6.重たい鞄
薄暗く埃っぽい店内に慣れた焼かれた目を細める。
とりあえず三軒ほど離れた店の裏手に回り、壁に背をつけて落ち着く。何度か深呼吸しながら、これからの予定を立てていく。日持ちのする食料、雨具、火打石。思いつく限りを思い浮かべる。指を折りながらつらつらと考えていたけれど、何にせよクリツと合流してからかと結論が出た。町をうろつく為の服も手に入れたし一旦戻ろうと決め、ここまでの道のりを反芻しているヒナトの前に、ふっと影が落ちる。
何だと上げかけた視線は、落ちてきた物体に引っ張られて空を仰ぐことはなかった。
腰を落し、猫のような重さを感じさせない着地に、瞬き二回。腰より低い段差一つ飛び降りるたびに一々大袈裟な心構えを要した友が、そんな段差を幾つ積み上げたって足りない屋根の上から目の前に降ってきて、ヒナトの息は止まった。
「お金足りた?」
「足り、た……おまっ、びっくりしただろ!」
「ヒナト、声が大きい。人が来たらどうするの」
指摘され、慌てて両手で口元を押さえた。けれどすぐに我慢できなくなり、声を潜めて続ける。
「なんで降ってくるんだよ! 大体、お前ついてきちゃったら、俺一人で買いに行った意味ないじゃん!」
「人は自分の目線より高い場所に意識を向けにくいって本で読んだから、屋根の上通れば大丈夫かなと」
「それにしたって真昼間から……まあ、騒ぎにならなかったからいいのか?」
戻る手間も省けたしと、びっくりさせられたことは一度の溜息で流してしまおう。
衝撃でずり落ちてしまった鞄を背負い直し、適当な物陰を探す。この辺りは古くからの建物が多いらしく、人通りも新しい建物が軒を連ねていた通りより少ない。
少し歩いた先に、昼間なのにひっそりとした同じような建物が並ぶ場所があった。扉が大きく窓が少ない作りで、住居ではなく倉庫だろうと当たりをつける。故郷を思い出すひんやりとした静けさに、振り払いたくなるような寒気と、身に馴染んだ安堵がせめぎ合う。
半歩後ろを歩いていたクリツが無音で半歩前に進み出て、片手を出した。
「荷物」
「ちゃんと言わねぇと渡しませぇん」
つんっとそっぽを向いたヒナトに、クリツは一瞬怯んだ。ちらりと視線を向けても態度を変えないヒナトの様子に、ぐっと喉を鳴らす。
「……ちょうだい」
「うん」
今度は素直に手渡された鞄に、クリツの眉が寄る。
「重くない?」
「一番頑丈そうだったんだ。いいよ、俺が持つから」
「僕が持つ」
箸より重い物は持ったことがありませんという外見通りの腕力しかなかったクリツに鞄を奪い取られて、思わず笑ってしまう。この町までおぶってもらったのだから、その力は嫌というほど分かっているけれど、どうしたって手を出してしまうのはもう癖のようなものなので仕方がない。長年呼吸のように繰り返してきたことを、昨日の今日で変えられるわけもないし、変えるつもりもなかった。
「じゃあ順番な。はい、これ半分」
「何これ」
懐から取り出した饅頭を半分に割って押し付ける。
「服屋と質屋教えてもらった情報賃。お前、茶っぱの饅頭好きだったろ」
割れた中から見えた餡と似た色をした瞳が少し細まった。
「……よく覚えてるね。それ言ったの、会ったばかりの頃だよ」
「お前が海以外で初めて好きって言ったもんだから、そりゃ覚えてるだろ。それに、お前だって覚えてるじゃん」
何かにつけて遠慮ばかりしていたクリツのそれが顕著だったのは、本人が好むことだった。好きな物、好きな音、好きな行動。それらがまるで罪悪であるかのように、クリツはいつだって口を噤んだ。そんな友が、酷く控えめにほろりと零した「僕、これ好き」という一言を、どうしてヒナトが取りこぼすと思ったのか。心底不思議がって首を傾げると、困ったように下りかけた見慣れた眉毛がぐっと堪えられた。見慣れぬ表情で留まった眉毛を見ながら続きを待つ。
「……覚えてるよ。だって、僕が何かを好きだって言って馬鹿にしないでくれたのは、君が初めてだったから」
