない。私たちがキレイにしてあげるねぇ~』
バシャリと水がぶつかる音と共に空の金属が床に転がる音がした。
鮮明な声と共にどこから聞こえるのかと周囲がざわめいていると、扉の前に揃っていた女学生のひとりが勢いよくトイレの扉を開けた。
「なによ、これ……」
トイレの中には誰もいなかった。一部水たまりがあるが、それでもこの騒がしくも耳障りな出来事が起きている気配はない。
トイレの前に並ぶ女学生に目をやれば、わなわなと震える者、青ざめる者、腰が抜けたのかその場で座り込む者がいた。
「どういうことなの…………? あんたがなにかしたの…………?」
中から出て来た女学生と、濡れネズミとなっている学生が同時にフィフスを見た。
「何をだ?」
「……やめて」
「おかしなことを言う。何かあったのか? ――私にはなにも見えないし何も聞こえていないが。」
「やめて……。やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて! こんなの知らない――! 私たちじゃない!」
ひとりの女学生が掴みかかろうとフィフスに駆け寄る。――思わず足が出た。無抵抗で女学生に掴みかかられている彼の側に行く。
「――彼に無礼はやめてくれ」
アイベルが前に出てフィフスと女学生の間を割ろうとする。
姿なき暴行がまだ周囲に響き渡り、濡れた彼女がどうしてこうなったのかが察せられる。――何が面白いのか始終誰かの耳障りな笑い声が続き、周囲の目が濡れてもいない女学生たちに注がれる。
「やめて……。そんな目で見ないで……」
「貴女たち、彼女に何をしたの? ――正直に答えなさい」
姉の厳しい声に、少女たちが一斉にうなだれる。
「……詳しい話は別の場所で聞こう。連れていけ」
叔父が側仕えに命じ、彼女たちをこの場から離した。
「……気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
彼女たちがいなくなった後、姉が残された女学生に声を掛けた。先ほど一瞬フィフスを見るために顔を上げていたが、再びうつ向いている。ディアスとアイベルを制し、フィフスがトイレの扉を閉めに少し移動した。
「………………」
なにか彼女が言葉を発していたが、小さすぎて届かなかった。
リタが姉を後ろに下がらせ、手にした濡れた文具を差し出す。言葉もなくそれを乱暴に手にすると、勢いよく振り返りフィフスへと投げつけた。避けることもせず彼女の怒りをそのまま受けている。
「なんだよ……、今更なんなんだよ……。誰が助けてくれって言った――? ずっと、ずっと……、誰も知らないフリして、見てないフリしてたくせに……、今頃なんなんだよ……っ!!」
弾かれるように人込みを突っ切り、駆け出して行った。エリーチェがその後を走って追いかける。彼に近付き声を掛けようとするが、制される。
--------------該当箇所ここまで--------------
「お前が味方すべき相手は私ではない、ここの学生たちだ。」
足元に落ちた濡れた文具を広い、叔父に渡した。
「あの女学生はエリーチェが後程、医務室へ連れて行くでしょう。どうか校則違反は今だけ目を瞑ってやってくれませんか? ――先ほどの子どもと共に、カウンセリングを受けさせるのが良いでしょう。時間はかかるでしょうが、あの様子からまだ手の施しようはあるかと。」
「……分かった。彼女たちには適切な対応をすると約束しよう」
残った側仕えと共に周囲に集まっている人々を散らし、この場を後にしようと叔父がアストリッドとディアスを呼ぶ。――リタがフィフスに近付き、躊躇いのあと大きくため息をつくいた。
「……あんな傷を抉るようなやり方はやめてよ。――誰もがアンタみたいに強い訳じゃないのよ?」
静かに怒っている様子のリタなど気にした様子もなく、先ほど掴まれた部分を払いながら、フィフスは涼しい顔をしていた。
「問題を見つけ、早急に解決するのが私の役目だ。――それ以外のことは然るべき者が対処する。ここは彼らの管轄なのだから、彼らに任せただけだ。」
もう一言何か言いたげにするが、言葉を探しているようで握った拳を力なく彷徨わせた。
「――フィフス、この件についてきちんと説明してくれ。……どうしてあの子たちに気付いたのか、この場所が分かったのか。……さっきの声も君の仕業なんだろう?」
二人の様子を見かねて叔父が尋ねた。――感情が読めない淡々とした表情をこちらに向ける。叔
父を見ている瞳は光も届かない水底のように深く静かだ。
「精霊が教えてくれるのです。今だと半径二、三キロ程度でしょうか――、その範囲内でなにが起きているのか見え、聞こえ、分かる。ただそれだけのことです。」
単調に伝えられる言葉が、常軌を逸している。
リタ以外の人間が驚いているが、彼女は顔を背けているため今どういう表情をして聞いているのか分からない。――だが呼ばれなくても付いて行ったところから、周知のことなのだろう。
「――ただあまりにも情報が多いので、特定の条件に応じた情報を読み取ることにしています。それが先ほどの二名と、連行された者たちでした。――――先ほどの声は、あの場に残っている精霊が持っている情報を再生しただけです。どんなに隠そうとも精霊がこの世に存在する限り、私の前では何事も秘することはできません。」
魔術であれば、少なくとも個人ではできない範疇のことだ。行うにしても緻密な補助や道具が必要だろう。
己の霊力を使い世界に存在する精霊を使うと聞いたが、人智を超えるようなことまで彼らには可能なのか――。
「これは私にしかできないため、此度は徴用されました。――『うまく使うと良い』、女王からもそう聞いているはずです。」
最後の言葉に叔父の顔を見ると、何か心当たりがあるようで神妙な顔をしている。
「……重々承知した。――だがな、女子トイレには勝手に入るな。今回は許すが、次はダメだ。エリーチェ嬢にも校内は走るなと伝えておきなさい」
「肝に銘じておきます。――此度は些事に付き合ってくれて感謝する。……すまないが、ここで私は失礼しよう。」
簡潔に礼を伝えると、横を通り過ぎてこの場を後にしてしまった。
「ヴァイスがついているから大丈夫だと思うが、レティシアたちが心配だ。一度戻って合流しよう。リタもこちらへ――」
ここに来た時と同じように、廊下をまっすぐと進んでいる。
誰にも気に掛けられることなく、こちらを背に進む姿が痛々しく感じた。




