91.夜想に踊る理由⑨
「――弟たちに会えて良かったな、アストリッド。」
自信を口元に湛え、深い青い瞳が一堂に会する者たちへと注がれる。細い首を横一線に走る黒のラインが声を少年のものにしているが、この学園の制服によく似合う。――誰もその存在を疑う事はないだろう。
一本の剣を腰に佩き、悠然と見せる余裕すら既に多くの者たちに受け入れられ、今も当然のようにここに居る。
明るい時分に会った時と変わらない、友人がそこに在った。
「……殿下の部屋に入室しておきながら挨拶もなくその態度――、無礼にも程があります」
ブランシェの注意にピタリと足を止めると、余裕を見せていた表情はなくなった。
「そうか、――ならばやり直そう。」
フィフスは扉に向かった。
入室するところからやり直すつもりか、丁寧に扉の向こうへと姿を消していく。
再度扉がノックされアイベルが扉を開けるがすぐには入らず、何か考え込んでいる姿がそこにあった。
「……こういう場合、なんて言って入るのが正しいんだ?」
アイベルも困ったのか、こちらを振り返る。――ブランシェが居るからか、アイベルは普段より出方を伺っているのか控えめだ。
「勝手に入る前に、殿下に入室の許しを請うべきです。それくらいは例え誰が相手でも、気遣いとしてなさるべきでしょう?」
「こちらではそれが常識か……。承知した。」
「……貴方も個人的な場所で、許しもなく人が勝手に出入りしては嫌な気分になるでしょう?」
「いや全然。刺客や暗殺者なら許しも約束もなく唐突に現れるものだ。こちらの予定も都合もお構いなしに。」
明日の天気の話しでもしているかのように、自然かつごく当たり前と言わんばかりの態度。
「互いに知っている者たちであれば、自分の部屋を好きに出入りさせることに、何か問題があるだろうか?」
「………………………………なるほど。前提から大きな問題がおありのようですね」
ブランシェの理解が得られず、入り口でそのまま友人は注意を受けてた。
「斬新ねぇ。フィフスっていつもあんな感じなの?」
「――そうですね…………」
刺客がどうのという話しを、先日祖母がしていた気がするが、――――危険人物とそれ以外の境界が、曖昧過ぎるのではないだろうか。
それはともかく、――出会った初日はゾフィに連れられ、次の日は寮に入れてもらえず窓から現れた。
一昨日は一緒に部屋に来てもらい、昨日も約束をしていたものの、階下で会ったため結局そのまま部屋に招いた。
今も約束に合わせアイベルと一緒に現れただけに、連日と変わらぬ気安さでここに来たのだろう。
「そうね――、私は貴方たちだったら、いつでもウェルカムよ」
「……姉さまに会えるのはもちろん嬉しいですが、女性しかいない場所に入るのは……、僕は少し恥ずかしいので遠慮します」
「体験して分かったのだけど、さも当然ですって顔で行けば、意外となんとかなるわ」
「――いつかの参考にさせていただきます、姉さま」
困った人だ。
姉たちもまだいると、アイベルから聞いただろうに。
ブランシェのように手厳しい相手に上手く立ち回れないことは、傍から見ても想像に容易いが、自分ではその事実に気付いてないのだろうか。
不遜な態度が許されるのは、いつもではない。
限定的な場に限られているからこそ、尊大な振る舞いでさえ受け入れられているのに。――本当に分かっていないのだろうか。
兄のことを相談しに行った時に親身に寄り添ってくれたが、あの時別の思惑を胸の内に秘めていた。
自分だけに正体を明らかにし、秘密を共有していたと思っていたのに――。
昼間、不合理な心遣いで特別な気分にまでさせてくれたが、もっと心の奥深くを――、一番最初に俺へ明かしてはくれないのか――――。
ブランシェの勢いが、このままあの人を帰そうとしている。
「それにしても、こんな時間に迎えって――? ディアス、どこかに出掛けるつもりなの?」
不安を見せる姉と弟の視線に、小さく息を吐いた。
