2.消えた友達
過去の栄光で建てられた町長の屋敷は町一番の大きさだ。大きさだけではなく、柱一本までもが都から取り寄せられた特注品なのだそうだが、今ではこれと同じ建物は建てられないだろう。それでも維持するのに困っていない程度には、何世代も街道沿いの町の町長を務めてきた恩恵は大きい。
雨漏りの心配よりは泥棒の心配をしなければならないような、大きく美しい屋敷の中で、ヒナトの友達は幸せそうじゃなかったなと。
今はそれだけが頭を回っている。
何か知らないかと引っ張り出された屋敷の中。この中に入ったのはもうずいぶん昔のことだ。自分達がもっと幼くて、ヒナトの両親が生きていて、まだ世界がそんなに冷たくなかった頃。まだ、全てが土埃で色褪せて見えなかった頃。
自分の家とは比較にもならない大きな大きな屋敷の中を当たり前に進むのに、凄いなお前の家と言ったらいつも困ったように控えめな笑みしか貼りつけなかった、ヒナトの友達を、思い出す。
白いシーツが部屋の中に三つ、床に並べられている。三人分だと、震える声で言ったのは肉屋の親父か魚屋の親父か果物屋の婆か。
いつもなら有り得ない人間が町長自慢の屋敷に出入りしている。この屋敷の主である一家族が丸々消え失せたからだ。警邏が、町民が、元から屋敷で働く人間と入り混じって、まるで空がひっくり返ったような大騒ぎだ。
だが、どれだけ人間が増えようが意味はない。ヒナトが探す彼がいなければ、なんの意味もないではないか。
一歩踏み込んだ部屋の中は、凄惨の一言に尽きた。
家具だけではなく、床に壁に天井に、赤黒色の染みができている。窓という窓は開け放たれているから、独特の臭いは篭らず寧ろ外から新緑の季節らしい青々とした風が流れ込んできていた。それなのに、空気はねっとりと粘着質に思えた。鉄錆びの、人の命を循環させる独特の液体が体外に排出された時に初めて醸し出す独特の匂いが、部屋中に満ちている。
肉屋の親父、仕事する場所間違えたんじゃないかなんて軽口を叩きたかったのに、部屋の中も世界も、そんな軽口を叩ける空気を根こそぎ失っていた。
三人分だと言われたシーツの形はひどく歪で、でこぼことしていた。頭が、手が、足があるはずの場所には何もなく、小山が三つ出来ただけ。だって中身はバラバラだから。
鬼が、引き裂いていったから。
身体の力が抜けてよろめく。足よりも先に腰の力が散り、地面にへたり込むのではなく後ろに重心が傾いた。壁に背がつき、呆然と振り向く。目線と同じ位置にも赤黒い染みがこびりついていたが、既に乾き切っている。一体いつから、一体いつ、いつ、こんな。
「クリツ……クリツは、どこだ」
小山は三つ。馬鹿みたいに大きな山と、それより小振りな山が二つ。小柄な彼らの両親より一際小さかった、ヒナトの友達はここにはいない。いるものか。
答えたのはこの家の使用人だった。使用人達は顔面蒼白のまま、主不在の屋敷で走り回っている。
「恐らく、クリツ様は、いらっしゃいません」
震える声に、目の前が真っ赤になった。老人に足を踏み入れはじめた男の胸倉を掴み上げる。
「恐らくってなんだよ! なんでこんな、こんなになっても誰も気づかなかったんだよ!」
「だ、旦那様が人払いを」
「なんでだよ!」
「…………分からないんだ」
ヒナトの何倍も生きてきたはずの男は、いつもぱりっと着ていた服をむちゃくちゃに掴まれたまま、迷子のような声を出した。
「昨晩、庭で、坊ちゃまをお見かけしたように思えた。だが、すぐに走っていってしまわれて……見間違いだと思ったんだ。額に、角があるように見えて、見間違いだと……その並木の傍だったから、枝か何かを見間違えたんだろうと、顔と肩くらいしか見えなかったからそもそもあれは坊ちゃまではなかったのだと、俺は疲れているんだろうと……だって、あの優しい坊ちゃまが鬼になるなんてっ……!」
男はヒナトに掴まれた手を振りほどかず、そのままヒナトの両肩を掴んだ。
「坊ちゃまの居場所を知らないか? ……頼む、教えてくれ。神院にはもう連絡をしているからすぐに来てくれるだろうが、その時に坊ちゃまがいなければならないんだ。坊ちゃまが鬼の力を手放す気がないとなると、鬼狩人が出てきてしまう」
「鬼、狩人」
知っている。この町には縁のない単語だったけれど、知識を得ることが好きな友達のおかげで、ヒナトはいろんな言葉を知っていた。
鬼となった人間は、神院の元で人に戻る。大抵の人間は大人しく従う。感情が爆発して鬼となってしまっても、否、なってしまったからこそ、その事実に愕然とし、人ではなくなった己を恐怖する。一線を越えてしまった自分に脅え、まだ人に戻る手段が残っていることに、取り返しがつく事実に安堵する。早く人に戻りたいと願う者が大半だ。
