10.鬼
『できた!』
休日の昼下がり、父の嬉しそうな声が庭に広がった。
『初めてにしてはうまくできたんじゃないか!?』
『あら、本当。ヒナト、ヒナトー、いらっしゃい。お父さんがおもちゃ作ってくれたわよ』
『あ、駄目だって! 枕元に置いて驚かせるんだから』
『今のあなたの顔を見せたほうが何倍も喜びますよ。ヒナト―』
そんな声が聞こえてきて。急いでぱたぱたと走って向かった先では、両親が不恰好なおもちゃを握り、ヒナトの反応を楽しみにきらきらとした目でこっちを見ていた。
あの日まで大事にしていたおもちゃ、落書き跡を綺麗に消したテーブル、三人でお揃いの硝子のコップ。どれもこれも、柔らかな記憶の中で静かに淀んでいった思い出たち。
「あ、お母さん、お客さんだよ」
ふらりと近寄ったヒナトにいち早く気づいたのは少年だった。慌ててお手拭で手と口周りを拭き、ぱたぱたと服を整えている。
彼に、見覚えはほとんどない。互いに住んでいた場所が遠かったから、会うことなど滅多になかった。最後に会ったのは、互いに年齢が片手で足りる頃だったのではないだろうか。
けれど、ああ、けれど。
視線を少年の後ろに向ける。立ち上がろうとした体勢のまま、中腰でこちらを見ている中年の男女。
お前達には、見覚えがある。だって、何度も繰り返した。薄笑いを浮かべ、両親がいなくなった家中をひっくり返し、空っぽにした大人達の顔を、何度も夢に見た。何度も、何度も、吐き気を通り越して全てが凍りつくほどの嫌悪と共に、ヒナトは自分の中で何度もあの日を繰り返した。
ヒナトが少年の肩越しに向ける視線に、夫婦は最初怪訝な顔をしていた。だが、次第に青褪め始めた大人の顔にヒナトが感じたのは、恐ろしいほどの虚無だった。
「どうぞゆっくり見て行ってください。どれも、ちょっと古いけどいい品ですよ」
穏やかな笑顔を浮かべる彼は、ふくふくとした艶のある頬を少し赤く染め、一所懸命接客をしている。慣れてはいないのだろう。だからこそ一所懸命、けれど楽しそうに。
ああ、幸せなのだと、この子は満ち足りているのだと、一目で分かる子どもらしい笑顔で。
「……どうして、売るんだ?」
「家を買ったので、引っ越すことになったんです。これ、どれも大事に使ってきたから僕は新しい家にも持っていきたかったんだけど、せっかくだから一新しようと両親が言うので」
「へえ……おめでとう」
こんなにも心が篭っていない祝福の言葉もないだろうに、少年は照れ臭そうに受け取り、ヒナトが言った何倍も心を籠めてありがとうと返してくれた。
少年は、まるで宝物のようにそっと机を撫でる。
「これ、僕の従兄弟の物なんです。彼はもう亡くなってしまったんですけど、僕、従兄弟一人しかいなかったから、すっごく泣きました。だから、捨てるのはどうしても嫌で、こうして蚤の市に出したいって両親にねだったんです。大事にしてくれる人が買ってくれたらいいなぁって。ね、父さん、母さん」
揃いで使っていた硝子のコップが陽光を弾いてきらきらと光る。その光に負けないくらいきらきらと光る瞳をした少年が眩しく思えれば、ヒナトはまだ救われたのかもしれない。
少年は、一向に返事をしない両親に首を傾げた。振り向き、もう一度両親を呼ぶ。けれど彼の両親は、彼に柔らかな笑顔を返すことはなかった。中腰のまま、震える声で少年を呼ぶ。
「こっちに、来なさい」
「え?」
「いいからこっちに来い!」
怒鳴った父親の声に、周囲の視線が集まる。隣で店を出していた中年の男も、驚いたように目を丸くしている。中年の男の前には、色鮮やかな服と、若い女が好みそうな装飾品と若い男が好みそうな時計、子どものおもちゃ、難しそうな本といった統一性のない物がが少し雑に並べられていた。
「……父さん?」
