間奏曲 ――憧憬の行先・下――
いつもなら窓から外の光が入り込みますが、今は建物の外も中も関係なくいろんなものを明らかにしてくれます。まるで廊下や壁、天井や窓に扉たちが自分から輝いているようにも見え、見覚えがあるのに新しい場所へとやってきたような新鮮な気持ちにさせてくれました。
シッと短く強い息を切る音を立て、先頭に立つ姉さまがみんなの足を止めました。
「誰か来るわ。音を立ててはダメよ」
「はい、姉さま――」
小さな声ではありますが、みんなに言い聞かせる姉さまはとても頼もしいお姿をしていらっしゃいました。
階段で壁際に寄るよう指示を姉さまがすると、足音が聞こえてきました。壁に背を付け、曲がった先を確かめています。
慣れていらっしゃるのでしょうか――。隠密的行動に無駄がなく、まるで潜入捜査でもなされたことがあるかのようです。
学園に入る前、キールとはかくれんぼをしたことがあります。ですが姉さまや兄さまたちと知っている場所で、誰にも見つからないよう誰かと行動するのは始めてです。
だからこの秘密のかくれんぼが、とてもワクワクします。
姉さまがしたように角から廊下をこっそり見てみると、鮮やかな廊下でランタンを持つ警備兵がふたりこちらへ向かっていました。こんなに明るいのに何かを照らす姿と、こちらにちっとも気付かないことに楽しさが弾けました。姉さまは階段の上に向かったので着いて行くも、堪えきれずにくすくすと声が溢れてしまいました。
「しーっ。彼らに声が届いてしまうわ」
「はい、姉さま」
庭や廊下、いろんな部屋でキールとふたりかくれんぼをしたことはあるけれど、こんなにたくさんの人がそばで隠れて、一緒に行動しているのがなんだかおかしい――、口が真っ直ぐになりません。真面目な顔をしようとするのに、楽しい気持ちがどうしても溢れてしまいます。
もう一度短く息を切る音がすると、人差し指を口元に当てる姉さまに、空いた手で口元を隠されました。
「案ずるな。向こうまでは音は届かないから多少音を立てても問題ない。」
数段下にいたフィフスがそう言うと、姉さまの手が離れました。
「そう? ……本当に聞こえない?」
「あぁ。彼らもここまでは来ない。だから神経質になる必要はない。」
「…………本当の本当に?」
フィフスの言葉を疑っており、列の最後にいる左翼へ、手すりから身を乗り出して姉さまが尋ねていました。僕たちのすぐ後ろにキール、ブランシェとジゼル、フィフスと兄さま、アイベルと左翼がおり、全員の視線が彼に集まりました。
名前を呼ばれた左翼は何も言わず、腕を組んで何もない壁の方を見ながら小さくため息をついていました。
「返事くらいしないか、このものぐさ。」
否定しないということは肯定のようです。左翼の振る舞いに今度はフィフスが呆れていると、そのまま列を抜け廊下の真ん中に立ちました。
「ちょっと――、何してるの。見つかっちゃうじゃない」
姉さまは小さな声でフィフスを止めようとしましたが、こちらに向かう兵士たちの方をじっとフィフスが黙って見つめています。
僕たちには明るく見えるのですが、今は夜なので廊下は真っ暗なはずです。――姉さまに比べると大胆不敵で、隠れるつもりがないように思えました。いつもと変わらない立ち居振る舞いのまま、彼は立っていました。
コツコツと二人の靴の音が響き届く距離に、緊張が走ります。――だけど兄さまは不安を感じていないのか、フィフスの隣に行き同じ方向を見ていました。
「……何かあるの?」
姉さまも興味を惹かれて階段を降りて行くので、一緒について行きました。
何かしているとは言い難く、微動だにせずただそこに立っているように見えます。
先ほど覗いて見た時より近付く姿に、思わず兄さまの後ろに隠れました。――二人はこちらに人が居ることにまだ気付いてないようで、変わらぬリズムで近付いてきます。
「バレてしまいますよ、フィフス……」
じっと二人を見つめるだけで、フィフスは何も動きません。姉さまもフィフスの後ろから、隠れるようにと腕を引っ張りましたが、動かすことは出来そうにありませんでした。
「何も問題はない。」
石を握っていた手を顔の近くに持ち上げました。精霊石と呼ばれていた拳から淡い光を放つ石は、徐々に光が弱まっているようです。最初目にしたときよりも風景に溶け込み、特別感がなくなっていきました。
「――――ほら、問題はなくなった。これで息がつけるだろ?」
促されて廊下の先を見ると、こちらに向かって歩いていた二人が背中を向け遠ざかって行きました。
「……もしかして、警備ってここまで見に来ないってこと?」
「ふっ――、今夜はそうらしい。これでお前たちも心して先に進めるだろう。」
安心させるように笑うフィフスと目が合いました。隣でなんとも言えないといった兄さまとも目が合うと、ほっとしたお顔に少しだけ困惑が混じっているようでした。
「見つかってしまうかと思いましたね、兄さま」
「フィフスに自信がありそうだったから、なにかあるんだと思ったが――。何もなくてよかった」
「なんだ……、ここの警備って適当なのね。緊張感がなくなってしまったわ」
「今は内密の行動だ。面倒事は少ない方がいい。気を張り続けては疲れてしまう。」
むすっとお口を結ぶ姉さまは、ブランシェたちに宥められました。
姉さまの気持ちも少しだけ分かります。かくれんぼみたいな気分でいたので、鬼役がいなくなってしまって僕も少し残念です。
