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星抱く鬼  作者: 守野伊音
9/13

9.極悪非道の老人より、愛をこめて






 ごとごとごとごと、世界が揺れる。車輪が小さな砂利を巻き込むたび、世界は大きくも小さくも揺れ、中にぎゅうぎゅうに詰め込まれた荷物が跳ね回った。きちんと固定されていても、細やかな揺れが揺れを呼び、結局全体を揺らしては馬車を軋ませる。

 身体を縮こまらせ、窮屈さと薄暗さに安堵するには、少々操縦が荒っぽい。


「そうかぁ、家出かぁ。俺も昔やったなぁ」


 馬車を繰りながら大笑いしているのは、行商人の青年だ。二十代半ばの男は、後ろで一つに結んだ黒髪を揺らしながら身体を揺らし、豪快に笑った。




 いろいろと調達しようと大きな町を訪れたはいいけれど、大きければ大きいほど整備がきちんと行き届き、中に入りづらくなっている門を遠目から見ているとき通りすがった男である。

 大きくなればなるほど人の行き来は多くなり、それに伴い治安も悪化していくものだ。だが、だからこそ治安を維持する為に門は強固さを増す。最低限、身分を提示できる物、村長なり町長の印が入った旅券が必要となる上に、門が一番、人の目が厳しくなる場所だ。

 どうしたものかと考えていたら、幌の馬車に荷をぎゅうぎゅうに詰め込ん男が声をかけてきたのだ。警戒しなかったわけではないけれど、クリツと相談し、何かあれば逃げるなら迎えうつなりするという結論で、男の言葉に乗ってみた。

 そろそろ、鬼の噂がどこまで広がっているのかの情報収集もしておきたかったのでちょうどよかった。




 むかし自分も、ヒナト達の年頃に家を飛び出したことがあると言う青年は、馬車の荷台に隠れればいいと自分から言い出した。とにかく早く家から出たくて飛び出した折りに、大人にずいぶん助けられたのだと。苦労話とも取れる内容をけらけら笑いながら話し、煙草をふかす。

 真昼の空に浮かぶ大きな雲を、男が吐き出した小さな雲が追いかける。


「だから俺は、若者の味方だよ。使えるなら大人使っとけばいいさ」


 荷物と一緒にぎゅうぎゅう詰めになったヒナトとクリツに、男はそう言ってにかりと笑う。

 汗避けなのか、麦わら帽子の下に更に手拭いを巻いている。つばの大きな麦わら帽子の下で日陰になっている男の顔は、深窓の令嬢のように白い。自分でも気になっているのか、煙草をふかしている反対側の手で自分の頬を撫でる。


「帽子ばっかかぶってるから白いんだよな。小麦色の肌の方が男らしいよな?」

「どうでもいいよ、そんなの。なあ、おっさん」

「おっさっ……!? あのな、少年。俺、レゼントって名前の、二四歳の青年でな?」

「そっか。でさ、おっさん」

「くそっ、何だよ!」


 荷物の隙間に縮こまっているけれど、さっきからささくれ立った籠が当たって痛い。ヒナトは足で籠を寄せた。隣で同じように座っているクリツは、幌の隙間から見える景色をぼんやり眺めている。ぼんやりしているようでいて、きっと最大限に気を張っているのだろうが。

