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星抱く鬼  作者: 守野伊音
3/13

3.雀の額





 整備された街道沿いには、今日も閑古鳥を鳴かせながら屋台が軒を連ねる。ちらほらと通り過ぎる旅人以外は見慣れた面々が、いつも通り、いつもなら、つまらなそうに片手間で続けている屋台だ。ここが旅人で溢れ返り、次から次へと建っていった宿が足りなくなる全盛期を、ヒナトは知らない。


 誰も彼もが退屈そうに毎日同じ行動を繰り返していた。笑顔がなかったわけじゃない。子どもは楽しそうに道を駆け抜けたし、犬ははち切れんばかりに尻尾を振っていたし、どこかでは子どもが生まれた。

 けれど、ここは吹き溜まりだと誰もが思っていた。新しい街道ができて町は着々と寂れてきたし、下卑た笑い声が硝子を砕く音が響けば誰もの視線は下を向いた。昨日も聞いた音を今日も聞き、これが明日も続くのだと。誰も抜け出せない。だってここは吹き溜まり。道はどこまでも続いていくのに、数え切れない旅人達が通り過ぎていった旅の途中なのに、町人達にはここが行き止まりなのだ。



「クリツ!」


 何も変わらないはずの町並みは、いつもよりはるかにざわついていて、不気味なほど静まり返っている。誰もが惨殺事件の起きた屋敷を見上げ、痛ましい顔をした。信じられないと嘆く端々に、いつかはこうなると思ったなんて同情の色を乗せて。

 大声で叫ぶヒナトを、誰もが憐憫の瞳で見る。見るのに、誰も、誰も一緒に探そうとはしない。この町でクリツが頼る人間などヒナトしかいない。そのヒナトの元にクリツがいなかった以上、もう彼は今まで町民が知っていたクリツではないのだ。

 鬼は、人間ではありえない力を宿す。肉を引き裂き、骨を噛み砕き、千里の道を三日で駆け抜けるともいわれている。そうでなくても鬼となった人間は感情の箍外れた状態だ。怒りの感情が振り切れた相手など、鬼ではなくても近寄りたくないだろう。

 それが、大事な人でさえなければ。


「クリツっ……!」


 鬼に、なったのか? 鬼になってしまったのか?


 六年前、街道沿いの宿命とも呼べる流行病で両親は死んだ。旅人によって各地から運ばれてきた病に対抗できる腕のいい医者はもう老人だった。八年前に老衰で死んだあと、寂れていく町に来てくれる名医はいなかったのだ。


 両親が死に、連絡を受けて飛んでやってきたのは遠くに住む両親の兄弟で。幼かったヒナトは、まさか、そう多くもなかった遺産含めて根こそぎ奪い、そのまま去っていくなんて夢にも思わず。金もなく一人取り残されたヒナトを見て、近所の『やさしいおじさん』『やさしいおばさん』がこぞって視線を逸らし、そそくさ家の中に逃げ帰っていくなんて欠片も思わず。

 幼かったヒナトは愕然とし、そして。

 大事なものは多くなくていいんだと知った。




 クリツの行先に当てが全くなかったわけじゃない。何も考えずに走り出したのは、昨日も行った木だ。しかしヒナトは、町の外れで足を止めた。人の目を外れた先で、ようやく思考が回り出す。背中を丸め、膝に手をつく。荒い息で胸を膨らませるたびに、胸元の地図がポケットの隙間から見えた。

 どうしてこれがここにあるのだろう。

 ヒナトは汗が伝い落ちる喉をぐっと鳴らした。


 会いに、来たのだろうか。いなくなる前に、会いに。どうして気づかなかったのだろうと頭を掻きむしりたくなる。苛立ちは友へも向く。どうして声をかけなかった、起こせよと叫びたいのに、怒鳴りつけても無駄だろうと分かっていることが何より悔しい。だってヒナトの友達は、酷く優しい奴だったから。

 だから、こっちじゃない。


「くそっ」


 自分に悪態をついたヒナトは、整う兆しの見えない呼吸を無理やり飲みこんで、今来た道を駆け戻った。間に合うかは分からない。事態が起こった正確な時間は分からないけれど、少なくとも数時間は経過しているはずだ。待っていてもらうか休まずの強行軍でもしない限り、相手が人の足でも今日中に追いつけるかどうか。まして、信じたくはないが、鬼となっていた場合。追いつける時間差ではなかった。

