5.シャツと饅頭と新街道
「おー、すっげぇ」
がやがやと途切れない人や音も凄いけれど、何よりヒナトを驚かせたのは空いている建物がないことだ。故郷の町にもたくさんの大きな建物があったが、使われず空いたままとなったものが多い。店が減れば職が減り、職が減れば人が減る。当然の摂理だ。人が住まなくなった家は荒れる。汚し、酷使する家主がいなくなるのだから保たれてくれてもいいのに、人が住まなければひっそりと死んでいくのだ。だからヒナトは、家にとっての血液は人だと思っている。人が住んでいる家でも留守になった途端、しんっと静まり返り、温度も下がるように思えた。廻らないものは死んでいく。人も、家も、全てのものは、滞って生きてはいけないのだ。
箱型の大型の建物があった故郷は、やっぱり栄えていた事態があったのだなと今更実感する。けれど、全ては過去の栄光だとも、思い知る。知っていた事実が胸に落ちるのは、やはりこの人の多さが原因だろう。どこを見ても人がいる。どこを見ても人の手が入っている。音が溢れ、大きな道でも端に寄らないと通行人にぶつかってしまう。
ヒナトは、物珍しい光景を少しでも視界に入れようとつい彷徨わせてしまう視線を戒めた。あまりきょろきょろしていては目立つし、何より新しいことに感動するのはクリツと一緒にすると決めているのだ。
気を取り直した後は早い。街道の両端に等間隔で並ぶ屋台をぱっと眺め、気の良さそうな店主がいる店を選ぶ。饅頭の店を選んだのは、今の手持ちでも手が出そうだったからだ。後は、純粋に腹が減っていて甘味に惹かれたからでもある。肉も捨てがたいが、本格的に腹ごしらえをするならクリツと選びたい。何せ、最初の町で、最初の飯だ。一緒に選びたい。だってこれは、ヒナトとクリツがもう何年も何年も温め夢想し、きっといつかを合言葉に生きる縁としてきたことなのだから。
ずらりと並ぶ屋台は、食べ物関係から装飾品、旅の友まで所狭しと軒を連ねる。中には古い物も新しい物もあった。この店は比較的新しいものなのだろう。木が綺麗で太く、全体的にどっしりしている。隣の古い屋台は、骨組みが細く華奢に見えた。ポケットに手を突っ込んだまま、逆だなぁと眺める。故郷の屋台は、屋台に限らず様々な物は、古い物ほど骨組みがしっかりとして重く頑丈だった。新しくこさえる物は、新しい木の匂いだけが香しいものの、全体的に華奢だ。動かしやすいのは利点だろうが、長く使える物ではない。長く使える物は、やはりそれなりの重さと値段がかかるのだ。
これが、これから繁栄していく町と、これから衰退していく町の違いなのだろう。長く使っては修理し、歴史に根付く品を購入できなくなった故郷との違いを、こんな形で知るとは思わなかった。
『安物買いの銭失いっていうの』
無駄な買い物をしなかった母は、ある日机を買い替える時、そう教えてくれた。他に幾らでも安い物はあったのに、母は毎日使う物や長く使う物は、値段が張ってもしっかりした物を買うのだと教えてくれたのだ。安いには安い理由がある。その時は良くても、買い換え時期が早まれば意味がない。作りが甘い物で怪我をしたって、傷んだ食物で腹を下しても、使う度にいらついていても、本末転倒だ。お得と安いだけは違う。結果的に、多少値段が張ろうがいい物を買って無駄にしなければいいのだ。
だから大事に使うことを覚えましょうねと、自由に這い回った落書きを前に、青筋を浮かべた母はすぱーんとヒナトの頭を引っ叩いた。
綺麗に落書きが除かれた机。長く長く、何十年も、ヒナトと両親が顔を合わせるために選び抜かれたその机までも、根こそぎ奪われて、もうヒナトの傍にはないのだけど。
ひょいっと屋台に顔を出したヒナトに、四十過ぎになろうかという男は愛想のいい笑みを浮かべた。掌に乗っかる大きさのしっとりとした饅頭がぎっしり並べられている。ちらっと屋台の奥に視線を向けた。椅子はあれど、新聞や本はない。どうやら手持無沙汰になる心配のないくらい客足が途絶えない店のようだ。