本当に、困った人だ――――。
「……昼間にヴァイスに頼まれて、フィフスと校舎へ行くことになっていました」
「校舎に? ……どうして貴方がそんなことを頼まれたの?」
思ったより近い場所に安堵の表情を見せるが、疑問は尽きないだろう。
どうして自分が選ばれたんだ。
調子の良い目付け役に、あの人を都合よく押し付けられただけだ。
ソファから立ち上がり、厳しい口調で注意されている人の元へ行く。――こちらが近付くことに気付くと、青い瞳がじっとこちらに向けられた。
揺れることもない湖面のような静かな青色が、今置かれている状況をどう理解しているのか分からない。すぐ傍に立ち半開きの扉に腕を掛け、上からその眼の奥まで見下ろした。
どうしてそんなに気安くやって来るんだ。
動じることもなく真っ直ぐに見つめ返すその人には、何ひとつ迷うものも疑う素振りもない。
幾度となくこちらの機微に気付いていたが――、その人が小首を傾げた。
「……その髪型はどうした? いつもみたいに下ろしてないから、別人かと思った。」
「一体なにをどう見たら、この方が殿下以外の人に見えるんですか……? 趣味の悪い冗談も、限度があるのが分からないのですか……?」
至極真面目に腕を組み、品定めをするような目で見上げている。
「髪型ひとつでも人の印象は変わるものだろう。しかもこの国の人間はほとんどが黒髪に黒い瞳だ。……見分けがつけにくくないか?」
友人の側を離れ低く怒りを表す侍女へ向けたが、言うべき言葉がまとめきれなくなったブランシェは声を無くした。
「だが、お前だってちゃんと分かっている。お前を誰かと見間違えるようなこと、二度もするつもりはないからな。」
先ほどのは冗談のつもりだったらしい。分かりにくい笑顔と一緒に、ぽんと片腹に手が置かれる。
すぐにでも掴める距離まで入り込み、こちらの気持ちを疑う素振りもない。
自分は、よくある『ただの友人』のひとりなのだろう。
王族だから、王子だからと何者とも区別することなく、『特別』でもなんでもないものに振り分けられる。
今なお軽率に触れる腕を掴み返した。
「――――ちゃんと俺に区別がついているようで良かった」
望み通り、縛っていた鬱金色のリボンを解いた。束ねていた重さが後ろに落ち、長く伸ばした髪がさらりと背を隠す。
これをつけた時は気に入っていた。だが解いて手に取ると鏡越しに見た印象より薄く、ひどく軽かった。
「だけど、あまり面白くもない冗談だ――」
掴んだ腕の温かさも感触も手の平にあるけど、本当はそれ以上の意味はない。
気安い距離が、自分だけに心を許していると思いたかった。
さっき、ジゼルに伝えた言葉がそのまま自分に帰ってくる。――誰に対しても距離が近いだけ。思わせ振りな行動は意図して行われていないため、誤解を振り撒くだけの人だと。
広く遠い色をした青い瞳は、今は自分に向けられ笑っている。
「はっはっはっ、ダメ出しされてしまったか。私も自分に冗談のセンスがあるなんて一度も思ったことはないが。」
乾いた笑い声に掴んだ手を緩めると、簡単にこの場を後にしていく。
――この手から抜ける名残り惜しさも、寂しさの余燼も、この人の中にはない。
そんな違いが、冷たい孤独だけを残し行ってしまう。
侍従が傍へとやって来て、用済みとなったリボンを受け取りに来た。
「お前たちに渡したいものがあるんだ。」
二人の傍へ行く友人から、乾いた紙のこすれる音がする。――もうひとつの手に、なんの味気もない紙袋が握られていたようだ。その中に手を突っ込み、何かを探しながら、三人掛けのソファの近くで足を止めた。
「渡したいものってなんですか?」
「……えっ。もしかしてさっきの――?」
姉が何かに気付いたらしく、驚きと期待で両の手のひらで口を抑えた。
「これだ。――先日お前の弟たちが口にしたものとは全く別物だが、下町で流行っている甘味だ。」
