79.下弦の片割れは『水』の中②
ゾフィが去り、朝の支度も終わり、弟と共に学園へと向かう。六階、五階と降るにつれ、昨夜見た学生たちと目が合った。向こうが挨拶してきた声に応えると、一瞬戸惑っているようだった。
「皆さん、おはようございます」
エミリオがもう一度彼らに声を掛けると、気を持ち直したのか張り上げるような挨拶を返された。
「ふふっ、皆さんお元気ですね」
威勢の良さにエミリオが楽しげにしており、そうだなと返事をしながら先へと足を進めた。
授業までまだ時間はあるが、今日は三人とも揃っているのだろうか。
――祖母の配下が東方天に捕まったことがある。
しばらくその話が頭に浮かんでいた。ゾフィの話を『良い感じの話』で終わらせて良かったのだろうか。当の本人はもちろん知っているだろうが、他の二人は……。もし知っているのであれば、居た堪れなさから今後どういう態度でいるべきか悩ましい限りだ。――エリーチェが自分のことを敬称をつけてわざわざ呼ぶのもその辺りなのだろうか。姉だけは愛称で呼んでいるが、あれは姉が許したからだろう。二人のいとこもエミリオも確かわざわざ敬称をつけていた気がする。
それに、――祖母が与えられた『預言』とはなんだったのだろう。公に知られている話では、戴冠式のあと、宴の席に『預言者』が現れ、『王としての器を試される時が来る』ことを示唆されたと言われている。
いつだったか、姉のひとりが家族が揃った晩餐の席で祖母に尋ねていたことをぼんやりと思い出したが、あの時なんて言っていただろうか――。続きが思い出せそうにもなかった。
ちらりと隣を歩く弟を確認する。恐らくエミリオが小さく、まだ席に並んで座ることもなかった頃の話だ。兄やいとこ姉妹もいた気がするので、父や二人の叔父もあの時は居たのではないだろうか――。
「殿下、どうかされましたか?」
「さっきのゾフィの話を考えていた。自分たちのことをわざわざ聞かせてくれるなんて、珍しかったから……」
ましてや祖母の失態に近い話だ。秘密と言われたところで、こんな話を抱えさせられても困る。
ひとつため息をつき、まとわりつく厄介な思考を振り払うことにした。
「そう、ですよね……」
力なく返事をするアイベルが、珍しく物憂げにため息をついていた。まさか己の憂鬱が伝播ってしまったのだろうか。
「アイベルまで。……お二人とも元気がないんですか」
「元気がない訳ではありません、エミリオ殿下。突然のお話だったので、少々驚いてしまったところです」
「もしかして、あまり良くない話だったのでしょうか」
「いいえ――、ゾフィ様のお考えが深すぎて、自分の未熟さを思い知らされました。まだまだ精進せねばなりませんね」
気丈な笑みを弟に向けると、兄の様子も伺ってきたため小さく笑顔を作った。
アイベルの言う通り、己の未熟さを日々痛感する。――今までもずっと未熟だったろうに、ここにきてそう感じることが増えてきた。どうして今まで気付かなかったのだろう。
もどかしい気持ちに押し出されて、自分の欠点が次々に明るみに出ているようだ。全て踏みつけて、ないものとしたいが、『ここにある』と誰かが見せてくるようだった。――こんなことを考えていると、またため息が出てしまいそうなので早く忘れることにする。
今考えたって仕方のないことだ。学生寮の扉を開けながら、侍従たちが傘を差し掛け、表へと出た。
「おはよう、みんな。もしかして、いつもこれくらいの時間に移動しているの?」
「姉さまっ! ――おはようございます」
東エントランスに入ると、普段そこにはいないはずの姉たちの姿が揃っていた。おまけにレティシアの恋人たちまで勢揃いだ。――コレットもいるのでかなり賑やかな集団だと言えるだろう。
その輪に加わるように、エミリオが姉の元へと駆けて行った。
「姉さまたちはどうしてこちらへ?」
「ブランシェとジゼルを迎えに来たんだけど、ついでにね。くすっ――、どうにもご機嫌斜めでね、困ってしまったわ」
「ディアス様、……少しアイベルを借りても良いでしょうか」
苦笑する姉の横から、切り揃えられた短い黒髪とレースがあしらわれた白いヘッドドレスをつけた侍女のブランシェが声を掛けてきた。コレットと同じか少し小柄といった彼女は、ゾフィの装いと比べると飾り立てるようなレースの装飾が多く、控えめながら可憐なデザインをしていると言えるだろう。女性らしい身体つきを強調させるかのように、コルセットで引き締められた腰回りから伸びる裾丈の短めな黒いスカートをつまんで、慣れた様子で短く膝折礼をした。
