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星抱く鬼  作者: 守野伊音
11/13

11.消えた一等星





 それは、いつも通りの一日だった。

 閉鎖された町で毎日繰り返される日常は、何一つ変わらない。町民は何も変わらない日々をただ過ごす。時々上がる、酒と煙草で焼けたがらがらの笑い声から意識を逸らし、自らの生活だけを守る。変わり映えのしない閉ざされた日々が町民の全てであり、平和だった。

 あの町は、平和だった。ごくごく少数の不幸にさえ目を瞑れば機能する平和しか知らない町民達によって築かれた平和で、町は穏やかに回る。

 あれは、そんないつも通りの一日だった。




 いつもより酔っていたのか。いや、それですらいつも通りだったのだ。いつも飲みすぎで、いつも騒ぎすぎで、いつも怒鳴り散らして、いつも誰かに迷惑をかけて。そんな奴らだったのだから。

 クリツの兄は、取り巻きを連れてヒナトの帰り道を塞いだ。クリツから奪い取った本が消えたから、ヒナトを殴りに来たのだ。ヒナトは別に驚きはしなかった。酔った自分達がどこかに落としても、置き忘れても、それらはヒナトの所為なのだ。カードでついていなくても、雨が降っても、馬糞を踏んでもヒナトの所為だったように。朝クリツを殴りそびれても、クリツが本を読んでいなくても、クリツが自分達では到底解けないような問題をするりと解いても、それら全てがヒナトの所為だったように。

 酔った人間の思考など深く考えるだけ無駄だ。まして、素面でも変わらない男の言葉を一々否定してやる必要などない。相手の歪みを説得し、納得させ、訂正してやる気力と体力を費やす価値を、ヒナトはクリツの兄に持ってなどいなかった。だから、その歪みで本人達がどれほど損をしようと、人が離れて行こうと、酒と煙草の飲み過ぎで身体かいかれていこうと、どうでもよかった。


 クリツが言うことを聞かなくなった。お前が妙な入れ知恵をしたんだろう。俺のことを馬鹿にしやがって。そんなことを言いながら、クリツの兄はよくヒナトを殴る。あの日もそうだった。

 ヒナトが入れ知恵をしたこともあれば、クリツが自分で考えて拒否したこともあるのだが、馬鹿にしているについては心底その通りなので特に否定する必要を感じない。図体の大きさだけしか取り柄のない身体で力任せに殴りつけられても、そう思う。自分の手足も痛めているのに、ただぶん殴るしか能がない。その年になっても自分の身体の動かし方も加減も知らない男を、心底馬鹿にしている。


 いつも通り、適当に殴っていたぶっていけば気が晴れるだろう。そう思った。事実、その通りだった。その通りのはずだった。

 クリツの兄達は、毎日酒浸りになった手足で、ヒナトを殴ってがらがらと機嫌よく笑う。酒が切れれば震える手足を持てば、例え若くともすぐに体力など切れる。息が切れ、痛む手足を抱えてまでヒナトを殴るほどの熱意など、男達が持ち合わせているはずもない。

 逃げることは簡単だった。酒浸りの男達などすぐに撒ける。だが、ここでヒナトが逃げれば、男達は逃げられないクリツにその拳を向けるだろう。男達は、手間がかからず、絶対に反抗せず、誰からも制止されない相手を選ぶ。そんな相手にしか偉ぶれない。

 だからヒナトは黙って殴られた。蹴られても殴られても蔑まれても、どうせいつものことだと明日のことを考える。明日は何を食べようか。どうせ選べるものなどほとんどないけれど。口の中が切れたら粥のほうがいいかななんて、いつも通り考えていた。


 また一発殴られる。

 早くも息が切れ始めた男達を眺め、もうちょっと頑張ってくれないかなと願う。ここで存分に疲れて行けば家に帰って寝るだけになるだろう。そうすればクリツが無事だからもうちょっと頑張れと、のんびり考えていたのがいけなかったのだろうか。

 殴り飛ばされてたたらを踏んだ。思ったより重かった衝撃にかくんと膝が抜けた。


 そのまま、ヒナトの身体は後ろに傾いでいく。


「あ」と、誰かが間抜けな声を上げた。ぽんっと放り出したような、本当に間が抜けた声だった。

 そんな声を聞きながら、ヒナトは真っ赤に染まった空を見た。雲まで染まった空が綺麗で、ああ、クリツはきっとこの夕焼けに見惚れて立ち止まっているんだろうなと、くすりと笑う。


