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『何かへの空言葉学について』

『何かへのから言葉学について』



我々は生きている以上、この簡単のようで難しい、言葉というものの存在と共生せざるを得ない。人がもし、地球上に一人しかいなければ、言葉は必要ないかもしれない。しかし、人間は複数から進化し、社会という一つの生き物の中で生きることになった。それ故、言葉が必要になった。意思疎通をしなければならないからである、それは、必然の成り行きであった。

言葉には壁がある、地球規模で見れば、国家単位での壁、地域単位での壁、個人単位での壁である。急速に現代は、この壁を消失させている。国語以外に、外国語というものを学ぶ機会が増えたからだ。一般的に言えば、英語は地球規模で主体的になっている観がある。同時に、我々は、自国の国語を守らなければならなくなった。これも必然である。国語が英語に代わる時、日本語は消滅するし、それだけは避けなければならないだろう。それ故、国語を基本として、英語は、国語の意味を伝える為の、手段としてのみに在るべきだ。



そういった現状を持つ日本語であるが、言葉を言葉学として捉える時、自分の独り言というものをどう位置付けてよいのか困惑することになる。言葉学は、基本的には他者を用意してでのものだ。独り言は言葉学から離れていると認めさえすれば、ここに独り言の言葉学、つまり、空言葉学が存在することになる。

空言葉学は、自分の発する自分への言葉である。自分が発する言葉を自分で聞いて、自分で納得するのである。小説とは、その独り言を文章にしたものであるし、空言葉学とは、自分なりの小説執筆の原点を指すものだと言えるだろう。そして、その空言葉を小説にすると、何かへの言葉となる。やはりここで、思考の末に、小説が登場するので、言葉学とは、小説とは切り離せないものなのだと、考えさせられるのである。空言葉とは、しかし、日本語であってほしいと思う、もし、空言葉が英語になっていれば、それはもう、日本語を失った日本人だ。



上記してきた様に、空言葉学とは、日常では気付かない、独り言の本質を意味する。家で一人、空言葉を発している時、それが日本語になるように自覚してほしいのである。日本語の日本語としての在り様、それは、精緻を極めた様な言い方をすれば、心の声のことである。空、とは心が現実を捉えようとする時の、刹那の現象のことを指す。だから、何かへの空言葉とは、自国の言葉であってほしいし、その意識を無くさないで居たいと自分は思う。まるで、言葉に狂ったかのように言葉を発する時の、空を捉える言葉は、空言葉の場合、何かへの言葉となる。それは、簡潔に述べてしまえば、述べて来た様な、自分への言葉であると言える。此処に、何かへの空言葉学について、を、自分への空言葉について、とすり替えて、終論しようと思う。

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