88.夜想に踊る理由⑥
使い慣れた自分の部屋に帰るも、気は休まらなかった。
いつもの一人掛けのソファも、ぼんやりとする気持ちを慰めることはない。パチリと木の燃える音が部屋を暖めるが、そぞろになる心を通り過ぎ空虚に響くだけだった。
「兄さま……、またお食事をお召し上がりになっていらっしゃいませんでしたね」
「今は食欲がないだけだ。気にしないでくれ」
三人掛けのソファに座る小さな弟の心配に、小さく口角を上げた。
不安げに眉が下がる弟に、何の気休めにもなっていないじゃないかと自虐めいた笑いが出そうになる。
「……せっかくなので、陛下とお話しされてはいかがでしょうか。お話しされればご気分も変わるかと」
重たい視線を時計に向けると、約束の時間が近い。
「……そうしよう。父と、約束したしな……」
肯定の返事に、ローテーブルに電話が置かれた。白に金の装飾が施された電話だ。真ん中の穴の空いた円盤に、時計のように一から順に九までの数字が並び、最後に零の数字が付け足されている。ぐるりと反時計回りに並ぶ数字が、なんだか不自然に思えた。
いつもは部屋の入り口にほど近い壁際に置いてあるもので、元いた場所から長いコードが置かれたローテーブルまで続いている。
重たくなる気持ちをなんとか持ち上げ、寄りかかっていた椅子から身体を起こした。
見て欲しいと思う相手は、いつも違う場所を見ている。
嫌なものが冷たく身体の中に居座る。――ここしばらく思い出すこともなかった、暗い気持ちだ。
相手の視界に入れてすらもらえないことを、気に病むべきでない――。自分と他者は別の人間で、それぞれの時間を生きている。
考え方が異なるのは当たり前で、こちらの望み通りになる人はごく一部、――アイベルたちのような己に自らの意志で仕える者たちだけだ。いつだって当然のように側におり、寄り添ってくれる。今もテーブルの上に紅茶が置き、いくつか手遊びの茶菓子も用意しているのもその証だ。
小さな弟もそうだ。こんな薄情で頼りない自分を兄と慕ってくれている。キールが受話器を取り父へと繋いでいるのを見て、これ以上空気を重くしないよう気丈に振る舞っている。
自分は今でも充分、人に恵まれている。
瑣末なことにいちいち傷付いていては、仕えてくれる侍従も、慕ってくれる弟のことも蔑ろにするようなもの。
黒い靄のように付きまとう気持ちを押しやり、カップに手を伸ばした。
「陛下と繋がります」
キールが短く報告すると、受話器を電話の前に置かれた台座に置く。
『――久し振りだな。まさかお前の方から連絡したいと言うなんて思ってもみなかったぞ、ディアス』
「……ご無沙汰しております父上」
台座が受話器の声を拡声し、こちらの声を集音し相手へ届ける魔術が仕込まれている。周りの音を手広く拾うため、通話の際は仕切られた部屋で静かに行うのが常だ。
「お久し振りです、父さま!」
『エミリオも一緒か。元気そうで何よりだ。――ふっ、わざわざ俺に連絡したいだなんて、あれか、あれだろ? 昨日ロディと一緒に帰らなかったことを後悔しているんだろうお前たち。俺に会えなくてさぞ寂しくなってしまったんだなぁ。あぁ、分かる。分かるとも』
ひとりで盛り上がる父をよそに、口にしたカップを置いた。気付かなかったが、レティシアから渡された冊子が机の端に置かれている。
多分、部屋に戻ってすぐに自分で放って置いたのだろう。二度受け取ったものの、なんだか読む気になれない。
『まぁ良い、気にするな。俺は寛大だからな。帰って合わせる顔がないから電話してくれるだなんて、何とも可愛いいことをしてくれるじゃないか。こんなにも早く素直に連絡しようと思ったこと、褒めて遣わすぞディアス』
「はい、ありがとうございます」
