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星抱く鬼  作者: 守野伊音
7/13

7.神と鬼




「すげぇな、これ。土砂崩れっていうより山津波だな」

「本当だ。山が壊れたみたいだ」


 クリツにおぶわれたまま、ひょいひょいと足場の悪い地面を進んでいく。地中から転がり出た大きな岩の上に飛び乗ったクリツが足場を確認するために止まったので、やることのないヒナトは周囲をのんびり眺めた。

 一本道に土砂崩れ、という話だったから、てっきりそこしかない道が埋まって難儀してしまったのかと思っていたけれど、想像よりもずっと範囲が大きい。街道程の広さはなくとも、それなりの大きさがある道が長距離に渡って流されている。分断されたというより、一部が根こそぎ消失したと言ったほうが正しく状況が伝わりそうだ。

 何日前に崩れたのかは知らないけれど、未だどろどろと土が流れているのは、あちこちから噴き出す熱水のせいだろう。

 大量の岩と泥と熱水に絡まった草木。これ、再建できるのだろうか。ここに来るまでに、大量の土嚢と木材、切り出された石に機材を見かけたので、本気で修復するらしいけれど、実際に現状を見れば惨状にしか見えないので、これ、工事でどうにかなるものかと、無関係の自分でもちょっと心配になってしまった。



「ここまで酷いなら、いっそ廃棄しちゃえばいいのにな」

「直した方がいいと判断されるくらい実入りがよかったんじゃない?」

「あー、かもなぁ。町も勢いがあったし、地元民の都合とか、旅人狙いの小銭稼ぎかと思ったけど、もしかして観光名所にしたいのかもな。力入ってるもんなぁ」


 大々的に売り出して、もっと人を集めたいのかもしれないけれど、この規模の山津波が起こった場所は危ないのではないだろうか。だが、それを決めるのはヒナトではないし、危ないんじゃないのと口を出す権利もなければ、その気もない。

 いま大事なのは、自分達が利用できる状況にあるかどうかだ。


「使えるといいな、温泉」

「これだけ湯量が豊富なら、施設が使えなくてもちょっと掘ったら出てきそうだね」

「それもいいな。最終手段にしよう」

「うん。行くよ」

「おう」


 クリツは、目測で定めた足場に次から次へと飛び移っていく。危なげなく進んでいく様子に心配はいらないと再度確認すると、ヒナトはちょっとだけ身動ぎして肩紐の位置を僅かにずらした。


 飛び出す熱水は、今が冷え切った冬でもないのにもくもくと白い煙を噴き出させ、実際に触れてみなくても触れられない温度だと分かった。独特の香りは、食べ物が発していたら腐敗を心配して即処分なのに、水が纏っていたら喜ばしいものとなるから、世の中って分からないものだ。

 触れれば火傷を負う熱水があちこちから飛び出しては、土が乾く暇もなく泥にして流し続けている。それなのに、足元をちっとも汚さず飛び越えていけるクリツは凄いなぁと、ヒナトは欠伸した。



 広範囲にわたって流れてしまった道を越えてもクリツはヒナトを下ろさず、どんどん山を登って進んでいく。道はきちんと整備されていたし、ぽつりぽつりと存在する案内看板のおかげで道に迷うことはない。道中には休憩小屋もあったし、小屋の隅には屋台があった。これは、本格的に観光源にするつもりだったなと当たりをつける。


「何の屋台だったんだろうな」

「ヒナトは何がよかった?」

「金があったら肉。なければ饅頭……団子もいいなぁ。冬なら汁粉! ぜんざいはなんか咽ちゃうんだよなぁ」

「小豆は喉にいいんだけど、皮が引っかかっちゃうよね」


 人っ子一人いない屋台を指さしながら、ああだこうだと話していれば、あっという間に目的の場所に辿りついた。

 綺麗に整備された広い道と、手の入った小屋と屋台に導かれた先には、思った以上に大きな建物があった。個人が道楽でやっているのではない。明らかに商業目的で建てられた施設だ。

