間奏曲 ――朝食・上――
ご機嫌よう皆さん。私はリタ。
学校という場所で学ぶのはこれが二度目。――実は今、かなり楽しんでいます。
今のラウルスは特に教育に力を入れているそうで、特に有名なのはここ、学園都市ピオニール。昔から王族と縁のある場所だから、ラウルスでも特に人気が高いそう。現にお姫様や王子様もここで学ばれているのだから、同じ勉強をするならキラキラした方を選びたくなるわよね。
他には西のクォヴァディス学園、北のヴァールハイト学院という場所が有名みたい。ここに来てから寮の子たちに、いろいろと教えてもらいました。ですがどちらも規模的にはここよりも小さいとか。
この女子寮で顔を合わせる方達は、話し方や笑い方、指先に至るまでの所作や身のこなし方がどれも女の子らしくて可愛らしい人ばかり。――少しずつ真似をしていたら、なんだか自分もお嬢様になれたような気がして、心の中でこんな話し方をしています。エリーチェやクリス、兵士たちにはバレていないはず。
ここにいる間だけは、いつもと違う自分で居られることが楽しみのひとつになっています。
今いる場所は学園エリア西に位置する、上流階級者専門の女子寮。外へ繋がる玄関の両脇には華やかな女神の彫刻や、細かな花柄の壁紙が室内を飾ってあって、呼吸をすればどこからともなく花の香りが漂ってくる。
花瓶に飾られたお花だけの香りじゃないと思う。どこかでフレグランスなんかを置いているのかもしれない。
柱に階段、手すりに窓まで、どうしてそんなところまで、と思わずにはいられないほど、あちらにもこちらにも目を楽しませてくれる細工があり、この中を歩くだけで高貴な気分にさせてくれるので、意味なく部屋から出て歩いてみたりしています。真っ赤な絨毯もふわふわで、多少ガサツに歩いても足音を消してくれる仕様が素晴らしい。――これはただの例えで、そんなことはしませんからね?
上流階級女子たちはどちらかと言えば制服よりも、ご自身が着たいワンピースやドレスを着用してされている方も多い。どうやらアストリッド様がよく制服を着ていらっしゃるから、制服に装飾を追加したり、限りなく制服っぽいけど実は違うみたいなお洋服をお召しになられている方も多くいらして、皆さんのファッションに対するこだわりをひしひしと感じる。まるで『自分らしくあること』を、全身で楽しんでいるみたい。
周りを見ていると自分だけのお洋服が欲しくなるけれど、制服は制服で可愛から気に入ってるの。あと、彼女たちみたいな服を買ったところで、国に帰っても着れるかどうか考えると、タンスの肥やしになるだけだろう。
ふぅ、とひとつため息をつく。気を取り直して次に行ってみましょう。
豪華絢爛、華美玲瓏、麗しきこと花の如し。知ってる限りの美辞麗句を並べたとして、この寮の素晴らしさは語り尽くせないでしょう。
そして、もうひとつ――、ここに来れて良かったと、心から思っていることがあるの。
「ご機嫌よう、リタ。シャンティのおすすめの本はもう読んだかしら」
「『庭園の秘める花』、一気に読んでしまったわ。全てを捨てて駆け落ちするなんて、二人の決意が熱かったわ――」
カバンから昨日読んだ本を取り出して返した。手にすればあの時の情動が胸のうちに蘇る。
「そうなの――。しかも二人の恋敵だった殿下が、結局背中を押してくれることになるなんてとても熱いわよね。最後は和解してみんなに祝福されて……、何度読んでも幸せな気持ちにさせてくれるわ」
「えぇ……。いくつもの困難があっても、信じ合える関係が本当に素敵だったわ」
「気に入ってもらえてよかったわ。――ふふっ、これは実話なのだけれどね」
「――実話。」
ふわふわと夢見心地だった読後感に、固いものが振り下ろされた。