「らっしゃい、坊主」
「どんなのある?」
「こっちから、普通の餡、白、茶、栗、芋、胡麻だ」
「茶のやつ、一つくれ」
「まいど」
白い紙でくるりと包まれた饅頭を受け取りながら小銭を支払う。
「どうも。あのさ、俺この町来たばっかなんだけど、安い服屋と良心的な質屋知ってる?」
店主はひょいっと片眉を上げた。
「なんだ坊主、おつかいか? 質屋は父ちゃんか母ちゃんに行ってもらえ」
「親が駄目だと子どもがしっかりするもんなんだよ」
しれっと嘘が舌に乗る。滑らかな嘘に気づくことなく、男はからりと笑う。
「ちがいねぇや」
「あと、坊主っていうけど、俺もう十三だからな」
「もうって言ってる内はガキだぞ、坊主。本当の大人ってのはな、まだぎりぎり三十代だ、まだいける、まだかろうじて、ってな感じで、何かにつけて無駄に足掻くもんなんだよ。若さをからりと捨てちまえる奴は、持ってる奴だけさ」
やけに形よく頭に巻かれた手拭いごしに頭部をぺしりと叩いた店主は、そこに目線を向ければ、「まだ無事だ」と呻いた。成程。
「なんかやだけど、覚えとく。それで、どこかいい店知らない?」
「服屋は、この先の辻を左に曲がって三つ先をまた左。二つ先を右。まっすぐ行った先の左にある米屋の裏手だ。そこは安くて品揃えがいいぞ。質屋はそこで聞いたほうがいいな。こっからだとちょっと分かりづらい位置にある。服屋分からなかったら、米屋って言えば大抵の奴が知ってるからな」
「ありがと、おっさん!」
さりげなく一番大きな饅頭を包んでくれた店主に満面の笑顔で礼を言い、いそいそと懐に仕舞いこんだ饅頭を潰さぬよう気をつけて店を後にした。
教えられた服屋は、ひっそりとしていた。こじゃれた外装はなく、看板は少し剥げている。けれど人の出入りはそこそこあったし、足元を見れば地元民であることが分かった。長く歩く旅人と、その地で生きる町民とは、当然靴が違うのだ。ここは旅人を相手とした店ではなく、この町に昔からある店なのだろう。
店内は、昼間だというのに少し薄暗く埃っぽい。しかし、空気が淀んでいるとも言い難く、昔、衣替えの度に纏っていた匂いに似ている。大きな桐箱を取り出して衣替えをする母を手伝った記憶が蘇る。両親が死ぬまでは、それなりに人並みの生活を送っていたと思う。
自分でぐちゃぐちゃに詰めて怒られた箪笥の中みたいな店だなと、ヒナトはポケットに突っ込んでいた手を出して、山盛りに積み重なった雑多な服を掘り起こす作業に入った。
店員は髪の毛をひっつめた老婆と老婆によく似た中年の女だった。常連なのだろう客と談笑していた老婆は、客足が落ち着いたのを見計らってヒナトに声をかけてきた。外套とシャツを二枚ずつ手にしたまま、きょろきょろしていたからだろう。
「何をお探しだね?」
「帽子。つばが前についてるのがいいんだ」
「ああ、だったら奥にあるよ。ついておいで」
細身の体だけれど、じっとりとした重みのある動きは老いによるものだろう。けれど億劫そうな気配は見られず、不安のない足取りで奥に向かう老婆についていく。通路の幅を犠牲に隙間なく置かれた棚は、まるで迷路のようだった。窓は棚によって塞がれ、その隙間から細長い光を伸ばしている。完全な闇にならないのは、高い位置にある小振りな天窓から光を取り入れているからだろう。
「あんまり手持ちがないから、安いのがいいんだ」
「おや、そうかね。だったらそのシャツ売っちまうかい? うちは古着も扱ってるからね」
「ほんと? 洗ってきたほうがいい?」
「うんにゃ。いいさ、そのままで。どうせ買い取った物は一回洗うんだしね」
ヒナトはほっとした。今から洗って干していては時間がかかりすぎる。それにと、自分のシャツを摘まんで見下ろす。こんな質のいいシャツなんて洗ったことがないのだ。きっと、洗ったほうが駄目にしてしまうだろう。
