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星抱く鬼  作者: 守野伊音
12/13

12.ヒナトとクリツ






 葉っぱが揺れる音がする。地面に落ちて枯れた葉っぱじゃなくて、水が通う生きた葉っぱが揺れる音と、それらを支える枝のしなり。

 ヒナトはゆっくりと目蓋を開いた。最初は、木漏れ日を浴びながら昼寝でもしているのかと思った。そう、いつものよう。

 けれど、すぐに違うと気づく。自分達はもうあの山だけが広く、人が住む土地は狭苦しい故郷からは遠く離れた。それにいま光を割って揺れているものは、葉っぱや枝ではなく、もっとさらさらと流れる赤だ。

 膝に乗せたヒナトの日除けになっているクリツを下から覗き込む形になっているヒナトは、苦笑して手を伸ばした。


「なん、だよ……また、泣いてんのか、よ」

「泣いて、ないよ」

「どうだかなぁ」


 よっこらしょと身体を起こす。ヒナト達がいる場所は、広い野原にどっしり腰を下ろす岩の上だった。大きな岩は、どこからか転がってきたのか、誰かが運び込んだのか、それとも昔は沢山あったのに今では一人になってしまったのか、広い野原の中にぽつんと転がっている。

 日が当たって暖まった岩の上で、(ぬく)もった身体をゆっくりと伸ばす。頬に当たる風は穏やかで、水気を含んだ心地よい冷たさがある。これは水場を通る独特の風だ。草に隠れて見えないけれど、どこかに小川があるのだろう。


 周囲は、背の高い草が生えた穏やかな野原だった。背の高い草がこれだけ生えているということは、人の手が入っていないだけでなく、人も大型の野生動物もそうそう現れないということだ。だからこんなに穏やかなのかとヒナトは思ったけれど、すぐに穏やかな野原には不向きな姿を見つけた。



 新緑を迎えて生き生きと葉を伸ばす草花の中、ぽつんと立つのは宵闇を纏ったかのような唐傘だ。傘が独りでに立っているわけがないので、そこには必ず人がいる。唐傘は頭が隠れるほど深く持たれ、顔は見えない。けれど、そこに確かに立っている人間を、ヒナトはいったん無視することにした。



「ひでぇ顔してるぞ、お前」

「……君が目を覚まさないからだよ」

「ん? 俺そんな寝てた?」

「三日」

「嘘だろおい……え? じゃあもうここ海?」


 慌てて周囲を見回すけれど、どう見ても海には見えない。強いて言うならば見たことのない草花がちらほら見えるので、自分達が生まれ育った場所とは違う地域なんだなと改めて思ったくらいだ。

 視線をぐるりと回すだけで、唐傘が何十本か見えた。いつの間に増えたんだかと呆れ半分、関心半分で息を吐く。ヒナトの様子を見つめていたクリツは、同じ方向へちらりと視線を向けた。


「やっぱり何かいるんだ」

「お前、見えてなかったもんな」

「うん。いつから?」

「温泉越えた辺りからかな」

「ふぅん」


 ヒナトが向いている方向を、クリツはどうでもよさそうに一緒に眺めている。


「君がたまに妙な方向を見てたから、何かいるなとは思ってた。妙な気配もあったし」

「怒んねぇの?」

「何が?」

「何かいるって言わなかったこと」


 柔らかいけれどそれなりに風量のある風が、ヒナトとクリツの髪を巻き上げて流れていく。強い風は鋭利な感じを受けるし、柔らかい風は丸みを帯びた感じを受ける。風の丸みに組み込まれてふわりと揺れる髪を手で無造作に押さえて潰したクリツは、視線を空へと上げた。


「君が言う必要がないって判断したことなら、別に、どうでも」

「ふぅん」


 さっきのクリツのような相槌を返し、ヒナトはクリツと同じように上げていた視線を地上へと下ろした。



 ずらりと並ぶ唐傘は、この穏やかな景色に酷く不釣合いなのに、不思議なほどよく馴染む。場を壊すつもりがないからかもしれない。風が流れるままに裾を靡かせる以外は動かず、音を発さず、色で主張もしない。