 遅く帰ればいい。

 遅く、遅く、夕食を食いっぱぐれない程度には早く、こいつらが酔い潰れて眠ってしまう程度には遅く、家に帰って。殴られず、怒鳴られず、哂われず。満ちた腹で、温かな湯で身体を清め、柔らかなベッドで、穏やかで優しい眠りについて、また明日。



 後頭部に衝撃があったように思う。慌てた男達の嗄れ声が聞こえたようにも思う。

 けれど、そのどれでもないことを考えたヒナトの命は、そこで潰えた。






 あれは、いつもと違う日だったのか。

 いいや、そんなことはない。ヒナトはそう思う。今でも、そう思う。


 何かはあった。

 けれど、やっぱりあれは、いつもと変わらない日だったのだ。











「クリツ、来なさい」


 珍しいなと、思った。いつもは使用人の誰かが出迎えてくれるのに、何故か今日に限って母がクリツを待っていた。

 何故だろうと浮かぶ疑問は、すぐに憂鬱へと変わる。きっと自分が何か、彼らの気に障ることをしたのだろう。本を読んでいたことがばれたのだろうか。最近は昔と比べて隠れて読むのも随分うまくなったからばれることは少なくなっていたのに。兄さんに剣を習いなさい、兄さんのように身体を鍛えなさい、明日は一日兄さんについていろいろ教わりなさい。そんなことを言われて終いだろう。




 そう思ったところで、『ヒナト』はぱちりと瞬きした。母はとうの昔にいなくなったし、これは自分の母ではない。そして元より兄などいないヒナトは、ぱちりぱちりと瞬きをして、すぐにこれが夢なのだと気づいた。

 それも酷く近しい、ごく最近に在った日の夢だ。自分ではなく、彼の中にある記憶なのだと、そう気づけたのは自分の中に彼の一部があるからだと、分かる。分かってしまうことが答えであったのに、ヒナトはその事実自体は全く苦痛ではなかった。

 ただ、痛かっただろうなと、この夢の主がこれから感じた痛みを思うことだけが苦痛だった。



 ヒナトの意識はすぐに溶ける。

 クリツの中に溶けていく。すんなりと、当たり前のように。それは、二人がとてもよく似ていたからか。それとも、クリツがヒナトの中にいるからか。ヒナトがクリツの中にいるからか。

 それら全てが正しく、そして答えではない。


 二人が簡単に溶け合えた理由は、とても簡単で、当たり前の事だった。


 ヒナトはクリツを拒絶せず、クリツはヒナトを拒絶しない。

 二人が溶けあった理由など、幾ら言葉を並べ立てたところで、それが全てで。



 絶対だったのだ。








 母につれられた先を見て、クリツの憂鬱は増す。そこが何故か兄の部屋だったからだ。

 ああ、兄はもう帰ってきているのか。それならば殴られるのだろう。殴られ、蹴られ、母の言葉ばかりの制止と、兄さんのように強くなりなさいと小言を言われるのだろう。

 今日はせっかく嬉しいことがあったのに。今でもじんわりと温かい胸を、そこに入っている星の地図を、服の上から握り締める。柔らかい言葉を貰った。夢のような約束を貰った。優しい手を繋いでもらった。

 せめて今日だけは、この柔らかい約束を抱いて眠りたかったのに。

 母に気づかれぬよう一つ溜息を吐き、静かに吸い込んだ。

 兄の部屋の扉はゆっくりと開かれていく。

 大丈夫だ。何があろうと、彼がいてくれるなら大丈夫だ。


『一緒にうみ見にいくぞ』


 今よりも幼く小さかった彼がくれた、変わらない言葉。


『おれがおまえを守ってやる』


 いつだって自分を支えてくれたはじまりの言葉を、彼はいつだって違えずにいてくれた。だから大丈夫。どれだけ痛いことがあろうと、理不尽なことがあろうと、辛くても苦しくても、彼がいてくれるなら。


 何があっても。






 兄の部屋は、酷く静かだった。兄がいればそれだけでしゃがれた大声が響き渡っていることが常であったのに、人がいるとは思えないほどしんっと静まり返っている。部屋の中を満たしているのは沈黙と父の葉巻の煙だった。吸っては消し、消してはふかし、忙しなく煙を部屋に送り続けている。兄は大きな身体を丸めるように床に座り込み、大きな手で頭を抱えていた。母は黙って扉を閉めたけれど、閉める際にかちゃかちゃと取っ手が鳴り、その手の震えを教えていた。