 巨大な塀がぐるりと周囲を囲み、周囲と旅館をきっぱり分けている。見上げるほど高い門は固く閉ざされ、中の様子を窺うことは出来ない。門の外から見えるのは、塀より高く聳えた旅館の三階以上と、その間で先っぽが揺れている竹の葉だけだ。門から旅館まで少し距離があるのだろう。

 そういえば、ここにくるまでも竹を多く見た。やはり昔から地面が緩いのだろう。だから竹を植えていたのだろうが、それでも持たなかった道を見てきた身としては、もうここは諦めたほうがいいと思う。




「金持ちが好きそう」

「普段の様子が分からないと何とも言えないけど、静かなら好むんじゃないかな。入るよ」

「うん」


 固く閉ざされた大きな門でも、鬼を止めることは出来ない。そして、大事なものがクリツだけになってしまったヒナトの道徳に訴えかける抑止力にも、当然なりはしないのだ。

 あっさりと門を飛び越えて中に入ったクリツは、そこでようやくヒナトを地面に下ろした。鞄の重さに引っ張られてよたよたと後ろに下がっていくヒナトの腕を掴み、鞄を引き受ける。


「凄いな。季節分かんなくなる。桃源郷ってこんなとこ?」


 細長く固い竹の葉がしゃわしゃわと鳴り響く中を、花びらが流れていく。人の手から離れたばかりの庭には、客を楽しませるためにと植えられている草木が所狭しと花を咲かせていた。本来ならば見栄を考えて摘まれていたはずの花も、与えられていた肥料と手入れの力のまま好き放題に咲いている。ぎゅうぎゅう詰めの花が重たそうに枝を揺らし、地面には散った花びらが敷き詰められていた。

 このまま人の手が入らなければ、ほとんど枯れてしまうだろう草花は、養分を蓄えることもせず今さえよければそれでいいと全ての生命力を使って咲き誇る。一際強い風が駆け抜ければ、葉も花びらも全て一緒くたに巻き上げて空を舞い、青い葉と、甘い花びらと、少しすえた土の匂いを掻き混ぜた。


 一枚だけそのごちゃまぜから弾きだされた花びらが、空高く飛び上がる。暗くなった空はすぐにその花びらを飲みこんでしまい、どこにいったか分からなくなった。

 なんとなく見上げて探していると、クリツが腕を引いた。


「ヒナト、温泉、行かないの」

「おう、行く行く。受付の人なんていないし、自分で場所探すしかなさそうだな。水音するほうに行けばいいのかな」

「たぶん。あの湯量だと恐らくかけ流しだろうし」


 あっちから聞こえると、腕を引かれるまま歩き出す。確かに耳を澄ませば微かに水音がする。けれどヒナトには、風が通る度にざざと流れていく竹の葉の音が大きくて、よく聞こえない。なんとなくもう一度振り返ってみる。花と葉が入り混じる風が、この世の物とは思えぬほど美しかった。







「あー、いい湯……」

「熱くない?」

「ないない……あー……気持ちいー……」


 縁の岩に腕と顎を置き、ヒナトは開けっ放しにしている口から気の抜けた声を垂れ流す。

 クリツが示した方向には、確かに温泉があった。けれどやけに水音が大きいと思ったら、温泉は川と合流していた。熱い源泉が川の水と混ざり合うことでちょうどいい温度になる場所を囲い、商業として利用していたのだろう。屋内にいるのか屋外にいるのか、境界があいまいだ。まるで川で風呂に入っているかのような状況に、ヒナトは小さく笑う。温かい川だったら、冬でも惨めな思いをしなくて済んだなと苦笑して、温かな湯を両手で掬った。


 だだっ広い浴室は、一体何十人が一斉に使うことを望んで作られたのか。いっぱい客が入ってたら、そう望んだ人は嬉しいだろうなと言えば、たぶんお金のある人は別の浴室だよと何でもないように返された。夢も希望もなかった。金は風呂場まで差別する。