一本の串に見覚えのある丸い黄金色が刺さり、先端に白い塊がついていた。
「ルンデボーネですか――」
「あぁ。アストリッドが食べてまたいと言ってたから持ってきたんだ。」
「姉さま、良かったですね! 下町で買ってきてくれたんですか?」
「これはうちの者が真似して作ったものだ。だが材料は同じだし、作り方通りに作っているから、ある意味同じものと言えるんじゃないだろうか。」
フィフスから串を受け取る姉が、ただの菓子が連なるだけの串に目を輝かせた。まるで高価な贈り物を受け取った時のような喜びようだ。
まだあるのか、もう一度紙袋に手を入れている。
「下町のは油のせいか、冷めるとあまり美味しくないそうだ。……私は味にこだわりがないから気にならないんだが、お前たちに届けるならマシなものがいいだろうと、これを作ってもらった。」
もうひとつ弟に同じものを渡すと、揃いのものを貰った顔を、姉と見合わせて喜んでいた。
「この白いのはなんですか? 柔らかいですが……、食べ物ですか?」
「カロシィニ・オフィシナリス――。薬草の一種だが、食材としても広く使われている。聖国では誰もが一度は口にしたことがあると言われるほど、よく料理にも使われているんだ。」
白い塊を指で突く弟に倣い、姉はこわごわと指先で白い塊を摘み、匂いを嗅いでいる。柔らかさもあるが、弾力もある不思議な塊に顔を上げる。
「……これってもしかしてマシュマロ?」
「さぁ、菓子の名はそれほど詳しくないんだ。――火に炙ると外は硬くなり、中が溶けて美味しいんだが……、私は上手く炙れた試しがない。いつも真っ黒に焦がしてしまう。」
紙袋から白い塊、――マシュマロがひとつだけついた串を取り出すと、小さく息をついていた。
「その菓子を炙るついでに、その菓子も温めて一緒に食べればいいと勧められた。」
その人がこちらに振り返ると、自慢げに指先で摘んだ串を振ってみせた。――なんのアピールだろうか。
「……なら、お部屋に持ち帰りましょう。もう夜も遅いですから、続きは明日になさいませ」
傍らにいたブランシェが姉の近くへ行き、帰る口実を得だと言わんばかりに帰り支度を始めた。それに合わせ侍従たちも終わりに向けて、片付けのために動く。
「もう帰るのか。ここに火があるのに……、残念だ。」
なんとなしにフィフスが呟いた声に、従者達を止めさせる。
「そうねぇ――。都合のいいことに、確かにここに火があるわ。なんだか今すぐにでも使えそうなのに……」
悩ましげに呟く姉が暖炉を見た。弟も姉の視線に気付いたようで、ソファを勢いよく降りた。
「……ここ、俺の部屋なんだけど」
「もちろんだ。他にも炙れるものを持ってきているから、お前には好きなものを選ばせてやろう。なにがいい?」
思わず目頭を抑えた。
どうして、急に特別扱いをするんだ――。
矮小な疎外感に囚われていた心を振り乱すような、唐突な距離の詰め方に目が回りそうだ。
「……殿下のお部屋で、何を考えているんですか……? このお部屋は厨でも遊び場でもないのですよ……? この学園都市が出来た頃から、こちらは王族の方達だけが使える特別なフロアなのです――。それを勝手に――!」
ブランシェの声に、熱く巡る怒りが乗っている。激昂する気持ちを理性で抑えつけて、これ以上感情的にならないようにと努めているようだった。
そんな怒りを露わにするブランシェの前に、ひとり立ちはだかる人があった。
「お、落ち着いて下さい、ブランシェ――。フィフス様は姫様の望みを聞き届けに来て下さっただけ……。ブランシェだって、姫様のお話しを聞いていたでしょう?」
「――それは、……」
ジゼルだった。――比較的大人しい彼女がブランシェに物申している。どちらかといえばブランシェの言うことに従うタイプなだけに意外な行動だ。
ブランシェも思い当たることがあるのか威勢を止めた。
「申し訳ありません、フィフス様……。こんなすぐに叶えて下さると、ブランシェも思っていなかっただけです。――姫様のお願いを叶えて下さり、ありがとうございます」