 それでもヒナトは止まらない。止まれるはずがない。約束した一等星を置いていった友達を黙って見送れるほど、大切なものは多くないのだ。


「こんなシャツと地図、餞別にもならねぇぞ、馬鹿野郎が!」


 まだ落ち着かない呼吸を押しても無理矢理吼えた文句は、荒れ狂う心臓を鼓舞し、ヒナトの足を回転させてくれた。








「……っぱり、こ、こに、いた、な」


 ぜいぜいと呼吸とも呼べない哀れな音を吐き出して、ヒナトは走りすぎて破裂しそうな肺と心臓に屈服してその身を明け渡す。地面にごろりと仰向けに寝転がり、胸を激しく上下させながら、視線だけは上に据えたままだ。逆さまになった世界では、見慣れた深紅はいつもの馬の尻尾を解き、好き勝手に風に流している。


 ここは風が強い。谷と呼ぶには浅いけれど、落ちれば大怪我は免れない崖を繋ぐ吊り橋は、三年ほどまでに切れてしまった。旅人が減った現状では貼り直す費用を捻出しても割に合わないとこの道は放棄され、今ではかつて橋を吊り下げていた太い杭だけが双方の崖端に残されるのみとなっている。それなりの高さがある下を覗きこめば、水量のある緑色の川が流れていた。深さのある川はとろりとした深緑色だ。クリツの瞳の色も緑だけれど、もっと光を溶かした宝石みたいな色をしている。そういえば海の水は青いらしいと、振り向かない背中を見ながらぼんやり思い出した。


 起き上がる為の気力を全て費やし、最優先で整えた呼吸を意識してなだらかにさせ、問う。


「で、何があった?」

「何もない」


 ヒナトは息を飲んだ。

 返された言葉は想定内だったけれど、言葉を紡いだ声音は、長い付き合いになる自分が聞いたことのないものだった。冬の風のように冷たく、肌を切り裂く声だ。無言で起き上がる。土で汚れた服を軽くはたく。はたいた所でズボンは元から汚れているのでおざなりではあったが。


「帰れ」


 知らない声音が、知らない口調で紡いだ言葉を、ヒナトは鼻で笑う。

 立ち上がった視界には、座ったまま決して振り向かない背中がある。深紅の髪が、崖に掻き混ぜられた風で揺れて額が覗く。髪は、額の「何か」に引っかかり、歪にはためいた。


「やだね」

「帰れ」

「待ってたくせに」


 鬼の足で走り出されたら、時間差などなくても大抵の人間では追い付けはしない。それなのに、少なくとも数時間前に行方をくらませたクリツはここにいた。ここで、ヒナトを待っていた。他の誰かを待っていたとは思わない。そんな誰かがいたのなら、クリツはいつも一人で膝を抱えたりしていなかっただろう。


「確かめただけだ」


 冷たい、底冷えのする声で目の前の背中が動く。おどおどとした自信の無い動きとは違う、静かで音のない、炎のゆらめきのようなしなやかさで立ち上がった幼馴染と顔を合わせたヒナトは、静かに瞳を伏せた。


 よりにもよって、四鬼かよ。


 ヒナトは熱くなった瞳の熱をぐっと鼻の奥に飲みこんだ。







 白い額には、昨日まではなかった物が存在している。質の良い洗髪薬で整えられた癖のない髪は、普段ならその額を隠していた。だが今は、額の左右から二本ずつ突き出た四本の角によって流れが変わり、真ん中に集中している。


 鬼には段階があった。一時の感情が爆発しただけなら、一本の角しか生えない。角の数が増えるほど人から遠ざかる。力も、正気も、角の数で測った。

 鬼の力が増せば、人は人に戻れなくなる。鬼は最も強い感情が爆発した者。基本的には最初に生えた角の数が変動することはない。だから人は、角の数で鬼の正気を測った。


 四鬼は、その名の通り四本の角を生やした鬼だ。現状確認されている中で、最も強い力を持つ鬼である。つまり、最も人から遠ざかった鬼だ。

 最も数の多い一鬼。最も数の少ない四鬼。人が瞬時に爆発させられる感情の上限は、大体決まっている。人として生まれた自分が壊れないよう、誰もが箍を持っているのだ。力の上限を超えれば肉体が、感情の上限を超えれば魂が壊れてしまうから、人は無意識のうちに身を守る。力を篭めても骨が折れる前に、憤怒しても魂が変質せぬ前に、本能で力を抜く。制御して、制限する。人にとって己の破滅と破壊を招く制御を捨て去るのは難しい。