 岩のようで、土のようで、木々のようで、水のようで。

 警戒心が騒ぎ立てなかったのはどうしてだろうと思っていたけれど、唐傘はずっとふらりと現れてはそこに立っているだけだった。そうしてふらりと姿を消すまで、音も発さず、動きもせず、ただそこにいるだけだ。

 ずかずかと踏み込んで来ず、襲い掛かっても来ず、遠すぎず近すぎず、ヒナト達を好きにさせてくれた。本当は、こうして欲しかったのだ。両親が死んだあと、別に町民達の誰かの家族に迎え入れてほしかったわけじゃない。ただ、見守ってくれたら、どうしても困った時だけ手を貸してくれたらそれでよかったのに、どうして、こんな見も知らぬ奴らにそれを与えられなければならないのだ。

 ヒナトは、虚しさに笑いだしたくなった表情を綺麗にしまいこんで口を開く。






「──おい、おっさん」

「レゼントだっつってんのに、お前聞きゃしねぇのな」


 唐傘の下から、ひょうきんな物言いで、酷く穏やかな声がした。ゆっくりと穏やかな川が起こす波のような動きで、唐傘が持ち上げられる。そのまま畳まれることはなく、肩に引っ掛ける形で取っ手を乗せ、片手を取っ手の先にかけて支えていた。

 手拭いをきちんと巻きつけた額を掻きながら、レゼントはにこりと笑った。


「ごめんな、クリツ。分かんなかっただろ。これな、鬼には見えなくなるんだ」


 首からぶら下げられた石のような何かを引っ張り出したレゼントは、にこにこと笑う。


「流石に気配までは消せないから、要改良といったところだけどな。……なあ、クリツ。そろそろその殺気消してくれよ。ヒナトが起きて少しはマシになったとはいえ、ずっと殺気垂れ流してたら疲れるだろ。お前も、俺達も」

「……姿を消せる奴に殺気を解けと言われて解く馬鹿はいない」

「これ、俺達にとっても諸刃なんだから、頼むよ」

「諸刃?」


 二人の会話に割り込んだヒナトと黙ったクリツに向けて、レゼントは器用に片目を瞑ってみせた。特に反応を返さない二人に肩を竦め、額に巻いた手拭いに手をかけた。くるくると解かれていく布を意味も分からず見ていた二人は、日に当たることなく真っ白な額にある物を見て、息を呑んだ。



「……お前」

「言っただろ、諸刃だって。言っても、ここにいるのは基本的に半分の奴らだけどな。俺を含めて。だから、見えなくはならなくて、見えづらくなるんだ。何せ俺達は、半分だから」


 まるで天気でも語るかのように、何でもないことを言ったといわんばかりにレゼントは、自然な動作で手拭いをくるくると自分の腕に巻きつけた。

 唐傘の下にあって尚、手拭いを巻くほど徹底されて隠された額。日に焼けない真っ白なそこには、赤黒い色の酷い火傷があった。だが、すぐに違うと気がついた。火傷を負ったにしては、奇妙だ。焼け爛れた形成のない肌の表面はつるりと平らだった。だからこそ余計に、他とは違う赤黒い色が奇妙に際立つ。