 眠っているときでも、クリツは僅かな物音で目を覚ます。ヒナトの身動ぎだけでもぴくりと反応するくらいだ。

 馬車に積まれている荷は、衣服が多い。腐らず、欠けず、嵩張らず、重量も負担が少なく、人里であれば必ず需要がある。堅実な選択だ。


「どっかで鬼が出たって聞いたんだけど、あれってどうなったんだ?」


 本当に、嘘がうまくなった。そう思い、ヒナトは静かに微笑んだ。

 嘘をついちゃ駄目よ。嘘つきは泥棒の始まりだからね。そう教えてくれた両親に、向けられる顔はとっくに失った。


「ああ、そういえばそんなの聞いたな。地方の小さな町で出た鬼だろ? 確か、まだ逃げてるらしいぜ」

「へえ」


 やっぱり噂はもう追いついてきている。

 ヒナトはそう考えたことなどおくびにも出さず、にやりと笑う。


「鬼狩人も大したことないのな」

「はは! だよなぁ! お前達も気をつけろよ? 人が多い町だと、鬼の出現はそう珍しい物じゃなくなるからな。でもまあ、どうせ日々どっかで誰かが鬼になってるんだ。気をつけようがないよなぁ」


 煙草を銜えたまま笑う男は、身体をくるりと捻ってにやりと笑った。


「男のガキ二人組だとさ。お前らだったりしてな」

「かもな。情報提供したら報奨金でたっけ? だったら俺、自分で通報してくるけど」

「んなもんでねぇよ。そんなもん出しちまったら、金欲しさの嘘ばっかり集まってくる。鬼が出て危ないのは鬼狩人じゃなくて一般人の方だ。守ってほしけりゃ情報持ってこい、死にたきゃ持ってこなくていい。それだけのことだろ。ただし、虚偽の報告には罰則と罰金がつく。それだけで、大体まともな情報が入ってくるもんだ」


 珍しい言い分に、ヒナトは目をぱちりとさせた。それもそうだなと思うけれど、それを口に出す大人は珍しい。尖った言い方をすれば真実を言っていることには当然ならないけれど、口を濁し続けることが正しいわけでもない。

 子どもが尖った言い方をすればいきがっていると言われ、大人が尖った言い方をすれば危険思考の烙印を押される。だから集団から弾かれぬよう、少なくとも口に出す分はどんどん丸くなっていくものだ。実際の行動はどうであれ。


「ただでさえ、自分の嫌いな人間が鬼かもしれないなんて言い出す奴がいる世の中だ。自分が嫌う人間に嫌っていい大義名分をつけたがる奴に、金なんて褒賞見せびらかしたら収拾がつかなくなるだろ」


 胸が膨らむほど吸い込まれた煙が、輪を作って吐き出される。


「鬼だと噂を立てられて自害した人間だっている。どれだけ違うと言い募ったって、人は自分が信じたい事柄がそうである理由しか探さない生き物だから、一度広まった噂を覆すのはそれこそ死ななきゃ無理かもしれない。けどな、鬼は別に罪じゃないんだよ。あいつは鬼だなんて言われたって、死ぬ必要なんてなかったんだ」


 門が近づくにつれ、周囲が騒がしくなる。証明書となる旅券の用意を始める者、何らかの理由があって証明書を持たずヒナト達のように誰かに便乗させてもらえないか探っている者、慣れた様子で黙々と歩いている者、大きな町を前にしてはしゃいでいる者。そういった者達を相手取った商売に精を出す者。

 大きな町の紋の前では、様々な事情を持った統一性のない人間達がひしめき合っている。笑って、怒って、苛立って。嘆いて、わめいて、微笑む。

 なんてことのない当たり前の光景だ。どこにでもある珍しくもない風景の中に、どこにでもいる人間がいる。ただそれだけのことなのに、この中からだって鬼は生まれる。鬼は、どこにだって現れる。


「鬼の話ばかりが広まるけど、調べた結果責任があると判断されれば、人を鬼にした奴も罰せられるからな? お前らも人を鬼にするようなことはすんなよなー。罰は受けられても、鬼にした責任なんか誰も取れやしないんだから」


 ヒナトは、はっと鼻で笑った。


「どうして大人はすぐに説教臭くなるんだろうな」


 そう答えれば、男はぐるりとヒナトを向いた。大きな動作で煙が男に纏わりつき、一拍遅れて世界に散る。


「だよな!? 俺もそれ思ったんだよ! ガキの頃は鬱陶しいって思ってたのに、いざ自分がでかくなると、自分がうるさいのなんのって! なぁんで大人って子どもに教えたがるんだろうなぁ。自分が教えてることが正しいかなんて分かってないくせにな」