 そのはずだった。


 見慣れた友の額に生えた四本の角。左右から二本ずつ。外側より内側のほうが少し短く、色は髪と同じ色で、何だか不思議だった。肌の色でも骨の色でもなく、髪の色なんだなと、ぼんやり思う。世界中で最も人から遠ざかった友に、浮かんだ感想はそんなものだった自分が、ヒナトは少しおかしかった。


「町に戻るぞ、クリツ」

「どうして」


 友の声は、おどおどと震えるどころか、疑問の形を取りながら語尾を上げもしない。「どうして?」と、クリツはヒナトに聞いたのではなかった。

 クリツはヒナトに、明確な意思で答えたのだ。


「僕は戻らない。絶対に」

「……町に、か?」

「人にもだ」


 そう続けたクリツの質のいい服は、薄い色を好んだ彼があまり着なかった濃い色をしている。背中を見ていた時は気づかなかったその色が、何によって染まったものなのか分かってしまう。前面と、特に袖口を染め上げた服は、きっと二度と着られないだろう。どんな物でも捨てることに抵抗があるくらい貧乏だったヒナトでも、さっさと捨ててしまえと思ってしまうほど無残な状態だった。


「どうして、戻らないんだ」


 口の中が酷く乾く。急速に失われていった水分に取り残された唾液がねちゃりと滞る。声には乗らないよう、必死に飲み下しているヒナトの前で友が浮かべた表情を、ヒナトは一生忘れない。


「どうして戻る必要があるんだ」


 家族の血で染め上げた服を着たクリツは、まるで驚いた時のように瞳を開いている。だが、これは驚きなどではない。開かれた瞳の中で爛々と輝く深緑が現わしているもの。

 それは、歓喜だった。


「あの兄さんが一握りだったんだよ。片手の、一握り。それだけで飛び散った。あれだけ煩かった父さんも母さんも一息で静かになった。僕は強くなったんだ。もう誰も、何も、僕から奪えない。それはこの力があるからだ。こんな素敵なものを、どうして手放さなくてはいけないんだ」


 うっそりと、見たことのない顔で友が笑う。家族でどす黒く染まった服を着て、強者が笑う。


 ああ、駄目だ。ヒナトはそう思った。


 衰弱した父が結局吐き出せなかった最後の息を吸ったとき、父の看病と死で弱り切った母が父と同じ咳をしたとき、家に来てにたりと笑った親戚を見たとき、次々と背を向けた大人達を見たとき、そう思った。

 すとんと落ちた諦念が胸を満たすのだ。足掻く気力は深々と冷えていく胸の内に沈み込み、この現実をどう飲みこもうか彷徨う心を一緒に凍りつかせる。上手に飲みこめるほど大人じゃない。泣き喚くほど子どもじゃない。どうしようもないことをどうしようもないと諦める方法を教えてくれるには、この吹き溜まりの町はとても適していた。どうしようもないことを嘆いたってどうしようもない。もう終わったことなのだから泣いたって意味がない。全部が全部無駄なこと。町という名の教師はとても優秀で、何度も何度も、ヒナトが納得するまで現実を叩きつけてくれた。


「……確かめたって、なんだ」

「君には関係ない」

「ああ、そうかよ」


 風に揺れる髪を引っかけた深紅の角は、ヒナトが知っているどんな獣の物とも違っている。鋭いようで丸みのある、不思議な尖り方をしていた。


 四鬼は、歴史上でも数えるほどにしかいない。国を滅ぼされた王が、迫害を受け続けた一族の末裔が、騙され何もかも失った男が、信じて国を捨ててついていった男に裏切られた女が、野盗に村を焼かれた子どもが、四鬼になった。四鬼になった者に共通点はない。あるとすれば彼らの感情を弾けさせた何かがあった。それは確かだ。鬼になった人間は、一鬼も四鬼も関係なく、感情を弾けさせた事件があった。しかし、それ以外は生まれも国も性別も何も繋がらない。