「いいから、早く!」
「母さんまで、どうしたの」
慌てて走り寄る息子を、母親は強く抱きしめた。深く、強く、この世の悪から隠してしまおうと言わんばかりに。
気がついたとき、ヒナトの足元には粉々に砕け散った硝子のコップが散らばっていた。青と、赤と、緑。父さんと、母さんと、ヒナトのコップ。ヒナトにはまだ早いわよと笑う母に、父がいいんだよと、小さな手にはまだ大きなコップを丁寧に持たせてくれた。子ども心に、これは落としてはならないと、大事に大事に抱えていたコップを、あの頃よりずっと大きくなったヒナトが、叩き落とした。
「何、何するんだよ!」
音に反応したのだろう。母親の腕を振り払い、少年が真っ赤な顔をして怒鳴った。
「僕、大事にしてほしいって言ったじゃないか!」
ヒナトは、怒りで真っ赤になった少年をぼんやりと見つめた。
「大事に、してたよ」
「……え?」
「ずっと、大事にしてた。大事だったに、決まってるだろ。だって、だって俺は」
不恰好な木の犬が、あの頃と何も変わらない瞳でじぃっとヒナトを見ている。それを掴み、握りしめた。
「父さんも、母さんも、大好きだったんだ」
愛なんてよく分からないけれど大事だった。大好きだった。そうと意識なんてしていなかったけれど、愛していた。深く、深く、愛していたんだ。慈しみ方を当たり前のように教えてくれた両親を、ヒナトはちゃんと大好きだった。
本当に、大好きだったんだ。
「ずっと大事にしていくはずだったんだ。父さんと母さんが死んだって、俺はずっと、二人が遺してくれたあの家で、二人の思い出に囲まれて生きていくはずだったんだ。俺は……俺だって、大事にしていたかったよ。二人の思い出を手放すんなら、自分の手で悔やみながら失いたかった」
渾身の力で叩きつけたおもちゃは、テーブルに傷を残して真っ二つに割れた。
大事にしたかった。けれど、もういらない。両親との思い出を踏みにじった家族に使われ、時を過ごした思い出など、ヒナトは見たくもなかった。
ヒナトが大事にしたかった思い出の残骸など砕け散ってしまえばいい。今更、後戻りなどできなくなった今になって残骸だけが戻ってきたって何の意味もない。あるのは激しい嫌悪だけだ。本当に必要だったのは、欲しかったのは、両親を失った一人の夜に、二人の匂いと思い出に包まれて眠りたかったあの日のヒナトにだったのに。
「今更、全部今更なんだよ。こんな、俺から奪った思い出で綺麗に生きるくらいなら、雑に扱って跡形もなく燃やしてくれていたほうが、どれだけ」
何も、帰ってなどこないのに。物だけあって何になるんだ。両親も、両親が遺してくれた物に縋るはずだった時間も、何一つ戻らないまま、残骸だけがここにある。頭が沸騰しそうな嫌悪と憎悪が渦を巻いた日々を思い出す。
大事なものはもうクリツだけでよかったのに、それなのに、それすらも邪魔をするのか。
だが、大きく見開かれた綺麗な瞳を見て、ヒナトに浮かぶのは嫌悪でも憎悪でもなかった。憧憬であるはずもないそれは、ただ空っぽの感情だ。それなのにヒナトの中で暴れ回る。
こんな目をしていたかったわけじゃない。今更、こんな目で生きていきたかったなんて願ってはいない。けれど、酷く虚しい。この世の理不尽を、不条理を、自らの両親が惨い行いをしたなんて欠片も思っていない年相応の子どもの目が、ヒナトと同じ年の子どもの目が、酷く、虚しい。
虚しさと嫌悪がぐるぐるぐるぐる回っていたヒナトの後ろから、声がした。
「……見つけた」
それは酷く禍々しい、憎悪の声がだった。
それなのにヒナトが思えたのは、ああこんな声が出せたのならよかったのにという、憧憬の念だけだった。
悲鳴と叫び声が湧き上がる。後ろで人の波が散っていくのが音だけでも分かった。物が倒れる音や誰かが転ぶ音が悲鳴の中に重なり、後ろの騒動が手に取るようだ。