 いつの間にか烏の行水になってしまった癖のまま、ちゃっちゃと身体を洗って湯に飛び込んだヒナトとは違い、クリツはまだ髪を洗っている。

 岩の上に腕を、腕の上に顎を置く。足の爪先を湯の中で遊ばせながら、その背中を眺める。白く薄い背を流れる水に、目立った色はない。けれど、流れきらず足元に留まっている水には、薄らと影にも似た色が混ざりこんでいる。ぱっと見ただけでは服しか汚れていなかったように見えたけれど、やはり身体にも付着していたのだろう。特に髪は元来の色に混ざり合って、血がついていても分からなかった。分からずとも、おぶわれていたヒナトには分かっている。鼻につく鉄錆びの臭いは、クリツには酷く不釣合いだったからだ。

 早く流してしまえ。そんなもの、お前が纏っているべきじゃない。足元で滞っている色に、胸の中がむかむかしてきた。桶の中いっぱいに湯を汲むと、そぉっと湯から出る。


「とぉ!」

「うわっ!」


 たっぷり汲んだ湯を、クリツの後ろから思いっきり引っかける。石鹸の泡と湯に混じった影が一斉に散っていく。


「ヒナトっ!」

「あはは!」


 髪が顔面に張り付いたクリツがそれらを払うより先に、空っぽになった桶を捨て置き、すたこらと湯の中に戻っていく。大人の目どころか、他人の目は一切ない。だからヒナトは、十三歳の身体には少し深い湯船に飛び込もうとした。


 しかし、がくりと身体が止まる。

 ヒナトの肘を掴んだ手は、決して後ろに引っ張ったわけではないのに、腕が抜けてしまうと錯覚するほどの硬さが篭っていた。

 腕を掴んだクリツは何も言わない。ただ、じっと腕を掴んでいる。なんだと首だけで振り向けば、真っ先に見えたのは赤い角だった。

 ぎりっと掴まれた肘から、骨が砕かれそうな本能的な恐怖が湧き上がる。


「クリツ、痛い!」


 もう一度叫べば、ようやく気付いたクリツが目に見えて動揺した。ぱっと手を離した勢いで床にすっ転ぶ。べたりと尻もちついたクリツに驚いて慌てて振り向く。呆然とこっちを見上げている瞳に、肘の痛みを無視して肩を竦める。


「そんな怒ることないだろ。お前が遅いから、手伝ってやったのに」

「違う!」


 どこか切羽詰まった形相に、ヒナトは首を傾げた。


「どした?」

「ヒナト、君、背中と太腿の痣、何。どうしたの」

「痣ぁ?」


 そんなもの気にすることでも無かろうに。呆れつつ、身体を捻って背面を確認する。だが、よく見えない。仕方がないのでさっき捨て置いた桶を拾い、今度は川の水を汲む。さっきまでクリツが身体を洗っていた場所までぺたぺた歩き、前面に設置されている鏡に向けて水をぶちまける。

 曇りが取れてくっきり映し出したのを確認して、背を向ける。首だけ鏡に向かい直し、痣を探す。確かに、両肩と尻の下、太腿の裏面に濃赤の痣がある。痣になるかもなぁと思っていたけれど、やっぱりなったかという感想しかない。


「鞄の重さが増したから、肩紐と手が痕になっちゃっただけだ、よ……クリツ?」


 なんだこんなことかと拍子抜けして戻した視線の先には、まだ尻もちをついたままのクリツが愕然としていた。薄く開いた唇は真っ青になり、かちりと鳴ったのはまさか歯の音か。

 さっきの何倍も慌てて走って戻る。


「おい、クリツ!?」


 まだ湯にも入っていないのに湯当たりしたのかと肩を掴むと、恐ろしいほどに冷え切っていた。湯当たりどころか凍えそうな冷たさに、慌てて湯の中に引きずり込む。


「なんっ、おい、大丈夫か!? あれ? 湯に入れないほうが良かった? いや、でも、お前何、いきなり、なあ!?」


 肩まで沈ませても青褪めたままのクリツに、ヒナトも一緒に青褪める。固く強張った肩を擦り、血の気が失せて紫色になった爪にぎょっとして手を握った。


「クリツ!」


 そもそも息をしているのかさえ不安になるほどぴくりともしないクリツに、頬でも叩くべきかとおろおろしていたヒナトの前で、ようやくクリツの目蓋が一度瞬いた。瞬きも止まっていたのかと気づいた瞬間、ぐわりと咢が開く。