 それなのに、その誰もが狂った。長い歴史の中で十数人だけ現れた四鬼は、誰一人の例外なく全てが鬼となった瞬間から狂ったのだ。三鬼も二鬼も一鬼ですらも、神院が人に戻さなければやがてじりじりと狂っていった。既に人としての箍が外れた状態なのだ。狂いは角の数が多いほどに早く、まるで血に飢えた獣のように人としての意思も記憶も失い、殺戮を繰り返す化け物となる。それでも、鬼となった当初は人の意思があるものだ。自らのしでかしたことに脅えることの多い一鬼、二鬼と違い、三鬼は力を手放そうとしない者が増えてくるが、それでも人の意識は残っている。

 だが四鬼は違う。鬼となった瞬間から狂うといわれていた。人であったことも忘れ、鬼となった理由も忘れ、ただ怒りのままに殺戮を繰り返す。


 そうヒナトに教えてくれたのは当人もその日に本で知ったばかりのクリツで、そんな怖いもの、一生見たくないと泣いた。

 


 俯いたヒナトの前で静かな風の揺らぎが舞い上がる。ここだって、橋が落ちていて怖いとクリツは泣いたのだ。ヒナトは静かに息を吸った。深く深く、肺を限界まで広げて吸った息には、もうとっくに乾いたはずの血の臭いがした。


「でも、これは関係なくないんだよ、ばぁか!」

「ぶっ……」


 胸元から引っ張り出した地図を、僅かに迷って顔面に貼りつける。本当は胸に叩きつけてやろうと思ったけれど、いくら乾いているとはいえ血みどろのシャツに貼りつける気は起きなかった。それに、結果的にはよかったらしい。まさかそう来るとは思わなかったらしく上がった間抜けな声に、ヒナトは大変満足した。


「町に帰らないのはいいさ、どうでも。でもお前、町出るってことは海行くってことだろ」

「いや、行かな」

「海へは一緒に行くって約束しただろ。それなのにてめぇ、一人で抜け駆けなんてさせねぇからな」

「だから行か」

「行くよ」


 言葉を遮られたクリツのむっとした顔が新鮮だった。泣きそうな困った顔は沢山見てきたけれど、怒ったり不満を漏らすことはほとんどなかったのだ。


「お前は行くよ」

「どうしてヒナトが決めるんだ」

「だってさ、町に帰らない、海にも行かない。じゃあお前、どこに行くんだよ」

「世界にあるのはその二つだけじゃない」

「二つだったよ、俺達には」


 そうだろう。問いではなく断定したヒナトの言葉に、クリツはさっきまで顔面に浮かべていた表情を全て仕舞いこんだ。その手には、さっき押し付けた一等星。異様に伸びた爪が、古い地図を握り締めている。

 お前の星だ。それは、お前のための星なんだよ。


「海に行くんだろ。……約束しただろ、クリツ。俺と一緒に海に行こうって、海を知ろうって、お前が言ったんだろ。お前、あんなに毎日本読んどいて、昨日の約束も覚えてられないのかよ。ばぁか!」


 鼻先が触れそうな勢いで詰めより、思いっきり罵倒する。唾が散ろうが構うものか。心の底から罵倒した相手は、さっきのヒナトみたいに俯いた。身長差はあまりない。クリツのほうが少し高いだけだから、俯かれると顔は見えなくなる。反対に、見慣れない四本の深紅はよく見えるようになった。


 昨日、彼の深紅に絡まっていた星の染料となった実を摘まんだように、向かって左端の一本をひょいっと摘まむ。ぎょっと半歩分後ずさった身体を追って腕を伸ばす。

 ヒナトが一歩も進まなくても事足りる距離しか離れなかった深緑が、上目づかいで見上げてくる。見上げているのはヒナトの指だ。ちりっと焦げるような熱を指先に感じる。角を掴む手を眺めながら視界に入れた瞳に宿る感情を、ヒナトは探った。


 緊張に近いのかもしれないと、強張る気配に思う。慣れ親しんだクリツの気配の中では脅えに近いようにも思えたけれど、彼が脅える理由はないはずだ。

 確かに、感情に折り合いをつけた鬼の角はぽろりと取れて人に戻ると聞くが、戻らないときっぱり言い切った彼の声音は、そう簡単に折り合いを見つけられる類の物には思えなかった。そして、鬼の角は柔いものではない。人の力で捥ぎ取れるなら、ヒナトは彼に恨まれてでもそうしただろう。でも、ヒナトがどれだけ力を篭めても、角はびくともしないし、まして捥ぎ取れるわけがない。鬼を人に戻せるのは神院の高い位を持った僧だけだ。角は力では奪えない。もっと根本的な、身の内からの感情を、湧き出る怒りを解さない限り鬼は人に戻れないのだ。