「ご機嫌よう、リタ。――貴方ならこういうのも好きだと思うの。ぜひ読んでみて」
「ありがとう。……これは一体どんなお話なの?」
「とある貴公子に見染められた没落貴族のご令嬢のお話なんだけど、家の復興と引き換えに交際を申し込まれるの。断るために心に決めている方がいると嘘を言って、ずっと自分に付き従っていた従者の一人を名指しするの。でも実は従者はご令嬢のことを昔から想っていらして、これを機にご令嬢のために家の再興を誓う主従ものよ」
「へぇ、身分違いか――。教えてくれてありがとう。今夜にでも読んでみるわ」
「もし詳しく知りたくなったら図書館に行くといいわ。カルディナル家の系譜を読むと、時代の背景がより分かって楽しめると思うの。これ、カルディナル家の実録だから」
「――実録。」
手渡された本が急に重くなったように感じた。
「ねぇねぇ、リタ。ルイーズから聞いたわ。あなたってこういうのも興味がなくて?」
「『愛と堕落の果てに』? なんだか大人っぽいタイトルね……。でもこの箔押しの装丁が素敵ね。どんなお話なのかしら」
「それは読んでからのお楽しみよ。リタなら楽しんでくれると思うわ」
「私にも理解できるといいのだけど」
「あっ、エリーチェには見せてはダメよ。あの子には少し早いかもしれないから」
「早いって……、エリーチェも私と同い年なのだから、早いも何もないと思うけど?」
「くすっ、読めばきっと分かるわ。もし気に入ったら教えてね。あなたに新しい扉が開かんことを」
くすくすと笑いながら、祝福の言葉を置いて彼女は去って行った。
一階には食堂と談話スペースがあり、今はその談話スペースにいた。ここにいると、初日の自己紹介を聞いた子たちがこうやって声を掛けてくれるのだ。
こうやっておすすめの恋愛小説を貸してくれたり、みんなの恋愛事情なんかも気さくにお話し下さるから、エリーチェが部屋にいない時はここにきて本を読んだり話したりしているのがとても楽しい。
こういうロマンス物は聖国には流通していない。
ラウルスではたくさんあるという話は聞いていたので、彼女たちが普通に読んでいることも、読みきれないほどたくさんの種類の本があることもどれもが衝撃的だった。
交易の一環で書籍もラウルスから入っては来るものの、検閲が厳しく手に取れる種類は非常に少ない。ましてこのような娯楽小説は、聖国の男女感とは合わないためか、全くと言っていいほど入ってこないのだ。
別に想像するくらいならいいじゃんと、ずっと思っていた。
だが、実話が元になっているのだとしたら、こうなっては困ると考えてしまうのも致し方ないのかもしれない――。
でも和平が結ばれた直後に、聖国へ流入する価値基準やレーティングが決められたらしいのだが、もう少し緩和してくれても良いのではないだろうか。あの頃とは時代も考え方も変わってきているのだから。
パラパラとページをめくってみると、挿絵がかなりあった。絵を見るだけでもどんな内容なのか、想像を膨らませるだけでも楽しい。
「これ……、男性ばかり出てくるけど、恋愛小説じゃないのかな」
二人の男性が親しげにしているシーンが多いようだ。別のページでは決闘なのか激しくぶつかり合うシーンもあり、今まで読んだものと毛色が違うようだ。男の友情を描いた作品なのだろうか。
ここに来る直前、ピオニールに連れて行く人選を決めるとき、四家の当代様たちがラウルスの文官たちと話し合いをし、私の名前が出されたようなのだ。リタならやっていけるだろうと――。
どういう意味よ、と最初は思っていたがクリスが理由だろう。方天に対し畏まる人は多く、接し方で身分の高さがバレてしまう。
最初は別の人が行くことに決まっていただけに、急な変更はそれ以外に理由が思いつかないし、連れて来た兵士たちからしてもそうだろう。
