足元に在るのが現在
俺は馬鹿だ。
何で今の今まで、気が付かなかった。
同じ家に住んでいて、同じ釜の飯を食っていたのに、どうして気が付かなかった。
悪性進化士生物レベル10、つまり、医学的な事は良く分からないが、つまり、悪性の腫瘍、癌みたいなものだろ。
しかも、どうして、健康診断を受けていない、お母ちゃんをダンジョンに入れて、レベルアップなんかさせたんだ俺は。
お母ちゃんは、宇宮市郊外の苺農家の長女として生まれ、高校を卒業した後、就職して葛生市にある、当時盛んだった縫製工場で寮住まいの、従業員として働き、職場の先輩で、おばあちゃんの年下の友人だった、川田雅子さんの紹介で、20歳の時に10歳年上の、お父ちゃんと結婚をして、翌年にはあんちゃんを生んだ、2年後に俺が生まれた。
俺が努力してテストの点数に結果が出せなくても、成績に反映されなくても、お母ちゃんは、一回も怒ったりしなかった。
勿論、あんちゃんと馬鹿な事を言ったり、馬鹿な事をやったり、騒がしくて五月蠅い時は、叱ったりすることはあったけど、少なくとも何かに夢中になったり、努力して結果に結び付けなくても、怒ったりした事はなかった。
小学1年生の時、頑張っても成績が上がらなかった時、お父ちゃんから平手打ちを貰った時、お母ちゃんは涙ぐみながら、お父ちゃんを叩いて俺をかばってくれた。
お父ちゃんにとって、お父ちゃんや、あんちゃんには出来て当たり前だった事を、下の子が出来ない事に、頭に来て思わず叩いてしまったのだが、
「どうして、勇次郎が努力している事を褒めないの! その後よく頑張ったな、今度はきっと良い点数が取れるよ、だから頑張りなさいって、褒めてあげないの!」
10歳年下の、お母ちゃんが本気で凄い剣幕で怒ったので、自分のした事に恥ずかしくて、そして目が覚めたと、大人になってから、お父ちゃんが酒の席で話していた。
中学2年の時イジメにあった時も、
「いじめられたりするのは、恥ずかしくないよ、お前は悪い事をしたわけじゃあないんだから」
「だから、いじめられたりしたら、必ず誰かに話しなさい」
そんな言葉に俺はどれだけ、救われたり、励まされたりした事か。
力による暴力から、無視に変わり、そして嫌がらせに変わった時、お母ちゃんは一人で職員室に押しかけ、校長先生に詰め寄り言った。
「あなた方にイジメがなくせないのなら、私が何とかするから、その子に会わせるか、親を呼びなさい、それが出来ないのなら、出来る人の所に行くまでよ!」
結局、相手の親達を交えて話をして、相手の親が普通の価値観を持っていたのもあるが、本人達からの謝罪をさせて、イジメはなくなった。
就職してチーフになって、店長からのパワハラを受けて、医者から鬱病と診断された時も、
「店長本人ではなく本社かもっと上の立場の人、労働組合の人に相談しなさい、仕事はそこだけじゃあないよ、」
と助言したりして、いつも俺の味方になってくれた。
お母ちゃんは、俺が誰かと結婚して、その孫が見たいと、最近はよく話してくれた。
俺は、そんな願いを叶えずに、今日まで来てしまった。
ステージ1とは言え、レベルアップした癌に、現代医学の治療法が利くとは思えない。
お母ちゃんが死ぬ? 嘘だ! そんなの嫌だ! 絶対に嫌だ!
俺のエゴかもしれない、だけど、俺は、お母ちゃんに生きていて欲しい、お母ちゃんに長生きしてほしい。
俺は、お母ちゃんが死ぬかもしれないと言う不安と、自分への不甲斐無さの怒りと、強敵への恐怖と、僅かに灯る希望とで心がぐちゃぐちゃだった。
そこにたどり着くまでの魔物達の動きが、いつも以上に手にとる様に分かり、1度も攻撃させずに、そこにたどり着いた。
俺の前には、真っ黒な入り口がある。
俺は今、混沌と怒りと冷静の、真ん中に立っている。
『スキル 明鏡止水』をてにいれました。
頭の中に流れる声を耳にしながら、
俺は部屋の中に足を踏み入れた。
男には大なり小なり戦わなくてはいけない時があるんです。
勇次郎にとっては今がその時。