 同じような傷痕はクリツの額にも存在している。だが、こっちは肌の表面がでこぼこと本当に焼け爛れたかのようだ。


「鬼狩人はな、全員、鬼になったことがある奴らで、人には、戻りかけなんだ。だから、これを使うと仲間の姿もぼやける」


 レゼントは一歩も動かない。他の唐傘も視線を外した隙に近寄ってくることもなかった。





「少し、話しをしようか」


 レゼントは開いた掌を二人に見せつけるように前に突き出す。何の変哲もない掌だ。けれど、掌はゆらゆらと揺れていた。



「お前達には、選択肢が三つある。まずは一つめ、と言いたいところだけど、このまま二人で逃げ続けるのはどの観点から検討しても却下、というか、今から言う一つめと同じことになる。それを踏まえた上で改めて一つめ。二人一緒に死ぬ。このままだと、そうなる。鬼は狂うと言われているだろう? あれな、もう狂ってるんだ、鬼になった時点で。一度狂った歯車は、嵌め直さないとならないし、たとえ嵌め直せたとしても外れた拍子に欠けた部分を直さないまま回し続けたら必ず壊れる。鬼の心はな、人のそれよりも手間のかかる整備をいれないと駄目なんだ。気を抜いたその一瞬で、加減を忘れた力で傍にいる人間を、ヒナトを殺す羽目に陥るぞ、クリツ。鬼の根幹となった人間を失ったら、遅かれ早かれ鬼は死ぬ。鬼である以上、死ぬ。鬼とはそういう生き物だ。だから、一つ目は二人とも死ぬ、だ」



 親指が折りこまれる。



「二つめ、クリツは生き、ヒナトは死ぬ。鬼の力を手放して人に戻る。クリツに生かされているヒナトは死ぬが、クリツは人に戻る」



 人差し指が折りこまれる。



「三つめ、二人とも残る。ただし、クリツは鬼で在り続け、一生嘆き続けなければならない。人として生きたいと思った瞬間、ヒナトは死ぬ。ヒナトは……正直前例がなさ過ぎて未知数だが、成長できるかどうかも分からない。クリツが死ぬか、クリツがお前から興味を失うかすればヒナトは死ぬ。人への関心を持っても、ヒナトは死ぬ。一生怒り続け、憎み続け、嘆き続けることが、二人とも残る条件だ」



 中指が折りこまれる。



 風が流れていく。風の音よりも草が揺れる音のほうが強い。ざぁああと、細かく掠れ、引き千切れるように音が流れていく。

 ヒナトとクリツは、二人同時に迷うことなく口を開いた。


「二つめ」


 ヒナトは言った。


「三つめ」


 クリツは言った。



 各々が答えた瞬間、困ったように顔を見合わせた子どもに、レゼントは苦笑いを隠さなかった。


「答えを統一してから、もう一回教えてくれ。それまで俺ら、どっか行ってるから」


 それまで待っていると大人は言う。いつまでだって待っているからと大人は言う。


「……本当は、子どもが鬼になんてなっちゃいけないんだ。子どもを鬼にした責任は、全ての大人が負うべきものだ。お前達は、二人で完結しなくたっていい。子どもが社会から切り離されないために俺達大人がいるんだ。お前達が社会の一部になるまで道を敷いていくのが、先に大人になった者の務めなんだから。先生って、なんて書くか知ってるか? 先に生まれた者って書くんだ。だから、本当ならすべての大人が先生であるべきなんだ。それが理想と言われようと、そうであるべきなんだよ」


 ヒナトの父みたいなことを、大人は言う。教師であった父と同じことを、今更、全部失った後に、失ったからこそ訪れた結果で現れた大人が、言う。


「鬼は同じ感情にとらわれて、一歩も進めない。その救済の為に神院がいるんだ。神院に掬いとられた俺達鬼狩人は、自分達が人に戻るまでの間、鬼を追い続ける。同じ痛みを知った、仲間だからな。失った者には、失った者にしか分からないことがある。言っておくが、鬼狩人はしつこいぞ。救えなかった多くの鬼を見てきた上に、執着心が激しい奴らばかりだから余計にな。執着心が薄ければ、鬼になんてなりはしないさ」


 これを救済の手だと心から信じ、許し、許され、飛び込んでいけるような子どもだったらどれだけよかったか。助けてと、縋りつけたら救われたのだろうか。

 ヒナトもクリツも、今の自分に後悔などない。今の自分でなければ生きて来られなかった。だから後悔などないが、目の前で差し出されようとしている救済の手に、期待でも嫌悪でもなく、穏やかな諦念しか向けられない己の心に、ほんの少しだけ絶望した。