だけど今はいろんなことに感謝している。すっごく楽しいし、周りの人たちもやたら優しくてずっとここに居たいくらいだ。女子の憧れ、夢の詰まった空間だと言えなくもないだろう。
預かった本をカバンに仕舞おうと膝に載せていると、
「ご機嫌よう、リタ。今日はここで本を読んでるのね」
深紅のジャケットとスカートのセットアップを着たレティシア様が現れた。大人っぽい装いが似合っており、着こなしている感じが今日も素敵だ。
「レティシア様、――コレット様も、ご機嫌よう」
ここでの挨拶、『ご機嫌よう』もだんだん板についてきた。出会った時にも別れる際にも、調子を伺う意味でも広く使える言葉なのに、互いにこの言葉を掛け合うだけでなんだか背筋が伸びて、ついおすまししたくなる。
言葉に見合うよう、振る舞いまでもが意識的になるのだから、素敵な習慣だなと思う。
「……リタは誰か待っているの?」
姉のレティシア様の後ろから不安げに現れたコレット様は、今日も物憂げに視線を落としている。今日は制服ではなく、レティシア様と同じような深みのある赤のワンピース。黒のレースとフリルが甘辛いデザインでとても可愛らしい。女子として、日々を楽しんでいらっしゃるのが伝わってくる。ハーフアップにした髪の毛先がくるくると巻かれとても愛らしい。
「今日は学食で朝食を食べようって、おバカコンビと約束しているんです」
「おバカコンビ、ね」
くすくすと鈴を転がすように笑われるレティシア様が隣に座った。
聖都にいる時、兵士たちの朝の鍛錬は10時からだった。それに比べれば毎日アホみたいに早い時間からやってる。エリーチェは朝は強いタイプだし、宿舎にいる兵士たちも苦にしてないが、クリスだけはどうせ起きたり寝たりで半分も参加してないのだろう。それもいつものことだ。左翼さんも面倒くさがりなので、極力起こさず――、いや寝かしつけているまである。ようやくクリスの頭が冷めた頃に手合わせするのが常だ。
それなのに、ほぼ毎日朝から宿舎に行ってエリーチェは身体を動かしているのだから、もの好きだとしか言えない。
かくいう私は待ち合わせの時間まで余裕があるので、ここで時間を潰していた次第だった。
「あら、良いものを持っているわね」
「こちらですか? レティシア様も読んだことがあるんですか?」
姉の隣を避けるように、コレット様は私の隣に座る。二人の姫君に挟まれて動揺するが、両隣からいい香りがする。あとで誰かに自慢しようと心の中にこの感動を刻み付けた。
手にしてた本に興味を持たれたレティシア様に本を渡すと、懐かしそうな顔をされていた。
「えぇ、こういうのも好きなの。男性同士のロマンスよ。でも少々暴力的な表現も多いけど、リタは平気なのかしら」
「暴力表現の権化みたいなのが傍にいるので、そこは別に――」
男性同士のロマンス。――聞きなれない言葉に、ぎこちなくレティシア様を見た。手渡した本をパラパラとめくる横顔は美しく、黒の長い睫毛がくるんと上を向き、うっすらと色の入るまぶたがキラキラと光を集めている。すらりと伸びる鼻筋に、薄い唇はグロスがついているのだろう、熟れた桃のような色をしている。今日は長い髪を細く巻いているようで、くるくると跳ねる黒髪が頬に掛かり美しさと愛らしさを同時に演出しているようだ。
「昔は力が物を言う時代だったから、今読むと乱暴な話も多いけれど、それでも長く語り継がれるほどには素敵な話も多いの。私もいくつか持っているから、興味があればぜひ読んで欲しいわ」
「ありがとうございます。読み終わってどうしたいか分かったらお知らせしますね」
「えぇ、待っているわ」
いつも一緒にいるアストリッド様のお姿がないだけに、ここで待つつもりなのかもしれない。多くの学生たちが一階の食堂へ入途中、レティシア様に気付いた方々が遠くから会釈しており、手を振って応えていた。