『だが、わざわざお前がそんな気の利いたことを思いつくわけがない。――誰かの勧めだろう。違うか?』
「そうですね」
自分の発案でないことに同意を示すと、しばし沈黙が生まれ、弟たちの視線が集まった。
『おい……、もっと小粋な会話を続けろ……。父と積極的にコミュニケーションを取らないか……。せめて父の名推理に『さすが父上!』と称賛するか、『いつ』『どこで』『誰が』『なにを』『なぜ』『どうしたか』くらいの基礎的な情報を伝えるくらいの努力を見せろ……』
「母上は一緒じゃないのですか?」
『――――まさかロディに用があるのか? 俺と話したいと連絡しておきながら……? 近年稀に見る、お前の成長と歩み寄りに感心した俺の気持ちは無視か……? ……ははん、なるほど読めたぞ。――まさか趣旨替えか?』
母がいれば父のご機嫌な独り舞台にさりげなく幕引きをしてくれるが、どうやら今は期待は出来そうにない。
特に返事をしなくても、しばらくひとりでお話しされるのが父のいつもだ。エミリオも分かっているので、父の話が止まるまでご機嫌そうに足を揺らし聞いている。
『ふっ、まさかこの俺を手の平で転がそうとは……、百年早いぞディアス。この、愛される天才に一分の隙もない』
大仰なセリフがどこまで本気なのだろうといつも思うが、自信に溢れた父の言葉に暗かった気持ちが少し晴れるのもまた事実。ほんの気まぐれで思い立った機会だが、その思い立つ気持ちを与えてくれた人のことを考えた。
「もしかしてフィフスが兄さまに勧めたのですか?」
ちょうど考え始めたタイミングで弟が言い当てた。――ひやりとする気持ちに、正解を引き当てたとほころぶ弟と目が合う。
『なるほど、やはりそうか――。なんて気の利く御仁なんだ。やはりフィフス殿は俺の味方だな』
あえて避けていた話題に持っていかれ、暗い気持ちもそぞろに動き出す。――また、聞き捨てならない言葉をさらりと言う父に、何を言っているのかと複雑な気持ちがないまぜになった。
『ヨアヒムやアイベルたちから聞いてるぞ。なかなか楽しいことになっているそうじゃないか。俺も会って話したいのに、――邪魔するやつらが多すぎる。会えないことがもどかしいと思っていたところだ』
「父さまはフィフスをご存知なのですか?」
『もちろん知っているとも。――お前たちも薄々気付いているだろうが、「フィフス」というのは青龍商会で仕事を請け負うときに名乗っているだけの呼称だ。普段は別の名で聖都でご活躍されている。――だからうちの官たちから彼の話は耳にしている』
自慢げに話す父に、無遠慮に秘密のひとつが明らかにされた。
『レティシアたちが調べたところで、彼のことは明らかになることはないだろう。ふっ、――知れなくて残念だったなお前たち』
「そうなのですか兄さま?」
「何故わざわざそんな……」
ここに居ない、調子に乗り気味な父を冷たく見る。
「……本人が明らかにするつもりのないことを、軽率に口にするのはどうかと思いますが」
『お前たちが知りたいかと思って教えただけだ。そちらに、これから多くの者が学園都市ピオニールへ集まる。……フィフス殿たちの扱いには重々気を付けるがいい。青龍商会の二人は特に表舞台に出るつもりはないようだ』
表舞台――、締結式などの公的なイベントには出るつもりがないということか。長く居ることはないということを改めて突きつけられ、冷たい棘がちくりと刺さる。
「……あくまでも今は一介の学生でもある、ということですか」
『そうだ。快く思わない者もこちらには多いから、一歩引くつもりなのだろう。だが、彼らは遠路はるばる来た客人でもある。――留学生たちには存分に我が国の良いところを知らしめよ。この先両国の発展に繋がるものはあるだろうし、なにより貴重な機会だ、決して無駄にするんじゃないぞ。特に王族としてお前たちの役割は大きい――』