「詰まりすぎて外に出さないと腐りそうだからじゃね?」


 幌の中を覗きこまれても問題がないよう、上に荷物を積んでクリツを隠していたヒナトは適当に答えた。

 服だから上から詰んでもそんなに重くないだろう。けれど息苦しかったら駄目だし、何よりこんもりと詰みすぎて下に何かあるのかと疑われては本末転倒だ。慎重に積み上げてクリツを隠し、自分は適当に寝そべって潜り込もうと振り向けば、ぽかんと目を開いた男がいた。

 その口にくわえられたままの煙草から灰がほろりと落ちてようやく動き始めた男は、慌ててズボンから灰を払いのけ、その掌で膝を打った。


「成程! お前頭いいな!」

「おっさんが頭悪いんだろ」

「お前辛辣だよな……」


 肩を落とすと一回りは小さく見えてしまう男をもう見ず、ヒナトは床に寝そべり、適当に上から荷物を落として自分を埋めた。







 男とは、町に入ってすぐに別れた。一応礼にといくらか渡そうとしたけれど、大人ぶりたいからという謎の理由で断れたからありがたく礼金はひっこめた。

 大きな町は往来を行き交う人の波も桁違いで、誰も大きな荷を背負うクリツを気にする人間はいない。けれど一応大通りから外れた道を選び、食事できるところを探す。適当に腹を満たそうと考えると、店に入るより屋台のほうが手っ取り早い。

 屋台で違う種類を一個ずつ買い、半分にして食べる。ぺろりと平らげた後は、すぐに買い物に行こうとするクリツをヒナトは止めた。


「どうしたの? どこか行きたいところあった?」


 屋台を巡っている時、ベンチに置き去りにされた町案内を拾った。それを眺めていたヒナトは、にんまりと笑ってクリツの前に開いて見せた。ここ、と、声には出さず口と指の動きだけで示された箇所を目で追って、クリツはぱちりと瞬きする。


「図書館?」

「そ。行ってみようぜ。外部から来た人間に貸出はしてないらしいけど、読むのはできるし。こんな大きな町の図書館なんて、お前でも初めてだろ?」

「そうだけど……」

「行きたいだろ?」


 すぐに返事は返らなかった。クリツは俯き、ヒナトが手にしている案内の紙を見つめている。俯くと癖の少ない髪がさらりと前に流れてきていたけれど、今のように深く帽子をかぶっていれば髪はあまり動かない。帽子にしまわれなかった横髪だけがするりと落ちて、クリツの動きを知らせた。


「…………うん」


 俯いたまま小さく頷き、小さな小さな声で返事をしたクリツに、ヒナトはぱっと笑った。


「よし、じゃあ行こうぜ、くーちゃん!」

「…………は?」

「え? だって、鬼の噂がここまできてるなら、名前呼んじゃまずいだろ?」

「…………僕は、何て呼んだらいい?」

「ひーちゃんかな? ヒナちゃんだと女みたいだし」


 二文字使うより一文字のほうが元の名前を連想させないしいいかと思ったのだけれど、クリツは今一乗り気じゃない。


「……何で、くんじゃないの?」

「くーくんって呼びづらいじゃん」

「…………そうだね」

「くっちゃんにする?」

「くーちゃんでいいよ」

「そう?」

「ひっちゃんって呼びづらい」

「だよなぁ」


 ヒナトはクリツの手を取り、図書館を目指して歩き始めた。引っ張られたクリツは、ここまでずっとヒナトを抱えて山を走り抜けてきたとは思えぬ軽さで、されるがままヒナトについてきた。

