98.オペラカーテンは上がらない①
引っ張られる手に、帰らぬ日々が蘇る。
行先は分からないのは同じだが、白くもない城内が既視感を呼び起こす。
光で溢れていた広く誰も居ない廊下とは違い、人がいる屋内の暗い廊下をまっすぐに連れられて行く――――。
忘れないよう、何度も思い出して見た光景で。
手を繋いでるのは間違いなく、自分にとって掛け替えのない『友人』で。
今も昔も短い間だけど傍に居てくれる、嫌な気持ちも全部どうでも良いものにしてくれた心強い存在だ。
掴まれた手を強く握り返した。あの頃よりも小さく硬さのある手は、遠かった距離を近いものにしてくれた。
ずっと足を止めているだけのちっぽけな自分が、ようやく走り出したかのようになんだか足取りは軽い。
「あーサボりだー」
「いけないんだー」
辿り付いたのは西エントランスだった。
天上の高い空間で何事かと振り返る人もいたが、それよりも目立つのはカラフルな髪色をした二人の兵士の間延びした声。
「静かにしろ。連れ出したことがバレるだろ」
「そりゃあバレるでしょー。あっちもこっちも耳聡い人が多いですからね」
「少し時間が稼げればいい。この好機を逃す手はない」
大きさのある見慣れない紋章の馬車が止められており、促されるように馬車へと向かう。
「俺ら出来る兵士なので、あとの事はお任せください」
「殿下ってばお可哀そう。こんな人に捕まるなんて」
口から出る言葉がころころと代わる兵士と、シクシクと口にしながら濡れてもない目元をハンカチで拭う仕草をする兵士にアイベルが慌てた。
「殿下をどちらに連れて行く気ですか。まさか、本気で出奔させようとしている訳じゃ……?」
上がる息を整えフィフスの肩を掴もうとするが、するりと避けこちらの手も放す。
「ノクス・アエテルナ会館だ。下見に付いて来て欲しいだけだ。すぐ終わるから、その後はお前たちの好きな場所へ連れて行こう」
軽い足取りのまま馬車のステップに登り、扉を開けた。
「さぁどうぞ。乗ってくれ」
ご機嫌そうな青い瞳を見上げる。
息つく間もないとはこのことを言うのだろう。待つ時間も惜しいのか、上がる息を整える暇すらくれない。
「――――アイベルは後ろへ。準備出来次第出してくれ」
登るために差し出す手を掴み、後から入ろうとする『友人』を中に引き入れ扉を締めさせた。
少しすると馬車が動き出す。――隣に座らせた『友人』の肩に寄りかかる。
「アイベルは外で良かったのか?」
「従者とはあまり相席しないものだ。それに……、少しだけふたりで話したかった」
「寄り掛かれると重いんだが……」
つれない言葉に小さく笑う。繋いだままの手が拒否する訳ではないようなので、今は少しの間だけ我を通す。触れる箇所が温かく、整う気もない鼓動がうるさい。でも触れる温度も、近くで感じる『友人』のどれもが心を落ち着かせてくれた。
淀みなく走り始めた馬車は一定のリズムで進む。風景が後ろに置いて行かれ、簡単に学園を出て行った。
「……もしかしてヴァイスの授業は出ないつもりだったのか」
「お前が授業に出るなら一緒に行くつもりだった。行かないのであれば私も他にやりたいことがあるため、そちらを優先しただけのこと。エリーチェやリタが授業に参加しているんだ。ひとり欠けたとて、既に目的が果たせているからこちらは問題ない。お前たちは気にしなくていいし、私が連れ出したことにすれば支障はないだろう」
「俺が頼んだんだ。……フィフスが悪者になる必要はない」
「それは結構だが、誰にも筋書きは必要だ。お前が不要でも私に必要なこと――――。使える手はいくつあっても良いだろう? ただそれだけの事だから、本当に気にしなくていい」
身体を起こすと、座り直した『友人』が腰の剣の位置を直した。
「ヴァイス卿が普段この学園でどうお過ごしなのか興味はあるけれど、あの方にはあの方の生き方がここに在る。元々干渉する気はなかったし、安全にお過ごしであると分かればそれだけで私は充分なんだ」
流れる景色を眺める横顔は、ここで見たどれよりも穏やかなものだった。
「あの方の授業も、どうやら私は受けない方が良いとそれとなく周りに言われていたしな。お前もそのつもりで私を外に行かせるよう提案してくれたのだろう?」
こちらに戻った顔も同じ。
深く静かな色に見とれてしまった。
「……俺が授業に行きたくなかっただけで、付き合って欲しかっただけだ」
「では、そう言うことにしておこう。今日は良いサボり日和だな」
また窓の景色を眺めはじめた。
体面を筋書きと呼ぶなら、小さなエゴに気付かないフリをしてくれているのかもしれない。深く座り、隣の人を観察する。