ヒナトは、ゆっくりと振り向いた。
そこにいたのは、若い男だった。品は悪くなさそうなのに、よれて薄汚れた服を着ている。ズボンの裾が酷く汚れているから、旅人なのだろう。長距離歩いてきた人間があんな裾になる。
男は、落ち窪み血走った眼で、じぃっとヒナトを、正確にはヒナトの肩越しに背後を見ていた。ぱさつき、荒れた髪の隙間から見える額が、割れている。
「やっと、見つけた」
どろり、どろりと、怨嗟を吐くような声だ。
「それは、俺の妻の物だ」
一歩進められた歩が、闇を纏う。
「返せ」
男の濁り切った瞳から、酷く透明な雫が流れ落ちる。澄んだ水は、陽光を弾いた光を纏い、地面で散った。
「それは、お前が殺した俺の妻の物だ!」
耳を塞ぎたくなる絶叫と共に、それは姿を現した。
男の額を割って姿を現した角は、流れ出した血をまとって真っ赤に染まる。髪の色じゃなかったんだなと、ヒナトはぼんやりと考えた。
男の額から生えた二本の角を見て周囲から上がった悲鳴に、ヒナトは今度こそ耳を塞いだ。
鬼だ。鬼が出た。鬼が。嫌だ。殺される。助けて。鬼が。
ああ、うるさい。うるさい。わずらわしい。人の声が、わずらわしい。
鬼が出たんじゃない。鬼が生まれたのだ。鬼が生み出されたのだ。それなのに、どうして鬼を指さして鬼に脅える。鬼を生み出した男には、誰も見向きもしない。どうして。鬼を生み出すほど惨いことがあったのだ。人を人の枠から追いやるような、酷いことがあったのだ。それをしたのは、お前達の隣で震えている人間なのに、どうして。
鬼が走り出す。血を撒き散らし、唾を撒き散らし、涙を撒き散らし、咆哮を上げて仇に向けて走る。進路に立つヒナトの姿など認識していないのだろう。ただ、仇の前にいる邪魔な障害物として思っていないはずだ。ヒナトだって、同じ状況ならそう思う。誰も、何も、どうでもいいのだ。誰の理解も、共感も必要ない。ただ、目の前にいる憎悪の先だけを殺したい。それができるなら、他の何を擲っても構わない。人であることですら捨てられるのに、他の何を意識の端に上げる必要があると言うのか。
獣よりも鋭く鋭利に伸びた爪を振り被り、邪魔な障害物を排除しようとする男をぼんやり見上げる。無造作に振り被られた腕を見上げながら、ヒナトはゆっくりと微笑んだ。
死にたかったわけではない。けれど、生きたかったわけでもない。
そもそも、もうそんなこと、ヒナトには関係のないことなのだから
だが、予想していた衝撃は、予想通り訪れなかった。
衝撃に耐えきれなかった帽子が二人分、ぽすりと呑気な音を立てて地面に落ちる。
ヒナトはそっと目を閉じ、ゆっくりと開いた。
振りかぶられた腕を、細い指が掴んでいる。切り揃えられた爪が男の腕に食い込んでいた。男の長い爪は、ヒナトに触れる寸前で止まっている。この爪に薙ぎ払われたらどうなっていたのか。ヒナトはもう答えを知っている。だってあの日、町長の屋敷で見たのだから。
そんなことを考えながら、ヒナトと男の間に滑り込んできた薄い背中を眺める。
視線を周囲にやれば、酷い有様だった。並んでいた店の商品はなぎ倒され、踏みにじられ、跡形もない。人も、転び、押し合いへし合い、商品と同じほどぐしゃぐしゃだ。
その人ごみとの間には距離があった。物理的という意味でも遠巻きにされているから間違いではない。だが、人ごみとヒナト達の間には唐傘がいた。
何本も、何本も、唐傘を指した人間が、ずらりと立っている。
鬼狩人と、誰かが言った。鬼狩人が来てくれたと、誰かが言った。希望を見つけた人間達の声に光が纏いつき始める。けれど唐傘は、そんな人間達には見向きもせず、ヒナト達を向いてただ立っていた。
四鬼、四鬼だ。嘘だ、四鬼だ。