「一限の授業が終わるまでにはお返ししますので」
「それは……、アイベルが良ければ俺は構わないが」
傍らに控える侍従を見ると、諦めと苦渋とも言えないものが混じった色が強張る表情に見えている。――二人の仲は悪くないのだが、少々ブランシェはアイベルに手厳しいところがあるので、突然の呼び出しに緊張をしているようだ。
「あら、いつの間に二人はそういう関係になったの? 素敵ね。逢引なら止める理由はないもの。私が許してあげるわ」
「残念ですが違います、レティシア様。今日の予定のことで、彼と相談したいだけです」
面白がる従姉の言葉をきっぱり否定しつつ、ブランシェはただ了承を取るべき相手のことをじっと見つめていた。
「別にアイベルを虐めるわけではないそうよ。私にも詳細は教えてくれないようだけれど」
「申し訳ありません姫様。……わざわざ姫様たちのお耳に入れられるような、大層な話ではありません。今はどうかご容赦下さい」
「……殿下、私もブランシェと相談したいことがありますので、しばしお時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
「代わりにサラがアイベルのお役目を引き受けて下さるそうです」
コレットの侍女のサラが、コレットのそば、姉たちとのやり取りから離れた場所で膝折礼をしていた。
「お互いに話があるなら行ってくるといい」
「ありがとうございます、殿下」
ブランシェとアイベルがそれぞれ礼をすると、行く宛てが決まっていたのか、そばを離れて行った。
「隠すことはないのに。でも秘める恋もいいものよね」
「そうじゃないって言ってたでしょう。まったく……、すぐに人の事を面白がるんだから。――ねぇ、たまには途中まで一緒に行きましょう。エミリオとはここでお別れになってしまうのだけど」
姉にくっついている弟が残念そうな顔をしているが、一年の教室がすぐ近くなので仕方のないことだった。
「私たちは上の階だからそろそろ移動しなくちゃ。――また後でね」
「はい、――ではまたお昼にお会いしましょう」
他の学生たちの視線もあるからだろう。甘えた様子はすっかり鳴りを潜め、礼儀正しく一礼して先に教室へとキールと向かって行った。
「そういえばゾフィたちから聞いた?」
姉と一緒に歩き出したと同時に、思わぬ言葉に一瞬身構えた。
「今日の午後、王都からドレスが届くそうなの。ピオニール城に運んでくれるそうだから、授業が終わったら見に行ってくるわ」
予想と違う話だった。今朝していた話を姉たちには聞かせていないのだろうか。――話す時間があったとは思えないが、にこやかに話す姉や静かについてきているコレットも、大所帯なレティシアも普段と変わらない様子に、本当にあの場でした内緒話だったのではないかと思えて来た。
「いいえ、初耳です」
「そっか。じゃあ、授業が終わったらエリーチェとリタにダンスを教えてあげてって話は聞いてる?」
その手の知らせを確認できる相手が今はいない。
「いいえ……。よく考えたら、今日はアイベルから予定を聞いていません」
「そうなの? なんだか珍しいわね」
ゾフィの話に互いに動揺していた、ということだろう。こちらも聞かなかっただけに、やはりどうでもいい考えに囚われ過ぎていたと、後悔から頭が痛くなるようだった。
「まあいいわ。そういうことだから、今日はよろしくね。エリーチェはそれなりに覚えているみたいだったけど、リタがちょーっと怪しい動きをしていたわ」
「……あの二人も女子寮で踊っていたんですか」
「いいえ、帰って来たときにちょうど会ったから見てあげてたの。――男子寮では随分盛り上がっていたみたいね」
まさかあちらも酩酊していたのかと思ったが違ったようだった。
レティシアから聞いたのだろう。くすくすと楽しげに笑っているが、姉の隣にいるコレットは機嫌が悪そうだった。最初からフィフスのことを苦手そうにしていたから、仕方がないのない反応かもしれない。
「それでね、――昨日の件を聞いて、ブランシェがフィフスには徹底的に教えるって意気込んでいたわ。だから、ドレスを決めるついでに、今日は彼を私たちが借りていくわね」
「……分かりました」
「こっちにはレティシアとコレット、あの子たちが一緒だから、任せたわよ」