「……レティシア様は、どうして女性の方とお付き合いをされているんですか?」
思わず疑問が口から出た。遠くへ向けていた眼差しがこちらに向くと、恥ずかしさと気まずさから慌てて両手を振って否定した。
「いや、あの――、少し気になったから聞いただけで」
「どうしてって? 好きだから一緒にいるのだけど、何か変かしら」
背けた顔に指が掛けられ、戸惑いに身構えた隙に両手で顔を挟まれてしまう。
「リタは女が女と付き合うのは、受け入れられない人なのかしら」
「いえ、――そういう訳ではないです……」
レティシア様の麗しいご尊顔が近付き、気まずいやら恥ずかしいやら、失礼なことを言ってしまった後悔から、耳まで赤くなるのが分かる。ひどい顔をしているんだろうなと、冷静な自分が呟いている。
「私たちの勝手に他人なんか必要ないわ。――それとも、あなたの国ではどこの誰が、どんな人と付き合うかいちいち口出ししてくるのかしら」
優しく諭すような優しい物言いだけど、頭に沿う細く長い指のひとつひとつが、まるで頭の中を確かめるように触れているようだ。
「そういう訳ではありませんが、同性同士で付き合うことなんて考えたことがないので、つい気になって……」
「考えたことがないだけ?」
「……子を成すのは人の義務じゃないですか。家の存続もそうですが、――普通は女性は男性に、男性は女性に惹かれるものじゃないんですか?」
くすりと空気の擦れる音がすると、両手が離れて行った。
「普通、ね。――家の繁栄や後継を育てることは大事だと思うけれど、それは個人の問題とは別ではなくて? そんな効率的なことばかり押し付けられたら、あなたの心は苦しくないのかしら」
解放されたことにほっとし、紅潮する顔と心臓の高鳴りを鎮めようと大きく呼吸した。
「……苦しいとか、そういうことは考えたことはありませんが、……正直よく分からないです」
「なら、たくさんお勉強したらいいわ。ここにはたくさん教材があるもの」
にこりと微笑まれ、先ほど中を見ていた本を渡された。
「あなたに新しい扉が開かんことを」
ここでたまに言われる言葉だ。受け取った本の表紙をおずおずと撫でる。――意味は分からないけれど、これもいい言葉だと思う。新しい自分と出会えそうな、そんな予感だ。
「――はい、頑張ります」
精一杯の返事に気を良くされたようで、にこにこと頭を撫でられた。ひとつしか変わらないはずなのだが、どうしてもレティシア様にこうされると、甘やかしてもらっているような、むず痒いような、恥ずかしいようななんとも言えない感情が湧く。
嫌ではない。ちょっと嬉しいまである。
「リタは素直ね。まったく、どこかの誰かさんも少しは見習った方がいいわ」
その言葉に隣で静かに座るコレット様がぷいと顔を背けた。
「……コレット様って、殿下とお付き合いはされていないんですか?」
「はっ――、な、なに言ってるの、リタ……」
驚いたようで勢いよく戻って来た顔が真っ赤になっていた。小さくなる声に戸惑いが混じり、連日の彼女の姿がそこにあった。
「最初にお会いした時に牽制されたので、てっきりそういうご関係なのかと」
「別に付き合ってないわよ。一度だってそういうこともなかったんじゃないかしら」
レティシア様の言葉に、ソファに倒れ込んで顔を覆っている。小柄な背を丸め、より小さくなろうとしているようにも見えた。
「……だって、仕方ないじゃない……」
消え入りそうな小さな声で抗議している。
「それでも、好きなんだもの……」
「分かります……! 憧れる方の側にいるのって、緊張するし耐え難いですよね」
こぶしを握り、全力で共感する。小さくなるコレット様が他人事に思えず、思わず自分を重ねてしまうのだ。