そんな悲鳴が上がる。ひきつけを起こしたような声で紡がれる悲鳴にも、鬼狩人は動かない。焦りも震えもせず、ただじっと。二鬼となった男でさえ、自分の前に滑り込んできた四鬼に呆けているというのに。
「お前、荷物どこに置いてきたんだよ」
いつもの調子で問えば、薄い背中はぴくりと跳ねた。
「……最悪、君さえいればいいよ」
「ははっ、俺はお荷物かよ」
「僕はっ!」
四鬼の怒鳴り声に、周囲からは引き攣った呼吸の音が重なる。
そんなに恐ろしいかな。ヒナトはとても不思議だ。見も知らぬ人間が成り果てた鬼という存在を恐れるのは人の本能かもしれない。けれど、死んだ兄弟姉妹の子を置き去りに、財産どころか家具も食料も根こそぎ奪って逃げ去る畜生が、角がないというだけで当たり前の顔をして人に混ざっていることのほうが、きっとずっと恐ろしいことだった。
男の腕を掴んだまま振り向いたクリツは、目を吊り上げて怒鳴る。怒鳴られたのはヒナトだけれど、ちっとも怖くない。いつだって、ヒナトはクリツが恐ろしくなどなかった。
怖いものは、もうずっと一つだけ。
クリツを失うことだけが、怖くて怖くて堪らなかった。
「君がいればそれでよかった! それだけでよかったのに、どうして、またっ!」
「うん」
はっと口を噤んだクリツに、ヒナトは微笑む。
「ごめんな、クリツ」
「……どう、して、ヒナトが謝るの」
「うん、ごめんな」
お前を鬼にして、ごめんな。
そう笑ったヒナトに目を見開いたクリツは、すとんと地面に膝をついた。
手を離された男もたたらを踏み尻餅をつく。爪が長く伸びた自分の両手を見て、恐る恐る触れた額に存在する角に、乾いた笑い声を上げる。
いつのまにか距離を詰めていた唐傘が男の周りを囲み、その姿を民衆から隠す。だが、渇いているのに堪えきれなかったらしい嗚咽が混ざった笑い声は、ずっとヒナト達に聞こえていた。視線だけを動かして確認すると、男の怨嗟を一身に受ける男の周りにも唐傘がいた。その肩を掴み、左右を囲み、人ごみに消えていく。
誰かを鬼にした男の処遇が少し気になったけれど、ヒナトはやっぱり、誰よりも何よりも、自分よりも、クリツが大事だった。全身の力が抜け、自分の前に膝をついた大事な友達を放っておくなんて、ヒナトにできるはずもない。
クリツは震えていた。震える手で、ヒナトの腕を掴んでいる。その様は、跪いているようにも、縋りついているようにも見えた。
「なあ、クリツ。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「……いいよ。君の願いなら、何があっても叶えるよ」
「お願い、クリツ。あれ、全部壊して」
指さした先を緩慢に追ったクリツの視線が正確に目的の場所に辿りついたのを確認して、ヒナトは笑った。
「全部、跡形もなく壊してほしいんだ。二度と誰も、父さんと母さんとの思い出を踏みにじったりしないように」
クリツはゆっくりと立ち上がった。周囲から上がった悲鳴は無視して、まっすぐにヒナトが指さした先へと歩を進める。ヒナトも、一拍置いてその後をついていく。人々の視線は、縋るように唐傘を向いていたが、唐傘は動かない。鬼狩人の総本山、神院の創設者の願いが変わらずあるのなら、動くはずがない。そして、ここで唐傘が動くなら、ヒナトは絶対に彼らを選択肢に入れるつもりはなかった。
クリツはヒナトの願いを綺麗に叶えてくれた。
机も、箪笥も、母の服も、ヒナトのおもちゃも、父の本も、三つで一組になっていた食器も、全部全部一緒くたに粉々になり、今度こそただのゴミとなった。
ぐちゃぐちゃになった思い出の残骸を見て、ヒナトはようやく安堵した。心から。あの日の悪夢が終わった気さえしたのだ。
粉々になった物を見下ろしていたクリツは、全て壊し終わったことを確認してヒナトを振り向いた。