 ああそれならば何故、鬼の頂点である四鬼となったクリツは、息を止めてしまうほどの緊張を滲みださせているのだろう。ほんの欠片でも重心の掛け方を間違えれば砕け散ってしまう、薄氷の上に二人で立っているみたいだ。


 ヒナトは生まれて初めて触れた角を慎重に撫でる。人体で例えるなら爪より歯に近い感触だ。骨ならばもっと近いのだろうかと、記憶の中から骨の感触を引っ張り出すが、あまり馴染がないのですぐに散ってしまう。骨なんて周りの肉をこそげ取ってしまえばもう用なんてないのだ。肉屋の親父にでも触らせてもらえばよかった。

 そういえば、爪は切っても痛くないけれど、歯はぶつけると痛い。これはどっちになるのだろう。


「なあ、これって触っても痛くない?」

「散々触ってるくせに……」

「いや、なんか触るまで本物って気がしなくてさ。ちゃんと生えてるんだな。すげぇ。で、痛い? くすぐったい? それとも何も感じない?」

「感触はあるけど、別に触ったくらいじゃ痛くない」

「ふーん……」


 じゃあいいかと、つるつるとした表面を撫でる。肌とは違う感触なのに、それも確かに人体の一部で、どんな無機物よりやっぱり肌に近いと思えるのが不思議だ。身体の一部だからか、角は温かい。体温と同じ温度だ。じゃあ、やっぱり傷つくと痛いんだろうなと考える。

 温かいのは血が通っているからだ。血が通わなくなった途端、ついさっきまで人だった存在があっという間に人の形をした何かになる。肌はのっぺりと作り物のように肉に張り付き、全ての動きを止めて微動だにしない。さっきまで動いていることが当たり前だった身体は、微動だにしないことが当たり前となり、動いてしまえば人でも死体でもなく物の怪の類となる物体へと成り果てたのだ。


 人は血が通うから人なのだと、目の前で息を引き取った父親を見て思い知った。血が温かいから、人は温かいのだ。肌が色づき、熱を持つ。冷酷な人間を冷血と呼ぶ理由も、あのとき理解した。



 川から立ち昇る冷たい風は、血が通わない人体の一部、髪の毛を冷やす。温かな角を握る指の内側と、冷たい髪の毛が撫でる指の外側。人であった頃から変わらないほうが冷たいなんてと、ちょっと笑った。


「君は、怖くないのか」

「こえぇよ」


 きっぱり言い切って、答えを聞くと同時に一歩下がろうとした角を掴み直して引き寄せる。


「だって俺、金ねぇもん」

「…………え?」


 これまたきっぱり言い切ったヒナトに、深緑がぱちりと瞬いた。ヒナトは尻ポケットに突っ込んだ掌で包みこめるの小さな袋を取り出し、クリツの右手を引いて握っていた地図の上に乗せる。じゃらりと鳴ったのは、ヒナトの虎の子金貨の海、ではなく、銅貨の水溜り。猫の額どころか雀の額寄りのささやかな資金。雀の涙よりはあると信じたい。それを見つめていた瞳が上がってくる。


「…………え?」

「だぁかぁらぁ、俺、金がこれくらいしかねぇの。一応来(きた)る日の為に貯めてきたけど、まさか今日だとは思わなくてさ。飯も、炊く暇なかったから、これ半分こだぞ」


 角から手を離し、クリツの左手を引いて反対側のポケットに捻じ込んでいた干し芋を渡す。掌くらいの大きさしかないから、腹の足しになったらいいなという願望程度の量しかない。出来るなら握り飯くらいは用意してきたかったけれど、炊いてくる暇なんて当然あるはずもなかった。残り少ない米をちまちま食べていたのに、毎晩朝飯の為に水に浸けていた分を丸々放棄してきたのは痛い。かといって釜ごと抱えてくるわけにもいかないので諦めるしかないだろう。