 クリツはいつだってヒナトの手を振り払ったりしなかった。鬼となった日でさえ、手を取ろうとはしなかったけれど、伸ばした手を振り払おうとは決して。だからヒナトはいつだってクリツの手を取って走った。転んだクリツに、蹲ったクリツに、泣き濡れて立てなくなったクリツに手を伸ばし、繋いだ手を引き続けてきた。

 いつだって。いつまでも、そうしていくと。

 けれど、いつまでこうしていられるのか。

 寝静まった深い深い夜、目を覚ませば、必ずヒナトの胸に頭を乗せて耳をつけているクリツの手を、いつまで引いていけるのか。

 もうずっと、そんなことを考えている。

 クリツがまだ鬼ではなかった最後の日を思い返しながら、もう、ずっと。






 横に長く、一段一段が低く浅いけれど、とても広い階段を登り切った先に、静かな入口が口を開けている。中に入れば、しんっと静まり返った広い部屋に埃っぽい匂いが蔓延しているのに、入ってきた人間は満足感ある顔で吸い込んでいた。

 紙と、インクと、埃の匂い。教師であった父親の部屋の匂いと、よく似ていた。


「じゃあ、二時間後にここに集合な」

「うん」


 図書館に入るなり、クリツは目に見えてそわそわし始める。ヒナトといる時以外単調な光だけを宿していた瞳には、いっぱいの本と同じくらいいっぱいの光が輝いていた。

 ヒナトとクリツの身長を足したって届かない大きな本棚には、みっちりと本が詰まっている。等間隔で設置されている梯子を見上げる。本を選びに行ったクリツが山を抱えて帰ってくるのを待って、ヒナトはその場を離れた。




「あの、すみません」

「はい、何でしょう」


 丸い眼鏡をかけた人の良さそうな老人は、ずり下がっていた司書の印が入った腕章を直しながら振り向いた。小柄な自分よりも小さなヒナトの姿を見るために視線を下ろし、くしゃりと笑う。


「何をお探しでしょうか?」

「鬼について書かれた本ってどこにありますか?」

「おや、鬼ですか。若い子が探すのは珍しい」

「宿題で、調べなくちゃいけなくて」

「それはそれは、なかなか通な教師ですね。こちらですよ」


 広い館内を、迷いもせず進みだした老人の後をついていく。奥に行けば大きな階段があった。老人はそこを下りていくから、どうやら下にも部屋があるようだ。

 下りた先には、上と変わらない光景が広がっていた。老人が言うには、まだ下に部屋があるそうだ。荷物の運搬をするから、階段も幅が広く大きくないと困るという。そんな、聞いてもいないことを嬉しそうに教えてくれる老人に案内されて、目的の場所に辿りついた。


「鬼が出てくる小説はこの本棚から向こう、鬼について研究された本はこの向かいの棚。鬼狩人についての本はこの棚の三段目から上ですよ」

「ありがとう」

「ふふ、お役に立てて光栄ですよ。お勉強、頑張ってくださいね」

「うん」


 にこにこ笑う老人に礼を言い、ヒナトは説明を受けた棚を見上げた。

 さて、どれから手をつけようか。鬼狩人の棚を見上げたヒナトは、何冊か引き抜き、誰もいないのをいいことにその場に座って目を通し始めた。

 どのくらいそうしていたのか。何冊目かの本を棚に戻したとき、目の端に入った名前に動きを止めた。

 作者の名前に見覚えがある。


「この名前……」


 今まで読んだ本に何回も出てきた名前は、鬼狩人の総本山、神院の創設者だ。

 もう百年以上も昔に死んだ人の書いた本は、随分と古くぼろぼろだったけれど、丁寧な司書がいるからか、崩壊することなく簡単に手に取れる場所で誰でも読めるようになっていた。