「ヒナト!」

「うお!」


 さっきまで必死に呼んでいたのはこっちなのに、それには一切答えず、クリツはもう一度ヒナトを呼んだ。怒鳴りつけられる謂れはないと怒鳴ろうかと思ったけれど、何故だか、今にも泣きだしそうな顔をされては、ヒナトは黙り込むしかない。


「鞄は、僕が、持つから。やめて、ヒナトは持たないで」

「そんなこと言ったって……俺どこに乗ればいいんだよ。お前と鞄がひょいひょい先行っちゃったら、俺寂しくて泣くぞ」

「鞄は、抱えていく。だから」

「前見えなくなるぞ」

「じゃあ、ヒナトを抱える。だから、やめて。お願い、お願いだから」

「やだよ、そんな。この歳で抱っこなんて、みっともないじゃん」

「お願い、嫌だ、僕が、嫌だ。お願い、お願いだから、ヒナト、お願い」


 元から、ヒナトが怪我をすれば悲しそうな顔をする奴だった。転んで擦りむけば、栄養が足りずに爪が剥がれれば、クリツの兄に殴られれば、悲しくて悲しくて堪らないとぐしゃりと顔を歪めて泣いてしまうような奴だった。

 けれどこんな、彼の優しさが滲みだした悲しみではなく、恐怖に彩られた切望は知らない。





 お前、何を見た?


 喉元まで出かかった問いを、ヒナトはすんでのところで飲みこんだ。

 何かは、あったのだ。分かっている。だってその何かがなければ、クリツが鬼になんてなるわけがない。鬼になる理由は、きっとそこらじゅうに転がっていた。けれど、今まで、ならなかった。全てが降り積もった限界が来たのかもしれない。もう全てに嫌気が差して、投げ出したくなったのかもしれない。

 じゃあ、その投げ出したくなった何かは何だ?

 何でもないことだった? いつも繰り返されることに耐え切れなくなって、爆発した?

 違う。だってそうなら、クリツはヒナトにそう言う。何でもないと、何もなかったと言っても、ヒナトが確信を持って問えば、必ず応えた。

 だけど、今のクリツは違う。

 絶対に口を割るつもりがない、頑なな意志がある。言いたくないのか、言えないのかは分からない。どちらも変わらない。クリツは、ヒナトに喋るつもりがない。ヒナトが既に知っていることなら、クリツはそう言ったはずだ。そのクリツが口を噤んだままということは、原因はヒナトの知らない何かだ。

 何かは確実にあった。だって、ヒナトの友達はとても思慮深いのだ。そして、とても優しい、気のいい奴なのだ。その彼が、誰より優しい彼が、力を選ばなければならない酷いことが、あったのだ。

 ヒナトと別れた後に、ヒナトの知らない夜に、何かがあったのだ。


「……いいよ」


 飲みこんだ全てを胸の中に止め、ヒナトは了承だけを口にした。目の前では、濡れて額に張り付いた髪の毛と、四本の角が揺れている。いつの間にか俯いていたクリツがぱっと顔を上げる。長い睫毛の上に乗った雫が散り、まるで涙のようだと思う。湯の中で固く握りしめられていた拳が、身体の動きでたわんで見える。


「爪、長いまんまだったらそんな動き出来ないから、短くしてよかったな」


 そんな軽口に、クリツは唇を戦慄かせた。何かを言おうとしたように見えた。けれどすぐに閉じられた唇が次に紡いだ言葉は、小さな礼だった。

 消え入りそうなありがとうに苦笑して、剥き出しの肩をばしりと叩く。湯の中に浸かっているのに冷え切った温度に触れて苦い顔をしそうになった。


「運んでもらうのは俺なのに、なんでお前が礼言うんだよ」


 変なの、と、からから笑えば、クリツはやっぱりぐしゃりと唇を歪めて何かを飲みこんだ。

 