カランと堅いものがぶつかり響く音が、電話の向こうでした。グラスを傾けている音だろう。氷をグラスにぶつけて音を楽しんでいるのか、水の音と一緒にしばらく聞こえる。
『四家の人間がラウルスへ来ることも珍しいが、わが国に学びに来るなんて昔ではあり得なかった。こと、蒼家の人間はな――――。和平条約が結ばれてからもなお、ハインハルトとは違い我々に対し友好的とは言い難い存在だったのは広く知れ渡っていることだ。……時流が変わった兆候だとも言えるだろう』
和平条約が締結されてから35年。――和平の始まりに、両国で『ゼノラエティティア』という年号が使われた。
長らく存在した固有の価値観を破壊し、新たなを意義見つけ、創造し、二つの国で喜びを分かち満たされますようにと願われつけられたものだ。
こんな時に『友人』自らがこの地に来たのは、誰も想定しなかった出来事だろう。だけどその不慮の出来事を嘆くことなく、より良い結果を見据えている。
『だからお前たちには大いに期待している。――同じ年だからこそ分かり合えるものも、分かち合えるものもあるだろう。今という時間を楽しみながら存分に交流するといい。得るものもあれば、与えられるものもあるかもしれないし、もしかしたら何もないかもしれない。――だが、この時間はなにひとつ無駄にはならないと、俺は思っている』
ゼノラエティティアの名が続けば続くほど、両国の和平が続いていることを表す。
もし――、五年、十年先も、クリスと親しい関係が続けたいと思ったら、一体どうしたらいいのだろう。
父の話に、停滞していた重たい気持ちが、ただの泥濘に思えた。深みがある訳でも、汚れたからと言って嘆くこともないと、そう励まされるような心地だ。
「――心に留めておきます」
「貴重な機会をありがとうございます、父さま。――僕のクラスでもフィフスについてよく聞かれるんです。学園中で多くの人が話題にしていますし、ピオニールでフィフスのことを知らない人はいないんじゃないかってくらい人気者です」
どういう意味なのか、話しながら楽しい気持ちが溢れ出す弟に、父のご機嫌そうな声が重なる。
『そうかそうか。初日に母に喧嘩腰だったという話も面白かったが、母の部屋に……、悪戯を仕掛けたと聞いたぞ。くくくっ、お前たちも知ってるか?』
「先ほど叔父上から聞きました。ふふっ――、父さまは誰から聞いたのですか? まだぬいぐるみが置かれてるそうですよ」
弟が楽しげな声を漏らすと、くすくすと笑いが止まらなくなったようだった。
『ヴァイスからだ。あいつも現場を見た訳じゃないそうだが、まだぬいぐるみがあるのか――。俺が行くまで片付けるなとゾフィたちに伝えておいてくれ』
「……二人が知っているのなら、叔父上にも早く伝えて差し上げて下さい――」
コンコンと扉が叩かれる。
『ほう――、噂をすればなんとやらか。連日男子寮に来ていると聞いているが、まさかこのタイミングで来るとはな』
時計を見ると、約束の21時までまだ時間がある。――予定より早い到来に、誰にもまだ話が出来ていないことを思い出す。アイベルは察したようだが、父と話し中だ。
どうするかと判断を迷っているようだった。
『邪魔者もない今、俺も会話に混ぜて貰おうか。さぁ、呼べ。今すぐここへ招くがいい』
恥ずかしげもなく混ざる気満々の父に、コンコンともう一度叩かれる。――が、音は連続して打ち鳴らされ、止まらない。
『こんなに毎日激しく来るのか……? 想像していたよりもずっと熱烈なんだな……』
「…………に、兄さま……? あれはフィフスなんですか……?」
考察する父はともかく、不穏な音に怖がる弟が扉から距離を取るようにこちらに身を寄せた。躊躇う侍従がこちらを確認する間に扉の音が鈍くなる。
