1.一等星の約束
ああ、駄目だ。
そう思った時、大抵のことはもう手遅れなのだ。
人は、己の身の丈に合わない願いを持つことがある。叶わない、叶ってはならない祈りに魂を焦がすことがある。願っても無駄だと分かっていても、祈っては駄目だと分かっていても、人は身の内から湧き上がる祈りを閉ざすことも、散らすこともできないことがある。
そうして諦められなかった願いが器から溢れだした時、人は鬼となるのだ。
街道沿いにあるこの町は宿場町だ。当然、旅人用の宿屋や食堂、酒場には事欠かない。本来は旅人で賑わうこと目的としている一角を、今日も騒がしい、変わり映えのしない集団が陣取っていた。
十代から二十代の若い男達が十数人屯している。まだ日も高い内から酒瓶を振りかざし、空になるまで一気に飲み干して瓶を叩き割ったのは、その中で一番体格のいい男だ。二十代にも拘らず既に酒焼けの兆しを見せ始めた男は、周りを気にしない大声で唾と酒を撒き散らしながら、店が積み上げている荷物の上に勝手に陣取りがんがんと蹴りたくっていた。
少年は仕事帰りの足を止め、じっとその集団を見つめる。そして小さく息を吐き、ふらりと近づく。酔った男達は少年に気づかず、酒瓶を空ける作業で忙しい。通りすがりの旅人は、昼から飲んだくれている碌でもない集団にあえて近づく必要もないだろうにと眉を顰めたが、町人達は見て見ぬふりをした為、旅人達も声をかけなかった。その為、通行人が醸し出す違和感に邪魔されず、少年は集団の影にとなる壁に背をつけることができた。
どうでもいいと聞き流すには眉を顰めたくなる下卑た話で大笑いしている男の横に放り出された本を見て、少年はやっぱりと嘆息する。
背を壁につけたまま腰を屈め、荷物の影から出ないよう細心の注意を払って本に手を伸ばす。元から新品ではなかったけれど、表紙が折れているのは投げ捨てられたからだろうか。本の上には叩き割られた瓶の破片が散らばり、爪先に引っ掛けて少し引っ張るだけでちりりと鳴った。
近づいた本を掴み、少年はしばし動きを止める。男達の笑い声がどっと重なった瞬間に合わせ、素早く本を引っ張り寄せた。振り落とされたガラスの破片は、周囲に配慮しない酔っ払いの声にかき消されて気づかれることはない。
少年はほっと肩の力を抜き、本を抱えたまま素早くその場を立ち去る。充分に距離を取った物陰でようやく本についた細かい破片を払った。
踏みつけられたのかくっきりとついた足型を拭い、表と裏をひっくり返し、下を向けた頁を適当にぱらぱらとめくって細かな砂も落としていく。何度かその作業を繰り返す。折れてしまった頁も、折り目までは修復できないが丁寧に伸ばして元の位置に伸ばした。その間も一応周囲に視線は向けている。さっきの男達に見つかったら面倒なことになるからだ。
「こんなもんか」
出来る限りの処置は施したと満足した少年は、本を懐に突っ込んだ。
「さてと」
そして、町を囲っている東側の山に視線をやると、たっと軽い足取りで走り始めた。
山には数えきれないほどの木が生えているけれど、いくつか条件をつけるとあっという間に選択肢は限られていく。町全体を一望できる場所に生え、二人が登ってもびくともしない太い幹を持った、更に二人しか知らない木なんて、たった一本しかなかった。
山に囲まれているとはいえ、街道を中心に栄えてきた町はそれなりに大きい。だが最近は、新しくできた街道を選ぶ旅人が増えてしまい寂れがちだ。他に観光資源となるような物がない土地は、行商人の通りも薄まっていくにつれて見る身る痩せ細っていった。
しかし、森は別だ。町がどれだけ鄙びていこうとも、森は青々と葉を蓄え、川には途絶えることなく水が流れていく。ふくふくと満腹な自然を蓄えた山の中を、少年は一人で駆けていた。
痩せて乾いた少年の肌は、どう見ても裕福な家の出には見えない。当然だ、彼は酷い貧乏なのだ。身体の線に合わないだぼっとした服は全体的に黄ばみ、どこもかしこも解れている。どこをどう見ても新品には見えない使い古された生地はシャツだけに留まらず、ズボンだって同じ有様だ。だがこちらは幾重にも折り畳まれた裾のおかげで解れはそんなに目立たない。かわりに足元だけぼこりと膨らんだ不恰好さが目立つ。しかし、短くすることは簡単でも長くするには手間がかかる上、最悪買い換えなくてはならないので、もうずっとこのままだ。
ずっと前に両親と死に別れ、頼る当てのない十三歳の子どもにとって大事なのは見た目ではない。金がかかるか、かからないかである。