「そりゃ勿体ない話だな」
「……何が?」
自分の分をさっさと食べ終わったヒナトは、空いた両手を天に掲げ、猫のように伸びた。
「湿っぽい悪態や愚痴より、好きなもん喋ってる奴の話聞くほうが何倍も楽しいだろ。それに、幾ら好きでも喋り下手な奴だってそこらじゅうにいる。好きなもんを一緒に楽しくなれるほど上手に語れる奴の話聞かないなんて、勿体ないよ」
伸ばした手を今度は地面に向け、さっきと反対に伸びきったヒナトは軽く足踏みする。たかたかと軽い足音がクリツを急かす。
「なあ、早く装備揃えに行こうぜ。お前、一口が小せぇんだよ。あ、なあ、時計のネジ持ってる? それがねぇと買い取り金額がた落ちだってさ。寝袋はどうする? どうせ野宿するんだったら交互に見張りしなきゃだし、一つでいいかな? 雨具はいるとして、飯盒と鍋と器と箸、水筒はでかいの一つにする? 二ついるかな。着替えは、町に入る用の一通り持ってたら、後は適当でいいだろ? 温泉湧くとこもあるらしいから、その辺りも狙っていきたいよな。金払って入る所は却下な。それに、飯! 飯どうする? 屋台にさ、うまそうな串焼きあったんだ。時計いくらで売れるかなぁ。いい値で売れたら、あの串焼き食おうぜ」
たかたかと足踏みして、つらつらとこれからを語るヒナトをぽかんと見ていたクリツは、やがて息と一緒に力を吐き出した。肩がすとんと落ち、同時に眉尻も下がる。残りの饅頭を口に放り込み、ポケットに手を突っ込む。取り出された拳が開かれると、時計と同じく大半を宝石が占めたネジが握られていた。
「ネジあるよ。だから、串焼き食べよう」
「やった!」
「肉、何だった?」
「ん? んーと、鳥と豚と羊だったかな」
値段順に告げる。勿論、安い順だ。クリツはちょっと考えた。
「じゃあ、羊にしようよ」
「本当!? 俺、羊なんて食べるのすっげぇ久々。寧ろ、最近肉自体がご無沙汰」
「干し肉多めに買っていこう。後は、糒と干し芋と、果実は砂糖漬けと蜜漬け、どっちがいい?」
「見てから決めようぜ。甘い物に関してはお前のほうが目利き出来るだろうから、任せていい? 他のは俺が見るよ」
「分かった」
簡単に買い物表を頭の中で組み立てて、クリツが帽子を深くかぶったのを確認し、人ごみの中に繰り出していった。
質屋で思った以上の大金を手に入れ、何の滞りもなくぽんぽんと終わっていく予定に、ヒナトは安心と呆れと喜びがない交ぜになった。
本当に、何の迷いも必要なかったのだ。必要な物どころか、欲しい物まで何の憂いもなく手に入ってしまうから困る。だって、どれも関係のない物ではなくなってしまったのだ。買えない物は全て自分には関係のない物だったのに、どれも買えてしまうから、どれもに関係できてしまえる。目移りしすぎて眩暈がした。
物を買う時に、ただただ好みだけで選んでしまえる。その事実に足元が浮足立ち、取り返しのつかない場所まで浮かび上がっても気づけなくなりそうで、ヒナトは貧困に慣れてしまった自分を改めて自覚した。
選択の自由にだけ困った買い物が終わり、ヒナトはクリツと一緒に町を出た。まだ夕暮れには早いけれど、今から歩いたら次の町に辿りつく前に夜がきてしまうと止める門兵に、大丈夫だとへらへら笑顔で手を振って急いで街道を進んだ。町は次第に見えなくなり、こんな時間に町を離れるのは急ぎの用事の人間だけだとの門兵の言葉通り、行き交う旅人の姿も急速に減っていった。後ろから同じ方向に進むのは馬に乗った人間だけになり、それすらもほとんどなくなった。前から来る人間も、ぽつりぽつりと時たま擦れ違うだけだ。その誰もが早足で、人の生活圏内へと急いでいく。夜に街道を行く人間など、よっぽどの急用か真っ当な生き方をしていない人間だけだろう。
ぱんぱんに膨れ上がった鞄は、ヒナトには持たせてくれなかったクリツの背で揺れている。それをぼんやり眺めた、どこかふわふわとした気持ちは足取りにも浮かび、クリツに指摘されてへらりと笑う。