兄さまは何を考えてるのかと見上げると、姉さまのように楽しんではいないようでした。
「もっと気楽に行こう。今分かる限りではここは危険は少ない。邪魔者も少ない内に用は済ませてしまうに限る。」
「――――どうして兄上のこと、俺に伏せていたんだ」
本来の目的に戻ろうとした時、兄さまが階段に向かうフィフスを止めました。
「伝えるのが遅くなった件について弁明はしない。どうすべきか私も決めかねていたからだ。」
大兄さまの話題に、空気がぴりりと冷えるようでした。だけどフィフスの態度は変わらず、ただの散策に来ているかのような軽さです。
階段の手すりにもたれる左翼の傍へと行くと、二人がそれぞれ腕を組みました。
「どこから説明すべきだろうか……。アストリッド、第一王子の処遇については二人に伝えたか?」
「えぇ――、おばあ様と蒼家の当代がゼルの外聞のためにも……、ジュールのところには置いておけないことと、貴方たちが迎えに来たということは二人には伝えたわ」
姉さまもディアス兄さまのことが心配なのだと思います。僕の肩に手を置き、兄さまを伺っているようでした。肩に伝わる温度に、不安な気持ちが押さえつけられました。
「貴方が阻止しようとしてくれることも、ちゃんと伝えているわ。ゼルのこと、取り戻してくれるって私たちと約束したでしょう」
姉さまから悪戯っぽさは消え、王女として振る舞う姉さまの凛とした声が響きました。その声に自然と背筋が伸び、兄さまも不安そうなお顔が隠れました。
「フィフスは大兄さまのこと、聖国に連れて行ったりしないんですよね?」
「おおにいさま……?」
はたと、僕の言葉にフィフスが止まりました。
「ゼルディウス兄さまのことです。僕も、大兄さまにはお帰り頂きたいと思っているんです」
兄さまたちの傍に行くことが、憧れでした。
長いこと一緒にいない優しい大兄さまのことを思い出し、心の奥がぎゅっと痛くなりました。
「……本当に連れて行ったりしないですよね?」
驚いているのか涼しげな眉間に皺を寄せ、神妙な顔を僕に向けています。何かを確かめるようなフィフスの目に、不安から姉さまの手を握りました。
「……おい、バカ。何を考えている」
「第一王子が『大兄さま』だと……? 『大兄さま』と形容するなら、ディアスの方が相応しいのではないか?」
「は? ……意味が分からない。頭の中身をどこかに落としたか、この大バカは」
左翼と話す二人に、いつかのやり取りが思い出されました――。
「ゼルディウス兄さまは、僕と小兄さまの兄さまです――!」
順番が変わることも、誰かが成り代わるのでも、取り上げられることもない、純然たる事実をフィフスに伝えました。
だけど、フィフスの青色の瞳がさらに大きくなりました。
「ディアスがちいにいさま、だと……? こんなに大きいのにか?」
フィフスの無遠慮な言葉に頭の中が空っぽになり、身体が勝手に走り出しました。
「エミリオ――――、」
兄さまの呼ぶ声がしたけれどそれには振り返らず、数歩先にいるフィフスに握った拳をぶつけました。
「フィフスのバカバカ! ゼルディウス兄さまが大兄さまで、ディアス兄さまが小兄さまです! 何があってもどんなことがあっても変わらないんです!」
僕には二人の兄がいて、半分しか血は繋がらなくてもどっちも大事な兄さまで――。僕にとってもディアス兄さまにとっても、代わりなんてないのがゼルディウス兄さまです。
一度振り上げただけじゃ気持ちが収まらず、溢れるままもう片方の手を振り上げフィフスにぶつけます。
冗談を言い合っていた姉さまと大兄さまの言葉に、小兄さまが傷付いていた。ディアス兄さまだって、たったひとりしかいないゼルディウス兄さまの代わりなんてならないし、求めてなんかないのに――。
「はっはっはっ、エミリオまで怒らせてしまったか。これは失態だ。」
「どうしたんだ、そんなに怒ることでもないだろエミリオ――」
僕が怒っているのに、軽く笑うフィフスに本気が伝わっていないようです。両手で僕の拳を受け止めていましたが、兄さまの手が僕のことを止めました。
「だって、フィフスが――」
兄さまの困ったお顔に、気持ちがぐしゃぐしゃになり、目から零れる前に抱きつきました。
頭と背を撫でてくれる大きな手に、悔しさが毛羽立ち、しばらく落ち着きそうにありません。
「エミリオって怒るとポカポカするんだ。可愛い……」
「フィフスは身長から呼び方を不思議に思っただけだろう。そんなに怒ることじゃないと思うが」
宥める兄さまの声は優しくて、昔大兄さまたちと話していた時よりも、なんだか普通のようでした。
「大兄さまも小兄さまも、どっちも僕には大切な兄さまなんです……。どちらかがいなくなるのも、逆になるのも僕はいやです……」
「そうね――。エミリオにとって二人の兄だし、私にとってもみんな大事な弟たちよ。欠けてしまったら嫌よね」
姉さまの温かい手が肩に置かれると、じんわりと鼻が痛くなりました。今だって寂しいのに、ゼルディウス兄さまが遠くへ行ってしまうなんて嫌だ――。
背を撫でる兄さまの手が止まりました。
「どうしてゼルが俺より背が低いことを知っているんだ……? ――――会ったことがあるのか?」
兄さまの声につられ、後ろを振り返りました。――――フィフスと目が合うと、にっと小さく笑っていました。