「助かるよ、婆さん。でも、この後も質屋に行く予定なんだけど、どっちが高く買い取ってくれる?」
老婆は棚に仕舞われていた箱を取り出し、帽子を並べていく。誰が使うかは言っていないけれど、手に持っている物を見て男が使うと分かったのだろう。女物は最初から除外されていた。次から次へと取り出されていく帽子を何の気なしに眺める。箱に入っている物を手当たり次第に出しているのかと思いきや、該当した物だけのようで、最初の要望通りつばのない帽子は箱の中で眠ったままだ。
「どこの質屋に行く予定だい?」
「饅頭の屋台のおっさんは、ここで聞けって」
「ああ、あいつの紹介だったのかい。そうだねぇ、新しくよそ者が建てた質屋だと二束三文だろうよ。あいつは物の価値を分かっちゃいない。一辺倒の評価しか出さないだけならまだしも、金持ちそうな人間が持ってきた物にしか高値をつけないんだよ。このシャツだって、坊やが持っていったら饅頭一つ買えないかもしれないよ」
「婆さんが知ってる質屋は?」
「そもそも服を取り扱っていないんだよ。お互いの領分は侵さないってことでね。だから、ここで売っておいき。なに、悪いようにはしないさ。今あんたが手に持っている分と帽子を買ってもおつりが出るよ」
ヒナトにも服の価値なんて分かりはしない。だから、ふぅんと返事をして新しく出てきた帽子を手に取る。卵を縦半分で切ったみたいにまるんとした帽子だ。尖った部分に厚手のつばがついている。他の部分の生地もしっかりしていて、指で押したり引っ張って強度を確かめた。これなら、角隠せるかな。毛糸の帽子だと角が突き出てしまってかぶる意味がないのだ。
「おや、それお気に召したかい? いいんじゃないかい。あんたによく似合うよ。頭の形が丸い子はもっと似合う。それなら他の色も合ったから出してやろうね」
持っているのは茶色の帽子だ。別に茶色でも構わないけれど、他の色を見てから決めてもいいだろうと大人しく待つ。
「そういや、あんた質屋で他に何を売る気なんだい?」
「懐中時計だよ」
「時計かい。だったらネジを忘れるんじゃないよ。ネジがなけりゃ、値段ががくんと下がっちまうからね」
「…………あ!」
慌ててポケットに手を突っ込む。一応預かってきていた時計は大人しく収まっていたけれど、当然のごとくネジはない。だって預かってすらないのだ。預かってもいないネジがヒナトのポケットにあるわけがないし、クリツのポケットにあるかどうかも不明である。慌てた様子に、老婆はまだしっかりと残っている歯を見せて笑った。
「そうらみな。結構な奴が忘れちまうんだよ。ほらほら、シャツをとっとと脱いで渡しな。早いとこ会計を済ませてやるから、忘れないうちに取っておいで」
「助かった、婆さん。ありがとう」
「そこで姉さんって呼べたなら、おつりに色つけてやったのにねぇ。惜しいことだね、坊や」
「げっ……やり直せる?」
「人生は一度きりだよ、坊や」
出したままの帽子の山は後で片付けるらしく、老婆は楽しげに笑いながら横にある紙に何かを書きつけ始めた。それを見ながらシャツを脱ぐ。さらりとした上質の生地は、荒れた肌の上に着るのが申し訳なくなる。脱ぐときも滑り落ちるようだ。着慣れない感触が擽ったいけれど、触れ慣れているので不思議な気分だった。このシャツの持ち主を何度抱きしめただろう。ぼろぼろ泣く癖に、声には出さず嗚咽も必死に堪える肩を抱き、背を叩いた。
その持ち主はいま、一人でヒナトの帰りを待っている……待ってるよな? 誰にともなく問いかけて、急にそわそわしてきた。いつもなら彼が約束を破る訳がないときっぱり言い切れるけれど、今は状況が状況だ。そもそも奴は、既に一回約束を破って……は、いない。そういえばまだ破ってはいなかった。確かめただけだとかなんとか訳の分からないことを言っていたけれど、一応は一人で行かずに待っていた。いやでも、置いていく気だと言っていたから破るつもりだったと判断すべきか?