 本の題名は、『鬼』。

 その一文字だけだった。









 まず最初に、何より私が告げたいことがある。

 それは、鬼とは決して恐ろしい存在ではないということだ。

 鬼となる人間は、情が深く、心優しい人間である。そして必ずと言っていいほど、大切なものを踏みにじられて鬼となる。そんな人間が、恐ろしい存在であるものか。

 鬼は、悪人が生み出した業を背負わされた悲しい人間だ。

 誰より愛情深いが為に、それが裏返った時の感情が境界を越えてしまうほどに。



 だからどうか安心してほしい。

 些細なことに目くじらを立て、通りすがりの人間に眉を顰め、噂を鵜呑みにして他人を罵倒するような、安い嫌悪と侮辱を撒き散らす人間は、決して鬼にはならない。

 そんな薄っぺらい嫌悪ではない。安っぽい侮辱ではない。

 人の喜びに水を差し、人の損を喜び、人の不幸を尊び、人の行動を貶し、人の人生を嘲り、人の容姿を嗤い、人の夢を侮辱するような人間も、悪意で蒔かれた種に面白半分で水をやる考えなしの人間も、悪意を撒き散らすことにしか執着するもののない寂しい人間も、己が鬼になる心配などする必要はないのだ。

 そんな人間は、他者を慮り、他者の為に心を痛め、砕き、他者の幸福を祈ることなどないのだから、鬼になれるはずがないのである。



 鬼にとって、鬼となった原因となる存在は唯一だ。その感情が全てを凌駕するほどに深く深く愛したからこそ、鬼となる。

 鬼とは、誰よりも優しく、悲しい生き物だ。

 鬼は救われなければならない。

 誰より人を愛した人間から排除されていくなどあってはならないことだ。



 鬼を救うなどありえない。鬼は人ではないのだから排除されるべきだ。お前はおかしい。私達を殺す気か。この殺人鬼め。

 そう言って、神院に火をつけ、職員に石を投げ、ありもしない私の不正を叫び、拳で、言葉で、容赦なく殴りつけるような人間が当たり前に社会に残り、鬼となるほど誰かを愛した人間が弾かれていくことを、私は許せない。

 だが、そんな人間達のおかげで、どんな嵐に遭遇しても、心折れず、投げ出さず、絶対に負けてなるものかと歯を食い縛ってこられた。私は、負けず嫌いの意地っ張りなのだ。逆に誰からも興味を持たれず、淡々とした日々であったのなら、どこかでこの熱意の火は消えていたのかもしれない。

 若い頃は、あまりの理不尽さに頭が沸騰しそうであった。私の不幸を願う人間の不幸を願いたくなった。だが、どう足掻いても鬼になっていない自分を考えると、私はどうやら優しい人間ではないらしい。だが、それでいいのだろう。優しい人間と、優しくない私のような人間は、きっと成すべきことが違うのだから。

 私の悪評を散々言いふらし、家に、神院に放火し、郵便受けに死骸を放り込み、腐った卵を投げつけてきた諸君。

 どうもありがとう。願わくば、君達が私へのどうでもいい嫌悪を考える暇もないほど、幸せな人生を送ってくれればいい。

 ただ、私の妻に焼けた油を投げつけた奴は絶対に許さないのでそのつもりでいるように。幸い、こんなこともあろうかと鉄の鍋を持っていた妻は無傷で済んだが、そういう問題ではない。地獄に堕ちろ、くそ野郎。





 本来ならば、これは私個人がすべき事柄ではない。国が、町が、社会が、全ての人間が理解し、意思を持って成すべき事柄である。だが、今の時代にそれは難しい。

 だから私が成そう。家族に、親しい知人に、生まれ育った町にただ一人として鬼が出なかった私が神院を建てたその意味を、諸君らは恥じ入るべきだ。




 私の身体を蝕んだ病は、そろそろ私の命を喰らい尽くすだろう。

 鬼に救いをと言い始め、私の人生は一変した。



 どうやら私は、人を殺すことに快楽を覚え、貴族に賄賂を送り、人の女に手を出し、孤児を憂さ晴らしに殴りつけ、人の肉を食し、老婆を轢き殺し、孤独な老人に唾を吐きかけ、未亡人から金を騙し取り、屋台から団子を盗み、ツケを踏み倒し、見も知らぬ人間の悪口を広め、女のスカートをめくり、通りすがりの人間の足を引っかけ転ばせ、行ったこともない町の家に火をつけ、鶏を殺し、犬を蹴り、子どもにずるを教え、好いた女の髪の毛を引っ張り、自らの頭は禿げあがり、歯と腹が出っ張り、脂下がった汚らしい男なのだそうだ。