「私も蒼家の当代様がいらしたときは、床から頭を上げられないし、お側を通り過ぎた後に届く風のゆらぎに感動して居たたまれなくなります。遠くで楽しげに談笑されている声が聞こえれば両耳を閉じて、自分の中だけに閉じ込めておきたい――。って、よく思いますもん」
蒼家の当代様がクリシス神殿に現れる際は、半径五メートル以上近付いてはならない。巫女職は全員ひれ伏し誰も声を上げてはならず、顔を上げてはならない。――これは互いの領分を守るための措置で、決して規則ではない。むしろひれ伏したくなるので、ある意味これは自然の摂理だ。
「……リタとは違うわ」
「確かに憧れと恋愛感情は違うかもしれませんけど、感情が高まって、自分が制御できない感じが似ているなと思ったんです」
脳内で、自分に都合の良い妄想を繰り広げたりもするが、本人が近くにいるだけで顔が赤くなり何も言えなくなる。居たたまれなさに隠れることもあるが、それでも少しでもその存在を感じたいとちらりと見てしまったり、いつもより耳を澄ませたりする。――何日か一緒にいて、遠慮がちに殿下を見つめるコレット様にそういう近しいものを感じていた。
コレット様がディアス様に懸想しているのは女子寮でも有名な話なようだが、同時に殿下が周囲につれないのも有名らしい。無難な会話はしても、それ以上踏み込ませないことから難攻不落で取り付く島もないとか。そのつれなさを気に入ってる方も多いが、姉弟仲が良いだけに普段はコレット様経由でなければ接する機会もないらしい。なんとも複雑な人間関係だ。
なので19日のディアス様のお誕生日に行われる舞踏会は、期待と悲観で二極化しているとか――。
「聖都って他に男性はいないの? リタの話っていつもその当代様や四方天についてばかりだけど、――他に気になる人はなないのかしら」
「クリシス神殿に人は多いですが、ほとんどが年上の男性だし既婚者もいたりして……、同年代は本家にいることが多いですね」
身近な存在と言えば、四家の同世代が浮かんだ。
「自分の家は見知った人ばかりなだけに気の置けない人ばかりだし、蒼家は武勇を競うタイプが多くてとっつきにくいです。朱家は穏やかで大人しい人が多いけれど模範的な人が多いし、白家は物事に拘らないさっぱりしたタイプが多いですね。……あとは神殿の外にいけば出会いも広がりますけど、私たち巫女の人間なんて方天についてくるおまけみたいなものです。神事に従事するばかりの稼ぎもほとんどない女なんて眼中にないって気がしてます」
「へぇ……。交流する機会はないのかしら」
「祭事の時か用がある時に会うことはありますよ。でも基本それだけです。――あとは知り合いに紹介される、とかでしょうか」
縁談は家が持ってくるものだと、小さい頃は思っていた。周りの大人たちがそうだったし、自分たちにもそういう時が来るのだと教わっていたからだ。
「……だから、レティシア様みたいにお好きな人がたくさんいる方には、少し驚きました。ヨアヒム様は何も仰らないんですか?」
「お父様? わざわざこんなことに口を挟まれる人じゃないもの。どの人とも真面目に付き合っているのなら何も言わないわ」
体格が良くあごひげが厳めしい見た目とは違い、何度か話した感じからお優しい方だというのは伝わって来た。セーレ様もああいうタイプだが、ラウルスの男性は勇を競うような男らしさとは真逆のようだ。
「それに、ずっとこの国では自分が大事にしたいものを一番にしてきたし、そういう歴史がここににあるわ」
レティシア様が膝の上にある本に触れると、お顔が近くなる。
「多くの物語が実話を元にしているけれど、そのどれもが自分の生き方に迷いながらも、曲げられないものがたくさんあったのだと知れるようで貴いものだわ」
目が合えば緊張から息が止まる。
