1.長い一日①
ガコッ――。
と、どこからともなく景気の良い音がしたあと、重いものが跳ねる水音と共に、地面に落ちる音がした。
「お前たち、下がっていろ。」
凛と透き通った声が響く。
侍従の声ではない。
顔を上げるとアイベルの前に人影がひとつ増えていた。雨除けのマントでシルエットしかわからないが、声の印象から同い年くらいの男子だろうか。右手にトランクを携えている。――帯剣もしていたが、手にはしていないようだった。
その人物から少し離れた足元に狼男が倒れている。
「――何者だ!」
アイベルが警戒の声を上げると、その人物は振り返ることもなくマントをアイベルに投げた。
「よそ者だ。」
突如現れた新手に、身構えていた剣を振り投げられたマントを切る。――開けた視界の先でその人物は襲い掛かろうと走り出した狼たちをトランクでいなし、蹴りを入れ、攻撃をひらりとかわし的確に急所に攻撃を入れていた。
遅れて狼男は立ち上がると、見上げるほど大きなその巨体で少年に対峙する。比較するとその少年の小柄さが一層際立つ。――大きく腕を振りかぶり少年に襲い掛かった。
少年は小さな動きで攻撃をかわし、踏み込み飛び上がる。――越えられない壁のように立ちはだかるその巨躯をものともせず、トランクの角で頭部を容赦なく殴打した。――雨のカーテンと、夕闇のせいで彼の姿は影のようになんだか不確かなものに思えた。
新しく登場した人物がこちらに注意を向けていないのを察し、アイベルが敵から目線を離さず、ゆっくり後退し近くにやって来た。
「……ディアス様、お怪我はありませんか?」
自分にだけ聞こえるよう、声を抑えて尋ねてきた。アイベルに目をやると剣を持つ腕だけでなく、四肢のあちこちに傷をつけているようだった。息も荒く、先ほどの戦いが厳しいものであったことが伺える。返事をしようとするが、まだ喉の奥が恐怖で支配されているのかうまく発声できなかった。
「――あの者が何者か分かりませんが、今のうちに逃げましょう」
今一度先の少年に目をやる。いまだトランクで応戦する姿はあまりにもこの場に不釣り合いでおかしかった。少し前は死も近く感じられた現場であるのに、彼の軽々とした無駄のない動きは、何か舞台上で繰り広げられる舞踏のようだ。不思議な違和感と共にそんな感想を抱くが、それとは関係なく次々に狼を退けていく。
――もしかして、悪い夢でもみているのだろうか。
そんな疑問が浮かぶと同時に、大きく牙を見せる狼男と共に、一斉に襲いかかろうと飛びかかる狼たちの群れが見える。
アイベルもその様を見てディアスを庇う。――彼が倒れれば次はまた自分たちが襲われる番だ。
狼たちの前に仁王立ちで立つ少年は、トランクから手を放し地面に落とすと、どこからともなく一枚の紙を手にし、目の前に放った。
――この大雨の中で紙? 思った刹那――、青紫色の閃光と共に雷鳴が耳につんざき、眩しさにに目を伏せる。
雨の音だけが少しの間あたりに響き渡った。
「……まだ遊び足りない奴はいるか?」
少年の声が大きな雨音を避けて耳に届く。彼を見やると、その眼前に20頭ほどいた狼は半分以上数を減らし、狼男も今の雷に打たれたようだった。
致命傷とまではいかないようだが、これ以上相手にはできないと判断したのか、狼男がじりじりと下がり、彼を背にして去って行く。残った狼たちもそれについて駆け出していった。
彼らの姿が見えなくなるのを見届けると、少年は地面に落としたトランクを手に取り、踵を返しこちらへやって来た。
いまだ恐怖が抜けきらない身体になんとか力を入れ、その場を後ずさる。――が、すぐに背後にある壁が逃げ場がないことを教えた。アイベルも彼を警戒しており、空気に緊張が走る。
緊張したのもつかの間、――途中で彼の足が止まった。地面に落ちたびしょ濡れのマントを拾い上げるとその場で広げた。
「? 破れたのか。」
投げられた際にアイベルが切り裂いたものだ。仕方のない犠牲だった。
少し悪い気もしたが、相手が何を考えているのか図りかねるため、謝罪の言葉が一瞬浮かぶも口は動くのを拒んだ。彼は雨の中なのに気にした様子もなく、手にしたマントを適当に折り、埃を払うかのように何度か振り払う仕草をした。――雨の中でやるにはいささか不釣り合いな仕草だ。
そのマントを丸め、小脇に抱えるとまたこちらに向かって歩を進めた。――そんな彼にアイベルは剣を向ける。
「助けてくれたことには感謝する。だが、それ以上近づかないで頂こう」
まっすぐ伸ばされた切っ先が上下に震える。声色の強さとは裏腹に、剣を支える腕は力強さを示してくれない。
間合いよりは離れた位置で少年が止まった。大きかった狼男と比較して小柄だと思っていたが、改めて目の前に立つと華奢な印象を受けた。そして少年の顔立ちがはっきりと見え、――彼もこちらの様子を観察し、ひとつ息を吐いた。
「お前たちに危害を加えるつもりはない。困っているようだったから加勢した。ただそれだけだ。」
黒い衣装に身を包み、黒髪短髪の少年はまっすぐな視線を向ける。
「私の名前は五番。先ほどこの街についたばかりのよそ者だ。」
まっすぐ見つめてくる瞳は宝石のサファイアのように深く澄んでいて、今の自分にはひどく眩しく見えた。同時に過去の憧憬が一瞬眼裏に浮かんだ。――友人だった『彼女』のような深く遠い青色。
少年はひとつ息をつくと、目線を外しあたりを見回す。
「雨宿りしないか? とりあえず傷の手当をしよう。」
言うや否や、こちらの返事を待つつもりもないのだろう。すぐ近くの廃屋の近づき、板で封をされた扉に蹴りを入れる。
事も無げに封も扉も破壊し、廃屋の奥に姿が消える。――少し遅れて、割れた窓からほのかな明かりが灯ったのが見えた。
こちらに気を留める様子が先ほどからない。安心していい相手か? また同時に言葉と同じように淡々とした調子で、軽率に行われる破壊行為にアイベルは警戒していた。
逃げ場のない屋内に連れ込まれたら、手負いの自分だけでは守れない。だが、弱っている己の主人にこれ以上負担をかけまいと考えあぐねる。
逃げる――、という選択肢も、今の戦闘を見たあとではあまり良策だと言えないだろう。彼がもし主人を狙うものであれば、まだ余裕のありそうな様子を見るに、追いつくのは簡単だろう。
それに、――主人一人逃がしたところで、先ほどの狼男が戻ってこないとも、他の敵対者が現れないとも限らない。自分のいない場所で主人が傷つけられることがあった方が耐えられない。
意を決し、深く息を吐いたアイベルが剣を下げた。
「申し訳ありません、ディアス様……。今は、御身が心配です。彼の指示に、従いましょう」
弱々しく吐き出された言葉の端から、彼も体力が少ないであろうことが伺える。目の前のことに気を取られていたが、秋が深まるこの時期の雨は、生身にはきつい。ディアスも自覚すれば、己の手足の感覚も完全に冷え切きり、身体の芯が凍えていることに気付いた。
「――あぁ、わかった」
恐怖で出なかった声もようやく出てくれた。
彼が何者であれ、一難去ったのを心が感じたようだ。アイベルを支え、小さな明かりの灯った家に向かった。