だが、中には力に溺れ、鬼の力を手放さない者もいる。人非ざる鬼の力、圧倒的な力に酔いしれて暴挙に走る輩も少ないとは言い切れない数が確かに存在した。そういう鬼は、神院の名の元に鬼狩人が迅速に対処する。
ヒナトは男の胸元を掴んでいた手を解き、自分の胸を握り締めた。神院の管理下に入らない鬼、または鬼となった事実のある人間は。
「クリツが、殺される」
最早人ではない化け物として、鬼狩人に狩られる。
男は両手で顔を覆った。
「坊ちゃまは気のお優しい方だった。けれど……旦那様達の……若様の坊ちゃまへの態度はあまりに…………けれど、けれど、あの坊ちゃまがっ」
知っていた。分かっていた。寂れ始めたこの閉ざされた町で、知らないはずがない。人々は知っていた。クリツが家族によって虐げられていたことを。
だけど、何もしなかった。閉ざされた町で、長に逆らって生きていけるか否か。学がなくたって、いや、学がないからこそ分かる。だから町民は、虐げられるクリツを日常にした。共に虐げるほど良心を失っていなかったから、棍棒を持って弟を追いかける兄に違う道を教えたり、旅人が置いていった本をこっそり渡したりと、出来る償いをした。けれど、クリツの日常を変えようとした者は誰もいない。誰もに守るものがあった。職が、家が、家族が、暮らしが、日常があったのだ。
ヒナトには家族がいない。親類縁者は遠い町にいるし、そもそも両親が死んで以来関わりは一切ないから関係がない。だから、良くも悪くも守りたいものの為に躊躇う理由がないのだ。
それでも最近は、面と向かって彼の兄に立ち向かうことは少なくなった。昔は、クリツがいじめられる度にぼろきれになるまで殴り飛ばされようと懲りずに向かっていた。だが、すばしっこさと悪知恵を身に着け反撃できる回数が増えるたびに、クリツの怪我が増えるようになったことに気づいてやめた。外では幾らでも手を引いて走ってやれる。石を投げられれば投げた相手に殴り掛かってやれる。
けれど、ヒナトはクリツの家族ではないのだ。
クリツの家に、ヒナトは帰れない。家という密室の箱庭の中で繰り広げられる理不尽を遮ってやれないのに、彼の兄を苛立たせてクリツの元に返すのは、自分の自己満足でしかないと気づいたのだ。
町民達は、目の前で繰り広げられる異常を異常と声高々に叫び糾弾する正しさよりも、己の日常を選び取った。正しさよりも日常を選び取った彼らの狡さを、クリツは一度も恨まなかった。そういう、優しい奴だった。彼はそれを弱虫な自分の諦めと呼んだけれど、根本にあるのは彼の優しさだと、ヒナトは知っている。
どこに行った、クリツ。どうしてここにいないんだ。
息が荒くなるのに、ちっとも吸えやしない。きんっと冷え切った空気を取り込んだかのように、吸いこんでも吸いこんでも肺が凍りついて広がらない。痛いのか冷たいのか分からなくなった。固まってしまった肺ごと必死に握りしめた胸元が、くしゃりと鳴いた。着慣れないけれど触れ慣れた、天鵞絨のような手触りの服にしてはごわつく感触に、軋んでいた思考が逃げ場を求めて集中する。今はヒナトの服の着心地や手触りなんかどうでもいいのに、冷え切った指先をポケットに差し込んだ。
かさりと乾いた音が、爪先に触れた。何を考えられず、指先で挟みこんで引っ張り出す。
古ぼけた地図。
昔、何かの本に挟まっていたという、細かい道など何もなく、全体の把握すらあやふやになっている大雑把な地図。
地図を手に入れた日から、誰にも奪い取られないよう必死に隠してでも持ち続けた地図。ヒナトにだけ見せてくれたそれにでかでかと描かれた星は、昨日描きこんだ時より汁が酸化して黒ずんでいた。それなのに、やっぱり世界で一等輝いている。
「……なんでだよ」
ぐしゃりと握りしめた星に額をつけ、顔を隠す。
どこに行ったんだよ。約束したじゃないか。昨日、約束したじゃないか。俺と約束、したじゃないか。昨日よりずっと前から、海が見たいなぁって、俺に海への憧れを植え付けて。
『ヒナトと一緒に、海が見たいなぁ』
そう、言ったじゃないか。
「馬鹿クリツ……」
お前の星を置いたまま、夢なんて編めやしないんだぞ。
唸るように呟いたヒナトは、地図をポケットにねじ込んで駆け出した。誰の制止の声も届かない。訳が分からずともとりあえず止めようとしてくる曖昧な手を、明確な意思を持って弾きのける。
どの手をも振り払い、ヒナトは屋敷を飛び出した。