 凪いだ諦念しか向けられない心でも、この大人の手に委ねられているのは己達の明日だという事実が分かっていることが、虚しい。


 そんな二人の心を、鬼と人、両方を宿した大人は見透かしているのか、決して強引に踏み込もうとはしてこなかった。

 鬼と人を宿した大人は、誰を失って鬼となったのだろう。これだけの数の大人が鬼となったのだ。鬼となった人の数だけど、失われた誰かの唯一がいる。

 それでも世界は回っているのだ。幸であれ不幸であれ、恙なく、いつも通りに、世界は回り続ける。誰が死んでも、誰が虐げても、誰が失っても、誰が損なわれても、今日も世界は変わらない。



「なあ、大切なものを守る為に必要なものは何だと思う?」


 ゆっくりと唐傘を持ち上げた大人は、酷く静かな声で言った。


「全てを敵に回す覚悟じゃない。全てを味方にできる覚悟だ」


 唐傘を深く差した大人の姿がぶれる。

 この先は、もう海だよ。

 そんな言葉が耳に届いた頃には、周り中にいた唐傘の姿もどこにもなかった。





 海。

 ヒナトとクリツは同時に呟いた。

 それを目指して来たのだ。ここまで、海を目指して進み続けてきた。幼い頃からの熱、幼い二人の夢。

 けれど、目的地を目前にして、ヒナトは気づいた。気づいて、しまった。

 これからどうするか。それを決めてからでないと、海は終着点になってしまう。

 話を、しなければ。この、どうしようもなく頑固で優しい幼馴染と、話しをしなければいけない。

 ヒナトはゆっくりと口を開く。いつの間に唐傘は一本も見えなくなっていた。



 海に行く前に、話をしよう。

 そう言って笑ったヒナトに、クリツは何も言わなかった。







 草に隠れて見えなくなった小川で喉を潤した。湿りがよくなれば舌も回るし、思考も回る。

 これでもう、何も口籠る理由は何もない。


「石がな、あったんだ」


 たぶんと言いながら、後頭部を軽く叩く。

 向かい合って座っているクリツも水を飲んだはずなのに、萎れてしまった花のように頭を垂れている。だから後頭部を示しても見えないだろうが、ヒナトは構わず続けた。


「人って呆気ないよな。父さんと母さんの時もそう思ったけど、すぐ死ぬんだもん」


 あははと笑っても、クリツは顔を上げない。

 沈黙が落ちた二人の間を風が流れていく。山を走る風らしく少し冷たく、土よりも草花の匂いを背負った風を、ヒナトは黙って吸い込んだ。

 渇きが少ない湿った風が通り過ぎても、クリツは沈黙を纏ったままだった。けれど、ヒナトは黙って待った。急かすことも、苛立つこともなく、鼻歌さえ歌いそうな気楽さで。

 その様は、いつもとなんら変わらない。出会ってからずっと繰り広げてきた光景だった。ヒナトはいつまでだってクリツを待つ。クリツが躊躇って飲み込んできた言葉を告げる勇気が持てるまで。


「…………ああ、もう駄目だって、思ったんだ」


 ぽつりと、降り始めの雨より小さな声が落ちる。ヒナトは柔らかく微笑み、「うん」と、答えた。





「あの日、君とした約束が本当に嬉しくて……僕は、家に帰りたくなかった。だから遠回りして、ずっと夕陽を見てたんだ」

「うん、すっごく綺麗だったよな」

「……うん。でも、早く帰るべきだった。早く帰るべきだったんだ」


 まるで握りしめるように両手で顔を覆ったクリツの指先は、左右に生えた角に触れている。

 目の前で角が生える光景を、ヒナトは見た。角に色があるのは、彼が流した血の色だったのだと知ってしまったら、途端に悲しくなる。これは血の色だ。けれど、血を流したのは角を生やすに至るまでに受けた傷で。

 クリツの嘆きが、この色なのだ。

 クリツはいつまで経っても顔を上げなかった。けれど、深く吸った息を吐いた後は、酷く淡々と言葉を紡ぎ始めた。淀みなく、詰まりもしないのに、どこか壊れたみたいにつらつらと。