目を落としながら、フィフスへ礼を伝えている。
「物のついでだ。このようなもので機嫌を直してくれるならまた届けよう。」
「――私は嬉しいわ。ディアスもエミリオも下町で遊んだんでしょう? 私だって一緒に行けるなら行ってみたかったもの」
指先につまむ串をくるくると弄びながら、姉が言葉を続けた。
「……本当はこの場にゼルも居てくれたらよかったな。今日は大変なこともあったけど、今はすっごく楽しい」
控えめに微笑む姉に、自分たちに会いたかったと、先ほど口にしていた言葉を思い出した。
ずっと誰にも見せて来なかった胸の内が、合理性を欠いた強引な行動となり、ずっとここにあったことに今更気付いた。
「話を聞いてからずっと、私もルンデボーネを食べてみたかったの。――二人が過ごしていた時間は体験できないけど、こうやって同じものを一緒に味わえたらいいなって思ってたから」
過去、出来なかった後悔が、昨日の出来事みたいなものだと姉も言っていた。
そんな叶わなかった『昨日の出来事』を、フィフスがここに持ってきた。
「……でも確かに、ここはディアスの部屋だもんね。これ以上わがままを言ったら、弟たちに嫌われてしまうわ」
終わりを受け入れる姉は、手にした『願い』を下ろした。
ため息をつく。
余計な自尊心が自分勝手に振る舞い、余計なことを考えさせ、この目を曇らせる。
『この人』が来るまでは、『普通』が出来ていたはずだったのに――……。
「…………少しだけなら、暖炉を使って構いません」
フィフスたちの側へ行く。
「えっ、いいの――?」
『普通』が取り繕えなくなったのは、素直に自分の望みを認めなかったせいだ。『友人』が来たからじゃない。――自分を特別扱いしてくれなかったことに対する、八つ当たりだ。
近付いたことで二人の侍女が下がった。
「フィフスが姉上のために用意してくれたのなら、仕方ないです」
「――――ありがとう、ディアス。貴方って最高の弟だわ!」
喜ぶ姉が下ろしていた手を持ち上げた。
「マシュマロを炙ってみるの、一度自分でやってみたかったのよね。弟の許可がもらえた事だしいいわよねっ、二人とも!」
この部屋の主人で従属する王家の人間の許しが出され、自らの主人たる姉が喜びを見せているとなると、もうブランシェは何も言えなくなるしかなかった。
「僕も……」
「姉上と一緒にやるといい。火傷には気をつけて」
「ありがとうございます、兄さま――!」
「終わったらちゃんと換気してやろう。任せておけ。」
そういうことじゃないと言いたげな視線がフィフスに集まるが、楽しみに気持ちが浮かれる姉弟の側へ戻って行った。
「――俺には何を用意してくれたんだ?」
「甘いものの他にもしょっぱいものもあるぞ。」
自信に満ちた、でも悪戯っぽさを覗かせた目がこちらを見ている。
ソファの背もたれに浅く座ると、袋の中がよく見えるように『友人』が広げた――。
「ルンデボーネとカロシィニ・オフィシナリスにチョコレート、あとソーセージもある。」
何の気なしに隣に並び、肩が触れる。――熱くもなくぬるくもない温度に、小さく息を呑んだ。
「えっ、ソーセージ……?」
暖炉に向かっていた姉の声が、こちらに戻って来た。ソファの向こう側から、フィフスを挟んで袋を覗き込みに来た。
「甘いものと塩気の組み合わせは、人気があるんだ。他にはチーズとベーコン……、今はこんなところか。」
見に来た姉によく見えるようにと、袋の中を傾け見せている。――距離が近いのは中身を見せるためだ。それ以上はない。
材料は袋の中で小分けされ、見えにくいが一緒に串が何本か入っていた。袋の中を探っているような仕草は、ひとつひとつ用意していたからのようだ。
「といっても、ここにあるのはほんの気持ち程度の量しかない。気に入ったなら改めて用意しよう。」