「さっきも顔を見に行ったんですって。本当に抜け目がないわフィフスってば」
「居る場所が明らかなんだ。会いに行くなど造作もない。」
目から落ちそうになるものを手で拭うと、胸の中にあったものが薄くなっていきました。
「大兄さまとお会いになったんですか……?」
「私たちとは会わない上に、ジュールにだって断られるのに……。だいたい初日にジュールと衝突していたわよね。どうしてゼルには会わせてもらえたのかしら」
「それは秘密だ。本人に会ったときにでも確かめてみるといい。」
さらりと事もなく言うセリフに、ぽかんとしました。――初めてフィフスを見た時と同じ。学園へなかなか現れない兄さまと遅れてやってきて、女王や貴族たちの前で大きなことを言いながら、あっという間に問題を解決していた時のようです。
「話があるなら私ではなく、お前たちの兄に直接確かめるといい。ここへ連れ戻すために、私たちはお前たちのに協力すると約束しただろう。」
僕の目をまっすぐに見ながらこちらに手を差し出し、当然のように前のような日常が戻ると言っているように聞こえました。
「当然のように俺を頭数に入れるな」
「お前は私と一蓮托生だ、左翼。いまさら離れらると思うな。お前も今回の件について反対しているだろ。」
「当代様の決定だ。異論はない」
「だがヒルトの思いつきだ。だから賛成もしてなかった。そうだろ?」
「――――説明してくれるんだろ。だから姉上やエミリオたちも巻き込んで、今ここに一緒にいるんじゃないのか」
ふたりの会話を兄さまが止めると、フィフスは静かに笑っていました。
「もちろんだ。はじまりは今年の五月、この学園で魔術による爆発騒ぎがあり、第一王子が出奔したという話を事件当夜に我々も耳にした。」
「そんな前から知っていたのか……」
「隣の国にまで、ゼルの話が伝わるだなんて……」
春が緩やかに終わりを告げる頃、大兄さまがいなくなってしまった日を思い出すと、胸がぎゅっと痛くなりました。
「言っておくがこの件は偶然耳にしただけだ。いつでもなんでも知らせが来るわけではないし、誰かがこの学園について調べている訳でもない。――――だが、それをうちの当代も耳にしていた。恐らくそれで王子の動向に興味を持ったんだろう。」
「偶然……? ヴァイスが誰かに伝えたのか?」
「ヴァイス卿からではない。……ある者がここで起きた事件の報告を耳にし、そのまま人前で口にしてしまったんだ。ただの不注意だ。」
兄さまの質問に、フィフスはその時のことを思い出しているのか、どこかを見上げながら小さくため息を吐きました。
「人前って……。もしかして広く知られているということなの? 一体誰がそんな迂闊なことを」
「数百名ほどか。あまり芳しい話題でもないし、個人的な話でもある。聞いた者たちに公言しないよう釘を刺したが、耳にしたのは言いふらすような連中じゃない。多くの者はここを去った第一王子の身を案じている。」
「フィフスもその場にいたの? わざわざ広めた人ってどこの誰? 軽率にもほどがあるわ――」
冷静ながらも、大兄さまのお立ち場を悪くするような知らせが広く伝わったことに、姉さまは怒っているようでした。
「その件について、私から言えることはない。――――それから、ちょうど一ヶ月ほど前か。聖都に混乱が起きるよりも前に、女王とうちの当代が話す機会があった。その際、第一王子もまだ戻らないことを指摘した。」
不快感をあらわにした姉さまの質問にはどれも答えず、フィフスは淡々と説明を続けていました。
「……『指摘』という表現で合っているだろうか?」
「俺に聞くな。堂々としてろ」
なにかを左翼に確認するも、そっけなくフィフスを突っぱねていました。仕切り直すようにフィフスが真剣な目をこちらに向けると、
「指摘ついでにあれこれ理由をつけ、第一王子を聖国へ連れて行く話が出た。この件は締結式が近いこともあり、それに託けるように決められた話でもある。――――『人質交換』という体でな。」
「人質交換って……。待って、なんなの? 今時そんなこと、ゼルがやらされなきゃいけないってこと?」
「兄上と、誰の交換だ――?」
言葉だけは聞いたことがあります。『約束』のための保証として、相手と大切な人を交換する行為だと――。過去には大人でも子どもでも関係なく、さまざまな理由と約束事から人が差し出されることがあったと、授業でも教えられたこともあります。
ですがそれは戦争がある時代に行われた古い慣習で、今は行われることはほぼないと聞き及んでいます。なぜなら『人質』として家を離れることは同時に、『二度と元の場所へ帰ることは出来ない』ことでもあり、誰かの人生を他人に握らせることになることだからです。
個人の自由意志が阻害されることは安易に許さえれるべきものではないと、今では見直されていることでもあります。――――つまり、良くないことだと教わっています。
みんながフィフスの話に落ち着かず、色鮮やかな景色が急に怖いものに見えてきました。
ゼルディウス兄さまがこの先どうなってしまうのか――――、不安から兄さまにしがみつきました。
「その前にお前たちに伝えたいことがある。第一王子を聖国へ連れて行く案を出したのはうちの当代だ。だが正直その話が通るとは誰も思っていなかった。言い出した本人ですら都合よく話が転がり、内心驚いていたくらいだ。」