 家に放置されているであろう水に浸かった米を諦める。ここに来るまでに一旦家に戻ったけれど、床板の下から虎の子を引っ張り出し、干し芋をポケットにねじ込んだだけで飛び出してきたので始末してくる暇などなかったのだ。ばたばたと流れる記憶を思い出しながら、ヒナトはちょっと眉を上げた。そういえば、いつもは閉めている釜の蓋が開いていた気がする。急いでいたのでろくに確認もしなかったが、いつもはちょっとした振動でぱらぱら埃や屑を降らせてくる天井や壁の被害をこうむらないようしっかり閉めていたのに。

 まあ、今はそれどころではないし、どうせもう戻らない。腐って異臭を放てば誰か捨てるかもしれないし、捨てられずともいつかは乾燥して放つ異臭も無くなるだろうからどうでもいい。


 右手に星と猫の額、左手にかろうじて腹の足し。血塗れの服を着た四本角の友達は、自分の両手を交互に見てぱちりと瞬きした瞳を上げて、ヒナトを見た。


「なんだよ。いくら見たって俺の手持ちはもうそれだけだぞ。なんなら飛んでみせようか?」


 ぴょんぴょん飛び跳ねてみせる。ちゃりちゃりと小銭が掠れあう音はなく、悲しいくらい無音だ。音は予想外のところから訪れた。軽く飛んだだけの膝が折れ、がくりと崩れ落ちたのだ。自分がたてたべしゃっと響いた間抜けな音にびっくりしたヒナトは、次いで襲ってきた筋を震わす激痛に情けない声を上げた。


「いたたたたた!」


 左足から存在を主張する激痛は、寝こみを襲う嫌な奴だ。足を抱えて地面をごろごろ転がり回る。


「つ、攣った……走りすぎた……」


 よく考えれば、朝から何も食べていない。水すら飲んでいなかったことをようやく思い出した。そんな状態で切羽詰まって全力疾走していれば、そりゃあ攣るだろう。足だって文句の一つや二つ言いたいはずだ。だが、今になって思い出したように特大の文句を喚き立てる自分の足に、ヒナトだって恨み言の一つや二つ言ったっていいはずである。

 しかし、ヒナトの恨み言は、溜息をついて全ての手持ちをヒナトに押し付けたクリツによって止まった。

 クリツは伸びた長い爪を銜えると、躊躇いもなく牙で噛み切っていく。淡々と素早く爪を噛み切っていく様子に首を傾げたヒナトの前に、人並みの長さに爪を揃えたクリツが膝をつく。


「お前何やって……いでででで!」


 クリツによって脱がされた足の親指が容赦なくぐりぐり回される。筋を無理やり引き回される痛みに暴れた拍子に、現在の全財産が落ちそうになって慌てて抱え込む。


「あぶねっいでででででで!」

「我慢してよ。攣ったとき、これが一番いいんだって言ったのヒナトじゃないの」


 呆れた声の語尾が柔らかくて、ヒナトは痛みで薄ら幕を張った瞳でクリツを見た。柔らかいのは声音じゃない。語尾だ。クリツの言葉は柔らかい。声音も言葉遣いも、柔らかな物で構成されていた。それなのにさっきから、まるで断ち切るような語尾ばかりを使っていた。

 それが悪いとは言わない。言葉遣いなんて好きにすればいい。ヒナトだって決して品がいいとはいえない荒らくたいものだし、環境でも年齢でも変わっていくものだ。


「海、行くんだろ、クリツ」

「…………うん」

「俺と行くんだろ」

「……うん」

「じゃあ、それでいいじゃん。なんで勝手にややこしく考えてんだ。お前は俺と一緒に海に行く。それだけだろ。何があろうが、俺とのほうが先約なんだから、勝手に予定変更してんじゃねぇよ」

「……うん」


 言葉遣いなんてなんだっていい。誰の言葉遣いがどうなろうと、興味なんてない。だけどヒナトは、クリツの言葉遣いが好きだった。幼い子どものようでいて、喧しさではなく柔らかさを溶かした声によく似合う。彼の兄みたいな酒焼けして掠れ始めた轟音叩きつけるような物とも、彼の父のような年齢を重ねて落ち着いたけれど少し早口な物とも、彼の母のような甲高いけれど乱暴な言葉は一切使わない物でもない、彼だけの言葉遣いが。静かで柔らかで、時に情けなく時に弾んだ声が、夢を語る言葉が、一等好きだった。


「……ヒナト?」

「あー、いてぇ」


 仰け反った動きに合わせた両腕で顔を覆い、痛みに隠れたヒナトは、少しだけ泣いた。








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