一 非日常への陥穽⑨
こうなれば、あの神父の忠告を無視してでも力を得るしかない。
そうしなければ千影も自分も命はない。
死んでしまえば日常も非日常もないのだから。
朔耶は千影の手を引いて廊下を駆けながら、そう結論していた。
教会に行こうにもグラウンドでは非現実的な戦いが繰り広げられている。
あのタナトスは刻々と近づいてきていて逃げ切れそうもない。
他の誰かが助けてくれる、などという楽観も抱けない。選択肢はもう他にないのだ。
だから、力を、強く望む。
しかし、その兆しは欠片も感じられなかった。
どれだけ強く望もうと意識しても、それは神父の言う純粋な求めには至っていなかった。
「やっぱり、俺じゃ駄目……なのか」
朔耶は心の奥底で苛立ちを強めた。
自分は理屈でそれを求めている。
それを得ることができれば助かるから、と打算的に望んでいる。
そんなものが純粋な求めになるはずがない。
感情で純粋に望めば得られるはずなのに、理屈が先立ってそれを邪魔してしまう。
それは朔耶が平凡な人間であることの何よりの証明だった。
時に感情が理屈の正しさを邪魔しながら、しかし、最後の最後には理屈による後押しが必要。
そして、理屈を凌駕する感情など抱いたことなどなく、感情と理屈であれば七対三ぐらいで理屈を重要視する普通レベルの理性的な人間。
そんな自分の中途半端に論理的な部分が朔耶は嫌いだった。
それは脆さだ。あるいは甘さか。想像の外にある事態に対してはきっと酷く弱い。
勿論、究極的に論理的な人間ならば問題など何もないだろう。
どんな状況でも冷静に対処できるはずだ。
だが、そんな純度の高い存在になれるはずもない。
ならば、朔耶が目指すべきは逆だ。
自分や他人の心や感情を大切にする人間もまた、自分を見失わない強さを持つに違いないから。
だからだったのかもしれない。特撮を特に好み、その主人公に強く憧れたのは。
彼等のほとんどは最終的に感情を重視し、しかも、その行動は他者の共感を得る、ある意味正解と言えるような選択なのだ。
己を貫き、他者を導く。それは多くの場合、強い感情を含んだ言葉や行動で感情的な部分に訴えかけなければ不可能なことだろう。小手先程度の論理では、きっと駄目だ。
「そんなことを考えてる場合じゃないだろ。集中しろ、馬鹿が」
朔耶は危機においてさえ、思考を一つに収束できない自分に憎しみすら覚えていた。
それは未だに現実を見ていない証、甘さの現れに違いないから。
助けがあるなどと楽観しないと頭で考えながら、根本では物語のように救いが訪れることを期待している。そんな風に自分の心を分析していることも、その証拠だ。
「朔耶君っ!」
ほとんど悲鳴に近い千影の叫びと引き止められる力に、ある種の現実逃避から目を覚まさせられる。
そして、朔耶は眼前の光景に愕然とした。
ようやく辿り着いた昇降口には、タナトスがもう一体挟み撃ちをするように待ち構えていたからだ。
「こんな……くそっ」
それは後方から迫るタナトスより遥かに小型だったが、それでも無力な朔耶達にとっては圧倒的な脅威に他ならなかった。
何より、挟まれたことで時間稼ぎすらできなくなったのだから、もはや絶体絶命と言う他ない。
「力を得るしか、ないのに」
力を求めろ。求めなければならない。だから、早く。早くしろ。
自分に必死に言い聞かせて考え続ける。
だが、考えただけではやはり何も得られない。
朔耶はそれでも、憧れたヒーロー達のように最後まで諦めるな、ともはや挫けそうな自分の論理的な部分を叱咤しつつ、千影を自分の背後に隠すように彼女の前に立った。
仮に最悪の事態に陥っても、一瞬でも彼女が生き長らえられるように。