「――――――へぇ? もしかして冗談で言い出して、叶ってしまったということ? なんて楽しい冗談かしら」
手を出し、みんなの不安に待ったをかけましたが、フィフスの言葉に姉さまの口から聞いたことのない不機嫌が塊となって出てきました。
「半分は本気もあったが、もう半分は叶わないだろうと思っての軽口だ。ヒルトはとりあえずなんでも口にしてみるきらいがある。……女王もアイツの性格は重々承知しているはずなんだが、なぜか今回了承してしまった。」
フィフスも困っているのが、力のない言葉に現れているようでした。
「とは言えだ、人質なんか必要ない。今後も何があろうと聖国はラウルスへ侵攻するようなことは決してないし、両国の和平を脅かす者に対し我々は容赦しない。――――それが当初の和平条約に織り込まれた約束事だ。それ以上のことを新たに決める必要など、どこにもないと思っている。」
大事な話はまだ僕が小さいこともあり、後で知らされることがほとんどです。――学校の廊下で姉さまや兄さま、隣国から来たお二人と同じくらいの年の頃の使者がなんだか大きな話をされている。
それをすぐ傍で僕が聞いていることが少しだけ不思議でした。
「一部の人間はセーレ様とヴァイス卿が東方天の弱点になると思っているようだが、正直なところあまり関係はない。――彼らは自らの選択で王の補佐をやり、この学園に携わっているだけだ。人質などという肩書を与えてしまえば、今まで積み上げた研鑽を無為にさせてしまうだろう。……今でさえセーレ様は自分の娘のせいで、ラウルス中枢では扱いが難しい立場になっていると聞いている。」
「確かに東方天さまが聖都にお戻りになった頃に、周りから距離を置かれるようになっていたこともあるかも。触らぬ神に祟りなしとでも言うのかしら」
「今でもか?」
「だけど折衝しやすくなったところもあるわ。英雄フュート様の息子で、他所者な上に七光だって軽んじる人も前にはいたけれど、そういう人たちは一気に減ったもの。……世の中、長い物に巻かれる人は多いのよ」
政治は難しく、まだ早いからと議会の場に出ることもほとんどないのに、姉さまはよくご存知のようです。
「それにセーレも昔よりのびのびしてるように見えるわよね。直接こちらと四方天が関わるわけではないけれど、東方天の実父ですもの。あの方の派手な活躍を聞く度、ここ数年で面倒な人が居なくなったおかげね。――――セーレもそれを鼻に掛けることも偉ぶることもないし、今までと変わらないまま。だからこそ頼りにしている人も多いわ、私たちのお父様とかね」
「そうですね。セーレのおかげで父も今のような統治体制を整えることが出来た。――遠因だがクリスがいるからこそ、この国にも良い影響があると言える」
お二人のように何か言えることはありませんが、父さまの周りもセーレがいる場所も、誰がいようとも居心地の良いことだけは分かります。
お城の兵士やメイドたちがよく、城内の雰囲気が良いことは治世が安泰している証拠でもあるとよく話していましたから。
「……今なお立場が変わることもなく、周囲から不遇を被ることもないと聞いていたが、どうやら本当のことらしい。――全てはグライリヒ陛下の寛大な計らいのおかげだ。」
手を胸に当てるフィフスの眼差しが、柔らかくなりました。
フィフスは聖国で人事に携わっていると言っていたので、きっと父さまに倣うものがあるのかもしれません。
「多くを受け入れながらも柔軟に対応するグライリヒ陛下を、私は尊敬している。――陛下へ敬意を表し、ささやかながらお前たちの力になりたいとも願っているんだ。」
誇りにしている父さまを褒められて嬉しいです。こわい話でも嫌な話でもないと分かり、掴んでいた兄さまから手を離しました。
「第一王子に関してもそうだ。初めから『人質』などという役目を負わされて国を出されるくらいなら、自らの意志で来てくれた方がずっとマシだ。ただ在るべき場所に迷っているだけなのであれば、まずは自身の問題を解消しよう。お前たち共にあるか聖国に行くかどうかは、その後に本人話し合って決めると良い。」
「……いいの? 勝手に貴方がそんなことを決めてしまって」
「既にアストリッド、お前が女王に反意を示しに行っただろう。連れ戻せるならやればいいと女王も言っていたし、うちの当代についても気にする必要はない。この件を私に一任している以上、私が勝手をするまでだ。」
姉さまと話すフィフスの穏やかだった青色の目は、真剣なものに戻りました。
「これが第一王子が聖国へ行くことになった経緯と、私たちがお前たちに協力したい理由だ。左翼だけではなく、うちの兵士たちも同じ気持ちだ。」
「……左翼も、そう思ってくれているんですか?」
静かで始終変わらぬ立ち居振る舞いに、左翼の気持ちがどうなのか気になりました。
だけど僕の呼びかけに応じることはなく、相変わらず静かに立っています。訂正しないということは、フィフスの言う通りなのかもしれません。
「蒼家当代として難があろうとヒルトを立て、意見を合わせなければならないこともある。――――が、誰よりも身近な存在だからこそ、アイツの味方になれないこともある。そうだろ、左翼。」
やはり返事はせず、微動だにしない立ち居振る舞いに、起きているのか少し心配になりました。
「人質という建前はあるが、正直王子を招くことに関して他家も他の方天たちも好意的に受け取っている。昔、グライリヒ陛下が王位を継ぐ前に、聖国へいらしていたこともあるからな。歓待したいと思っている者も多い。」