考え込みながらも脱いだ柔らかなシャツを手渡したヒナトに、老婆はちょいっと眉を上げた。
「あんたそれ、泥でもひっかぶったのかい?」
「え?」
老婆の指を辿って視線を落とせば、ズボンの所々に黒い染みができていた。何だろうこれと、心当たりのない汚れを爪先で擦る。ぱらりと崩れた黒ずみをつけたまま鼻先に持っていき、すんっと嗅ぐ。
小さな小さな粉となった汚れから漂う匂いなどたかが知れていた。それなのに、ヒナトは脳みそをぶん殴られた。寒さなのか熱さなのか分からないものが頭から手足の先まで駆け抜けて、目の奥に熱を、手足の先には冷たさを残す。
鼻と意識に引っかかる、独特のとげとげしさを纏った匂い。これは、血だ。
「……ちょっと、ドジっちゃってさ。見かねた友達がこのシャツくれたんだけど、やっぱり俺には似合わなくって。なんなら売って旅費の足しにって言ってくれたし、ありがたく売らせてもらって、そいつと一緒にうまい飯でも食うよ。あ、それと、質屋行ったら改めてまた来るかもしれねぇから宜しくな」
足の力が抜けて壁に凭れてしまった時についたのだろう。壁の血は既に乾いていると思っていたけれど、まだ乾き切っていなかったのかもしれない。疑問、そして結論でぐるりと脳内を満たして、脳も心も通さず簡単に舌へと乗った嘘を吐く。滑らかに滑り出た嘘に不自然さを感じなかったらしい老婆は、にこにこと皺を深くした。
「いい友達もってるんだねぇ。大事にするんだよ」
きっと何でもない台詞だったのだろう。客あしらいに慣れた老婆が、子どもの話に優しい相槌を打った。ただそれだけのことだったのに、ヒナトは凄く嬉しかった。そんなことを言ってくれた相手に、するりと嘘をつける自分への自嘲は後に回す。
「……うん。ありがとう、お姉さん!」
老婆はひょいっと眉を上げ、少し端端が掠れてはいたものの力強い笑い声を上げた。
「吸収力のいい坊やにはご褒美だ。そこの棚にあるものだったら、何でも一つあげようかね」
「え、本当か婆さん!」
「あ?」
「お姉さんありがとう!」
一気にしわがれてどすの効いた声に、直立不動になったヒナトを見て、老婆は肩を竦める。
「本当さ。ちょっとした汚れが取れなかったりで、商品としては今一だけどね、物はいいよ。旅人から纏めて買い取っているとね、そういう物が溜まっていっちまうんだよ。好きなの持っていきな」
示された棚には、統一性のない物が仕舞われていた。服は言うまでもなく、帽子にぬいぐるみ、靴に布、毛糸に座布団。所狭しと雑多な物が交わる棚は、統一性がないからこそ何が眠っているのか予想がつかず、掘り出し物がありそうでわくわくする。
「漁っていい?」
「好きにしな。あたしはちょっくら勘定と商品包んでくるからね」
そう言ってヒナトが選んだシャツとズボンを突っ返してきた。
「勘定はやっておくから、着ておいで」
「ありがと。あのさ、ズボンもう一枚同じの買うからそれも包んで」
「あいよ」
受け取ったシャツとズボンを着こむ。着替えたズボンは持ち帰ろう。まだ十分穿けるから捨てるのは忍びないが、汚れが汚れだ。燃やしたほうがいいだろう。
買ったばかりのシャツは、さっき脱いだ物のように滑らかに滑り落ちていくにつれて形を変えることはなく、少しごわつき、皺は出来てもしんなりと崩れ落ちたりしない。着慣れた生地の感触が落ち着く。肌触りのよい生地が嫌いなのではない。ただ、少しくすぐったいのだ。くすぐったくて、むずがゆくて、自分と同じくらい安っぽいシャツみたいに遠慮なく扱えない。柔らかくて、傷つきやすくて、高値で扱われるもの。大事にしなければならない象徴のような感触だった。それをいつも纏っていたクリツを思い浮かべながら、棚を物色する。
面白さで選べば、何の鳥の物か分からないもさぁとした羽がついた帽子や、先が異様にとんがった靴が気になるけれど、今の自分達に必要なものはそれではないということだけは分かる。へんてこな物を選んで変なのあったんだぜとクリツと一緒にげらげら笑えるならそれでもいいけれど、今の彼に期待できるだろうか。見せたところで「そう」で終わりそうだ。今の彼でなくとも、げらげら笑っているのはいつだってヒナトのほうで、彼はくすくすと控えめな霧雨のような笑い方が多かったけれど。
笑いの種にできないのなら、無用な物より必要な物を選ぶべきだろうと、ヒナトは真剣に棚を漁る。
「やっぱ鞄かなぁ」
呟きながら、棚の隅っこに追いやられていた大ぶりの鞄を引っ張り寄せた。背負えばヒナトの背中から完全にはみ出てしまう鞄は、旅用なのか、生地は厚くしっかりと縫製された代償に、鞄だけでもそれなりの重みがある。でも、頑丈なのは魅力だ。特にこれからを考えると、多少重たくてもしっかりしているほうがいいだろう。