 全体的に、少々適当じゃないか、もっと頑張れと言いたくなるような並びであるが、それが世間一般での私の評価だと、毎日山ほど届けられる刃物の破片入りの手紙には書かれている。

 それについては、今まで黙っていたがそろそろ時効だろうから言わせてほしいことがある。

 実は、私の掌の皮は面の皮と同じく非常に厚いので、この程度の破片では傷がつかない。炊きたてのもち米を反し続けても火傷を負わないほどだ。

 君達が入れてくれた破片は、手紙の封を切るのに大変役立っている。どうもありがとう。おかげで鋏いらずの人生だった。一々鋏を探さずに済んで大変ありがたい。痒いところに手が届いて助かった。


 それは置いておくとしても、そのような罪状で罵られる私の人生は、実に多くの人と共にあった。

 最早死を待つばかりの私の病室では、毎日笑い声が絶えない。鬼になったことのある人間が、私の最期を聞きつけて会いに来てくれるのだ。友人を連れ、親を連れ、伴侶を連れ、子を連れ、ここに来てくれる。

 私には子がいなかったが、と、書けば収まりもいいのだが、残念というべきか、私には子も孫も実に多くいる。張り切りすぎだと言われるほどに山ほど存在する。おかげで、私の病室は毎日子守りを押しつけられた子ども達で満員だ。

 せっかく会いに来てくれた皆に、すまないが出窓に座ってくれたまえと伝えなければならないのは心苦しいが、来訪は大変嬉しく思っている。本当だ。君達が持参してくれた見舞いの菓子を、子や孫や、君達自身が平らげてしまうのは大変不満ではあるが。

 医者は止めるが、一口くらいくれてもいいのではないだろうか。駄目だろうか。そうか、駄目か。



 鬼に関わった人間は皆不幸になると、したり顔で言う者がいる。

 さてこれが、今世紀最大限に鬼と関わった人間の末路である。


 私の人生は、実に平凡に始まり、実に幸せに終わろうとしている。

 多くの嘆きを見た。多くの怒りを見た。多くの憎悪を見た。多くの不幸を見た。多くの涙を見た。

 多くの嫌悪を受けた。多くの嘲りを受けた。多くの罵倒を受けた。多くの暴力を受けた。多くの理不尽を受けた。多くの虚偽を受けた。



 そして、多くの幸を得た。



 優しく美しい妻。愛らしくもずる賢い子ども達。無邪気に私の菓子を奪っていく孫達。

 私の病に泣いてくれた友人達。私の願いの為に共に戦ってくれた同志達。

 私に、溢れんばかりの幸福の形を見せてくれた、かつて鬼だった優しい人達。



 君達が、君達こそが、私の幸だった。



 鬼の諸君。

 もしこれを読んでくれているのなら、どうか安心してほしい。

 君は誰より優しい人間だ。鬼となったことを恥じる必要などどこにもない。それは、君が自分よりも何かを愛した証明だ。

 神院は、君達を守る為にある。守り、支え、君達の行く末を補助できれば、最高の幸せだ。

 鬼狩人は、君達を必ず見つける。君達がどこに逃げようと、隠れようと、必ず追いつくから、どうか一人にならないでくれ。一人で消えてしまわないでくれ。君が抱えた愛を後悔したまま、嘆きに沈んでしまわないでくれ。