「あれは、どうする?」
あれ、と、示された一組の夫婦が震えあがる。震えて声も出ないのか、がちがちと歯の根を鳴らすだけで、後ずさることすらできていない。それでも、男は妻と子の身体を抱き、妻は夫と子の身体を抱いている。子は、自分を抱く両親の腕を握り締め、呆然とヒナトを見ていた。彼だけが震えていない。ただ、ただ、呆然と。
「どうでもいいよ。お前に壊してほしいほど大事なものじゃない」
誰が使おうが、誰に傷つけられようが、誰が壊そうが、どうでもいい。その末路に興味などない。死ぬなら勝手に死ねばいい。ヒナトの大事なクリツに壊してもらう価値などないあれは、もうヒナトの記憶にすら必要のないものだ。
父さん、母さん。物を大事にするように教えてくれたのに、まだ使える物を捨てていってごめんなさい。あなた達の思い出だけは最後まで持っていくから、どうか許してください。せっかく教えてくれたいろんな大事なことを実行できないかもしれないけど、全部、全部、忘れずに最期まで持っていくから、どうか許して。
「ごめんな、クリツ。まだ二時間経ってなかったのに」
「ううん。あんなに沢山の本を好きに触れて嬉しかった」
「そっか。じゃあ、行こうか」
「うん、行こう、ヒナト」
伸ばされたクリツの手をヒナトが握る。今までと逆だったけれど、恥ずかしさも違和感もなかった。この手だけあればいい。この手だけが温かければ、それでいいのだ。
「……ヒナト」
それはヒナトだけの意思で決められるものではないから、ヒナトと関わろうとする外部の者がいれば、呼び止められることはある。
「君は、ヒナトなのか? ……どうして、死んだって、おじさんとおばさんと一緒に死んだって。だから、だから君の荷物がうちにあるんだって!」
だけど、足を止めるかはヒナトが決めるのだ。
ヒナトは振り向かず、クリツの手をも振り払った。驚いた顔で振り返ったクリツに向けて、クリツだけに向けて、にかりと笑う。
勢いよく広げた両手に目を丸くしたクリツもふわりと笑った。そして、勢いよくヒナトの胸に飛び込んだ。その身体を思いっきり抱きしめ、ヒナトは声を上げて笑った。
ヒナトの身体はクリツに抱きつかれた勢いのまま空高く飛び上がる。クリツはヒナトを抱きしめたまま危なげなく屋根の上に飛び移り、獣のように走り始めた。屋根瓦を落とさず、ずらさず、音すらほとんどたてないほどしなやかに。人を一人抱えているとは思えぬほど軽々と屋根から屋根へと飛び移る。
そうして、二人の少年はあっという間に人の町から姿を消した。
荷物は何もなくなって、着の身着のまま大地を駆け、風を切り、空を飛ぶ。
まるであの日のようだ。この旅の出発の日、ヒナトにはクリツだけ、クリツにはヒナトだけだった。あの日にもう一度辿りついた事実が、ヒナトには心地よかった。
きっと、この心地よさに溺れて生きることは、もうできないのだろうけれど。
「なあ、クリツ」
「……なに、ヒナト」
お前だけでよかった。お前だけが温かければ、他には何も要らなかった。
お前が俺の幸だった。お前が俺の光だった。
「俺、死んだんだな」
お前の夢が、俺の海だった。
晴れ渡った空を、二人と風が駆け抜ける。帽子を失くした二人の髪は、切った風にあおられて激しくはためく。
一際大きく吹いた風が、真正面から駆け抜ける。
そうして露わになったクリツの額を見て、ヒナトは静かに目を閉じた。
幼馴染の額には、ヒナトと違う物がある。一本、二本、三本、四本の角。
そしてその中央に、何かを捥ぎ取ったように爛れた傷跡が、一つ。
鬼の最高峰と呼ばれる四鬼よりも更なる上。
想定すらされてこなかった、五鬼。
五鬼が失った一本の角の在り処を、ヒナトはきっと、知っていた。




