4.長い一日④
左翼に置いて行かれたフィフスは寒かったのか身をすくめ、部屋の中心に行こうと踏み出す様子が視界の端に入った。
――と、不自然に足を止めた。
胸元のポケットから金色の懐中時計を出して開く。遅れてポケットから伸ばされた鎖がじゃらりと音を立てて宙へと落ちた。
『やぁやぁお疲れさま~。フィフスくん、だよね? 連絡が遅れてしまって申し訳ない。皆から聞いたけど、また仕事してるんだって?』
唐突に彼の手中から聞き覚えのある、軽薄そうな声が暖かな廃屋に響いた。
「ご無沙汰しております、ヴァイス卿。――そちらが大変なことは事前に伺っておりましたので、委細問題ありません。」
今までとは違い姿勢を正した声色で、フィフスが手中の声の相手に話しかけている。――どうやら懐中時計だと思ったものは通信機の類らしい。
そして声の主であり、彼から発せられた名はよく知る相手だった。
「ヴァイス卿――!?」
アイベルが強く反応し、痛みを押しながら立ち上がって彼に近付く。
『ん? 元気そうな声がするね。負傷者がいるって聞いていたけど、二人とも怪我してるのかな?』
「負傷者はひとり、既に対処済です。もうひとりは外傷はなくどちらも緊急性は低いです。――代わります。」
フィフスは手中の懐中時計のようなものを歩み寄るアイベルへと向ける。――先ほど冊子をめくっていた左翼がいつの間にかフィフスの背後に立ち、手に筒状にした冊子を握り高く掲げている。――なにを? と疑問符を浮かべる間もくれず、それを彼の後頭部に向けて振り下ろしていた。
『君たち災難だったね~。迎えに行くからもう少し待っててね。――あと、確認のために学年と名前を教えてくれるかな?』
フィフスは背後に注意を向けているようには見えないが、動じることなく首を傾け、振り下ろされるものを避けていた。
アイベルの正面で、なぜか無音コメディのような一幕を繰り広げている。
目の前で行われる突然の奇行にアイベルは少々動揺したようだが、二人に構う余裕などなく、彼の手中の向こうにいる人物に話しかけた。
「――ヴァイス卿、アイベルです。一緒にいるのはディアス殿下で、殿下にお怪我はありません」
『え? アイベルくん? ディアスくんもいるの??』
フィフスの目の前に先ほど振り下ろされた|冊子《》が今度は開かれる。どこかのページを見せているようだ。
広げているおかげで左翼が手にしていた冊子のタイトルが見えた。――月刊誌『ロイヤル』――あれは王家ならびに王族の動静と、王室にまつわる文化や、携わっている活動内容を紹介する雑誌だ。
自分で手にしたことはないが、広報の一環で協力することがあるので記憶にあった。いつのものかわからないが、表紙は久方ぶりに見る父、グライリヒ王の姿だった。
「殿下に外出を勧めたのは私です……。皆様にご心配をおかけしてしまったことや、殿下を危険に巻き込んでしまった責任はすべて私にあります――」
大罪を犯してしまったと自責と悔恨の思いがこちらまで伝わるほど、悲痛な告解が行われる。どう考えても彼だけの責任ではないので、思い悩ませてしまっていることが申し訳なかった。
『そうだったんだね。――ま、いろいろと言いたいことはあるけど、君たちが無事で本当によかったよ~。何が起こったのかわからないけど、大変だったみたいだしね。とりあえず詳しいことはあとにしよっか、――殿下に代われる?』
指名されたようなので、肩にかけられたストールを落とさないよう掴みながら立ち上がった。アイベルが振り返り、自分に道を譲るため恭しく首を垂れ一歩下がる。
左翼は雑誌の位置をフィフスの顔の正面から横にずらすと、二人の注意が同時に自分に注がれた。
「王子じゃん」
「そうなのか? ――まぁ、お前が言うならそうなんだろう。」
兄弟だけで会話しているつもりなのか、声のトーンを落とすことなく二人はつぶやいた。目の前にいる王子である自分に一切かしこまる様子が微塵もないのはやはり新鮮な体験だった。
この場合どのような反応をすることが正しいのだろう、と逡巡する。
「――殿下は王子です!」
『えっなになに? 君たちなにか楽しいことでもしてる?』
沈痛に浸かっていたアイベルが不意に反論したため、声をかけるタイミングを見失う。
「いえ、本当にラウルスの王子なのかを左翼と確認しておりました。限りなく王子のようです。」
『うそ~。今そこ疑う? ふふっ、もしかしてそこにいるの、ディアスくんじゃない可能性があるってこと?』
ヴァイスの軽薄そうな声がより一層楽し気に弾む。――これは分かっている声だ。彼の琴線に触れたようで、溢れ出る笑いが堪えられそうにない様子が姿が、姿が見えずとも伝わってくる。
一方フィフスは彼とは違いずっと真面目な調子で話すので、どのような意図でそう発言しているのかわからない。今も表情を変えず、雑誌と自分を見比べていたようだった。
彼の後ろにいた左翼は雑誌を下ろし、用は済んだとばかりに無遠慮に閉じてその場から離れていった。今の一幕はいったいなんだったのだろう。
『っふ、っくく、……まぁ、僕が直々にお迎えに行くから真相はそのときに確かめようか。――さて、限りなく王子さまっぽい方はいらっしゃいますかー?』
始終からかう調子のヴァイスにため息が出る。――ヴァイス・ソリュード。父の親友のひとりで、自分たちの目付け役でもある。記憶にある限り彼はずっと自分に対してはこんな調子だ。――彼が有能ということはもちろんのこと、気配り上手なところや臨機応変に対応する柔軟さなどは特に目を見張るものがある、と皆に評されている。
またここ学園ピオニールの理事も務めており、学生や教師たちからも広く慕われている。昔から周囲の人間に好かれるほど愛嬌もあるのだが、こと自分に対しては軽薄な調子で対応されることが多い。――恐らく自分を心配しており、思い煩わせないようにしているのだろう。彼の心遣いに感謝もしているが、素直に受け取ることが難しい時もある。
思わずもうひとつため息が出てしまう。
「――俺だ、ヴァイス。皆に心配をかけてすまないと思っている」
『おっ。これは確かに限りなく僕が知ってる王子さまっぽいねー。ふふっ。みんな無事ならいいんだよ。いや、怪我人がいるか……、とにかく大事がなくてよかったよかった』
ご機嫌そうな声に、あまり心配していない様子だ。
『それにちょうどよかった。――少し聞こえたけど左翼くんもいるんだろ? そのまま僕が行くまで四人で親睦を深めていてくれるかな? そこの二人はどちらも強くて頼もしい人たちだからね、そのまま一緒にいてくれる方が女王陛下も安心されるだろう』
女王陛下、つまり祖母であるオクタヴィアのことだ。――今まで強くなにかを言われることはないものの、何かあっても見向きもされないことから、祖母には期待などされていないことは想像に難くない。
今回の勝手な外出で、さらに失望されたかもしれないと思い、苦い気持ちが胸中に広がる。
「場所はわかりますか?」
『ガレリオくんに教えてもらったから大丈夫さ。悪いけど引き続き二人のことよろしくね。――特に我らが”王子さま”は悩み多きお年頃だから、優しくしてあげてね』
じゃあまた、というヴァイスの言葉とともに会話は終了した。
再び静寂と雨音が部屋に充満する。通信機である懐中時計のようなものを元あった場所に戻し、フィフスが椅子に座るよう促した。