 できるなら私が迎えに行きたいが、私の身体はもう動かない。だが、私の心を継いでくれた者達が、必ず君を迎えに行く。

 大丈夫だ。大丈夫。

 大丈夫だよ。

 君の優しさに、世界は必ず応えてくれる。世界が応えないのなら、私達が応えさせてみせる。

 君の愛を、哀のまま朽ちさせてはいけない。君の愛が息絶えてしまう前に、必ず迎えに行く。

 願わくば、君の生が私と同じほど色鮮やかで、溢れんばかりの幸に埋め尽くされんことを。



 世界で一番優しい人間に愛をこめて。





 極悪非道の老人より










 薄暗く埃っぽい建物から一歩踏み出せば、からりと晴れた空の下、賑やかな声が飛び交っている。

 図書館の周辺では蚤の市が開かれているのだ。帰りに覗いていこうとの約束を破って先に出てきてしまったヒナトを、クリツは怒るだろうか。


 ポケットに手を突っ込み、下を向いて人ごみを縫う。

 服、家具、子どもの玩具。置物、絵、靴、本、食器。

 何でも並ぶ店がずらりと連なる。立ち止まり、指さし、人々は楽しそうに声を上げた。友達と、親と、子と、恋人と連れ立って。一人で見ている人も、小さな可愛らしい花瓶を手に持って嬉しそうに微笑んでいるから、それを飾る我が家のことでも考えているのだろう。


 次から次へと流れていく人を縫い、ヒナトは歩を進めた。別に、何か用事があったわけではなかった。クリツを置いて一人で見に来なければならない理由などどこにもない。

 けれど。


「どうしたもんかなぁ」


 靴先を見つめても、空を見つめても、答えなんて書いているわけがない。

 気づいていなかったのは、多分本当だ。それなのに、最初から気づいていたような気もする。

 用意をしていなかった朝食用の米も、着せられていたクリツの服も、鬼となったクリツが、何かを確かめようとしていたことも。

 そもそも、クリツが鬼となったことが、全ての証明だ。

 ヒナトの自惚れでも何でもなく、それが全てだ。


 俯いて、両手で顔を覆う。

 ああ、嫌だ。嫌だよ、クリツ。

 俺は、そんなものになりたくなかった。俺は、お前の運命になんてなりたくはなかったよ。





 どのくらいそうしていただろう。立ち止まったヒナトを邪魔だと一瞥していく人間もいれば、具合でも悪いのかと視線をやっていく人間もいる。だが、誰も彼もが他人だ。誰にどう思われても構わない。大事なのは全て、ヒナトが感情を向ける先はもうたった一つなのだ。


「……そういえば、あの本、結局最後はどうなったんだったかな」


 クリツが好きだった本、星の旅人。

 随分昔に読んだから、色々曖昧だ。せっかく大きな図書館にいたんだから探してみればよかった。それとも、知らないほうがいいのだろうか。

 俯き、剥き出しになった首元にじりじりと日が落ちる。暑さも不快感もそれほどではないのに、意識し始めると耐えられなく思えた。

 顔を上げ、再び歩き始めたヒナトは、すぐに足を止めた。

 市の一角に楽しげに笑う親子がいた。店を出しているらしく、並べられた商品より奥に座り、遅い昼を取っている。店には、古い机、椅子、女物の髪飾り、木でできた犬の玩具。色んな物があった。

 ヒナトと同じ年ほどの少し太り気味の子どもが口いっぱいに握り飯を頬張り、布巾を差し出している父親と、水筒から飲み物を用意している母親がそれを見て笑っている。


 顔が、歪む。

 自分の口角が上がっていくのが分かったが、止められない。目尻にも力が篭り、頬は引き攣る。


 大事なものは最早一つだけだった。

 感情を揺らす先は、もうクリツに関することだけだった。



 だけど。




「父さんが作ってくれた…………俺の、おもちゃ」




 人ではなくなった今になって、人であった最後の欠片を見つけるなんて。

 人生とは、なんて馬鹿げた話でできているのだろう。










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