あの子、と呼ばれた方を見るとレティシアの恋人たちだった。――リタとエリーチェの相手役を任せるのかもしれない。
「考えたのだけど、きっとリタは男性経験が少ないと思うのよね。慣れた相手とは別の人と接する機会は必要だと思わない?」
「知らない……。あまり慣れないことを人に無理強いするのはどうかと」
「気の強さで自分を誤魔化している子は、じわじわ薄皮を剥いであげるのが私の趣味なの。放課後が楽しみね」
随分とリタはレティシアに気に入られているようだ。あまり嬉しくない方面の可愛がられ方だけに、ここにはいないリタへと憐憫の情が湧く。
「あなたも早く剝けてしまいなさいな。固すぎてそろそろ私の爪も割れてしまいそうだわ」
「なっ! お姉ちゃんってば、からかうのはやめて――」
急に矛先を変えられたからか、コレットが慌ててレティシアに抗議していた。
「はいはい。コレットのことも、私は楽しみにしているからね」
目的の教室に到着する直前、廊下の先に『友人』の姿が目に入った。周囲と同じような服装と黒髪だが、瞳の青色がここだと居場所を教えてくれるようだった。
予告もなく『そこにいる』という現実が突然目の前に現れたことで、心臓までもが驚いているようだった。大きく跳ね上がった鼓動が痛いくらいほど――。
どうやら今日は朝から授業に参加するつもりのようだ。廊下だというのにあの人の周りに人が集まっていた。周りを囲うのは学生服を着ているだけに、一般の生徒らしいが――。
「本当かっ! ありがとう……! なんてお礼を言ったらいいのか――」
感極まった声を上げた男子学生に、周囲の注目が彼と会話の相手――、フィフスへと集まっていた。
「気にすることはない。私で役に立てることがあるならば、喜んで引き受けよう。」
「本当に――、ほんとにほんっとうに何と言っていいか――。付き合ってくれて感謝するッ!」
相手は熱っぽくフィフスの両手を握ると、勢いよく上下に振りはじめた。当の本人はなされるがままだ。なかなか離れないからか周囲にいた学生たちに彼はは引っ張られ、握っていた手を離したところで二人はようやく離れた。
周りに急かされながらももう一度男子学生は振り返り、大きく腕を振りながらフィフスへとお礼を伝えており、小走りで数人とこの場を去って行った。
「あら、告白の現場かしら。どうやら到着が遅れてしまったようね。悔しいわ」
「彼って下流の学生たちに人気なのね」
「どうやらそうね。後で会ったら詳しく聴かなくちゃいけないことが出来たわね」
二人の姉が口々に勝手を言っている。
たぶん二人が思っているようなことじゃない。絶対違う。
「あれ! 今日はみんな揃って同じクラスなの? 賑やかになるね~」
「おはよう、エリーチェ。そこにいたの? ――一限はこの近くの教室だから、途中まで一緒に来ただけよ。また後で会えるかもね」
エリーチェがこちらの到来に気付き、声を掛けてくれた。物珍しい留学生だからなのか、連日話題に事欠かない行動のせいか、はたまた人を惹きつける才を秘めているからか、周囲の注目は『友人』に注がれていたが、エリーチェの声でこちらを視認した学生たちは道を開け、それぞれが教室へと足を急がせていった。
二人の姉も、曲がった先にある教室へと向かって行ったようだった。
「おはよう。遅かったんだな。」
人気のはけた廊下で相対するが、――何をしていたのか。
鐘の音が鳴ってしまい、表に出ようとした何かを慌てて仕舞った
「今日はここなんだろ? 入らなくていいのか。」
『友人』は昨日と変わらない調子で、すぐそばの教室を指している。
誰に対しても気さくなのは、今に限ったことではないというのに――。一瞬で曇る心に眉間に皺を寄せた。
「――今入るところだ」
簡単に心が晴れ、簡単に心が曇る。
きっとレティシアが余計なことを言ったから、余計なことを考えてしまっているのだろう。
「……うん? 入らないのか?」
「フィフスが先に入ればいい」
教室の入り口の前で並び立つ。先を譲ってくれるつもりらしく、フィフスは動かない。
「ここはお前が先に入るべきだ。遠慮してないで早く行け。」
「先にここにいたんだから、貴方に譲ろう。お先にどうぞ」
片手で背中を軽く押されたので同じように押し返すと、油断していたのか簡単に教室へと一歩足を踏み入れていた。
「くっ、――負けた」
ちょうど教師も到着したようで、『友人』は気を取り直して席へとついた。
見えない後ろを歩かれるより、こちらの方がずっといい。