矛盾。諦めに近いその行動は結局、理屈が感情を踏みつけた結果なのかもしれない。
「さ、朔耶君?」
小型のタナトスが触手を蠢かしながら近づき、やがてその間合いに入ってしまう。
その瞬間、それは朔耶を狙って音もなく鋭い無数の触手を伸ばしてきた。
面の攻撃はそもそも回避不可能。
加えて、避けようとすれば千影をも貫く以上、二重の意味で避けられない攻撃が迫る。
「駄目えええっ!」
しかし、それが朔耶を貫くよりも早く背中に衝撃を受け、朔耶は床にうつ伏せに倒れ込んだ。
そして一瞬遅れて。
いつかこの世界で聞いた、有機的なものが裂かれる嫌な音が後ろから響いてきた。
「千、影?」
よろよろと起き上がって振り返ると、触手に体を何箇所も貫かれた千影が口元から血を流していた。
灰色にぼやけた世界では色からそう判断できないが、それでも直感的に理解してしまった。
即死こそ免れていたが、それが致命傷であることも。
タナトスがその触手を引き抜く。
千影はそのまま力なくその場に崩れ落ち、朔耶は咄嗟にその体を受け止めた。
彼女の温かさが急激に失われていくのを感じてしまう。
「朔、耶、くん」
そんな千影を抱き締めながら、タナトスがさらに自分を狙って触手を蠕動させているのを朔耶は見た。
「こ、の……」
その生理的嫌悪感と半ば混乱した思考から、効果や意味の有無は度外視して思わず目についた自分の上履きを脱いで思い切り投げつけた。
すると、タナトスは突然の反撃に驚いたように、極端なまでの回避行動を取って距離を開ける。
所詮は時間稼ぎ。
しかし、こんなものでも多少なり有効なら、先の時に行動できていれば、彼女が自分を庇うことはなかったかもしれない。強く、後悔する。
「千影、どうして、こんな――」
朔耶は千影の背を左手で支えながら、右手で彼女の手を取った。
「わたし、にも、分からない、よ。体が、か、ってに、動い、て」
弱々しく微笑んで、千影はその左手で頬に触れてきた。
どこまでも優しく、まるで恋人に触れるかのように愛おしそうに。
「わたし、死にたく、ない。こんな、ところ、で。まだ、朔耶君、に、伝えて、ない、ことが、沢山、ある、から。……なの、に、何で、だろ」
千影自身の血で汚れた頬を清めて洗い流すように、彼女の目から涙が伝う。
そこに朔耶の目からも雫が落ちて混ざり合った。
千影は自分の涙を気にも留めず、ただ伸ばした左手で朔耶の頬の涙を優しく拭おうとしていた。
朔耶はただどうしようもなく、千影を死なせたくなかった。
もはや彼女のいない日常など日常ではあり得ない。
何故なら。そう、何故なら、彼女のことが好きだからだ。
千影と同様に、朔耶もまた伝えるべきことを何一つ伝えていない。
だから、朔耶は何をしてでも、何を犠牲にしようとも彼女を生かしたかった。
その気持ちだけが思考の全てを塗り潰していた。
瞬間、唐突に意識に光が満ち溢れた。世界から与えられた啓示の如き強烈な光が。
そして、今更に気づく。これこそが純粋な求めだったのだ、と。
その魂の内側に確かな力が生まれ、刻み込まれるのを感じて。遅過ぎると自分を罵倒しながら。
千影の胸、そこに開けられた穴からは鮮血が噴出し、朔耶の体までも紅に染める。と同時に、そこから彼女の全身へと急激に亀裂が走っていく。
そこでまた朔耶は気づいた。世界の輪郭がはっきりし、彩りが戻っていることに。
「きっと、わたし、朔耶君、のこと、が、心の、底から、好き、だったんだ、ね……」
そう納得したように言って微笑んだ次の瞬間、彼女は砕けて、散ってしまった。
「千影……千影ええええっ!」
握り締めていた右手の感触、温かさは消え去り、朔耶の手に残ったのは彼女の欠片。
冷たく、しかし、虹色の不思議な光を放つ欠片のみだった。