「よろしければお皿に並べましょうか? 袋に入ったままでは、皆様もご覧になりにくいでしょう」
別の串にソーセージだけを刺し袋から取り出しているフィフスへ、アイベルがそんな提案をしてきた。
「気が利くな。ではそうしよう。自分たちで好きなものを選ぶといい。」
「パンもあるかしら。今の話聞いてたら欲しくなっちゃったの」
「何か軽食をお持ちしましょうか?」
「アイベルは優しいわね。嬉しくて泣いてしまいそうだわ」
「お前もちゃんと食べたのか? この後校舎に侵入して、屋上へ行かねばならないんだ。小さなことでも何かあってからでは遅いからな。しっかり食べておけよ。」
オブラートには包まないだろうと思っていた。アイベルには伝えていたのか、紙袋を受け取り困ったように顔を背けていた。――ブランシェの鋭い視線がアイベルに向かったからだ。
「すぐに用事は終わるだろうが、何事も準備をしておくに越したことはない。他にも用事があるなら終わるまで待るから、急がなくてもいいからな。」
「……校舎に、侵入?」
「あぁ。週末に行われる催しのために、雨と被らないようにしてくれと頼まれていたんだ。屋上に塔がいくつかあるだろ? あそこにこの札を置いて、しばらく雨が降らないようにしていいとヴァイス卿から許可を得ている。」
訝しみながらも、引き寄せられるように姉が近くへやって来た。
「……どうして侵入するの? 叔父様に許可を取ってないのかしら……?」
「女王の耳に入れば、是非も問わず認めて貰えないからだ。」
「…………なら、ダメでしょう…………? そんなことに殿下たちを巻き込まないで下さい……」
ブランシェが姉を引き離そうとするが、それに構わずフィフスが一同へ振り返った。
「だが、私はこの学園都市の治安について調べてもいる。兵士たちの質に、この街に暮らす人々の安全、防備に有事の備えなど見るべきものは多岐に渡る。ただ順当にこの街で暮らす者たちと同じ目線で見ては、取りこぼしてしまうものもあるだろう。規則に縛られず、人々の思考から外れる行動を起こしてこそ、なさねばならぬ事が見えて来るものだ。――――そのために外部からこの国と関わりのない、全く他人である私がここに居る。」
両手の空いた『友人』が、他者と自ら関わりを切り離す言い方をした。――思うものはあるが、今は『フィフス』として振る舞っているだけに聞き入ることにした。
あまりにも気安く傍にいるものだから、余暇の延長と思ってしまっていたが、元々は仕事のことばかり考えている人だ。
「なんでも出来るからこそ害意はないと証明し、止めてくれる者が必要だ。――そうだろ、ディアス? この学園では成績優秀、品行方正で名が通り、王族であり現国王の子息、女王の孫だ。お前が親しくしてくれるだけで私に箔も付いたが、同時に我々の役割は順調に果たせている。――お前のおかげだ。」
名を呼ばれ、身に覚えのないことで褒められた。――――が、落ち着かない気持ちから片腕を抑えた。
「エミリオはこの学園に来たばかりで幼いため除外されるが、当然アストリッドでもよい役目だった。だが宿舎が男子寮に近く私の事を良く理解しているからこそ、私は自分の役目を果たしやすく大いに助かっている。――他にも理由はあるが、女王が私を自由にさせている大きな理由はそれだ。」
「……確かにおばあ様もそんなことを言ってたかも。……わざとなの?」
「わざとかと問われると返事に困るが、これが私の『普通』で『日常』だ。別に取り繕っているつもりは一切ない。見たままを好きに受け取ってくれて構わない。」
今までつまらない理由を並べていたが、全てを蹴散らす勢いだ。
他でもない、――神に役割を決められた以上、身勝手に振る舞うことはしないだろう。
厳格に律された行動がそこらの凡俗と同じはずもなく、誰とも違う道を歩み続けることが当たり前になっている人だ。――でなければ方天などという神の代行者に選ばれ、聖国に君臨する人が広くこの地まで知られている訳もない。