 妙な雰囲気に首を傾げかけて、ぎょっとなる。部屋の中央に白いシーツが横たわっていたのだ。シーツに対し、横たわるという表現はおかしいのだろう。だが、そのシーツが人の形に起伏を作っている場合、おかしくはなくなる。


 人の形を浮かび上がらせたシーツは、煙い部屋の中で酷く異質だった。異質だからこそ、現実には思えない。兄は自分が怖がったり痛がったりする姿を笑うのがとても好きだから、そういった遊びの一環なのだと。そう思いたいのに、部屋の空気が否定する。

 父と母は忙しなく視線を揺らし、兄はぶつぶつと何かを呟いていた。その誰もが青褪めた顔色を隠しもしない。


「どうするんだ」


 父が言った。


「ああこんな、どうしましょう」


 母が言った。


「こいつが悪いんだ」


 兄が言った。



 怖がりで弱虫な自分は、いつもならこんな恐ろしい物体には近寄るどころか、視界に入れることすら躊躇うだろう。

 けれど、何故だろう。足が勝手に進んでいく。



「何でこんなことに」


 うるさい。


「ああどうしたら」


 うるさい。


「俺の所為じゃない!」


 何かが、うるさい。




 白く恐ろしい塊の前まで進み、へたりと床に膝をついた。

 知っている。この大きさを、知っている。痩せて、同年代の子ども達より小さくて、けれど誰より輝いて笑うこの形を、自分は誰より知っていた。

 だけど彼は、クリツを驚かせて馬鹿にするようなことに加担したりは絶対にしない。そんなことを強要されようものなら、こんなにじっとしているはずもない。それなのにどうして、この見慣れた形の塊はぴくりとも動かないのだ。

 震える手で白いシーツに触れる。神経が研ぎ澄まされているのか、いつもなら気にもならない繊維の一本一本まで指の腹で感じられる。

 彼のはずがない。彼であるわけがない。

 勝手に抜けていく力を必死に籠めて、白を捲っていく。

 だって、この白い塊が彼なら。




「──ヒナト」




 クリツの星は、永久に失われてしまうのだから。









 見慣れた形が、白い覆いを外しても静かに横たわる。その全景を見た瞬間、何故だか震えが止まった。力は相変わらず入らなかったけれど、ふらりと手を伸ばし、痩せた身体を抱き上げる。まるで物みたいにぐらりと揺れる首を支えた手に、ざりっと異様な感触が触れた。僅かに指を動かせば、ざりざりと擦れて床に落ちていく赤黒い砂を視線で追う。

 芯から温度を失った肌が、抱き上げたクリツの首筋に触れる。どれだけ肌を触れあわせても温度が移っていかない。ひやりと貼り付けられた冷気がクリツの肌を冷やすだけで、抱きしめた身体は吐息ほどの温もりも得はしなかった。


「……ヒナト、ヒナト、ヒナト、ヒナト、ヒナト」

「うるせぇ、黙れっ!」


 心臓が震えあがりそうな怒声に、いつもなら震えあがっただろう声は、揺れもしなかった。


「ヒナト」


 海に行こうと言ってくれた。一緒に海に行こうと。

 世界でただ一人、クリツの言葉を聞いてくれた人。哂わず、踏みつけず、放り捨てず。言葉に耳を傾け、瞳を合わせ、手を繋いでくれた人。

 世界でただ一人、温かな。

 世界でただ一人、柔らかな。


 クリツの世界に輝く、たった一つの、星だった人。





「誰の所為なんだ」

「ああどうすれば」

「事故だったんだ」

「誰が悪いんだ」

「こんなことって」

「こいつが勝手に転んだんだ」

「……この子は身寄りが無かったな」

「……そうね、探す人もいないわ」

「こいつが一人で死んだんだ」

「無かったことにしよう」

「そうね、それがいいわ」

「こいつが勝手に死んだんだ」

「孤児一人の為にこの子の将来を台無しにするわけにはいかない」

「そうね、その通りだわ」

「俺は悪くない」

「どこかに埋めてくれば」

「ああ誰に頼めば」

「こいつが悪いんだ」

「こればっかりは誰かに頼むわけにはいかない」

「幸いこの子どもは軽いから」

「俺の所為じゃない」

「そうだとも」

「そうですとも」

「こいつが悪いんだ」

「その通りだ」

「その通りですとも」


 そう、だから。


「クリツ、これを誰も分からない場所に埋めてこい」


 三つの声が、重なった。









 三つ重なった音が。


「…………クリツ?」


 震えて。







 消えた。













 人間が失われた部屋は、鉄錆びの生々しい臭いが充満していた。天井にまで飛び散った水滴は、雨より重たい雫を床に落とす。


 人間が損なわれた部屋の中、唯一命がある存在が、かつては白かったシーツの傍にふらりと膝をつく。べちゃりと粘着質に濡れた音が響いたけれど、それに眉を顰める命はこの部屋のどこにも存在していなかった。


