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愛しき者

 ぼうっとしたまま、どれだけの時間が過ぎただろう。


 図書館の大時計の鐘の音でレオニーははっと我に返った。慌てて表玄関まで戻り図書館の本を返却してから、きょろきょろと辺りを見回した。


 マティアスの姿は見当たらない。見つけたとしても、さっきの今でどんな顔をして会ったらいいかわからない。


 そそくさと図書館を後にし、外のベンチにへたり込んだ。

 まだマティアスの本を返していない。


(どうしよう……他の人に頼んで渡してもらおうかな)


 何事もなかったかのように振る舞うなんてレオニーには無理だった。さっきのことを思い出しただけで心臓の鼓動がどくどくと身体中に響いて痛いくらいだ。

 

(もしかしてマティアスも私のことを……?)


 都合の良いように解釈しても良いなら、そう聞こえた。

 

(でもまさか……あるわけない、そんなこと)


 そんな簡単に自惚れられるほど気楽な性格ではない。

 何か見落としていることがないか必死に考えを巡らせる。


 すると図書館の入り口から駆け出してくる人物がいた。


(マティアス! 何でこのタイミングで!)


 マティアスはレオニーの姿を見つけると、迷わず近づいてきた。


「アベル! 前貸した本が返って来てたから、いつ来たのかと思ったら……良かったまだいた。呼んでくれれば良かったのに」

「いや、忙しいかなあ、と思って」


(そうだった、私は今はアベルなんだった)


 レオニーは無理矢理笑顔を作った。


「あの本どうだった?」

「すっごく面白かった。図とかあってわかりやすかったし、他国に行ってみたい気分になったよ」

「それなら良かった。俺もあの本はアベルくらいの時に読んでハマったんだよな。お前とは気が合いそうだな」

「そうなんだ」


 目を輝かせて嬉しそうに話すマティアスとは反対に、レオニーはきょろきょろと目線をあちこち彷徨わせて落ち着かない。


(うぅ……どうしたら良いの?)


 先程の話を聞いてしまった後で、意識しない方がおかしい。


「アベル、どうした?」


 異変に気付いたマティアスが、すぐ横に座って顔を覗き込んできて、レオニーはますます慌てた。


「いや、あの……」

「暑さにやられたか?」


 間近に迫る真っ直ぐな瞳に、胸の高鳴りが止まらない。呼吸も苦しくなってきた気がする。


(もういっそ、全部問い正してしまっても良いか)


 ふと、レオニーはそう思った。

 どうせ元々、アベルになるのはこれが最後と決めていた。この関係が壊れようとどうなろうと、もうどうでも良いことだ。怖いものなど何もない。


「あの、マティアス……」

「どうした?」

「その……ブランシュと婚約したって」

「ああ、その話か」


 マティアスは憮然とした表情で前髪をわしゃわしゃと雑にかき回した。


「レオニーに聞いたんだよな。あれは嘘だ。そんな事実はない。レオニーにもそう訂正しておいてくれ」

「嘘なの?」

「ああ、リュカの悪戯だ。まったくあいつには困ったもんだ」

「へえ、そうなんだ」


(やっぱり嘘っていうのは本当なのね)


 婚約の真相を確かめられたのは良いとして、その先をどう尋ねようか、レオニーは考えあぐねた。


(思い切ってストレートに聞いちゃう? それとも)


 ぐるぐる思考を巡らせていると、マティアスと目が合った。マティアスも何か悩んでいる様子だ。


「マティアスどうしたの?」

「いや……お前も男だからな、いちおう」


 大きく息を吐くと、マティアスは意を決したように口を開く。


「正直に言っておく。俺が好きなのはレオニーだけだ」

「え?」


(今なんて……?)



 マティアスは真剣な目をしていた。レオニーは驚きを隠せず、口をぽかんと開けたままマティアスを見上げた。


「信じられない……本当に、本当にレオニーのこと好きなの? ああ、友人としてってこと?」

「何を疑ってるんだ? 俺は嘘なんかつかない。本気でレオニーに惚れてるよ、男として」

「そんなまさか……だって全然そんな風には」

「見えなかったって? そりゃ大人だからな、あからさまに態度に出したりしないさ。レオニーは俺のことただの友人だと思ってるしな」


 あまりに堂々とした物言いに、レオニーの方がどうして良いかわからず、おどおどと視線をあちこち動かし落ち着かない。


「ほとんど一目惚れだった。あれだけ気品があって美しくて目を奪われる令嬢を、俺は他に知らない。でもそれだけじゃない。親しくなるにつれてわかった。レオニーは素直で優しくて、何事にも一生懸命で……ますます惚れ直した。レオニーの見た目も中身も、全部ひっくるめて好きだ。でもまだ今はレオニーには言えない。彼女に見合う人間に、俺がまだ到達できてないからな。だからこのことは、男同士の秘密だ。レオニーにはまだ言うなよ」