 食事は、日持ちのしない物からが鉄則だ。だけど、この日は禁を破る。日持ちのしない物も、する物も、全部一緒くたに食べたいものから食べた。だって、今日は二人の門出だ。旅の出発地点。好きなものをお腹いっぱい食べて、どうでもいいことで踊って、笑うのだ。

 実は、食堂に缶詰がいっぱいあったからなんて理由も、ちょこっとお邪魔している。



 腹が満たされれば、客室の布団を勝手に拝借した。大広間にあるだけ並べたから、どこで転んでも痛くない。一面に広がった布団の上をごろごろ転がる。一緒に昼寝したことはあるけれど、それは山の中だったし、屋内で一緒に寝るのは初めてだ。本当に家族みたいで、くすぐったくて堪らなかった。ヒナトが、兄弟がいれば一緒にしたいと思っていたことは大体クリツが叶えてくれた。

 ここは枕投げでもするべきかと思ったけれど、疲れていたのか、一緒にごろごろ転がって遊んでいる内に、いつの間にか眠ってしまっていた。



 大事なものが集約されてしまったヒナトには、もう友達と家族の境界線が分からない。大事なものは、大事なものだ。その呼び名が家族であるか、友達であるかの違いだけで、それすらもどうでもよかった。大事だった家族はもういないし、大事な友達は彼一人。

 ヒナトにあるのは、他人と大事なもの、だ。大事なものなら全部ごったまぜにしてぐつぐつ煮込んで、全部ぺろりと飲みこむ。他人は、口に入れるどころかそもそも手に取ってみさえしない。極端な自覚はある。歪んでいる自覚も、人として何か大事なものが壊れている自覚も。

 でも、どうでもいいのだ。壊れていようが狂っていようが歪んでいようが、何でもいい。ヒナトの大事なものが壊れないなら、狂わないなら、歪まないなら、どうでもいい。だって、そうだろう。ヒナトだって歪みたくはなかったけれど、歪んでしまったのなら仕方がない。もう歪んでしまったほうが、次の歪みも引き受けて、大事なものをまっすぐのままにしたいじゃないか。

 ああ、それなのに。どうしてなのだろう。一夜で全てが歪んでしまった。ヒナトの一等大事な、たった一つだけ大事な存在が、どうして鬼に。

 もう、ヒナトにはクリツしかいなかったのに。他に大事なものなんて何もなかったし、要らなかったのに。どうして、たった一つが。




 温かく息苦しい重さに、ヒナトは目を覚ました。

 見慣れぬ天井を見上げてもぎょっとしなかったのは、背中を覆うものが全てふかふかだったからだ。まだ両親が生きていた頃は、こんな布団で毎日眠ったなと、ぼんやり思い出す。

 晴れの日は毎日お母さんが干してくれたふかふかの布団は、全部持っていかれてしまった。でも、彼らが出発してすぐに雨が降ったから、布団は台無しになってしまったはずだ。ざまあみろ。どうせ男の子のお前は使わないから、使ってもらったほうが物もお母さんも喜ぶよなんて、そんなもっともらしい理由で根こそぎ持っていかれた母の服も、駄目になってしまったらいいんだけどなと思った記憶が、何故かぼんやり浮かぶ。


 しんっと静まり返った大広間。いつの間に眠ったのかは記憶にない。そこら中に敷き詰めた布団の中で大の字になっている自分。じゃあ、クリツはどこか、なんて心配はしなかった。

 自分の胸の上に、見慣れた丸い頭が乗っていたからだ。耳をぺたりと胸につけ、張り付いたみたいに乗っかった頭。腹のほうにも温もりがあるから、恐らくは掌も付けているのだろう。