「最初は君だって気づかなかった。シーツに包まれていたから。でもそのシーツが人の形をしていたから……最初は兄さんが僕を驚かそうとしているんだって思った。あの人は僕が脅えたり痛がったりする姿を笑うのがとても好きだったからまた何かしたんだろうって。でもそれだったら父さんも母さんもこんなに青褪めた顔なんてしないとも思った。それに何故か、何故か……いつもなら絶対に近寄りたくないはずなのに、どうしてだか、シーツを捲らなきゃって、その下を、シーツの下にいる、人を、確かめなきゃって、思って」

「うん」

「シーツを捲ったら、君が、いたんだ」

「うん」

「頭を、打ったんだと、思う。抱き起したら、そこがべったり濡れてたから、でも、殴られたたんだよね……服も、泥だらけで、でも、血も……」

「うん」

「どうしてって、僕は言ったんだ。僕は……どうしてヒナトが死んでるのって、そう聞いたんだ。けれどあの人達は、あいつらは、どうしようって、言ったんだ」


 ぶつりと言葉を切ったクリツは、ゆっくりと顔を上げた。

 どろりとした感情の色が、緑色の瞳を覆って陰らせる。


「僕はあのとき、許せないって思った」

「うん」



「君を許さないと、決めたんだ」



「そっか」


 憎しみとも取れる感情を滾らせた瞳に睨まれたヒナトは、小さく笑った。それを見たクリツは、途端に迷子の子どものような顔になる。憎しみを語るときは淀みが無いのに、それを許されると途端に困り果てた顔になるクリツが、ヒナトは愛おしかった。


「憎んだあの人達を許すことは、きっとできる。君がそう望むなら、僕はそうしてみせる。だけど君を、君を失うことなんて、どうして許せる。僕は、僕を置いていく君だけは、何があっても許せない」


 凄いことを言うなと思う。憎んだ人は許すのに、憎む原因となったヒナトは許せないと言う。

 ヒナトは、胡坐を組んで合わせた自分の両足を掴み、身体中の力を抜いた。



「おれな、死ぬとき、どうして俺達には俺達しかいなかったんだろうって、思った」

「……君は、それが嫌だったの?」

「まさか。俺はそれでよかった」

「僕も、それでよかった」


 きっぱり言い切ったクリツにヒナトは笑う。俺だってそうだよと、きっぱり言い切る。

 ヒナトはずっとクリツだけでよかった。クリツもそうだ。二人はずっと、二人だけでよかった。何があろうと、互いさえいれば生きていけた。

 だけど。


「でもな、あのとき気づいた。それでよかったけど、それじゃ駄目だったんだ」

「……どうして」

「だって、俺が死んだらお前、一人になっちゃうだろ」


 二人だけで生きていけるなら、それでもよかったのかもしれない。だけど、ヒナトとクリツはとてもよく似た、違う人間だ。片方の心臓が止まって、残された心臓が止まるわけじゃない。たとえ、心が凍りつき、鬼となるほどの痛みに泣き叫んだとしても、人の身体は悲しみでは死ねないのだ。


「……僕は、君の運命になんてなりたくなかった。君の人生を歪める運命の人間なんかに、なりたくなかったよ……」

「俺もそう思ったよ。お前の運命になんて、なりたくなかった。お前を人の道から歪める悪魔になんて、なりたくはなかったんだよ」

「……僕と出会ってから、君は不幸ばかりだ。ご両親が亡くなって、財産も全て奪われて、兄さんに殴られて、終いには殺された」


 そんなことを思っていたのかと、少し驚く。長い付き合いで、なんでも知った気になっていたけれど、知らないことはまだあったのだ。だって、違う人間なのだから仕方がない。今まで知らなかったことを知っていくためには、この先も一緒にいるしかないけれど、それはもう叶わないらしい。