「金があるっていいねぇ」
「どうしたの」
「予定がまっすぐ進むや」
やりたいこと、やらなければならないこと。それらを目指す為に、あちこち寄り道して遠回りして曲がりくねり、資金を掻き集めなくて済む。金という物は、無ければ心身ともに蝕まれる事柄のなんて多いことだろう。気力が持つ内はいいが、死に物狂いで掻き集めている内にやりたいことまで辿りつけず、疲弊し、ぼろぼろになっていく。金で愛は買えない。金、金と固執する奴は浅ましい。そんな風に言うくせに、金がなければ命を繋ぐことは勿論、明日の笑顔すら買えないし、金のない愛は維持するのが困難ではないか。
金のない奴は、いつだってぴりぴりぴりぴり神経を尖らせる。明日の飯を心配し、心惹かれた美しい色を手に入れられない無念さに胸を焦がし、それをひょいっと手に入れていく豪奢を妬むことに忙しいのだ。貧乏人の余裕のなさを、貧相さを当然のように笑うくせに、金に必死になる姿も嘲笑う。
目的の為にまっすぐ進むことが許される贅沢を久しぶりに味わって、うっかりのぼせそうになる。酒も飲んでいないのに気が大きくなりそうな酩酊感に、酒も煙草も、女も金も同じだ、あれらは全部怖いんだぞと言っていた酔っ払いの旅人を思い出す。それら全部で失敗したとからから笑った旅人は、あの町でもやっぱり酒で失敗して、着の身着のままで逃げだしていった。
「貧乏人は大金持っちゃいけねぇな。使い方も知らねぇくせに、気だけ大きくなる。物も心意気も、余計な物ばっか買って抱え込んじまいそうだ。金はお前が管理するのが一番だと思うぜ」
「お金の価値を分かってるヒナトが持っていたほうがいいと思う。それに、僕が持ってたら本ばっかり買っちゃう」
「買ってもいいけど、最優先は食い物にしよーぜ」
そんなことを話しながら、ぱんぱんになった鞄を揺らす。飯盒や鍋が、がちゃがちゃとぶつかり合い、乾いた食料の包み紙が、がさがさ歌い合う音を聞きながら、結局何か買うときは二人で決めようという結論に落ち着いた。クリツの金なのに変なのと笑えば、二人のお金だよときょとんと返ってきて、ヒナトはおかしくなった。急にけらけら笑い出したヒナトに、クリツはやっぱりきょとんとしている。それが妙におかしくて、もっと笑ってしまう。
「だって、まるで家族みたいだ」
笑うヒナトから地面へと視線を落としたクリツは、ぽつりと呟く。
「家族って、そんないいものじゃないよ。友達のほうがよっぽどいい」
「悪いなー、俺どっちもいいものしか知らなくってさぁ。いやぁ、幸せ者で悪いねー」
「…………君って人は」
嘆息と、がちゃんと一際派手に打ち鳴らされた鞄の音が重なる。
「恵まれててごめんなぁーっぶ!」
突き出された鞄を全面いっぱいで受け止めてしまい、あまりの重さによろめく。落とさないよう両手で抱え持つも、まるで大きな鞄に縋りついているように見えた。根性で落とさず踏ん張りきったヒナトは、身体を横に逸らせてなんとかクリツを視界に入れることに成功する。全部は出しきれず、右目しか登場できなかったけれど充分だ。
「一言くらい言えよー!」
「意趣返しだもの」
「それなら仕方ねぇな」
渡された鞄を背負う。クリツは周りをきょろりと見渡した後、少し腰を屈めて両手を広げる。
「重いぞ?」
「平気」
肩に手を置き、勢いをつけて背に抱きついたヒナトの腿の裏を抱え、クリツは一歩もたたらを踏まず重たい鞄を背負った身体を持ち上げた。一度勢いをつけて上に跳ねあげて位置を調整すると、ヒナトの背で鞄が大きな音を立てた。
「……後で詰め直そう」
「そうしたほうがよさそうだな。これ、山ん中だと響くな」
「そうだね。行くよ」
「おう!」
今度はヒナトを背負ったままくるりと周囲を見渡したクリツは、すっと腰を落としたと思うと、助走がないなんて信じられない勢いで走り出した。もうずっと走り続けているような速度を、走り出した瞬間から発揮されて、あれだけ大きな音を立てた鞄の音が置き去りになって、一拍空けて聞こえてくる。