朔耶はただ声の限り叫んだ。目の前の事実を否定するように、現実を受け入れろと告げる役立たずの論理性を消し去ろうとするように。
自分への怒りと共に彼女を殺したタナトスを睨みつける。
それは再び近づいてきて、触手を朔耶へと伸ばしてきていた。
それは先程よりも遥かに速いと分かる。だが、先程よりも明らかに遅く認識された。
だから、朔耶はそれを容易く避けて、触手を左手で掴み取り、思い切り引き寄せた。
そのまま、近づいてくる相手の勢いに交差させるように右の拳を力の限り突き出す。
タナトスは朔耶の手に形容不能の感覚を残し、廊下の壁に叩きつけられた。
そして、朔耶は己の内に生まれた力を行使するため、力の限りその言葉を叫んだ。
憧れたヒーローと同じように。しかし、大切な人も守れなかった、どこまでも弱く情けない人間として。
そんな自分のあり方を変えて欲しくて。
「止揚転身っ!」
瞬間、白銀に彩られた衝撃波が周囲に広がった。
それは体勢を立て直そうとしていたタナトスへと襲いかかり、瞬く間に対象を分解していく。
たったそれだけで、千影を殺したそれは弱々しく霧散してしまった。
更に、もう一体のタナトスまでもが吹き飛ばされ、遠くの床面に激突したらしい音が後方で響いた。
「これ、は――」
廊下の窓には見慣れた姿が映っていた。
それは正に朔耶と千影、二人が好きだったジンの姿。
全身を白銀の装甲に覆われた救世の戦士。
しかし、そのあり方、設定はむしろ今の朔耶の心を苛ませるだけだった。
彼女の欠片が残る場所を振り返り、そのまま近づく。
廊下の奥で怒り狂ったように触手を振り上げて迫ってくるタナトスの姿が見えたが、その間合いまでは遠い。待ち受けて倒せばいい。今ならそれも可能なはずだ。
「千影……」
力なく呟きながら、彼女が砕かれてしまった場所に立つ。
と、先程までは存在していなかった光が目についた。
衝撃波に飛ばされてしまったのか、彼女の欠片の一部、大体三分の一程度だけが残っているそこの真上の空間に、それは浮遊していた。
優しく温かな、どんな色とも表現できない光を放つ何かが。
その柔らかな輝きに千影の純粋で優しい笑顔が想起され、朔耶は引き寄せられるように左手を差し出していた。すると、その光は吸い込まれるように左の掌に徐々に近づいてきて、その中へと消えていく。
同時に右手に持っていた彼女の一欠片と床に散らばる欠片達が一層強い輝きを放ち、分解され、その虹色の粒子もまた左手に溶け込んでいった。
「これは……千影、なのか?」
左手に向かって語りかけるが、当然答えはない。
だが、それが正解だと示すように朔耶の心はある程度平静を取り戻していた。
不思議な充足感が胸にあった。
ジンにはその設定として道半ばで倒れた仲間の力を得てどこまでも強くなる、というものがあった。
物語の設定と同じなどとは言えないだろう。
だが、もしかしたら今、彼女の心を受け取ったのかもしれない。
それは所詮妄想の域を出ない答えだった。が、他の欠片も同様にできるのではないかと考え、朔耶は遠くの床に転がる欠片を手に取ろうと歩き出した。
「――っ」
正にその瞬間、嫌な感覚が背筋を貫き、その場から即座に飛び退く。
直後、廊下の壁が砕け、巨大な氷柱がそこから突き出てきた。
もし回避していなければ、それに押し潰されていたに違いない。
更に続けて、複数の氷塊が回避した先を目がけて飛来してくる。
「な、くっ」
朔耶はジンのように強化された肉体を駆使して、何とかそれを避けた。
が、回避速度を上回る間隔で連続するそれに徐々に追い詰められていく。
「しまっ――」
遂には不可避の氷塊が眼前に迫り、朔耶は思わず目を瞑ってしまった。