抑える手に力が入る。
「それに、なんでも他人任せにすべきではないだろ? お前たちひとりひとりの目でもって物事を判断し、身近に何があるのか知るべきだ。なら最も安全な場所で、友人であるディアスが見識を広げる一役を私が担おう。」
共犯者の得意げな眼差しが下から覗き込んだ。他の誰でもない、己だけの役割にしかできない役割と言わんばかりに自信に満ちた顔だ。
何かにこじつけでもしないと、満たされない想いがずっとあった。
だけど、秘密を共有しているだけにこちらを信頼し、背信のひとつも疑わない青色だ。まっすぐと心の奥底まで届きそうになる近さに、つまらない意地も、脆い自尊心さえ飲み込んでいく。曇っていた視界がクリアになっていくような感覚だ。
「それに星見の会とは、人気のある催しだと聞いた。わざわざ朝から私を探し、相談してきた者がいたんだ。――過去にも学生たちが天体観測する間だけ、空が見えるようにしたことがあると私も聞いた。周辺に及ぼす影響について私がいる間は継続して観察しておこう。問題の兆しが見えればそのことについて必ず報告する。――得られる機会があるというのなら、可能な限り芽を摘まず与えてやりたいと思うのはいけないことだろうか。」
「――――兄さまも、催しのためですか?」
「……監督しておけと、ヴァイスから頼まれたからだ」
「なるほどね。――なら私も許可出来かねるわ、そんなこと」
小さく息を吐くと、姉が進む話しを妨げた。
「星見の会には興味はないけれども、話を聞いてしまった以上なかったことには出来ない。――弟が厄介事に巻き込まれるというのなら、私も大きな問題が出ないよう見守る責務があるわ」
どうして姉の前で余計なことを言うんだと、強く非難するブランシェの目が真っ直ぐに『友人』に注がれる。
「確かにそうだ。エミリオも来るか?」
「あの……、隠密なんですよね? なぜ人数を増やしているんですか?」
「ひとり増えようが、二人増えようが大した差ではない。これからの行動に別に支障はないからだが。――もちろん主人を守るために従者たちも付いてくるべきだし、そこはまとめ面倒を見よう。外は風が出てきたから暖を取るよう準備だけはしっかりした方がいい。」
大雑把な理論で呆れる従者たちを絡めとった。
喜びを見せる姉は、不安を見せつつも姉も兄もいるならと、好奇心に変わる弟の両手を掴んで喜びを共有している。
「よく夜の学校の噂は耳にするけど、みんなどうやって経験してるのか興味があったの。やっぱり貴方みたいに侵入するの?」
「大抵が閉校の時間過ぎまで校舎内にいて、一階の窓から寮に戻っているそうだ。後から侵入する者もいるが、日中の内に仕掛けをし、潜り込む算段をつけているそうだ。その件についてヨアヒム殿下にも報告済だが、既にご存知の様子だった。」
「叔父さま、私たちにも教えてくれればよかったのに」
「姉上に真似されては困るからでしょう」
不満そうな顔つきが向けられた。
今ですら好奇心のままに振る舞っているのだから、きっかけさえあればきっと行動していたと、叔父にも見抜かれていたのではないだろうか。
「思っていたよりも早く雨が止みそうだ。月明かりが出れば、遠くまで見えるだろう。――滅多にできない経験であれば、ひとりで味わうより皆で共有した方が良い思い出にもなる。良い機会だから一緒に行こう。」
その声に、こんなに遅い時間にも拘らず外出の準備が始まる。姉も侍女たちにコートを持ってきてもらうよう頼むと、地下通路で待ち合わせしようとフィフスが伝えていた。
キールは隣の弟の部屋へ退出し、アイベルも軽食の用意を取りに部屋から出たため、一気に部屋の人口密度が下がる。
姉弟と『友人』だけが取り残された部屋は、いつもよりは人が多く賑やかだが、姉がいることにも慣れてきたからか、最初よりかは気も楽だ。
感覚がマヒしてしまったのかもしれないがと、暖炉の前で串を炙るのをこわごわ試しているのを見ながら苦笑する。