街道を外れ、整備されていない地を意図して選び、あっという間に森の中に入りこむ。万が一旅人が通っても目が届かくなる奥まで走り続けたクリツは、人の足が踏み鳴らさない高い草が生え揃う地で一旦足を止めた。
「ヒナト、酔ってない?」
「ないない。一旦下ろしてくれよ。鞄直したい」
「うん」
どこからか転がり落ちてきたのか、身の丈の何倍もある大きな岩の上に飛び上がったクリツは、そこでようやくヒナトを下ろした。
ずっとぷらぷら揺れていた足が、固い地面に馴染めずちょっとふらつく。負ぶって走ったのはクリツだけれど、大きな伸びをしたのはヒナトのほうだった。自由に動かせない身体は別に辛くはなかったけれど、ぱんぱんに膨れ上がった荷物の分、太腿に食い込む力が強くなってちょっと痛かったのだ。痣になってそうだなと思いつつ、屈伸して伸ばす。
胸元から新たに購入した詳細な地図と位置を照らし合わせたクリツは、もう一度方位磁石を確認した。
「もうちょっと行ったら川があるみたいだから、今晩はそこで泊まろう」
「今のお前のもうちょっとだと、かなり遠くな気がするんだけど」
「まあ、そうだね」
否定もせず、あっさり肯定したクリツに肩を竦める。鬱蒼とした森の中は、どれだけ耳を澄ませても水音は聞こえてこない。さて、川はどれくらい遠くにあるのだろうかと考えながら、肩越しに地図を覗き込む。
地図の読み方なんて知らないけれど、うねった蛇が川だということくらいは分かる。伸ばした指で川を辿り、そこから大幅に位置をずらしてふたこぶ絵が描かれている場所でぴたりと止める。
「なあ、ここまでならどれくらいでつける?」
「そこなら日が暮れる前につけると思うけれど、どうしたの?」
ヒナトはにんまりと笑い、こぶから北に指を五歩進めた。
「この双子岩からちょっと登った所に、温泉あるんだってさ」
「人がいる所は駄目だよ」
咎めるクリツに、ヒナトは立てた人差し指を揺らし、ちっちっちっと舌を鳴らす。
「それがさ、一本道が土砂崩れで埋もれたらしくって、工事が終わるまで封鎖中なんだってさ。今なら貸し切りだぜ」
うきうきと、声を指を揺らし、目的地をつつくヒナトに、クリツは小さな溜息で肩と眉の力を抜く。
「そんなの、どこで聞いたの」
「お前が客引きされたのに無視した風呂敷屋のおばちゃん。お前、せっかく綺麗な顔してるんだから、愛想良くしてればおまけいっぱいつけてもらえるのに。後で練習しようぜ」
「嫌だよ。どうせ、人里には最低限しか下りないだろ」
「ばっかだなぁ。その最低限で最大限の成果を得るために、使えるもんも最大限に使おうって話だよ。いいから温泉行くぞ、温泉!」
詰め直した荷物を背負い直す。詰め直しはうまくいったようで、鞄はかしゃりとささやかな音を立てただけでずしりと肩に収まった。さっきと同じ位置に肩紐収まると、ずきりと鈍い痛みが滲んでしまい、さりげなく肩紐をずらす。これは後で痣になるかもしれない。別に女ではあるまいし、痣の一つや二つどうでもいいのだが、クリツには「ほら見ろ」と言われるかもしれないなと頬を掻く。これからずっと自分が持つと言われると、この鞄を選んだ自分の立つ瀬がないので、うまいこと有耶無耶にする言い回しを考えておかなければ。
考え事がばれないよう、肩に手を置いてくるりと回した背にさっさと飛び乗る。予告はしなかったけれど、危なげなくヒナトを支えたクリツは、ちらりと視線を向けただけで文句は言わなかった。
「……まあいいよ。いい加減、ちゃんと落としたかったし」
ぽつりと呟かれた言葉は聞こえなかったことにして、ヒナトは黙って目を伏せる。
そうだ、さっさと落としてしまえばいい。鉄錆びの臭いを、ぱらぱらと剥がれ落ちていく赤黒色の砂を、早くその身体から洗い流してしまえ。そして、落とすなら、冷たい川の水ではなく温かな湯がいい。今の季節は真冬程の冷たさはないとはいえ、身体を洗うなら湯がいいに決まっている。