「なあ、クリツ」

「……何、ヒナト」


 規則正しく上下する動きが見えなかったから、起きていると思っていた。


「服屋の婆さんがさ」

「うん」

「鬼は、神様を捨てちまった奴だって言ってたんだ」


 胸の上にあった温もりが動きを止めた。一拍待つと、胸の上に乗ったまま、頭の向きが変わる。下に向いているほうの角が刺さらないよう適度に修正されて、こっちを向いた瞳をじっと見下ろす。同じ高さにいるのに見下ろすなんて変なのと、思う。


「俺、考えてもよく分かんなくてさ。神様を捨てちまったから、罰で鬼にされたって意味じゃないんだろ?」

「…………ヒナトは知ってるよ。知ってて、選ばなかったんだ」

「クリツが知ってることを言葉にするの得意だって、俺は知ってるよ」


 思ったこと、知っていること。それらを理解しているのと、実際に言葉に出来るのとは全然違う。本を沢山読んでいるからか、クリツは感覚を言葉にするのがとてもうまかった。おぼろげに感じていたものでも、クリツは綺麗に言葉にした。その言葉を聞いてようやく、それだ、それが言いたかったとヒナトは頷くのだ。

 答えてくれると信じて疑っていないヒナトに、今回折れたのはクリツだった。折れて、折れず、引いて、引かず。言葉に出さずとも見極められる時間を過ごしてきた自負はあった。

 お互いが黙ってしまえば、他に物音などしない巨大な館。誰もいない大広間には、二人分の静かな呼吸だけが広がっていく。薄く開けている窓からは、硫黄独特の匂いと甘ったるい花の香り、そして竹の葉の凛とした香りが混ざり合った風が微かに入ってくる。


「許せなかったんだ」


 竹の葉よりも固く、花が落ちる音よりも小さな声音が、ぽつりと落ちる。


「悪いことをした奴には(ばち)が当たる。神様が(ばつ)を与えてくれると思えるから、人は自分を害した奴を追わないでいられる。殴られたから殴り返さず、盗まれたから盗み返さず、法が、神様が、相手を罰してくれると信じられるから、許せずとも自分の手を汚さずに済む。……でも、僕は、それを待てなかった。誰かが下してくれる罰を待てない怒りを持った奴が鬼になるんだよ、ヒナト。神を捨てるとは、そういうことだ」


 胸の上に乗った体温がじわりと上がる。不自然な熱が髪を揺らして肌を焼き、瞳を燃やす。言葉を落とす薄く開いた唇から、異様に尖った犬歯が覗く。



「法が、神が、罰を与えてくれるだろうなんて不確かな未来を、悠長に待てるわけがない。……許さない。絶対に、死んでも、許すものかっ」



 熱を、知っていた。

 珍しい本が手に入ったとき、興味深い内容を知ったとき、彼の瞳には熱がともる。彼の兄や両親は、彼のその熱を見るや否や水をかけて消して回り、いつしか彼がその熱を恥だと思うようにしてしまったけれど。

 それでも熱はともり続け、同じ熱をヒナトに与えて共有し、その事実に嬉しそうに笑った。

 ヒナトは、消されても消されても、決して消えなかったクリツの熱を知っている。

 けれど、こんな熱は、知らない。

 光を纏いともり続けていた熱が、影を燃やしてともされる。いつ、知った。こんな熱がいつ彼の身の内に宿ったのだ。影とは、いつだってひんやりしたものだった。暑い夏の日差しの中でさえ、影の下は涼しいものだと誰もが知っていたし、それが自然の摂理だった。それなのに、クリツの瞳の中で燃え上がる影は熱い。触れれば火傷では済まされない、溶けてしまいそうな冷たい熱は氷のようだったのに、これはやっぱり熱だった。