一人掛けのソファに座り、息をついた。
「夕方、ここへ戻る前、随分と落ち込んでいたようだが――、少しは気が紛れたか?」
『友人』の声が上から聞こえた。肘掛けに腰を、片手を背もたれに載せ、こちらを見下ろしている。
「何があったか分からないが、ヨアヒム殿下も落ち込んでおられたようだ。そちらはヴァイス卿に伝えているので、大事ないと思うが……。アストリッドをこちらに寄越してみたが、悩みは解決されたか?」
気遣う声が近く、憂える眼差しが他に見せていたものと違う。
「――――そんな前から、気にしてくれていたのか」
急な特別扱いに息が詰まりそうになる。
受け止め切れず、空いた肘掛けにもたれ顔を落とした。
「あぁ。他にアイベルたちもいたし、外敵がいた訳ではなさそうだから大事はないかと思ったが、――アストリッドが来てくれてよかっただろ」
「……急に姉上が来て驚いたけど、俺のせいだったのか……」
見慣れた絨毯に何かある訳でもないが、囁くような優しい声が空の心を満たしていく。――その温かさに溺れそうになり、鼓動が早まり息苦しい気持ちを手で押し隠した。
髪を解いて良かったかもしれない。下に流れる髪が見える範囲を狭め、心の内を隠してくれるようでもあった。
「アストリッドも女王のせいで心が乱されていたからな。――あの様子ではお前の姉も落ち着いたようだ。ちょうど姉弟の絆も深まったようだし、一石二鳥だったな」
ふっと小さく笑う声が聞こえ、ちらりとそちらを見る。
「本当に困ったときは私の名を呼べ。精霊がお前の危機を私に届けるし、この地にいる限りお前の力になろう」
マシュマロがひとつ刺さった串を持つ『友人』が、得意げに言う。
「お前はこちらに興味はないのか。それとも気に入るものがなかったか? とやかく言う者が少ない今しか、バカなことも出来ないぞ?」
「…………ここ、俺の部屋なんだけど」
自覚があったのか、呆れて同じことしか言えない。
だけど、このやり取りも悪くないものに思えた。今だけ、――この場にある自分だけに許された距離感が、穏やかで心地良い。
甘い匂いが届くと、姉弟の短い声が届く。
「姉さま……」
「燃えた……。絶対上手くできると思ったのに……」
串の先端にあったマシュマロが真っ黒になっている。
「やったか。私もそうやってすぐに燃やしてしまうんだ。目に見えなくとも、火の熱は届くものだ。じっと耐えてこそ、上手く焼けるとよく言われるが……。まぁ、じれったいよな」
甘さに苦い香りが混じり、良い香りだとは言い難いものが鼻に届く。
姉の元へと『友人』が行くと、先端の真っ黒の墨になったものを取り除き、新しいものと取り換えていた。
「色がついて分かりやすく見えてくれると、こちらも気構えが出来るが、いつでも分かるとは限らない。――白くとも手を翳して温度を感じることもある。今は色が変わらずとも、しばらく様子を見てみてはどうだ」
「……最初から完璧は無理だったか……。エミリオにもいいとこ見せてあげたかったのに」
「焦らずともまだ時間はある。……ところで、アストリッドは天体観測に興味がないのか」
黒い塊から外側をナイフで削り取りながら、『友人』が尋ねた。――この人も興味のない人だったと、思い出す。
「天体観測が、っていうよりも星見の会に興味がないだけよ。私も前に一回誘われて行ったけど、あまりの寒さにいろいろ耐えがたかったわ……」
遠い目をする姉が、その時のことを思い出したのか一瞬身震いしていた。
「たまにレティシアが寮の部屋から眺めて見ているの、水上庭園が近いから……。夜でも学園内に入れる日には、やたら人が集まっているのが見えるのよ」
あまり見たことのない苦々しい顔をした姉が、ぽつりぽつりと語る。
「――もはや人が居すぎて過ぎて情緒の欠片もないと思うんだけど、それでもみんな来るのよね……。同じ目的で集まっているから、ある意味そこに行くことに意義があるのでしょうけど。……人目を憚らずあちこちで告白イベントが起きては、カップルがいちゃついているわ。何も知らずに行く子も少ないからほぼ成功率は100%よ」