「違うよ、クリツ。一人だったら耐えられない不幸が訪れる前に、お前と会えたんだよ。だから、お前との出会いは、俺にとっては救いだったし、今でもそうだよ」


 だから、クリツ。喧嘩をしよう。

 初めての、喧嘩をしよう。

 きっとどうしようもなく頑固な俺達は、互いの願いを譲らない。相手の願いでも譲らない。譲れないんじゃない。絶対に譲らないと決めてしまったから、譲らない。

 ごめんな、クリツ。俺はお前の願いを叩き潰すよ。


「なあ、クリツ」

「……嫌だ」

「頼むよ」

「嫌だ」


 まだ何も言っていないのにと笑ってもよかったけれど、ヒナトがクリツの立場でも同じことをして、同じ言葉を返すことが分かってしまうから困る。

 同じだから、何を言われたら死ぬほど傷つくか、分かってしまうから、選べるのだ。



「俺もう、死にたいんだ」



 ごめんな、クリツ。

 そう微笑んだヒナトを、クリツは憎悪が篭った瞳で睨み返した。噛み締められた牙からぎちぎちと骨が軋む音がする。額の真ん中、失われた角があった場所が、ついさっき火傷を負ったかのように熱を放つ。

 同時に、ヒナトは己の胸から走る激痛に身を焼きながら、ゆっくりと笑みを濃くした。痛くは、ない。お前の怒りなんて、俺には痛くも痒くもないんだよ。


「お前の家族は罰を受けた。……お前の罰は、俺を失うことだよ」

「……君は、君は罰なんて受ける理由は何もなかった」

「俺は、運がなかっただけだよ。そんな死も、ある。そんな死ばっかりだ。死に意味なんてない。作っちゃいけない。人の死は、運がなかった、そんな理由で納得しなきゃいけないことなんだよ。死を尊んじゃ駄目だし、意味なんて作っちゃ駄目だ。そうだろ、クリツ。死に意味なんてあるのなら、どうして子どもが死ぬんだ。どうして善人が死ぬんだ。どうして優しい人間が死ぬんだ。どうして悪人が生き残るんだ。それはな、死に意味なんてないからだよ」


 ヒナトは、歯を軋ませながら俯いたクリツの手を取った。胸はまだ焼けるように痛い。この痛みが、命を繋いでくれたクリツの角から与えられた彼の痛みなのか、自分の心が軋む痛みなのかは分からない。区別などつかなくても、同じものだから変わりはないだろう。


「なあ、頼むよクリツ。俺の死に意味なんて持たせないでくれ。人の死に意味なんてあったら、俺は父さんと母さんの死をどうやって納得すればいいんだ。なあ、もう俺、苦しいんだ。人で無くなるのは全然、本当にちっとも怖くないけど、お前を鬼にしたままじゃないと生きていけない自分は、耐えられないんだ」


 なあ、クリツ。

 俺達、長い付き合いだけど、一度も喧嘩をしたことが無かったな。どうしてだろうな。俺は昔、自分自身とすらよく喧嘩をしたのに、お前とは本当に一度も喧嘩をしなかった。

 そんな相手と出会えた幸福が、ヒナトをここまで生かしてくれた。


「お前が死ぬときは迎えに来てやるよ。ただし、頑張って頑張って、生きて生きて、最後までちゃんと投げ出さないで生き切ったときだけだ。適当に生きて、命投げ出して迎えた死だったら俺は迎えに来ない。俺達は二度と出会えない。それが嫌なら最後までちゃんと生きろ。……生きていけるよ。俺がいなくたって、あんなくそみたいな町から離れたら、お前はいくらだって生きていける。何だって出来る。誰とだって出会える。幸いなんてこれからいくらでも」

「あるわけないだろうが!」


 握っていた手が振り払われた。弾かれた手はじんじんと痛む。

 クリツは、獣のような唸り声を上げてヒナトを睨む。今にも射殺さんばかりの憎悪を籠めて、ヒナトを失う事実を拒む。


「分からないとは言わせないぞ、ヒナトっ……。君を失うことが僕にとってどれほどのことか、僕にとっての君が、どれほどの救いだったのか!」


 分かるよ。ヒナトは穏やかに笑む。

 分かるよ。分かるさ。だって、俺にとってお前がそうだったのだから。


「…………君がくれる言葉は、頭じゃなくて胸に溜まっていく。それが僕にとってどれほどのことだったか……本当は、分からなくていいし、知られたくなかった。君にだけは、知られたくなかった。でも、君が死んだりするからっ!」