 下ろす際にかぶせ直したシーツをもう一度捲ったクリツは、背を丸め、ぴくりとも動かない身体に自ら近づく。

 血液が循環を止めた肌は艶を無くし、肉にぺたりと張り付いているだけだ。手を伸ばし、異様に伸びて尖った爪を引っかけないようそっと触れる。けれど、何も返らない。向けてくれた瞳も、言葉も、温もりも、何一つ。

 俯いた自分の顔を覆う髪は、歪に流れていた。左右に二本ずつ、そして中央に一つ、身の内を貫いた感情が形となって生えているからだ。

 観測されているのは四鬼まで。五鬼なんて誰の口の端に昇ったこともない。

 けれど、そんなことはどうでもいい。熱いのか冷たいのか分からない。痛いのか苦しいのか分からない。悲しいのか、つらいのかも、分からない。

 だって、答えてくれない。いつだって、クリツが言葉にすら出せなかった感情を汲み取ってくれた彼が。こんなに呼んでいるのに。




「ヒナト」


 応えは、ない。


「ヒナト……ねえ、ヒナト……やくそく……ヒナト……やくそく」


 幼子のように舌足らずな言葉で一心に呼びかけても、応える声も視線もあるはずがない。命は潰えてしまった。クリツの一等星は失われた。一等星が失われたクリツの夜空は月も消え失せ、そうして太陽すらも消え去った。もう夜は二度と明けない。夜すら、訪れない。

 どうして、人ではなくなったのに視界が歪むのか、クリツには分からない。分からないのに、部屋中に飛び散った鉄錆びの臭いを纏った液体より余程多く、ぼたぼたと雫が流れ落ちる。


「ねえ、手を引いてくれなきゃ、歩けないよ。……ねえ、ヒナト、ねえ……僕、駄目なやつ、だから、いつも、みたいに、大丈夫って、言って、くれなきゃ……一人でなんて、歩けないよ、ご飯だって、おいしく、ないし、夜道だって、怖いんだ。ねえ、ヒナト、ヒナト……」


 どれだけ呼んでも、その身体を揺すっても、ヒナトは応えてくれない。クリツを呼んではくれない。

 どうして、どうして、どうして。

 ヒナト、どうして。





 俯いた胸元から、丁寧にしまっていた紙がするりと落ちる。幸いにも乾き始めていた床の上でかさりと広がった紙には、彼が描いた夢があった。

 木の実で描いた、即席の星。クリツとヒナトの一等星。


「星の旅人みたいって、言ったじゃない」


 単純な話だった。

 一人ぼっちの男が、寂しくて寂しくて堪らなくて。いつだって明るい星に憧れて憧れて。夜の闇の中で輝き続ける星を目指して旅に出る話。

 旅先で、星を目指していると話す度に夢物語だと笑われて、それでも歩き続けた男の前に、一人の旅人が現れる。男の夢を哂わず、馬鹿にせず、それどころか素敵だと褒めてくれた旅人と一緒に、男は旅を続ける。

 旅人が指さした方向へ進めば、砂漠に水があった。

 旅人が指さした方向へ進めば、飢饉に食料があった。

 旅人が指さした方向へ進めば、闇に一筋の光があった。

 旅人が指さした方向へ進めば、道の先に星があった。

 やがて旅の道連れだった関係が友へと変化した頃、友は男に教えてくれた。ここも星なのだと。

 星から星へと旅をしているという旅人が訪れた男の故郷も星だったのだと、最後に気がつく。そうして旅人は次の星へと旅立つけれど、一緒に行かないかと誘われて、男は友の手を取った。今や友と沢山の思い出が詰まった故郷の星を離れる一抹の寂しさと、まだ見ぬ世界を友と共に歩ける期待を胸に、次の星へと。旅人が指さしてくれた星を目指して、二人で旅立つ。

