実らない果実
「久しぶり、元気だった?」
相変わらず、目も眩むほど輝かしく美しい顔で、こちらに向かって悠然と微笑む人物。
レオニーの元婚約者、ユーグ・クラークだった。
「ユーグも元気そうで何よりね」
時が戻ったかのようにあまりにも自然に話しかけられたので、レオニーもつられて普通に返事をしてしまった。
身も心も清らかなこの人には、躊躇とか戸惑いとか遠慮とか、そういったものはないのだろうか。
「ちょっと会わない間に変わったね。すごく綺麗になったね」
「別に何も変わらないわ」
「え、そうかな。だいぶ変わったよ」
まじまじとレオニーを上から下まで眺めるユーグ。
「一瞬、よく似た別人かと思ったよ」
自分のことのように、にこにこと嬉しそうにするユーグ。いつだってそうだった。自分の意見をさらりと嫌味なく押し通す強かさがあるユーグ。その一方で、レオニーが嬉しいと思う出来事があると、手を叩いて大きな声で、時には涙を溢しながら、一緒に喜んでくれる人。
懐かしさがこみ上げてきて、レオニーは言葉に詰まった。
するとバルコニーの奥の方からユーグを呼ぶ声がした。
「じゃあね、レオニー。今夜はお互い楽しもう」
ユーグは右手にあったグラスを軽く持ち上げ乾杯する仕草をしてから、バルコニーの人混みに入って行った。
残されたレオニーは、その後ろ姿を黙って見送る。
王太子殿下への謁見に、ユーグとの再会。普段の生活では起こり得ない事態に、レオニーの頭の処理は追いつかない。
するとさらに追い討ちをかけるかのように、また誰かに呼び止められた。
「レオニー」
振り返るとそこにいたのは、マティアスだった。
「レオニー今のは……」
呆気に取られたように、レオニーの背中の方を見つめている。
「偶然会っただけよ。別に何もないわ」
「そうか」
元婚約者とは言え、神のように崇拝されている人物と、一介の令嬢が一緒にいたら、驚くのも無理はない。わざと何でもない風に返した後、レオニーは話題を逸らした。
「ねえ、リュカを見なかった? この辺りにいるかと思って来てみたんだけど」
「さあ、今夜はまだ見かけてないな。ブランシュも見当たらない」
「そう」
そのまま2人で空いているテーブルを見つけ、腰を下ろした。
「レオニー、さっき王太子殿下と踊ってなかったか?」
「あらやだ。見てたの?」
「偶然見かけただけだ。というか、あれだけ派手に王太子殿下にエスコートされてたら、どんな令嬢が相手なのか誰だって気になるだろう」
「ええ、そんな目立ってたの、私」
「王太子殿下のあんなに楽しそうなお顔、少なくとも俺は初めて見たな」
(そんな……知らないうちに私何かしでかしちゃってたのかしら)
心配になり、レオニーは顔面蒼白だった。もし父に迷惑をかけることになったら、本当に申し訳ない。失礼を覚悟で今夜は断るべきだったかと激しく後悔する。
かたかたと小刻みに震え出したレオニーに、マティアスが心配そうに声をかける。
「レオニー大丈夫か?」
「ええ、大丈夫……」
「なあレオニー、お前もしかして」
マティアスは少し躊躇するような様子を見せた後、意を決して口を開いた。
「殿下に求婚されたのか?」
「……は?」
(何を言っているのこの人は!!)
思ってもなかった言葉に、レオニーは絶句した。あまりにも突拍子もない話だ。
レオニーが何も言えないことを肯定と受け取ったのか、マティアスは眉間に皺を寄せた。
「やっぱりそうなのか」
「なっ……何言ってるのよ。そんなことあるわけないでしょう!」
「そうなのか? あまりにも良い雰囲気に見えたから、あちこちで噂になってるみたいだが」
「殿下とお話ししたのは今夜が初めてよ。何でか私にご興味を持たれてたみたいだったけれど、だからって求婚だなんて。そんな話あるわけないじゃない」
「ふーん、そうか」
納得したのかしていないのか、マティアスは持っていたグラスをぐいと煽った。今夜はワインではなくブランデーのようだ。ほんのり色づいた頬が何とも言えない色気を醸し出し、レオニーは忘れかけていたあの夜のことを思い出した。
「まあ殿下との話がなかったとしても、どこぞの誰かに見染められて婚約って話はそろそろある頃じゃないのか」
「余計なお世話ね。婚約って言ったらそっちこそ」
ブランシュと婚約するんでしょう、と言いかけて、レオニーははっと口を噤んだ。
2人のことは、まだ内密だとリュカが言っていた。どういう事情かは知らないが、こんな公の場で口にするべきではないだろう。
「ごめんなさい、何でもないわ」
急にしおらしくなったレオニーに、マティアスも声色を落とした。
「いや、こっちこそ悪かった」
そう言って遠い目をする。視線の先にあるのは、ユーグが座ってあるであろうテーブル。
「レオニーには色々あったんだもんな」
ユーグとのことは、今まで友人達の誰にも触れられたことがなかった。けれどこのシェイキア国にいて、知らないはずがない。あえて触れずにいてくれていることは、レオニーにもわかっていた。
言ってはいけないことを言ってしまったと思っているのか、マティアスは罰が悪そうに両手でガシガシと頭を掻いた。
「その……力になれることがあったら言ってくれ」
「え?」
「辛いことがあるんだったら、話聞いてやるよ。一緒に美味いもの食ったり飲んだりしたら、気も紛れるだろう」
ユーグとの婚約破棄は、突きつけられた当初はレオニーだって落ち込んだ。落ち込みはしたが、マティアス達と出会い、ワインのことや海外のこと、流行りのお菓子やドレスのこと、意味で知らなかったことが次々と降って湧いてくる毎日の中で、いつの間にか忘れていた。
本当に今の今まで、ユーグとたまたま鉢合わせるまで、すっかり忘れていたのだ。
ユーグとのこと、何もかも。
しかしそんなことは知らないマティアスは、レオニーを気遣い思いやり、何とか慰めようとしてくれている。
それが嬉しかった。
薄々ながら気付き始めていたこの感情から、レオニーはもう逃げられない。
「一人で抱え切れなかったら、ちゃんと言え。いくらでも助けてやるから」
見た目だけじゃない。
口は悪いけど、本当に相手が傷つくことは決して言わない。
自分が悪いと思った時は、素直に謝罪の言葉を口にできる。
相手の気持ちに真摯に向き合い、一緒に怒ったり悩んだりしてくれる。
言葉足らずで誤解される時もあるけど、自分の信念をしっかり持って行動していて、それを誇りに思っている。そんなところを心から尊敬している。
短い付き合いだけれど、マティアスの良いところはいくらでも挙げられる。
「うん、ありがとうマティアス」
レオニーがにっこりと笑って見せると、安心したようにマティアスも小さく笑った。
(ああ、私、この人が好きなんだわ)
心のどこかでずっと否定しながらも抱え続けていた想い。
ようやく認めることができた。
それと同時に、どうしようもない悲しみが押し寄せてくる。
(マティアスはブランシュと、婚約するのよね)
レオニーの恋心は、生まれたその瞬間から決して実らないものだった。