「迷っても、間違ってもいいのよ。この中でもみんなそうして生きてるもの。読んでいると勇気づけられるし希望を得られるようではなくて。――誰かのエンタメになる気なんて、きっと誰も思ってもなかったはずだけど、でも近くで見て来た人たちがその時代を生きて来た人の生き様を残したいと思ってこうして形に残してきたの。それだけでも読んでみる価値はあると思わないかしら」
「そ、そうですね、おっしゃるとおりです……」
艶めく笑顔が向けられて、紅潮する顔を背けなんとか逃げる。ドギマギするのは綺麗な方だからだろうか、それとも潜在的恐怖のせいだろうか――。返事をしながら呼吸を整える。レティシア様の振る舞いが心臓に悪いが、このドキドキも悪くないと思ってしまう気持ちもあるので、私は一体どうしたらいいのかと困惑してしまう。
そんなこちらの様子をくすりと笑い、レティシア様が離れる気配が伝わった。
「だというのに、コレットは逃げてばかり――。そんなんじゃどんな機会があったとしても、あなたの前では全て徒労ね」
ソファに座り直したコレット様は反論もできず、うぅと小さな苦悶の声をあげた。
「が、頑張ってくださいコレット様。私は応援していますから!」
「でもフィフスは連日、ディアスのところに行くほど仲良くしているそうじゃない。――一体何をしているのかしらね」
妹君をけしかけようとしているのか、にんまりと笑うレティシア様の笑顔が見える。
「リタは何か聞いてないの?」
「特には。聖国にいる時も、エリーチェの誘いでよく仲の良い男子を集めて夜通し話したり、ゲームとかで勝負しては仕事を押し付け合ったりしてますから――」
クリスにとって西方天も北方天も南方天も皆男で、立場上何かと一緒にいることも多いので同僚でもあり友人でもある、と言えるだろう。特に一番付き合いの長い南方天のシャナとは、とある理由からほぼ四六時中クリスも一緒にいる。
気心知れた仲だし、エリーチェもクリスも気遣い無用な存在だ。カナタとシャナも二人の事は兄妹のように接しているし、殿下の雰囲気はあの二人にも似ているので、案外気が合っているのかもしれない。
「だから大したことは話してないですよ、きっと。それにコレット様が心配されるようなことはないかと。フィフスは腕の立つ人しか興味がないし、手強い相手をどう倒すか考える方が好きな人ですから」
「血の気が多いのね。いかにも武人というべきかしら。――でも昨日は可愛いところもあったわね」
不安に曇るコレット様の顔が私を挟んで、ひとつ隣のレティシア様を不満げに睨んでいる。不機嫌に曇る顔も可愛らしいので、なんだか申し訳ない気持ちに複雑な心が絡む。
「……酔っ払いを置いてきてすみません……」
「いいのよ。お母様も昔、全然振り向てくれないお父様を振り向かせるために、一服盛ったそうよ。思わずその話を思い出してしまったわ」
「………………はい?」
懐かし気に語るレティシア様を見る。聞き間違いだろうか。
「お母様はお父様のことが大好きだったのだけど、お父様は全然気づいてくれなかったそうでね。あらゆる手を使っても振り向いて下さらないからって薬に手を出したのだとか」
さらりと語られる話に思わず固唾を飲む。こんな身近な場所でサスペンスが聞けるなんて、と期待で胸が高鳴った。
「舞踏会でご一緒したときに、抜け出して二人きりになった時に惚れ薬を盛ったんですって。そしたらお父様の具合が悪くなってしまって倒れられたとか。――その時一生懸命介抱したことで、お父様はお母様のことを女性として見るようになったんですって」
「すごい……! それも薬の効果だったんですか?」
「いいえ、調べてみたらただの果実酒だったそうよう。お母様は毒を盛ってしまったんじゃないかって心配していただけなんだから。――あとで正直に話して許して貰えたから、今の私たちがあるのよ」