 そんな、単純な話だった。



 けれど、好きだった。優しい言葉で綴られた、優しい結末が、優しい夢の結末が大好きだった。こんな風に海を見に行けたならと、憧れた。誰に言っても馬鹿にされた夢を、肯定し、蔑にせず、同じように目指してくれる誰かに、心底。

 そんな、一等憧れた夢が形になって現れた存在が、ヒナトだった。夢のような、宝物のような現実が、ヒナトだった。


「君がいなきゃ、見えないよ」


 ヒナトに出会ったあの日から、クリツの星はヒナトだった。ヒナトだけだった。ヒナトが指さした先に光があった。ヒナトが紡いでくれた言葉だけに温度があった。ヒナトが向けてくれた眼差しだけが、クリツにとっての愛だった。

 それなのに。



「君がいなきゃ、星なんてどこにも見えないよぉっ……」



 星だよ、太陽だよ。雨だよ、風だよ。鳥だよ、花だよ。

 ほらクリツ。光だよ。温もりだよ。優しさだよ。愛だよ。

 海を見に行こう。一緒に、海に。



 夢を見に行こう

 一緒に行こう

 クリツ

 クリツ、一緒に

 クリツ



 クリツ







 ヒナトがいれば、クリツは何も見失わなかった。この世で尊さを見出されたそのすべての美しさを、惑うことなく見つめられた。


「ヒナ、ト」


 何も、知らない。けれどクリツは己の両手を上げた。ひたりと触れたのは、真ん中の角だ。やり方など知らない。知るはずもないことだ。けれど、知っていた。五鬼の本能が教えてくれる。


 ヒナトといれば、いつだって草花の香りがした。土と、水と、草と、花と、光の匂い。どんな醜悪な臭いだって、鼻と意識の奥にこびりついた酒とヤニの臭いさえ、あっという間に塗り替えられた。

 震え上がるような恐怖も、吐き気を催すような嫌悪も、全身が泡立つような疑問も、全てが消え去った。一番が塗り替えられる。あっという間に、会ったその瞬間に、救われる。

 全身が泡立つような疑問が、怒りだったのだと今なら分かるけれど。怒りを怒りと認識していなかったクリツでさえ、ヒナトは救ってくれた。全部、クリツを根こそぎ掬い取り、守ってくれた。血縁にさえ……いや、何よりも血縁が蔑にしたクリツという存在を、一欠けらも余さず、掬い取って大事な物として扱ってくれた。

 みしりと、鈍い音が脳内に響き渡る。骨が千切れる。折れたわけでも、砕けたわけでもない。自らの力で骨を、角を捩じ切っていく。

 痛みはきっと、あった。けれど、それが何だと言うのだろう。全身を引き千切られそうな痛みはあれど、それが何なのだ。だって、ヒナトがいない。ヒナトがいないのだ。

 頬を伝い、ぼたりと落ちたのは、赤か透明か。クリツには分からない。

 分かることはただ一つ。

 今度は、自分の番だということだけだ。


「ヒナト」


『おれがおまえを守ってやる』


「ヒナト」


 あの約束を、君はずっと守ってくれた。一度も違えることなく、守り続けてくれた。自分の傷を欠片も厭わず、クリツのちっぽけな傷を嘆いてくれた。

 だから。


「今度は、僕の番だ」


 胸の上に重ねた角を覆うクリツの手が、ゆっくりとヒナトの胸に角を埋めていく。傷口はない。柔い泥の中に埋めるように、ほとんど力を加えずとも角はヒナトの身体に入っていく。そのことに心の底から安堵した。新たな傷なんて、一つたりともついてほしくなかった。



「今度は……今度こそ、僕が守るよ」



 その為なら、人であることを投げ捨てたって構わない。異形と成り果てても、世界中から追われても。

 鬼であることを君から疎まれたって、構わない。光であり、星であり、海であり、世界の幸そのものだった君から恐怖されたって、君がいてくれるなら、もう何も厭わない。

 本当は、もうずっと、君を失うより怖いことなどなかったのだから。


「だから、お願いヒナト」


 誰といてもいい。どこにいてもいい。

 二度と会えなくても、二度とクリツに手を差し伸べてくれなくても、いい。クリツに向けてくれていた優しさを他の誰かに渡してもいい。クリツに笑ってくれなくても、他の大勢と同じようにクリツの心をどうでもいいものとして蹴り飛ばしたって構わない。海も星も、他の誰かと目指したって、いい、から。

 だから、お願い。お願いヒナト。





 いなく、ならないで。






 ヒナト


 ヒナト


 ヒナト


 ヒナト──……









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