吐くほど甘いマカロンが好き
ホワイト侯爵家が誇る豪奢な応接間では、いつも通り柔らかな微笑みを称えたユーグが待っていた。
「やあレオニー。今日は突然で申し訳ない」
「気にしないで。ちょっとびっくりしたけど」
2人掛けのソファに座るよう促し、レオニーも定位置の1人掛けソファに腰かけた。
大体の男性は黒や紺といった深い色合いの衣装を選ぶのに、ユーグは白や水色といった明るい衣装を好んでよく着ている。それが道化師のようにならず、むしろ彼の神がかった精巧な容姿を引き立てている。大好きなピンクでさえ、色合いによって壊滅的に似合わなかったりするレオニーには、羨ましくてたまらない。
今日もユーグは淡いグリーンの上下を爽やかに着こなしている。女性のようにほっそりと長い指が、ゆっくりとした動作でお腹の前で組まれた。
「ごめんねレオニー。よく考えたらこんなに急ぐほど緊急でもなかったんだけど。でも大切なことだし、思いついちゃったんだから早い方が良いかなと思って。ああクロエ、お茶の用意は大丈夫、すぐに失礼するから」
部屋の隅でティーセットの用意を始めたクロエを、ユーグはやんわりと制した。こんなことも初めてだ。いつもなら、お茶をしてのんびりお喋りをし、半日近くは一緒に時を過ごすのに。
(やっぱりもう、私達は終わりなのね)
ユーグは人を見下したりしない代わりに媚びたりもしない。今日のこれは、彼なりの礼儀、所謂けじめというやつだろう。婚約破棄の理由をレオニーに告げた後は、さっと帰るつもりでいるのだ。
レオニーは何でもない風を装いながら、そっと自分の両手を握りしめた。
「レオニー」
名前を呼ばれ顔を上げると、ユーグと真っ直ぐに視線が合わさった。何度も見慣れた、けれど何度見ても深く吸い込まれそうなほど蒼い、澄んだ瞳。そこに仏頂面の可愛くない自分が映っている。
「親愛なるレオニー、どうか聞いてほしい」
女性と間違うほど白く細い指が、レオニーの頬にそっと触れるかのように柔らかく揺れた。
「今回のことは、完全に僕のわがままだ。申し訳ないことをしたと思っている」
自分の手の上を優しく撫でる感触と優しい声色が、話の内容とあまりにも不釣り合いで、レオニーはしばらく反応できなかった。
「……え?」
まさか謝罪されるとは思っていなかった。
身に覚えはないけれど、何か自分に対して気に入らないことがあって、それが原因で婚約破棄にまで至ったんだとばかり思っていた。
それでなくても、神のように崇められ崇拝者さえいるユーグと、特に何の取り柄もない自分がお似合いと思ったことなど、一度もない。もっと相応わしい人がいるのでは、と考えたことなら山ほどある。
髪の毛一つとっても、ユーグはゆるゆると波打つ美しい金髪なのに、レオニーの髪はつんつんとして柔らかさのかけらもなく鈍い光りを放つグレー。笑ってしまうくらい釣り合いが取れていない。
レオニーが考えていることがわかったのか、ユーグは慌てて声を張った。
「レオニーは何も悪くない。僕が勝手に決めてしまったんだから、どんな誹謗中傷も甘んじて受け入れるよ」
そう言われても、何も言葉が浮かんでこない。
(非難されるのは、私じゃなくてユーグなの? 今回のことについて、文句を言っても良いの?)
けれどどれだけ文句を言ったところで、ユーグが婚約破棄を取り消す気がないのは今の様子で明らかだし、今までのユーグとの関係で、気に入らなかったことなど一つもない。
折に触れ美しい文字で思いやり溢れる手紙をつづり、世の女性なら誰もが喜ぶ贈り物を用意し、流行りのカフェやオペラ観劇にも連れ出してくれた。
「あの」
「ん? 何?」
「理由を聞いても・・・?」
「うーん、どう言ったら良いかなあ」
ユーグは少し考えるようなそぶりを見せた後。
「なんていうか、レオニーには僕なんかよりずっと、相応わしい人が別にいるんじゃないかって思っちゃったんだ」
「別の……」
「うん、そう思ったら、このまま僕との婚約に縛りつけられてるのは可哀想だな、ちゃんと相応わしい人のところに行かせてあげなきゃって」
「縛りつけ……」
「レオニー、気づくのが遅れてごめんね。こんな僕を許してほしいとは言わないから、これからは自由に生きて幸せになってほしい」
馬鹿みたいに同じことを繰り返し唱えることしかできないレオニーとは逆に、ユーグは晴れ晴れとした表情ですっと立ち上がった。
「お天気も危なそうだから、そろそろ失礼しようかな。レオニー、最後に僕に時間をくれてありがとう。話せて良かった。今まで君と過ごした時間は本当に楽しかったよ。君にとってもそうだったら嬉しい。もうそばにはいられないけれど、君の幸せを心から願っているよ。それじゃ」
颯爽と応接室を後にしたユーグを乗せた馬車の音が完全に聞こえなくなっても、まだレオニーはその場から動けず石のように固まったままだった。
「お嬢様、お茶はいかがされますか」
後ろからそっとクロエに声をかけられ、ようやくゆっくりと首を後ろに動かした。
「ええ……いただくわ……」
かちゃかちゃと小さく響くティーセットの音に、やがて雨音が混じってきた。窓の外を見れば、黒雲が辺りを覆い尽くしている。
「大雨になりそうですね」
香り高いハーブティーを受け取り一口含むと、体の奥からぽかぽかしてくる。ようやく体が動かせるようになってきた。
「ねえクロエ」
「何でございましょう」
「私って、ユーグにあんな風に言われるほど魅力的な女性だったかしら」
「私には何とも。ただ、お嬢様の周りにはユーグ様に誤解されるような男性は特にいらっしゃらなかったかと」
「そうよね。舞踏会にも滅多に行かないし、友達いないし家大好きだし」
(私がユーグに相応しくないって言うなら、まだわかるけど。ユーグが私に相応しくないって、どういうこと? 全然わからない)
けれど一つだけわかるのは、もうこれで本当に終わり、ユーグとレオニーを繋ぐものは何もなくなってしまったということだ。
きっと彼はもう、ホワイト侯爵邸に足を踏み入れることはもちろん、レオニーに手紙をくれることも外の世界に誘い出してくれることもない。
ハーブの香りが全身に染み渡るとともに、頭も冴え渡ってきた。
「お嬢様、マカロンがご用意できました」
金の縁取り細工が施されたプレートに、可愛らしいマカロンが3つ、ちょこんと可愛らしく座っている。
「ありがとう」
レオニーはピンクのマカロンを指先で掴むと、そのまま一口で頬張った。
甘い。砂糖をそのまま固めたんじゃないかと思うほど、極甘だった。
「随分と甘いのね」
「お嬢様がお望みのものだったはずですが」
「そうね、確かに。これはこれで絶品だわ」
アーモンドの風味はどこに消えたのかと言いたくなるほど、ただただ甘いだけのマカロン。このいつまでも口に残る甘ったるさが、今のレオニーにぴったりと寄り添い慰めてくれているようだった。