図書館での密事
王立図書館は、王宮の裏庭から少し離れた鬱蒼とした林の中にひっそりとある。3階建ての建物の中はひんやりと冷たい空気が流れ、古い書物独特の鼻をつく香りが漂っていた。
「よおアベル、やっと来たか」
図書館に入るなり、カウンターに座っていたマティアスがこちらに気付いてすぐに近寄ってきた。手元には何冊か本を抱えていた。
「適当に見繕っといた。あっちへ行こう」
促されるまま、1番窓際の閲覧用テーブルへ移動した。
1番端の椅子に少年姿のレオニーがちょこんと座ると、その隣の椅子にマティアスがどかっと座り込んだ。
(近い近い近すぎる…)
同じ男性同士でしかも年下という気安さからか、マティアスの表情はいつになくリラックスしているように見えた。
すぐ隣にある整った横顔に思わず見惚れてしまったのを誤魔化すようにレオニーは口を開いた。
「あ、マティアス、眼鏡なんかかけるんだね」
「ああ、勤務中だけな」
「なんか良いね。大人って感じがして」
「悪かったなジジ臭くて」
初めて見る、仕事着の正装に眼鏡。
「大丈夫かアベル? 顔が真っ赤だぞ。水でもいるか」
「いやいい、大丈夫……」
「そうか? 急に暑くなってきたからな、気を付けろよ」
そう言って、マティアスはレオニーの頭をぽんぽんと撫でた。
(だから……近いってば)
動揺で口をパクパクさせているレオニーに、怒らせたと思ったのかマティアスが小さく謝罪の言葉を口にした。
「あー……悪かったな、子供扱いして。お前も立派な男だもんな」
「いや別に……いいよ」
そこから、マティアスは持ってきた本の説明を始めた。
「これがこの前話してた経済論の本だが、いきなりは難しいだろうからこっちの入門書から入った方が良い。これは俺の私物だから、期限とかは気にしなくていいぞ。あとこれは世界史の本」
「世界史?」
「この前話してた時、他国の話に興味津々っぽかったから、こういうのも良いだろうと思ってな。世界地図を使って各国の勢力図の変遷とかがわかりやすく説明されてるから、読みやすい。ただ、これは図書館の本だから期限付きだ。今回は俺の名前で借りてるから延滞しないように」
レオニーはマティアスから受け取った本をぱらぱらとめくってみた。経済論は文字ばかりでざっと見たぢけではよくわからないが、世界史は地図や表が随所に使われていて確かに読みやすそうだった。
「余計なお世話だったか?」
「ううん、面白そうだね。読んでみるよ、ありがとう」
「なら良かった。こっちから呼んでおいて悪いんだが、実は仕事が立て込んでてもう戻らなきゃならない」
「そうなんだ。僕はここでもう少しゆっくりしていくから」
「そうか、悪いな」
マティアスが去った後、レオニーはしばらくマティアスから借りた本に読み耽った。特に世界史の本が面白い。何となくしか知らなかった歴史の話が詳しく載っている。点々とあった知識が1本の線で繋がっていくような爽快な感覚だった。
(マティアスって頭良いのね)
少年アベルとして少し話しただけで、何に興味があるのか把握してぴったりの本を探し出してきてくれる。
そこでふとレオニーは思い出した。
(そういえば……王太子殿下も、リュカは欲しい本をすぐ見つけてくれるって仰っていたわね)
図書館に勤務すれば本の知識は得られるにしても、他人の欲しいものまでわかるようになるものだろうか。
(もしかして、マティアスもリュカも普段はあんなだけど、実はとっても優秀なんじゃ……)
そこでまたレオニーは思い出した。
クロエが言っていなかったか。
彼らはいずれ政務官になるんじゃないかと。
政務官とは、国王と共にあるいは国王に代わって国の政治や経済、教育などあらゆることに携わる。外交官であるレオニーの父もその1人だ。そう簡単になれる職業でないことくらいは、レオニーも知っている。
(とんでもない友人を持ったものね。それに比べて私は……)
大したものは何も持ち合わせていない。
好きな人に近づくために、こんな姑息なことしかできない。
マイナスに向かおうとする自分の思考を振り払い、レオニーは図書館の中を散策することにした。
古びた書物がぎっしりと収められた棚の間を、ゆっくり歩を進める。人はまばらで辺りは静寂に包まれている。初めて訪れたのに不思議と居心地が良かった。
カウンター近くまで来たので本棚越しにそっと様子を窺うと、奥のテーブルでマティアスが何やら真剣な表情で書き物をしていた。
(何してるのかしら?)
もう少しだけ近寄ってみようかと一歩前に出たところで、とんとんと肩を叩かれた。振り返ると、リュカがにこにこ笑って立っていた。
「こんなところで会うなんてね。もしかしてアベルは見た目より勉強家さん?」
「あ、いや今日はマティアスから本を借りに」
「あ、そうなんだ。……そういやレオニーは元気?」
「うん、もうすっかり。今度ブランシュと会う約束したって」
「そっか。それは良かった。じゃ僕はこれで。どうぞごゆっくりー」
そう言うとリュカはカウンターの方へ入っていった。
(あれ……?)
何気なくその様子を目で追っていたら、リュカはマティアスの座っているテーブルの前をさっと素通りし、そのまま奥の事務室に入って行った。
(会話しない……?)
仕事中だから、と言われればそれまでだが、カウンター内ではちらほら小声で談笑している職員が見受けられる。
(いつも2人で楽しそうにお喋りしてるのに)
レオニーはどことなく違和感を感じた。
数日後、ブランシュの家に遊びに行った時に、レオニーは思い切って図書館でのことを話してみた。
「何それ? アベルが言ってたの?」
「そうなの。前のお茶会の時は2人ともとっても楽しそうだったのに、どうしたんだろうって」
「ふうん……」
一瞬、何か疑われたかと思ったものの、ブランシュは特に気にする素振りもなく、細い指でマカロンを摘んだ。
「喧嘩ってわけじゃないけど、何かあったみたいよ、あの2人」
「そうなの?」
「私も直接聞いたわけじゃないんだけどね」
(何があったのかしら……)
あの違和感は気のせいじゃなかったんだとわかったものの、結局理由はわからない。
「それにしても、たった2回会っただけでそこまで気づくなんて、アベルって見た目より聡い子なのね。将来有望ね」
「そうね……本人が聞いたら喜ぶわ……」
ブランシュの家から帰った後は、マティアスから借りた本を読むことにした。
ここ数日、刺繍や小説にはまったく手を付けず、この本ばかり読んでいる。それも、いつもみたいにソファにもたれながらではなく、書き物用のデスクにきちんと座って。クロエに用意してもらうのはミントティのみで、スイーツもあまり欲しいと思わない。
マティアスに近づきたくて始めたことだったのに、思いがけず新しい知識が入ってくることをレオニーは楽しんでいた。