 ヒナトの胸に伏せていたクリツの耳がぴくりと動く。すんっと鼻が鳴り、不快気に眉が寄る。


「誰か、来た」


 短く呟かれた言葉に跳ね起きる。その勢いで、クリツも一緒に起き上がり、ヒナトより先に立ち上がった。


「こんな夜更けにか? そもそも、あの道を越えて来られるのか?」

「町からとは限らない。山からなら……噂を聞いた僕達のように、山賊が下りてきてたっておかしくはないよ」


 だって、臭い、と眉を寄せて、もう一度不快気に鼻を鳴らす。


「ここは匂いと音が大きいから気づかなかった。僕、ちょっと様子見てくる。ヒナトはここにいて。絶対動かないで」


 そう言い置くと、ヒナトが返事を返す間も待たずに窓から飛び出していった。開け放された紙張りの窓の向こうにある硝子窓に、固い竹の葉がかしゃりとぶつかった音が響く。

 誰もいなくなった部屋の中には、はしゃぎ回ってぐしゃぐしゃになった布団の山と、結局あんまり手をつけなかった中身の詰まった鞄、そして寝癖がついてぐしゃぐしゃになった髪をもったヒナトだけが残った。


 さっきまで重なっていた温もりがまだ胸に残っている。人には決してありえない尖りでヒナトを傷つけないよう、器用に角度を調整して乗せられていた頭。

 布団の上に背中から倒れ込み、両腕を顔に乗せる。

 そうか、お前許せなかったのか。法が裁くのも、神様が罰するのも待てないほど、速やかに罰を下さなければ耐え切れないほど、許せなかったのか。


 鬼とは伝染するものだから。

 老婆はそう言った。ああ、分かる。今なら、分かる。その想いが、暗く冷たい熱が鬼を作るのだと知った今なら、そういう在り方があると知った今なら、ヒナトにも分かった。

 知ったら戻れない。二度と、知らなかった存在には戻れないのだ。だから大人は子どもに尊さを見出す。無垢さに、無知さに、神聖さを見出すのだ。己達が二度と戻れない境地に、懐古と郷愁を重ねあわせ、そうして無知を消していく。無知に尊さを見出しながら、知恵を与えるのもまた大人の役目だと知っているからだ。


 クリツはもう戻れない。鬼になる激情を知ってしまった。そして、ヒナトも理解してしまった。

 真っ当な道を馬鹿にしちゃいけない。老婆の言葉は、その通りだ。

 真面目に生きる人間を、規則を守る人間を、正直に生きる人間を、馬鹿にしてはいけない。そう生きられない自分がばれぬよう、(さか)しい顔をして、真っ当に生きる人を貶めてはならない。相手を傷つけ、否定することで優位に立ったつもりでいる。そんな人間になってはいけない。

 その通りだ。

 人の道を外れてはいけない。誰かを傷つけてはいけない。傷つけられたからと同じ場所に落ちてはいけない。

 その通りだ。

 生き物をむやみに殺してはいけない。人を殺してはいけない。

 その通りだ。

 だけど、もう遅い。ヒナトの友達は、もう殺してしまった。もう知ってしまった。二度と、まっさらには戻れない。だったらヒナトも、ここに留まる理由は、もうないのだ。

 もしもヒナトの絶望が大事な人の形を、最後に残った大事なものの形を取って現れたら。


「次、鬼になるのは俺だな」


 むくりと起き上がり、出していた荷物をしまいこんだ重たい鞄を背負う。取りこぼした物がないか確認し、部屋を出る。綺麗に敷き詰められた床板が、重さに耐え切れずぎしりと鳴った。どんなに高い作りの建物でも、安っぽい音が鳴るんだなとどうでもいいことを考える。どうでもいいことは、鞄持たないでと泣きだしそうになった友達に怒られてしまうかなとちらりと過った考えに場所を譲り、あっという間に忘れてしまった。




 ぐるぐるぐる、びたん。

 そんな、馬鹿みたいな音で目の前に振ってきた鉤場の物体を、ヒナトは無言で見下ろした。何かが潰れ、掠れ、焦げ付いたような耳障りな絶叫が、鉤状の物体、肘ごと腕を失った男の口から飛び出していく。