「他の方天って……。そちらでは数百人が知ってたくらいだものね。知らなかったのは私たちだけか……」
「多くは第一王子に同情している。あまり悲観的にならなくて良い。特にヒルトは……、女王のことを気に入っているし、第一王子とは年も近い。アイツ自身、王子が来てくれるなら親しくしたいと思っているんだ。」
「……人質にしたいって言ってるのに?」
「呼び寄せるための理由が他に思いつかなかっただけで、本気で『人質』にするつもりはない。ヒルトの本心を見透かした上で、オクタヴィア女王も第一王子の扱いや身柄について不安がないと判断したんだろう」
姉さまに説明するのは左翼でした。起きて話を聞いてはいたようです。
「第一王子が聖国で政に関われば、今まで以上にラウルスからも口出ししやすくなるだろう。四方天の管理下に置けばヒルトが王子に勝手はしないし、こちらとしても国交の間口を広げるための話がしやすい。女王と利害が一致しただけだ」
「外交の為に、兄上に来て欲しいということか……」
「主にそうだ。新たに四方天が揃った状態で、和平条約締結式が行われる機会だ。多少問題もあるが聖国が安定している今、両国間の発展に力を入れているのがうちの当代だ。名目はアレだが、第一王子を招くことは決してネガティブな理由だけではない」
兄さまが左翼と落ち着いて話すのを聞いていると、大兄さまが聖国へ行くことは決して悪いことばかりではないと思えてきました。
「だがあの二人……、王子のことを全て私に任せているだろう。一言の相談もせず、さも当然という態度じゃないか。」
「――――フィフスが兄上を……?」
「嫌なら他の誰かに頼め」
「頼まれれば引き受けよう。だが、なんの断りも許しも請わないのが非常に不服だ。……だいたい連れて行くための説得に関しても、連行することについても、向こうで世話するのも全てあの二人は私に丸投げするつもりでいる。」
「………………世話?」
「連行って言わないで、ゼルは無実なんだから。……でもおばあ様ってば、あなたにゼルのこと預かってもらうつもりなの?」
呆気にとられる兄さまと、説明に呆れる姉さまがそれぞれフィフスを見ています。
「恐らくそうだ。だが王子がヒルトと一緒にいることで、アイツの性格の悪さがうつり、女嫌いの人間不信になったらどうする? 私は責任など持てないぞ。」
「ゼルの性格が変わってしまったら嫌だわ……。周りに影響を及ぼすほど性格が悪いってどんなものなのか想像できないけれど、貴方のお兄さんなのでしょう?」
「人を試すのが好きな奴なんだ。今こちらに来ているノルベルトもそうだ。『不撓不屈のクローナハ』、『鉄壁の一番槍』などと異名を持つクローナハ家の到来を、初めは喜んでいた。……すぐに帰る予定だったのに、わざわざ東方天と月一で手合わせさせ、一年間滞在させるよう仕向けたくらいだ。」
ノルベルト・フォン・クローナハ――――、彼の事は良く知っています。
学園に来る前、何度も王城で会ったことがあり、ユスティツィア城でいつか僕たちに仕えたいと言い、遊び相手のいない僕ともよく遊んでくれた優しい騎士見習いでした。
年を越す前からノルベルトと会う機会がずっとなかったので、今日の午後にレティシアと兄さまの話でこの学園に来ると聞き、久し振りに会えると分かりとても楽しみにしています。
「最近は声を掛けねば、手合わせのことも忘れている始末……。すでに興味を失っているのは明らかだ。」
「試合の結果が毎回同じだから飽きたんだろう。ヒルトは飽き性だから」
「……人を試すってそういうこと? ゼルは剣術を習っているけど人並みくらい……。武術に長けた方と相手させるのは荷が重い思うわ」
「ノルベルトの腕に興味があったから手合わせさせているだけだ。――――長き争いを止めるために決断し、今なお揺るがず平和が続いているのは女王がいるからだと、ヒルトは考えている。」
「王族には元々感心があるが、王子は女王の孫だ。ラウルスのことだけでも興味があるが、魔術のことや学園での教え、王族だけが知る歴史や知識なんかにも関心があるだろう」
「無理難題や面倒なことをふっかけては、王子がどうするのか試したいと考えているだろう。……ヒルトはそういう奴だ。」
「……少々荷の重い環境のようだ」
「将来のためだとしても、ゼルを行かせたくなくなってきたわ……」
フィフスと左翼の話に、姉さまも兄さまも難しいお顔をしています。大兄さまと親しくしたい方のようですが、あまり良い相手ではないということでしょうか。
「それから、アストリッドは分かるだろ? リタがうちの当代の話をするとどうなるのか。……あのような者が他にもいる。傍に置くことに不安にならないか?」
神妙に言い募るフィフスに、姉さまがしばし考えていました。
「……あぁ、アレね。はじめは驚くかもしれないけど、そんなことで女性嫌いの人間不信なんかになるかしら」
「リタに何かあるのですか?」
「――――もしかして、言葉遣いとかが変わることでしょうか」
先日、大兄さまのことでフィフスに協力を頼んだと話したときの光景が浮かびました。
「聖国ではあのように豹変される方が多いんですか?」
蒼の当代さまと言う方に対し、話し方と態度が大きく変わったリタのことを思すと、もうひとり誰かリタの中にいたのではと考えてしまいます。
