16.『策士』は雨上がりと共に①
天蓋から伸びるカーテンの隙間から光が溢れている。いつの間にか朝になっていたようだ。
差し込む陽光のせいだろうか、いつになく頭がすっきりしている気がする。
(――今日は何か予定があっただろうか)
なにかあった気はするが、寝起きの頭では思い出せない。まだそんなに働かない頭で身体をなんとか起こすと、
「おはようございます――」
聞きなれた声、――これはアイベルだ。彼が天蓋のレースを開けば、いつも通りの朝のルーティンが始まる。
ベッドに広がる髪を踏まないよう、ベッドを抜け出て支度を手伝ってもらう。部屋を移動する際に視界の端に映った窓には、重いカーテンに隙間が出来ていた。眩しくて直視できないものの、朝の訪れをはっきりと主張している。
「昨日の疲れなどはございませんか? もしご気分が優れないようでしたらゆっくり休まれても……」
「大丈夫だ。心配をかけて――」
ふと、気付く。清潔に整えられた短い髪に、涼やかな切れ長の目。付き合いは十年近くになるが、身だしなみから心遣いまで、日頃からよく気を配り支え続けてくれた侍従のアイベル。
黒のテールコートは深緑色の裏地がさりげなく見え、黒のウエストコートに薄くラインの入ったウィングカラーのシャツ、首元をネクタイで締めており、普段と同じよく見慣れた姿をしていた。
黙って観察している主の視線に、戸惑っているようだった。
「いかがなさいましたか?」
「……どうしてここに?」
「怪我も良くなりましたので、務めに戻って参りました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
アイベルの戻りが早いことに少し驚いたが、務めに支障がない程度には回復したのか。
落ち着いた表情がいつも通りなので、それ以上詮索することはやめた。問題はないというのであれば、信じて仕事を任せるだけだ。
「無理はするなよ」
「お心遣いありがとうございます」
彼もどちらかといえば落ち着いた声が淡々としたものに聞こえる。笑顔などは気安く見せないものの、日頃から自分を慮ってくれていることはよく伝わっていた。いつくか用意してくれた服を適当に選び、身支度を整えていく。
――彼も?
自分の中でなにか引っかかりを覚え、自問する。
(今、誰と比べた……?)
何か見落としをしている気がし、おもむろに部屋を見回した。――変わった点はない、と思う。
「どうかされましたか?」
「いや……、なにか、忘れている気がして……?」
「昨日身に着けていらしたマントでしょうか? あとで人に探してもらいましょうか」
確かに出かける際に羽織っていたのを思い出し、「あぁ」と適当に相槌を打った。
しかしいまだ座りの悪い違和感に囃し立てられているようで、気持ちが落ち着かない。
隣の応接室に移動すると、落ち着かない気配の正体が一気に判明した。
「殿下?」
「いつの間にベッドに……?」
ベッドに移動した記憶がない。おまけに着替えをした記憶も――。
思い出せないせいで、一周回って昨日のことは全て夢だったのだろうか。
「お部屋に伺った時から、ベッドでお休みになっていらっしゃいましたが……。よほどお疲れだったのですね」
昨日使っていたはずのソファには誰かいた痕跡はなく、ローテーブルにあったティーセットは既に片付けられていた。――だが、テーブルの片隅にキャラメル色のストールと、金色の羽の形をした留め具が置いてあることから、ここでの記憶が一気に降り注いだ。
昨夜、ここにクリスが来ていた――。
改めて友人になってくれと頼んだところまでは覚えている。
「フィフス殿からお借りしたものですよね。私も左翼殿から借りた外套があるので、清めてからお返ししようかと考えております」
机の上のストールに気付いたからか、アイベルがそう言った。
「……それから、昨日の件は何も咎めがなかったのですが、もしかして殿下が庇ってくださったのでしょうか」
申し訳なさそうに聞かれたが、彼の疑問に答える余裕はなかった。
「いや、なにも……何もなかった……?」
「? えぇ」
抱き着かれたところまでは記憶がある。だが、その次に何があったのかは記憶にない。そのまま寝落ちした、となればクリスが運んでくれたのか? だがあの華奢な人に自分を運べるだろうか。彼、彼女? ――の手間を取らせることをさせたのか、それ以外のことをしていないかなど、ぐるぐると不安が渦巻いた。
『おやすみディアス。また明日――』
昨夜伝えられた言葉が、耳元で蘇った。少年の声で囁かれた声は、今日また会えるということだろうか。
自分の身体に異常がないことを確かめながら、少しずつ冷静になる。――あの人にもし何か無礼を働こうものなら、自分が無事で済んでいるはずがない――。
深く息を吸い、応接室を見回した。いつも通り、ここは変化なんてひとつもない、いつも通りの自分の部屋だ。
余計なことを気にするのをやめ、一人掛けのソファに腰かけた。――早速なにか問題を起こすほど、己は行動的ではない。はずだ。
アイベルは少し様子のおかしい主を不安げに見ていたが、深く気に留めることはやめ、いつも通り紅茶を入れることにした。
10月2日土曜日、朝八時前の出来事だった。