プロローグ
――どうしてこうなった?
雨を含んで重くなった土が足元にこびりついているからだろうか。それともこの大雨で髪も服も濡れきってしまい、身体の芯まで冷えてきたからだろうか。足が重くてこれ以上動きたくない。
こちらの気持ちを何一つ察してくれない、この無慈悲に降り注ぐ大粒の雨たちが憎らしい。
「殿下、できるだけ後ろに下がっていてください」
目の前には自分の侍従であるアイベルが立ち塞がっている。彼の目線の先には20頭程はいるだろうか、狼の群れとひときわ大きい狼男が一頭おり、それぞれが対峙していた。
――どうして、こんな状況になったんだ。
ここは学園の敷地内だ。四方を壁で囲まれているので誤ってこれらが侵入してきた、ということはないだろう。だから誰かの意思によって召喚され、ここに居るのだろう。
家族からも近頃は、学園内で不穏な動きがあるから注意するよう言われたばかりだったので、こんな時分に外出などするべきでなかったし、ここに迷い込んだことのどれもが軽率な判断でしかなった。
「誰であろうと殿下に近づくことは許しはしない!」
侍従の決意の声が耳に届く。雨の音がうるさくて気付かなかったが、侍従に狼たちが襲いかかっていた。
――今日は10月1日、金曜日。
はじまりはただ気晴らしにとアイベルの提案だった。
「少し外を歩いてみませんか?」
窓の外に見える空は曇天であるのは明白で、間もなく雨が降るだろうと想定はできた。
だからこそ雨が降った頃に戻るつもりの、さやかな外出だったのだ。
外出日和とは言えない天気でも、陰鬱な気持ちを部屋の中に充満させるだけの無駄な時間を過ごすよりかは、幾分か有意義に思えた。
16時に近い頃だったか、雨除けのマントを頭からまとい、寮を出て学生街を人目につかないように歩き出した。
横を通り過ぎる人々は授業から解放され自由を得た学生たちで、それぞれの目的地に向かって着実に進んでいるのが伝わるくらいには活気に満ちていた。自分がこの場所にいることがひどく不釣り合いに思え、彼らの目から隠れるように視線を落とす。
現状から逃避したくて、ただ漫然と歩いているだけの自分がとてもつまらないものに思えた。――同じ年頃の人間がここにはたくさんいるので、比べてしまうのは仕方のないことだろう。
鈍色の空と同じ空気が、ずっと胸の内を占めている。――理由は分かっている。
だが理由がわかっているからといって、それを解決できるすべを自分には持ち合わせていなかった。
暗澹とした気持ちで進んでいると、少し後ろを歩くアイベルが誰かが自分たちをつけていることに気付いた。
それらを避けるように歩みを早め、なるべく接触しないよう迂回して戻ろうとしたところ、何度も行く手を遮られてしまい、人気のない場所へと進まざるを得なくなった。
何度も角を曲がり、何度も道を迂回していたが、迫る影が近付く度に焦燥感が募っていった。徐々に駆け足になると、身に着けていたマントも付き合いきれないとばかりに、何かに引っかかり手放すことになった。
まとわりついていた気配も、気づけば人のものから獣のそれに代わり、完全に逃げ場を失う。
ここは学園都市ピオニール――。城壁に囲まれた学園を有する街の中。今自分たちがいるこの地区は古い建物が多く、いづれ取り壊す予定で無人となっている場所だった。人気はなくとも廃屋がいくつもある。
せめてどこかに身を隠そうと目線を巡らせるも、封鎖された扉ばかりが目につき、隠れられる場所がどこにもなかった。
はやる足と動悸に急かされ進んだものの、あっという間に囲まれる。さらなる悲劇を演出するかのように、タイミングよく雨も降ってきてしまった。
こんな大雨の中では、誰かを求める声も届かないだろう。
狼たちの口から洩れ出る息が、やたら白く見える。魔術と剣撃で応戦する侍従の努力もむなしく、餓狼たちはアイベルに傷を与えていく。
「もう、やめてくれ……」
恐怖で身体に力が入らない。
自分のせいで傷付くアイベルを見たくないのに。
こんな時に何をどうすればいいのかなにも考えられない自分が嫌いだ――。
自分の侍従を守るだけの勇気もない弱い自分が嫌いだ。寒い。苦しい。怖い。こわい――。恐怖で脳内が満たされ、思考がしびれてくる。冷たい雨が己に死が近づいていることを告げている。何も見たくない。誰か、誰か――。