ですがレティシアはよく言っています。人には二面性があるもので、周囲に見せる『自分』とは違う『自分』を誰もが持っているものだと。理性で押し込めることも出来るけれど、内なる『自分』を見つけ耳を傾けてやることが大切だと、よく話してくれています。
レティシアの話はいつも大人っぽく、僕にはまだ理解できませんが、いつか分かる日が来ると思い心に留めています。
リタやレティシアのことを考えていると、両肩に強い衝撃があり、目の前にフィフスが現れました――。
「アレを見たのかエミリオ――。女子寮以外でやるなと言ったのに、何をしているんだアイツは……! 大丈夫か! 夜は眠れているのか!?」
「ぼ、僕は大丈夫です。何ともないですよ、フィフス」
膝をつき、切羽詰まった顔が目の前にあり、真剣に案じてくれているようです。――ですが、こんなに真剣に心配されたことに驚きと一緒に、面白くも感じていました。
「ちょっと――、女子寮以外でやるなってどういうことなのよ。聞き捨てならないわ。貴方たちの中でどういう扱いになっているのかしらうちの寮は。ところどころ失礼なことを吹き込んでいる人がいるようだけど、あとで誰が吹聴しているのか教えなさい」
「……一体何の話ですか?」
「リタだ。あの手のタイプは女子受けがいいからと、私のついでに選ばれたんだ。寮でも問題なく他の者達と交流しているようだし、安心しきっていたが……。だが安心しろ。ようやく落ち着きを取り戻したようだから、しばらくはアレはないだろう。――――ディアスもアイツの前でうちの当代の話は出すなよ。お前までトラウマを植え付けてしまったら私に立つ瀬がない……」
「全然話が見えないんだが……。リタにおかしなところなんてあっただろうか」
「知らない方がいいこともある。…………まさかキールも? お前もアレを見たのか――――?」
兄さまを心配するも、少し離れたところにいたキールが目についたのか、今度はキールの肩を掴んでいました。
「エリーチェが気に留めないのが逆に仇になったか……。具合はどうだ? 悪夢を見たり、魘されることはないか?」
「ご、ご心配には及びません……。あの手のタイプには慣れていますから」
両肩を揺すられるキールが、フィフスから逃れようとしていましたが、すぐに両手を離していました。
「――――聞いたか、左翼? 慣れているだと。」
「マジか。俺も怖いのに」
ずっと階段のそばにいた左翼がいつの間にか近くに来ていました。
「…………全く話が見えてこない」
「リタってば好きな人の話になるとちょっと壊れるのよ。熱狂的な子はたまにいるし、珍しいものでもないと思うけど。聖国の男子たちには不評のようね」
「さすが王族だな。従者まで器が違うらしい。」
「褒め言葉なのかしらそれって。なんだか腑に落ちないわ……。適当言ってない?」
姉さまたちとの会話に加わるわけでもなく、届きそうで届かない距離にいる左翼は、仮面のせいで何を見て、何を思っているのか分かりません。
ずっと距離を取っていたのに、離れる訳でもなくみんなのことを見守っているようにも見えました。
「左翼でもこわいことがあるのですね」
「それくらい俺にもある」
「……他にもこわいものはあるんですか?」
「物理でどうにもならないもの全般」
「おばけもですか?」
「種類による」
カッコよくて強そうなのに、こんな左翼でもこわいものがあるというのが、なんだか嬉しくなりました。
それに、――――もしかして心配してくれているのでしょうか。フィフスのように言葉が多く、距離が近い訳ではないですが、向こうから近付き、自分のことを話しているのがなんだか珍しいです。
そんな猫みたいな気まぐれな距離感と、そっけない素直な言葉がおかしくて笑ってしまいました。
◇◇◇
「ツヴァンゲンベルクの民のように、クローナハ家も『生ける屍』の血とか流れているのだろうか。」
「……藪から棒ね。特別変わってるのはツヴァンゲンベルク家だけで、他はうちも含めてあなた達とも同じアストリア人よ。どうしてそんなことを思ったのかしら」
中央の大階段に向かう廊下を歩きながら、みんなでいろんな話をしていました。フィフスは大兄さまのことをあまり教えてくれませんが、姉さまが任せておいてと仰ったので知りたい気持ちを我慢します。大兄さまがお戻りになったら、兄さまと一緒にご本人に聞いてみれば良いのですから。
明るい景色に包まれながら、徐々にふわふわした心地になり、今が夜であることや、兵士たちに見つからないよう歩いていることを忘れてしまいます。
だけど、初め先導していた姉さまは、大兄さまの話しをしてからは普通にされ、兄さまも周囲を警戒している様子はありません。
校舎にいるからでしょうか。他に誰も居ないからかもしれませんが、普段より表情が柔らかく、まるで王城に帰って来た時のように、家族で寛いでいるような雰囲気です。
「打たれ強さになにか秘密があるのかと思っていただけだ。」
「……ゾンビとは死者の身体を使った死霊術の一種だ。死んだものから何かが生まれることはないし、そんな話は聞いたことがない」
「ならノルベルトが特別頑丈なだけか」
「ゾンビじゃないのか……。どうりで陽にあたっても、土に埋めても出てくる訳だ。」
左翼とフィフスが二人してとんでもないことを言うので、みんなの足が止まりました。
「どうして埋めようって発想に……? ノルベルトといつも何しているんだ」