「そういえば前に新しい警備組織を作るという話があっただろう? 今のところ予定人数は確保できたそうだから、幕開けに日曜の昼にそいつらもランチに招待してやる算段だ」
「……それって今朝、俺を誘ってくれた話しか?」
ついでで誘うには随分大きな話になっている。のんきに構えていたが、大義名分が出来てしまえばもはや公務のようなもの――。
「お前も来てくれるなら、もっと人が集まってくれることだろう。新しいことを始めるのであれば、派手に景気良くしてやれば良い餞になる。彼らの為に良い手本を見せてやってくれないか」
「手本……って、何か示せることなんて俺にはないと思うが」
学園の成績が良いというだけで他はおざなり。周りに比べれば秀でることなどないに等しい。
勉強や魔術は得意でも、剣術はそれなり。社交性も他の姉弟たちに比べれば下の下。
「いつも人は誰かに夢を見、期待を寄せるものだ。それを受け止めるだけの度量が十分お前にもあると、ここで見てきてそう私は感じた」
「買い被り過ぎだ……。他の事に関心がない、ちっぽけな人間だ」
周囲が過剰に評価を盛っているからだろうか。一番近くにいた、『友人』の言葉に居心地が悪くなる。
「自分の過不足を知っている。それだけで充分だ。何のために他に人がいると思っているんだ?」
好戦的な熱も真面目な堅さもない、凪いだ静けさがこの場に満ちた。
「四年前、私は聖都中枢の整理を行った。長年悪行を働いた貴院の連中を捕らえ、彼らに組した連中を全て監獄へ送った。穢れの元凶を消せば、全て良くなるだろうと単純に考えていたんだ」
「『貴院解散の神勅』か……。良い政策だったと俺も思うが」
東方天が聖都に着任した際行われた、最初の号令――。数百年に渡りクリシス神殿で政務を任せていた貴族たちが、汚職に手を染め圧政を布いた。その全てを一掃する令を出したのが、今隣に座る『友人』だ。
「急性な断罪のせいで、文官も兵士も多くの者が愛想を尽かし神殿を離れて行った。元居た三分の二程度は居なくなっただろうか。残った者たちには長いこと無理をさせた」
数百年に及ぶ罪状を上げ連ね、貴族称の剥奪に領地も財産も全て没収。一族郎党の全てを監獄送りにした大きく波紋を呼んだ出来事。
苛烈なやり方に、反発の声がこの国まで広がった。今でも批判的で厳しい眼差しを向けられることも多いのは、新聞を見れば一目瞭然だ。
同時に、時効を遡り存命の被害者たちの救済も行っていたが、そちらの話題は露ほどしか知られていない。
大胆不敵な行いに壁を挟んだこの国にも震撼が走った。だが、東方天の着任式に招かれた前国王である祖母が往訪していたおかげか、対外的な問題はなにひとつ生じなかった。退位したとはいえ変わらぬ祖母の圧倒的な政治的手腕に、多くの諸侯たちは崇敬の念を抱くきっかけにもなった出来事でもあった。
「その後の人集めは全然上手く行かなくてな。ガレリオたちが聖都に来るまでは街の防備も私がずっと担っていた。街を見て周ることなど大した苦ではなかったが、あの頃は問題があっても誰も私に相談する者はなかった」
語る声は滔々と淀みなく、後悔も悔恨も感じさせない。
方天として圧倒的な力を示したこともあり、口を閉ざす者も多かったのだろう。苛烈で清冽な正義ばかりが良い結果をもたらすとも言えないことは、過去を遡れば例はいくらでもある。――非常に難しいバランスだ。
回る車輪と蹄の堅い音が車内に響く。
「……昔の聖国を知っている訳じゃないが、貴方がいなければまだ苦しんでいた人もきっといたはずだ」
「それだといいが。――だが安心して誰かに何かを託せるというのは、非常に楽だ。私の苦手なことは全て周り者たちが埋めてくれる。私より私の事を理解してくれる者がいてくれるおかげだ」
過去は過去と受け止め、同じ轍を踏まぬよう前に進む冷静な『友人』がこちらを見た。
「足りないところは案外周囲の者の方が理解しているものだ。それを自分で埋めようとして二の足を踏むくらいなら、足らないまま出来ることだけひとまずやってみればいい。きっと困った時はアイベルやアストリッドだけでなく、周りの人間がお前を助けてくれるだろう」
柔らかい声が心地よく、卑屈な心を慰撫する。
「私は今のお前を評価している。上手くやろうとしなくていい。たった二週間ほどの任務で、やることは既存の警備となんら変わることはない。参加する者たちも腕に覚えのある者ばかりだ。一から全て用立てる訳じゃないから気が楽だろ?」
「……そもそも、警備の任も就いたことだってないんだ」