愛の国ならではかと思ったが違った。惚れ薬や媚薬といった真偽の疑わしいものは聖国でも聞いたことはあるが、効能に関わらずそんなものを所持してたら即刻摘発されるだろう。市井を揺るがしかねない存在だからだし、薬効が疑わしい薬が流通することを止めるためだ。
「そうだったんですね……。てっきりこちらではよくある薬なのかと思いました」
「たまにそういう話は聞くけれど、たいていが中身のない嘘よ。一歩踏み出せない人へ送るエールのようなものね。……それに、そんなもので相手の心を手に入れたとしても、後悔するだけだってお母様も気付いたみたい」
「教訓のようなお話しですね。でも惚れ薬かぁ……。もし手に入れたら私も使ってみたいと思ってしまうかもです」
一瞬の夢でいいから振り向いて欲しいと、心の中に何度も思い浮かべた相手を思い出す。
「だけどもし毒だったらどうするの? 相手の心を変え縛るだけでも恐ろしいのに、命を奪うものだったり、それ以外に後遺症を残すものだったら怖くて使いたくないわ。――そうでしょ、コレット」
「……どうして私に言うの。何度も聞いているから私も知ってるわ」
「都合の良い謳い文句に誘われて、薬とか盛りそうじゃないあなたって」
「そんなこと、絶対しないわよ」
ぷいとレティシア様の言葉をはねのけようとするコレット様がまたそっぽを向いた。こんなこと、私がしても可愛くないのだから、可愛い子だから許される行動だろう。
「リタも気を付けなさい。――薬殺未遂で済めばまだいいけれど、取り返しのつかないことになれば一生後悔するわ。甘言に流されて安易な手に走ってはダメよ」
「はい、心に留めておきます」
「もし手に入ったら私にも見せてね。隠そうとするのは、毒薬に魅入られているということなのだから手遅れの証よ」
「あら、何が手遅れなのかしら」
レティシア様が悪戯っぽくウィンクされると、新たな声が入ってきた。
「ご機嫌よう。待たせてごめんなさいね。先に食事にしててよかったのに」
「楽しくお話をしていただけだから気にしないで」
アストリッド様が二人の侍女を連れてやってきた。いつも通り制服に身を包まれているだけだが、背中まで伸びる艶やかな黒髪を下ろし、近付く度にふわりふわりと揺れている。自分の癖のある髪の毛とは大違いだ。
「お二人ともお話しして下さってありがとうございました」
アストリッド様の到着に合わせ、レティシア様もコレット様も立が上がったので二人に一礼をした。
「ちょうどいいので私も学食へ行ってきます」
「そう……、リタは今日は一緒じゃないの」
「えぇ、おバカコンビが学食に行くそうなので付いて行こうかと」
学食……、とぽつりとつぶやくアストリッド様に、レティシア様が呆れたように笑われた。
「アストリッドも興味があるなら行ってくればいいのに」
「……ううん、遠慮しておくわ。だけど何か楽しいことがあったらリタ、教えてね」
「はい、分かりました」
アストリッド様の隣に並び、レティシア様が腕を絡めるとまるで美の双璧だ。この寮にある女神像も霞んで見える。清楚系と妖艶系のお姉さまコンビに、心が清められていくようだ。
「その内この子も誘ってくれるかしら。出向く理由がないとどこにも行けないんじゃ、この先ずっと窮屈だわ」
「……別に、窮屈だと思ったことなんてないわ」
「ここにも素直じゃないのがいたようね。――じゃあまたねリタ」
二人に並ぶ可愛い系のコレット様が並ぶと、三位一体の美が現れる。そんな究極の存在に見送ってもらえるなんて、やはりここに来て良かったと気持ちを改める――。
「皆さん、また後でお会いしましょう」
浮かれた心地で傘を手に寮を出た。心が弾むだけに、ささめく雨にも負けず足取りは軽やかだった。