「おや、あんた目利きの才能があるんじゃないかい?」
商品を紙袋に入れた老婆がひょっこり後ろから覗き込んでくる。
「そいつは少し重いのが難点だけれど、大事に扱えば長く使える類の品だよ。旅の絵描きが使ってたんだがね、そいつはこの町で好いた女と一緒になって定住してね。ほら、所々絵の具がついたままだろう? それもまた味だけど、商品としてはちょっとね。だから、こっち行きだったのさ。それにするかい?」
鞄は肩紐が二本ついていたが、側面には斜め掛け用の紐をつける部位もあった。点々と飛び散った色とりどりの絵の具達は、見る人によっては不恰好でみっともないと思うのかもしれない。けれど、ヒナトはなんだか嬉しくなった。色んな色がある。ただそれだけで、たったそれだけのこと。それなのに、なんだか色んなことが許された気がしたのだ。
「うん、これにする。これ、包まないでいいよ。荷物入れてそのまま持ってくから」
「はいよ」
紙袋を中に入れた老婆は、大きな鞄をヒナトに背負わせてくれた。そして、代金分を差し引いた釣銭を紙に乗せて渡す。さっき何かを書きつけていた紙には、簡単な地図が書かれていた。
「質屋までの道を書いておいたから、迷うんじゃないよ? いいかい、坊や。この町は比較的穏やかだけれど、最近は顔も知らない余所者もいっぱい入ってきているからね。旧街道では鬼まで出たんだ。日が暮れる前にちゃんと家なり宿なりに帰るんだよ」
商売人としての手管なのか、元来の気質なのか、至れり尽くせりで世話焼きの老婆に礼を言おうとしたヒナトの動きがぴたりと止まる。
「……鬼?」
呟いたのはその単語だったけれど、頭の中をぐるりと回ったのは旧街道のほうだった。旧街道、旧い道。そうか、自分達が生まれ育って、遥か先まで続いていると毎日見送っていた道は、とっくにそう呼ばれるようになっていたのか。
「知らなかったのかい。二鬼が暴れて、鬼狩人が出てきてるんだよ。しばらく夜は出歩かないようにしな」
老婆が教えてくれた話は、身構えていたものより一つ前だった。流石に今朝起こったばかりの事件は、新旧の街道を越えて伝わってはいないようで安心する。だが、それも時間の問題だろう。噂に追いつかれる前に、さっさと姿を眩ましたほうがよさそうだ。
「へぇ。でも、もう捕まってるんだろう?」
平静を装い、あくまで世間話の一環として答える。客とはいえ、見ず知らずのガキ相手によくしてくれた相手に、罪悪感一つ湧かず平然と嘘をつける自分に浮かべた自嘲を掻き消すことに労力を使ってしまう。少々歪さを伴った口元はうまい具合に曖昧さを浮かべ、興味のない話題への愛想笑いに見えた。老婆も子どもにはつまらない話題と分かっているのか苦笑したが、それでも危なっかしい年頃の子どもへ忠告を施す。
「捕まってはいてもね、鬼は伝染するもんだから」
「伝染?」
少し声を細めた老婆の言葉に、ヒナトの頭に浮かんだのは両親を殺した流行病だった。しかし、鬼は身の内を突き破って発生するものであって、咳や体液で他者にうつるなど聞いたことがない。胡乱気な目を向けると、老婆はまるで幼子に言い含めるように声を潜めた。
「いいかい、坊や。鬼っていうのはね、神様を捨てちまった奴のことをいうんだよ。思考ってのは伝染する。それが悪しき道なら尚のこと。知ってしまった道は、何かの拍子にひょっこり顔を出しては人を苛み、導くんだ。こっちにも道はあるんだと頭を過っても、決して踏み入っちゃあいけないよ。知っちゃいけない道は確かにあるんだ」
年寄りは、すぐ説教臭くなる。そんな軽口でさっさと店を出てしまえばよかったのに、ヒナトの足は糸くずが散らばる床にぴたりと縫い付けられた。背負ったばかりの鞄が肩にぎしりと食い込んだ気がする。まだ大した荷物は入れていないのに、両手で肩にぶら下がられているようだ。
「道を外れることをえらぶっちゃいけない。真っ当な道を馬鹿にしちゃいけない。人の道を外れた奴が格好いいだなんて、決して思っちゃいけないよ。鬼が忌避される理由は、選んじゃいけない道が形を持って現れたからなんだから」
老婆が息継ぎの為に言葉を途切れさせた瞬間と、ヒナトの呼吸がちょうど吐く体勢だったのは偶然だった。けれど、ヒナトはその隙をちゃんと掴んだ。
「……婆さんはすぐ説教臭くなるなぁ。じゃあな、婆さん!」
息を吐いた勢いで言葉も吐き出し、ひらりと手を振って背を向けた。肩を軋ませる肩紐をそれぞれ掴み、よいしょと位置を調整する。背負った荷物なんて、重くてなんぼだ。背負わされた荷物が重いのはごめんだけれど、背負いたくて背負った荷物は軽いほうが不安になる。
後ろから流れてくる苦笑の気配と「まいどー」との手慣れた挨拶と一緒に、ヒナトは店を飛び出した。