ドンドンと余裕なく叩かれ続ける扉に、剣を手に伸ばした侍従が二人、警戒と共に向かった。
明らかに『友人』ではない振る舞いに、部屋に緊張が走る。
「――何者です。誰の部屋か分かっての狼藉ですか」
アイベルが声を掛けると、叩く音は止み静かになる。
「……今すぐここを開けなさい」
微かに届く声は扉のせいで誰か分からないが、アイベルが慌てて扉に向かった。
鍵をかちゃりと開けると、許しもなく勢いよく扉が開かれ――、思ってもみなかった人がそこにいた。
「………………姉上……?」
「姉さま、どうしてこちらに……?」
今朝会った時と変わらぬ、深緑色の制服を着た姉のアストリッドだった。
扉を開けたのは姉で、今はブランシェとジゼルが荒々しく開けた扉を静かに閉じている。
『まさか…………、俺へのサプライズ? いつのまにそんな高等テクニックを会得したんだお前たち……っ』
姿なく感極まる父の声に、返事をする余裕はない。
「…………本当にお父様とお話しされていたのね」
俯きがちで、暗い声をした姉がなぜか男子寮の、七階にある弟の部屋に現れた。従姉とは違い、姉はこのような無謀なことはしないはずだった。
アイベルとキールが唐突な人物の登場に動揺しており、ブランシェとジゼルは扉の前で居心地悪そうにしていた。――見間違えようのない二人の侍女がいるだけに、この人は紛うことなく実の姉、……アストリッドのはずだ。
「……フィフスから聞いたわ。二人とも何かあったの?」
「あの……、姉上こそどうしてここに……? お加減が優れないように見受けられますが……」
暗い声やふらりとこちらに近付く歩みが不安げだ。不機嫌にも見える姿に、ブランシェとジゼルがいながら引き止める様子もない。――この異様な状況が何も理解できない。
ソファから立ち上がり、ゆっくりこちらに来る姉の元へ近付いた。
「そんなの、心配だから来たに決まってるじゃない……」
すぐ前まで来ると、震える声にぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「どうしたんですか、姉さま……? なにか哀しいことでも」
『その声……、泣いているのかアストリッド? 一体どうしたというんだ――』
姉の涙につられ、傍らに来た弟まで泣きそうになっている。
こぼれる涙を両手で拭う姉が徐々ににしゃくりあげ、どうしたらいいのか分からず周囲に助けを求める。
だが、彼らも困惑している。
涙ぐむ姿を見たことはあれど、これほどまでに感情を露わにされた姉の姿は見たことがなかった。――不安からか、姉の手を取る弟も泣いてしまう。
どうしたら――――、と悩みながら姉の肩を引き寄せ、背中をさする。
『友人』に教えられた秘策だ。
肩に顔を埋める熱い姉を宥めながら、姉がフィフスに言われて来たと話していたことを思い出す。――まさか試験のつもりで、こんな状態の姉を寄越したのではないだろうか。そんな考えが頭をよぎった。
もうひとつの手で、泣いている弟も宥めてみる。――四人の従者たちが見守ってくれているが、どうにも居心地が悪い。
『友人』に触れる時はこんなに気恥ずかしさも湧かないのに、姉弟に対しぎこちない。
『ディアス、エミリオ、アストリッド! おい、何があったんだ!? ――――くそっ、待っていろ! 今からそっちに俺も行く!』
がたりと、姿の見えぬ父の慌てている音だけが伝わる。
「ご心配をおかけしておりますが陛下――、姫様たちが落ち着くまでどうかお待ちください」
「し、少々姫様も取り乱しているだけですので、ご心配には及びません」
ブランシェとジゼルが今にも来そうな父を宥めている。二人の侍従もどうしたものかと困っているようだが、しばし二人の姉弟が落ち着くまで部屋の真ん中で、訳もわからず二人を支えながら立つこととなった。