「断っておくが私とノルベルトに面識はない。断じてないからな。ただ……、何度倒してもしぶとく起き上がるからゾンビみたいだと話が出て、試しに埋めてみたんだ。今はどこで何をしているのか知らないが、多分生きているだろう。」
「打たれ強い奴だ。今日もどこかで修行でもしているだろ」
「ノルベルトは良い人です。ゾンビなんかじゃありませんし、お二人ともノルベルトに対して適当すぎます!」
ふわふわした気持ちもなくなり、お気に入りの騎士見習いに対してぞんざいな二人に抗議しました。
「それはすまない。ただ、こう見えても左翼はノルベルトと結構仲がいいんだ。よく二人で話しているし、左翼もアイツのことを気に入ってる。」
「面白いと思ってるだけだし、絡まれて一方的に話しかけられているだけだ」
「よく言う。なんだかんだ絡まれるのも含めて面白がってるじゃないか。」
「面白い時もあれば鬱陶しい時もある。基本しつこいし空気を読まない」
「ノルベルトはそんな人じゃありません。とても気がきくし誰に対しても親切で、僕ともよく遊んでくれます」
城内のメイドや兵士たちだけでなく、父さまや母さま、おばあ様だってクローナハ家のノルベルトには一目置いています。騎士としてではなく、ひとりの大人として頼りになると皆もよく言っています。
本当は騎士ではなく、次期当主としてクローナハ家にいて欲しいと、彼の祖父でもあるダムニス大公が以前話していました。ユスティツィアにおばあ様がいらっしゃると、よく遠方からダムニス大公と一緒にノルベルトも顔を見せに来るので、その話もよく耳にしていました。
「当代様とやらだけじゃなく、常識人枠だと思ってた左翼までこんな感じだったとは。話してみないと分からないことってあるわね」
「……似た者同士なのでしょう。共に育った兄弟だと言うだけのことはある」
「もし聖国に行くことがあれば用心しなくてはね。あの子らの実験に巻き込まれてしまいかねないわ」
姉さまと兄さまが二人に呆れてた様子で話していると、天文台に続く階段が見えてきました。この学園で一番狭い階段で、螺旋状に上に続いています。
僕が在籍する一学年目ではまだ天文台に行く機会はありませんが、ここに来たときに姉さまや兄さまたちと一緒に上がったことがあります。
あの時と違い大兄さまはおらず、ヨアヒム叔父上もヴァイスもいませんが、あの時とは違うワクワク感がありました。
大人がいないからでしょうか。それともこっそり学園に入り、こんな場所まで探検に来たからでしょうか。ふわふわとワクワクの二つが、登る歩みを弾ませました。
「日中の授業でもここまで登ることがあるのか? 授業を受ける前に疲れてしまいそうだ。」
「ここを使うのは夜間で授業とは別の時間だ。天体観察が主な内容だし、動くことも少ないから疲れることはないかと」
「夏の夜も温かい時期ならいいけど、これからの時期はとても冷えるのよね。風もあるし今日は雨よ」
「雨ならもう止んでいる。風はどうしようもないが、雨がない分だけきっとマシだろう。」
そんな話をみんながしていると、大きな扉の前に到着しました。両開きの扉の向こうが目的の天文台がある場所に繋がっています。
「フィフス、ここの鍵は持っているのか」
「ここまで来て開きませんでしたって冗談はやめてよね。少し眠くなって来たわ」
コートにふわふわのマフラー、手袋を侍女二人に支度される姉さまはフィフスに尋ねると、彼は扉に片手で触れました。
「――――『汝、扉を開く者よ。』」
その言葉と共に、ゆっくりと扉が開かれました。
フィフスの手を避けるようにひとりでに開く扉は、向こうに誰か門衛がいる訳ではありません。大きく開かれる扉の向こうから、冷たい風は大きく吹き込みました。
「こちらでよく使われる祝福の言葉だそうだが、アストリッドのいる寮以外では聞いたことがない。何か特別な意味でもあるのか?」
冷たい風が頬に当たると、扉の向こうは水彩画のようにいろんな色が詰まった空が広がっていました。
雲も雨も消え、太陽よりも柔らかい色の眩しくない丸が空にあり、大小さまざまの星が見えました。外に出てみると目に映る空は昼間見る色よりも深く、濃紺や淡い青に紫色など様々な色が混ざり滲んでいるように見えます。そこに輝く宝石を砕いて空に浮かべたみたいです。
「――――すごく不思議。こんな空、見たことがないわ」
「これも精霊が見せてくれているのでしょうか。とってもキレイですね」
姉さまが同じように空を見上げながら、学園の屋上にある通路を進みました。一緒に上を見上げながら歩いていると、
「いつもは森のせいで真っ暗で何も見えないのに、この先の街まで見えそう」
姉さまが遠くを見ておられるので、そちらを見ようとしましたが手すりが邪魔をしました。姉さまと同じようなものは見えそうにありません。
その場で跳ねてみるも上手く見えず、キールを呼ぼうと振り返ろうとすると身体が浮かびました。
キールが抱き上げてくれたのかと思うと、隣に立つ姉さまよりも高く持ち上げられ、驚くキールたちの顔がその後ろに見えました。
「掴まれ」
「あら――。すごく大きくなったわね、エミリオ」
持ちあがる視線と聞き覚えのある低い声に、乗せた手の下にあるブロンドの髪から、左翼が僕を肩継したようでした。――もう少し小さい頃、父さまや兄さまたちにしてもらったきりのことに、少しだけ恥ずかしくなりました。