「芽吹いた以上、植物は枯れる。咲いた以上、花は枯れる。それが摂理だ。けれど、枯れるために生まれてくるわけじゃない。枯れるのは結果であり、流れだ。目的じゃない。人も、同じだろう? 死ぬために生まれてきたんじゃない。生きた結果が死なだけだ。そして、生まれた以上、人は死ぬんだ。どんな理由であれ、そこには死という事実だけが残る。それでいいんだ。それに……俺は、そうありたいんだよ」


 振り払われた手をもう一度握り直した、ヒナトは困ったように笑った。


「だから、なあ、クリツ。泣くなよ」


 ぼたぼたと大粒の雨が降る。

 ヒナトは昔から、クリツが泣く姿を沢山見てきた。それこそ、両手一杯に抱えてもまだ足りないくらい沢山。だけど、こんな泣き方は知らない。

 また一つ、知らなかったクリツがここにいる。もう知れないのだと思うと、惜しい。

 ヒナトが泣いたとき、両親はいつもヒナトを抱きしめてくれた。柔らかくて温かくて大きな身体は、絶対の安心をヒナトに与えてくれた。だけど、ここにあるのはヒナトの身体だけだ。薄っぺらくて温度が低くてクリツと同じ大きさの、ヒナトの身体しかない。

 それでも、ここにあるのがこれしかないのなら、ヒナトは躊躇わず使う。クリツのために、惜しむ何かは持ち合わせていないのだ。

 どうしようもなく泣くクリツの頭を抱え込み、自分の胸に押し付けてヒナトは空を見上げた。穢れなんて知りませんよと言いたげな澄んだ青い空だ。地上で誰が死のうが誰が幸福になろうが誰が絶望しようが誰が生まれようが、空には関係ない。


「なあ、クリツ。お前最初、俺がお前を見つけられるかどうか確認したな?」


 鬼になってしまったクリツを探して走り回った日。クリツはヒナトを待っていた。あの時クリツは、確かめただけだと言った。あの言葉の意味を、ヒナトはずっと考えていた。


「俺の中に、お前の角があってお前の居場所が分かるから、俺が追ってくるかどうか、確認したんだな」


 ヒナトがクリツを追わなければ、居場所が分かろうが問題ないと踏んだのだろう。だとしたら、ちゃんちゃらおかしい。


「なあ、クリツ。お前はさ、俺がお前を見つけられたのはお前の角があるからだって思ってるみたいだけどさ、でもさ、やっぱり俺はさ、角がなくてもお前を見つけられたって思うんだ」

「…………無理だよ」

「無理じゃない。だって俺、見つけるまで探すもん」


 だから、無理じゃない。見つけるまで探す。どんな願いも諦めない限り、叶わなかったことにはならないのだ。だけど、そこまでは言ってやらない。クリツがヒナトの生を諦めなかったら困るからだ。


「…………君が死んだら、僕も死ぬ」


 ヒナトは空を見ていた理由を、天を仰ぐに変更した。ほら、諦めない。困ったものだ。どうしてこう聞き分けが悪いんだ。逆の立場だったらヒナトも絶対にこの言い分を飲んだりしないけれど。


「生きる意味なんて、ないじゃないか」

「これから出来るかもしれないだろ」

「君がいないじゃないか」

「これから出会えるかもしれないだろ」

「君じゃないだろ」


 クリツはヒナトの胸から起き上がり、止めどなく涙を零しながら、はっきりと言う。



「君じゃ、ないだろ」



 この想いが恋ならば、いつかきっと終わりがあった。

 だけど、友達で、家族で、夢だった唯一へ向けるこの感情に、どうやって終わりを見つけ出せばいいのか、二人には分からない。大人だったら分かるのか。大人だったら、この唯一の愛を、証を、他の小さな愛と秤にかけて、数の多いほうを選べるのだろうか。

 他に沢山大事な物があれば、唯一を捨てていけたのか。でも、そんな生き方は知らない。大事な物なんて互いしかないのだ。もうずっと、ヒナトにはクリツしかいなかったし、クリツにはヒナトしかいなかった。