「ならヨアヒム殿下にでもいいから普段どんなことをなさっているのか、一度伺ってみればいい。ちょうど良い先人がお前の周りにはいるのだから少しずつ頼ればいいじゃないか」
『友人』に比べればずっと情けない場所にいる自覚はある。だが背中を押してくれる『友人』の言葉に、容易く鼓舞される。虚栄だけでない何かが、自分にもあるのではないかと――。
ゆっくりと馬車が止まる。会館に到着するには早すぎるタイミングに窓の外を見た。
制服姿の者より、私服姿の学生が多い。威厳ある店の並びにすぐに思い当たる。――――学園を出てすぐの商業区域、アシェンプテルも近い場所だった。
「会館はこの先だが――?」
フィフスが窓をノックすると、扉が開いた。
「お出迎えあざーす。後ろにひとりで座っていましたが、中にお呼びしなくて良いんですか」
「って、マジで王子さまいるじゃないですか。授業はいいんですか? ヴァイス様きっと泣いてますよ」
大きな荷物を持った二人の兵士だった。大きく馬車を揺らしながら前に座った。
「悪いがコイツらを同席させてくれ。当初、この二人に会館へ行ってもらう予定だったが、うちの兵だけでは準備中の会館に行かせるのは不安だったんだ。お前がついていれば人受けも良いし、下見もしやすくて助かる」
バタンと扉が締められると、しなる鞭の音共に馬車はまた走り出した。
「どうも、ドミニクです」
「ヨナスです。いつもうちの人がお世話になってますー」
ドミニクと名乗った飴色のくせ毛と若草色の瞳を持つ青年と、ヨナスと名乗る薄緑色の髪と煤色の瞳を持つ青年が頭を下げた。どちらも髪は短く、兵士らしいしっかりとした体躯をしている。
兵士である彼らは何か使いをしていたのだろうか。『友人』だけでなく、誰も彼もがちぐはぐな役割を担っているらしい。僅かに楽しい気持ちが湧いてくる。
「はいこれ。殿下もどうぞ」
「味見させてもらったんですけど、めちゃくちゃうまいっすよ。期間限定だそうですー」
小さな白い包みをふたつ、『友人』と自分へ渡される。『友人』が開けば甘い香りと共に、四角いチョコレート菓子が出て来る。
「うま……。この街ではこれが毎日食べられるのか……」
躊躇いなく口に運んだと思えば、いたく感動している。
「この濃厚な味は酒のつまみもいいですよねー。おっさんだけでなく女子にも受けそうっす」
「聖都にも支店出してくださいって頼んでおきました。ご縁があればってやんわり断られましたけど」
「方々に声は掛けてるんで、どこかとはその内ご縁が生まれるといいっすね」
茶菓子として出されたことがあるが、どんな味だっただろうか。口に運べば、よくある焼いたチョコレート菓子でしかない。美味ではあるけど、――口の形が残るそれを持ったまま、深く堪能している『友人』には遠く及ばない感想だ。
「……こんな店が近くにあったら堕落してしまう」
「お菓子ごときで堕落してたら平和でしょうよ」
「来年はカナタ太子を巻き込んで、甘味の展覧会でも開けばいいじゃないですか。殿下はご存知ですか? 昨年、食の展覧会を聖都で行ったんですよ」
「不勉強で申し訳ない。――北方天ということは、国家規模でやっていたのか」
詳しそうな隣に座る『友人』を見るが、まだ余韻に浸っているようで戻って来る気配がない。
「クリシス神殿主催の試みだったんですけど、聖都に店を出している人が中心でしたから規模的には小さかったです。なのでご存知なくても無理はないかと」
「さすがにここまで知らせが届かないかー。ははっ、残念です。いずれここまで展覧会の話しが届くように我々も精進しなきゃですね」
二人の快活な笑い声が車内に響く。家族といる時以外で、屈託を必要としない空気なんていつぶりだろう。
「あははー聞いてます? 坊っちゃんにも言ってるんですけど?」
「耳には届いている」
「届いてるだけじゃ聞いてるって言わないんですよ。話題は拾ってください」
残っていた菓子を口に放ると、包み紙が片手で握り潰された。
「そんな雑談はいい。会館での予定をディアスにも伝えておく。今のうちに顔を合わせておきたい連中がいるんだ」
「そうですね~、折角の機会ですから」
「まさに乗り合わせた馬車――――。我々とご一緒してもらいましょう」
仕切り直されたこの場に、妙な威圧が生じた。
僅かばかり口にしただけの、逃避と我が侭のつもりだった。
遠かった思い出とは違い、悪戯っぽい笑みに含みを見せる青い瞳がこちらを見据えた。
「本物がいなくては始まらないからな。――――ディアス、お前の活躍には大いに期待しているぞ」
積年の想いの所為だろうか――――。離れ難い気持ちと共に、予測不能な『友人』の期待に決意を飲み込むことしか出来なかった。