 髭面の男達。動きも体格ものっそりしていて、まるで熊みたいだと思ったなんて口にしたら、熊に失礼だろうか。


 少し離れた場所で徒党を組む、もっさりとした男達。垢で汚れ、土を纏い、例外なくやにで黄ばんだ歯をがちがち鳴らす男達は、各々の武器を持ち、ヒナトに向けていた。

 正確には、男達とヒナトの間にいる、クリツに向けて。



 女か? いや、ガキだ。勿体ない。俺はガキでもいけるぜ。

 なんて、下卑た下衆な会話が途切れたのは、クリツが腕を振り上げたからだ。腕を振り上げて、それよりももっともっと高く跳ねあがった、ヒナトかクリツかどちらかに向けられた腕は、ぐるぐる回り、やがてちゃちでちんけな音を伴い地面に落ちた。


「来るなって、僕言ったよ」

「うん、って、俺言わなかったよ」


 腕が、俺の腕が。何。何だ。あいつは何だ。鬼、鬼だ。鬼がいる!

 ぐちゃぐちゃと、煙草の煙で焼けた喉から、低く潰れた声が蠢いて響く。帽子もかぶっていないのに気付いていなかったのか。馬鹿だな。自分達がいかに物事をちゃんと見てないか分かっただろ。どうせ、薄くて細い、小柄な身体しか見ていなかった。勝てる、こいつになら勝てる。武器を持っていようがなかろうが、こいつになら容易く自己を押し通して、相手の意見を押し潰してやれる。そんな基準でしか見ていなかった奴らが、今までクリツの熱に水をかけ、押し込めてきた。そんな基準で見誤ってきた奴らが、クリツを鬼にしたのだ。


「おっさん達、帰れよ。ここはいま、俺らの場所なんだ。朝にはいなくなるからさ。先着順だぜ。順番は守れ、割り込むなって、両親に教えてもらっただろ?」


 だから、帰れ。今度は見誤るな。見誤って、クリツに手を汚させるな。

 残りの言葉は口に出さず、ただじっと男達を見つめる。恐らくは自分達と同じように、町で噂を聞きつけてきたのだろう。人の敷地を勝手に跨ぎ、食料を漁り、布団を散らかすことに、何の罪悪も感じない奴ら。

 ヒナトも同類だ。同類だから、引き際を与えてやる。情けでも仲間意識でもなく、他でもないクリツの手に、こんな薄汚い血をこれ以上つけたくないからだ。

 じりりと、男達との距離が僅かに広がる。背を向けずに下がっていく様子は、まるで獣を前にしたときの対処法だ。獣は、本能的に追う生き物だから、背を向けたら襲ってくる。そんな忠告を忠実に守り、腕を吹き飛ばされてひいひい泣いている男を抱えて下がっていく。ちゃんと仲間は連れていくんだと、妙に感心した。

 ゆっくり、少しずつ、相手を挑発しないよう細心の注意を払って消えていく男達を、ヒナトはもう見ていない。視線は、足元に転がっている太い腕に落ちている。

 腕を挟んだ先に、爪先が見えた。だから、ヒナトは視線を上げる。


「お前、風呂入ったばかりなのに、また汚れたな? もっかい風呂行くぞ。寝間着はここの借りといてよかったな。買ったばっかの服、汚すところだった」


 腕を掴んでずんずん戻っていくヒナトに逆らわず、クリツが後をついてくる。せっかく洗い流したのに、また鉄錆びの臭いを纏って、大人しくてくてくと。その内、この匂いが普通になるのだろうか。この匂いを纏った彼に違和感をもたず、日常として受け入れる日が来るのだろうか。


「僕は」


 ぽつりと、言葉が落ちる。


「もう、誰かを殺す罪悪を躊躇えない。今だって、何も感じないんだ」

「ふうん。それは別にいいけどさ、服は汚さないようにしろよ。替えがないから。それと、風呂上りも止めとけ。面倒だから」

「君は……それでいいの」


 ヒナトは苦笑した。ぐるりと振り向けば、自分で言っておきながら、どこか頼りなげな迷子の子どものような顔をしたクリツがいて、やっぱり笑ってしまう。


「いいよ。お前が生きててくれるなら、もうなんでもいいよ」


 倫理も道徳も常識も削ぎ落とし、最後に残ったそれだけが、ヒナトの真実だった。






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