 濁流のごとく流れ出るマティアスの告白に、レオニーは全身真っ赤になり頭の中は沸騰寸前だ。


(こんなことって……)


 嬉しい。

 嬉しくてたまらない。


「なんだアベル、そんな真っ赤になって。お前はまだ恋をしたことがないのか。純情だなあ」


 そう言って、マティアスは笑いながらレオニーの肩をばんばんと叩いた。頭に血が上って顔も上げられなくなったレオニーに、マティアスはますます笑みを深めた。


 と、その時、王宮の表の方からものすごい勢いでこちらに駆けて来る人物が。


「マティアス様、大変です! 一大事です!」

「おージゼル、どうした? こんなところまで」


 マティアスの侍女ジゼルは、髪が乱れるのも気にせず猛烈な速さで砂埃を巻き上げて向かってくる。


「マティアス様ー! アベル・ホワイトは実在しませんでした! ホワイト侯爵は女兄弟しかいらっしゃいません。ホワイト姓の縁戚なんていないんです! 念のためアベルという名前だけで探してみましたが、やはり見つかりませんでした! あの少年は名を偽ってますー」


 そう叫びながらジゼルはマティアスの前で急ブレーキをかけ、ぜえぜえと息を切らせた。


「マティアス様、あの少年は一体何者なんでしょう? 何かお心当たりが……ってあれ、アベル……様?」


 マティアスのすぐ横にレオニーがいたことに、ジゼルはようやく気付いたようだった。あわあわと両手をばたつかせている。


「アベル、どういうことだ?」


 先程まで朗らかに笑ってくれていたマティアスが、険しい表情でレオニーの前に立ちはだかった。


「僕のこと調べさせてたの……」

「もしかしたらレオニーの弟なのかと……それどころじゃない真実が出てきたが」


 レオニーの動揺した様子にも構わず、マティアスは間合いを詰めて追及してくる。


「お前は誰だ? どういうつもりでレオニーに近付いた? 理由によっちゃ、ただじゃおかない」


(ああ、どうしよう……)


 ここで正体をばらすわけにはいかない。邪な気持ちでアベルに化けてマティアスのそばにいようとしたことまで、すべて知られてしまう。せっかくマティアスが好きだって言ってくれたのに、軽蔑されてしまうかもしれない。


 何も言えず俯いたレオニーを、なおも問い詰めようとマティアスが近づく。

 すると突然、レオニーは目眩に襲われその場に蹲った。


(これは……何で? まだそんな時間じゃ……)


 元の姿に戻る時の合図。

 目眩がなくなると、今度は冷水を浴びたように急速に身体中が冷える感覚に陥り、そして魔法は解ける。


「どうした?」


 怪訝そうな声を上げるマティアスの手を振り払い、レオニーはふらつく視界の中を寒さに震えながら必死で距離を取った。


 しかしそんなことをしたって無駄だ。もう逃げ場はない。


 体の震えが治まると同時に、さらりとした髪が肩に落ちてきた。魔法が解けてしまったのだ。


「え、レオニー? どうして……」


 困惑した様子のマティアスの声。レオニーはマティアスの顔を見ることができず、さっと顔を背けた。


 すると、ばさっと音がしてレオニーは大きな布に包まれた。


「マティアス様、このことは他言無用です」


 聞き慣れた声。よく見ればレオニーが頭から被せられたのは、普段自分が使っているローブだ。


「クロエさん! お会いしたかったです。どうしてここに?」

「ジゼルさん、内偵するならもっと周りには警戒した方が良いですよ」


 ジゼルを一瞥してから、クロエはレオニーの肩を抱きそっと立ち上がらせた。

 そのまま帰ろうとする2人を、マティアスが引き留める。


「ちょっと待て。これはどういうことだ? 何でレオニーが」

「貴方のせいです」


 マティアスの言葉を遮り、クロエはきっと鋭い視線を向けた。


「貴方がちっとも行動を起こして下さらないから、お嬢様は思い余り……。あとはご自分でお考えください」


 そのまま、一度も振り返ることなくクロエはレオニーを抱えてその場を後にした。






「マティアス様、レオニー様に何されたんですか?」

「え? 何がどうして……ええ?」 


 後に残されたマティアスはただ、鶏みたいな間抜けな声を上げ続けることしかできなかった。


 



 

このお間抜けなマティアスを描きたいがために出来た作品です。

残りあと1話、お付き合いください。

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