ヒナトは、身を切り、肌を割り、この世の幸から叩きだされたような冬の水を知っていた。そして、そんなもの知らなくていいはずのクリツに水の痛みを教えたクリツの兄を、一生許すつもりはなかった。雪の降る日に頭から桶の水をかぶせなければ、川に突き落としたりしなければ、クリツは凍てつく水の痛みを肌で知る必要などなかったのだ。
ヒナトだって、薪代を捻出できず、真冬の川で身体を擦る惨めさなど知りたくはなかった。慣れた今でも、あの日の惨めさを忘れたことはない。温かな湯でじんわりと汚れを落し、全身を沈めて一息つく。そんな一日の終わりの迎え方が当たり前の時間だと、それが「普通」だと子どもの頃に知ってしまっているが為に、真冬の川で身体を洗う行為をどうしたって惨めだと感じてしまう。
けれど、自分が知らなければならなかった痛みを、他の誰かも知ればいいと思ったことは一度もないのだ。自分の不幸は自分だけの不幸だ。他の誰かが同じ目に合ったとしても、その不幸が幸になるはずなんてない。ましてそれが友達だなんて、許せるはずもない。
自分の幸せが誰かの不幸になることはあるだろう。けれど、誰かの不幸が自分の幸せになってほしいなんて思ったこともない。本来知らなくてよかった痛みを、惨めさを、どうしても知らなければならなかったのなら自分だけでよかったのに。せめてクリツだけは温かいまま、穏やかなままいてくれたら、それがヒナトの救いとなったのに。
「そういや、お前と湯を使うの初めてだな」
「そうだね。川遊びはしたけど」
「魚、獲れなかったなぁ」
「ヒナトの夕飯だったのにね」
「なー。仕方ないからって帰りに摘んでった木苺、めちゃくちゃ酸っぱくて死ぬかと思った」
「死なないでよ」
「砂糖漬けにすりゃ少しはましだろうけどさ、砂糖買える金があるなら米買うよな」
汚れを取り払うなら、温かな湯に滲ませればいい。惨めさを心の臓に刻むのではなく、包まれるような安堵で、自分以外から滲む温もりで綺麗になればいい。
幸せであればいい。ヒナトが幸せではなくても、ヒナトが不幸に落ちても、誰かが、友達が、大切な人が幸せでいてくれるなら、ヒナトは世界に絶望せずにいられたのに。
ヒナトはきっと、優しい人間ではない。大好きだった両親を貶めるような嘘を平然とつき、ほんの僅かな残飯ではあったけれど飢えぬ程度には施しを与えてくれた故郷と一緒に、そこに住む人間達を何の未練もなく捨ててきた。
そこに罪悪感などない。嘘をつき、騙し、捨て去る。それが必要なら、自分に都合がいいのなら、悪事であろうと迷わず実行できるような人間なのだ。
優しくはない。けれど、優しく生きることはできる。大切な人に優しくすることは、できる。優しい両親が、そう育ててくれた。優しさの形を教えてくれた。優しさの方法を教えてくれたから、ヒナトは優しさの形を惑わず、大切な人に向けることができる。優しさをそうと知らず、自然と行えるような綺麗な人間では決してないヒナトは、そうと自覚して、向ける相手も取捨選択して実行する。
大事にしたい人にだけ、自覚した優しさを向けるこの生き方は、既に優しさなどではないのかもしれない。けれど、大切なものは一つしかなくなってしまったヒナトにとって、もうこれ以外の生き方を選ぶつもりはさらさらなかった。
他の誰が不幸になってもいい。それでヒナトが救われるはずもないけれど、他の誰が幸せになろうが不幸になろうが感知しない。何も思えない。金持ちになろうが貧乏になろうが、肥えようが痩せ細ろうが、死のうが生きようが、どうでもいい。誰がどうなろうが、それはヒナトの幸にも不幸にもなり得ない。
けれど、クリツが不幸になることだけは許せない。クリツの不幸は、今やヒナトにとって唯一の絶望だ。
絶望は人の形をしてやってくる。
いつもいつも、ヒナトの大事な人の形をしてやってくるのだと、ヒナトはもう知っているのだ。