 これ以外の生き方は知らない。ヒナトはクリツ以外の何かを優先する自分を知らないし、知りたいとも思えないのだ。それなのに、どうやって、これ以上どうやってクリツを生かせばいいのか、分からない。


「──ヒナト」


 息を呑んだ音がした。クリツが驚いた顔をして、次いで慌てて両手を上げた。

 そのまま、さっきヒナトがしていたみたいにクリツの頭を抱え込み、自らの胸に押し付けた。ヒナトは歯を食い縛ったのに、額をつけた胸元は、見る見る間に濡れていった。


 友達なのだ。クリツは、ヒナトの大切な、唯一の、友達なのだ。

 鬼であっても、家族を殺した息子であっても、クリツはヒナトの友達なのだ。

 それを糾弾してくる奴らに聞きたい。

 だったらお前らが何してくれるんだよ。俺がへこんでたら励ましてくれるのか? ため息ついてたら茶いれてくれるのか? 俺が一人でいたくないとき、隣にいてくれるのかよ。

 俺の家族が死んだとき、俺みたいに、俺以上に、泣いてくれるのかよ!

 そう叫ぶだろう。何もしてくれなかった。ヒナトを痛みから救い出すことも、痛みに寄り添うことも、何も、何もなかった奴らより、ヒナトはクリツが大切だ。

 それなのに、どうすればいいのか分からない。大事に仕方が分からない。もう分からない。どうすればいいのか、もう、ずっと、ずっと考えているのに、分からないままなのだ。

 クリツが死ぬのは嫌だ。クリツがヒナトを生かす為だけに鬼で居続けるのも嫌だ。嫌だ。クリツが、ヒナトの所為で人から弾かれ、人であることを捨てることを受け入れることなどどうしてできるだろう。

 クリツは、本を読むのが好きなのだ。本が好きで、物語が好きで、世界について書かれていることが好きで、海が好きで。彼が知っていて、見たことがないものは世界中に溢れている。大人になれば、いくらだって自由に見に行けるはずだった。

 けれど、鬼ではそれもできなくなる。常に鬼狩人に追われて身を隠しながら生きなければならない。それに、本は人の中にしかないのだ。

 本は、人が生み出した物で、これからも生み出し続けるものだ。装丁も、中身も、人が作り出す。

 ヒナトはクリツに、好きなものを投げ出してほしくなかった。あんな環境にあり、あれだけ否定されてぐちゃぐちゃに叩き潰されても、決して捨てなかった夢を、ヒナトの所為で投げ出してほしくなかった。

 怖いことが苦手だと泣いた。怒ることが怖いと泣いた。傷つけることが怖いと泣いた。ヒナトが傷つくことが嫌だと泣いた。自分が殴られたときより、ヒナトが殴られたときのほうが三倍泣いた。

 そんなクリツが、一生、怒りと嘆きと憎しみを持続させて生き続けるなんて、ヒナトは絶対に嫌だ。

 だけどクリツは嫌だと言う。ヒナトがいなければ死ぬと言う。ヒナトを死なせないために鬼で居続けると言う。そんなの嫌だ。嫌なのに、ヒナトがクリツの立場ならそうする。絶対に、そうするのだ。


「……ヒナト」


 泣いたってどうにもならない。泣いたって腹は膨れないし、傷は治らないし、金は降ってこないし、壊れた屋根は直らないし、両親は帰ってこない。分かっている。分かっているけれど、どうすればいいのか分からないヒナトに、涙を止める術など分かるはずもなかった。


 どれだけ泣いただろう。降る雨に、流す雨。どっちが多かったかなんて分からないほどの雨が降った。澄み渡った空の下で降り続ける雨に差す傘を持たない二人のうち、先に言葉を発したのはクリツだった。


「……ねえ、ヒナト」


 クリツは、内緒話をするように息を顰め、はらりと雨を零した。


「海に、行こう」


 ヒナトは、秘め事を行うように小さく頷き、ぱたりと雨を落とした。


「……うん」



 海は、すぐそこだ。

 ひたひたと追いかけてきていた終わりも、もう、すぐ後ろで待っていた。









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