「ディアスよりも高いんじゃない? おっきくなった感想はある?」
姉さまの言葉に兄さまを探すも近くに姿はなく、入口の傍でアイベルがどこかを見上げているだけでした。
「兄さまはどこへ行かれたんでしょうか?」
「……あれ? って、もうあんなところにいる。いつの間に登ったのかしら――」
姉さまが指差す方向を見上げると、天文台の屋根の上にフィフスと兄さまの姿が見えました。
屋根の上で二人、揃って話しながらどこか遠くを見ているようでした。
同じ方向に何があるのかと見てみるも、広がる森が見えるだけでした。
「私もあれがやりたいわ。二人なら私を運べるわよね?」
「姫様……、今はスカートですし、高い場所はここよりも風があって危険です」
「上に行くならこれを貼ってきてくれ」
姉さまの前に左翼が札を差し出すと、ブランシェが止めるよりも早く、嬉しそうにその紙を左翼から受け取っていました。
「手分けした方が早く終わって帰れる。それに王女を運ぶなら俺やフィフスより、護衛のお前たちに任せた方が安全だ。俺は奥をやる」
「そうよそうよ。早く帰るなら手伝った方がいいわ。それにあんな楽しそうなところを見てお預けだなんて……。他に人は居ないんだし――、お願いお願いっ!」
「………………分かりました。ご無理を通されるのは今夜だけですからね」
「ありがとブランシェ! 大好きよ」
姉さまが大げさに抱きつき、喜びを露わにしておりました。
「王子も上に登りたいか?」
家族以外に肩継してもらっている気恥ずかしさもありましたが、左翼のおかげで誰よりも高い目線になっているのは少しだけ気分が良かったです。
「お前たち二人なら運べる。もう充分なら下ろすが」
「……このままでもいいですか? 僕も高い場所からの景色を見てみたいです」
「殿下をどうかよろしくお願いします」
キールが左翼に任せると言うと、通路の奥まで進みました。このままいちばん大きなディアス兄さまでも届かない、ずっと遠くの景色まで見えてしまうのでしょうか。
後ろを振り返ると、まだ屋根の上で二人で話している姿が見えました。
「ちゃんと掴まっていろ」
左翼の声に、ふわりと身体が浮かびました。通路の手すりに上がったかと思うと、そのまま宙を歩き始めました――。
「すごい、もしかして飛んでいるんですか――!」
浮遊術は見たことがありますが、経験したことはありません。興奮に声が上がるも、左翼はどれに対しても返事はしませんでした。
早まる歩調と、弾むように上がっていく身体に驚いている間に、まるで空の中心に自分がいるようです――――。風は冷たいものの、なんの邪魔もない、どこまでも広がる光景に身体が熱くなりました。
見覚えのある街並みを見下ろすと、普段いるピオニールの街が小さく見えるようでした。眼下に収まる街に大きな森、どこまでも広がる星空が、僕たちをちっぽけな存在だと思い知らせるようでした。
一番遠くの尖塔にたどり着くと、左翼は僕を乗せたまま札を屋根の上につけていました。
「バカと煙は高いことろが好きだというが、……高い場所から見下ろす景色は俺は嫌いじゃない」
「――――だから外が好きなんですか?」
「あぁ。大抵のことはどうでも良く思える」
「ふふっ、フィフスが冗談で言っていたのかと思っていました」
背を起こし高い場所で二人、遠くを見てみると、広がる景色がどこまでも心を広くしてくれるようでした。
「兄弟が戻ってきたら教えてやるといい。今度は正式に許可を得て、無理を通さないやり方をしてくれ」
誰も居ない場所で静かに交される左翼の言葉が、空の星々たちにも届かない秘密の会話のようです。この特別感で胸がいっぱいになりました。
「はい! 絶対大兄さまが戻ってきたら教えることにします」
「あのバカを真似るなよ。何ひとつ責任なんか持てないから」
もう一度返事をしながら、大兄さまも一緒にいるような気持ちになりました。つれないことを言いながらも、傍に居てくれる安心感が良く似ています。
「大兄さまがお戻りになったら、左翼のことも紹介させてください。今日の事とか、昨日の事、たくさん一緒に聞いて欲しいです」
ゼルディウス大兄さまがいない間に、僕が見た事を全部お話したいです。
兄さまが大変だったり、楽しそうにしていることや、姉さまが僕が思っている以上におてんばだったこと。
父さまに呼ばれて来た、青龍商会のお二人が思ったより変な人たちであること。
今日見た景色が、とても大きくて広かったこと――――。
目にしているこの空の色を、言葉だけじゃ説明できないかもしれません。
姉さまや兄さまだけでなく、ジゼルやブランシェ、キールにアイベルが、フィフスたちに振り回されていることを、どう話したら伝わるでしょうか。
まとまらない気持ちを想い浮かべると、大兄さまがお戻りになる日がずっと近く、楽しみです。
街を見下ろしても、すぐに大兄さまがどこにいるかは分かりませんでしたが、同じ街にいると思うと勇気が湧いてくるようでした。
「こんな景色がいつでも見えるなら、僕も左翼の気持ちが分かります。――僕たちを連れて来てくれてありがとうございます」
返事はくれませんでしたが、僕たちを励ますために、二人がここに連れてきてくれたように思えました。
振り返りも気遣いもしない、お礼の言葉も受け取る気のない彼は本当に猫のようです。
肩の上でひとり、くすりと笑ってしまいました。