聞きたい話と違うからか、フィフスの手が止まった。――器用なもので、手にした部分以外は白くなっている。
元の形よりも小さくなり、中は火が通っていたのか、溶けているようだった。
「揉める人もたまにいるけど、周りの空気がとてもじゃないけど会話できる感じでもないから、逃げる姿も見かけるわ。――それがまたうちの寮内で噂になったりして、……ちょっとかわいそう」
憐憫を見せる姉がこちらを見た。
「――っ! 別に否定している訳ではないのよ? そういうことが好きな人も、趣味にしている人もよくいることくらい、私だって分かっているわ。だけど、誰かの趣味に相手が同意しているとは限らないでしょ? ――相手との距離感や好みくらい確かめてから、言うべき言葉も選ぶべきだと思わない!?」
姉の訴えにしんと鎮まると、キールが部屋に戻って来た。
静かに暖炉の前で集まり、何かを訴える姉と周りに困惑している様子だ。
「……フィフスは姉上が天体観測に興味があるのかないのかだけ、聞きたかっただけだと思いますよ」
「……星見の会じゃなくて?」
「星見の会って恋愛イベントなのか? 会員たちは星の観察を熱心にしていると聞いていたんだが……、あれか? 街コンというものだったりするのか――?」
そういう単語は知っているのかと意外に思った。しかもいつもなら言葉を間違えそうなのに。
話しが先走ったと気まずそうに咳払いをすると、姉は落ち着きを取り戻す。
「……そうじゃないけど、ほら、天体観測できるくらい空が晴れてると、水上庭園にも月が映るのよ。例えば……、今日は下弦の月ね。今日みたいな天気じゃ見えないけど、晴れて風もないと水面に降りて来るでしょう?」
カーテンが下りた窓を見るも、何も見透かせないことに肩をすくめていた。
「下弦の月が、水面に降りて上弦の月にも見える――。『天と地で別たれたとしても、欠けた者同士を重ねれば真円――、必ず一緒になる運命だ』って言うのが、星見の会にかこつけたカップルイベントね」
弟と『友人』が姉の言葉に感心して、へぇと軽い感嘆の声を漏らしていた。
「日によって言い方も使い方もいろいろあるけど、既にテンプレート化している時点で、心にもないことを言ってるなって私は思ってしまうけど……」
姉の言う通り、古今東西でよく使われる話だ。姉のうんざりした態度に、いつか誰かに言われたのだろうか。
天と地ほど離れていても、空に浮かぶ月と、すぐ近くの池で見える月の大きさが揃うはずもないのに――。
それこそただの思い違いで、考えなしの短絡的なこじつけだ。
「これはあくまで個人の感想だから。私がちょっとそう思っただけで、誰かに強要するつもりも、そんな意図もないわ。だからフィフス――、今の話は全部忘れて。何も聞かなかったことにしておいて。――愚痴ばっか言ってると思わないで!」
「……大変なんだなアストリッドも。承知した。今ここで聞いた話は全て忘れよう。」
気が緩み、今まで弟たちにも言わなかった胸の内を、明け透けに語ってしまった後悔を隠すように、両手で顔を覆った。
姉ですらこの人の前では胸の内に秘めていたものが、詳らかにされてしまう。落ち込みを見せる姉に、他に気を引かせようと『友人』と弟が慰めている。
――――夜闇を淡く照らしながらも、誰かの秘密の箱を開けさせてしまう月の光みたいだ。
絶えず姿を変え、時に隠れ、時にその全てを空に見せる気まぐれさに、古来から人々も一喜一憂し、その意味をあれこれと付けてきた。
だから、自分も気を付けなければと、揺れる気持ちを奥へと仕舞う。
うっかり届くと手を伸ばし、水に落ちてしまわないように――。
そうやって船から落ち、何もつかめずに溺れて亡くなった人がいたという、間の抜けた昔話を思い出した。