走って走って走って、辿りついたのは一本の大きな木だ。大きいといってもご神木に讃えられるような立派なものではない。うまい実をつけるわけでもなく、紅葉で美しく染まる葉も持たず、珍しい鳥が巣を作るわけでもない、その辺に生えているなんということもない木だ。
少年は見なくても分かる節に手をかけ足をかけ、ひょいひょいと登っていく。小さな頃から数えきれないほど登ってきた木なんて、目を瞑っていたって登れてしまう。次は腕をどのくらい伸ばせばいいかなんて、もう感覚に染みついているから、息をするより簡単にあっという間に目的の高さまで辿りついた。
新緑が満ちるこの季節らしく青々とした葉に覆われた枝の中に、ぽつんと落ちる深紅を見つける。ぼさぼさの野良犬みたいな少年の髪とは違い、手入れの行き届いた馬の尻尾みたいな深紅の髪をした相手は、最近をほんの少しだけ少年を追い越した身長をぎゅうっと小さく丸めたままだ。
少年が登ってきたことは音と振動で分かっていただろうに、顔も上げやしない。仕立てのいいぱりっとしたシャツに、滑らかな光を流す上着。上から下まで、成長で変わりやすい身体にぴたりと合った丈だ。
「やっぱりここにいたな。お前、何かあると大抵ここにいるもんな。で、何があった?」
「…………何も、ない」
どこからどう見ても何かあるようにしか見えないのに、少年の友人は顔も上げずに嘘をつく。けれどそんなことはいつものことなので、一度彼を通り越して上の枝まで移動する。
木は大きく立派で、少年二人が乗ったくらいではびくともしない。ごそごそと位置を調整し、彼の前にくる位置で同じ枝に降りると、懐に入れていた本を取り出して丸い頭にべしりと乗せた。
「ほらよ」
慌てて顔を上げた深紅は、乗せられた本を両手で抱える。そして、じっと見つめていた瞳がみるみるうちに潤みだす。
「……ビナドぉ」
「ビナドって誰だ、ビナドって」
俺の名前はヒナトだ。そう言って、ヒナトは仕方ないなと声を上げて笑った。
目の前で一冊の本を大事に抱きしめているのは、幼馴染のクリツだ。ヒナトと同じ十三歳の幼馴染は泣き虫なのである。町長の家の次男でこの町一番の金持の癖に、身体の大きな長男にいつも苛められていて、町の誰よりも泣き虫で気の弱い少年だ。
クリツの兄は、身体も大きくヒナト達より七つも年上で、更に両親から一度も叱られたことがないほど猫かわいがりされていた。都から遠く離れた田舎町一番の金持の長男で、体格にも恵まれ腕っぷしは町一番。どんな性格になるかは推して知るべし。
つまりは、驚きも新鮮さもない、最低のくそ野郎に成長したのだ。
「……ありがとう」
少し折れてしまった本を大事に抱きしめ、消え入りそうな声を絞り出したクリツに苦笑する。クリツは気が弱いが、それは気のいい彼の性格も大きく関係している。彼は、気の優しい奴なのだ。あのくそ兄貴みたいな性格だったら絶対に友達になんてならなかったけれどと、心の中で舌を出す。偶にはがつんと言い返したっていいと、ヒナトは思う。でも、それができないで自分の中に溜めて我慢してしまうのがクリツらしいといえばらしい。だから、友達が理不尽な目に合うことに対する悔しさを、ヒナトは自分の物としてしまいこむ。
「うん。それより、今度は何の本だ?」
腰を浮かさず、ずりずりとにじり寄る。周りを気にしながら修復していたので、中身まではちゃんと見ていなかったのだ。真っ赤に染まった鼻を啜ったクリツは、自分のハンカチで鼻をかみ、折れた頁の跡を丁寧になぞりながら開いた。
「あのね、海の生き物についてだよ」
「お、見せて見せて」
さっきまで泣いていたのが嘘みたいにぱっと笑ったクリツに、ヒナトも年相応の笑顔を広げて同じ頁を覗き込む。頁の中には不思議な形をした貝殻が何種類も描かれている。その内の一つを指さして、クリツは目を輝かせた。
「これ、掌よりも大きいんだって」
「ほんとか!? うまい!?」
いくら山育ちだからといっても、貝くらいは見たことがある。川にも貝くらいいる。だけど、ここに描かれているそれ自体が一つの装飾品のような形をしたものは存在しない。どれもこれも常に流れ続ける水に削られ、まるんっとした形に統一されるからだ。
「えーと……あ、毒がある」
「茸かよ!」
思わずつっこむと、別にクリツの所為でもないのに慌てた指が文字をなぞって突破口を探す。ささくれて厚くなった爪をもつヒナトとは違い、すらりと少女のように細く綺麗な指が、最初の貝から三つ下の段に描かれた、どこか川で見る貝に似た形の物でぴたりと止まった。
「でも、こっちのは凄く美味しいんだって!」
「お、いいねぇ」
「でも、小指の爪くらいの大きさだって」
「満たされない!」
指の中で一番小さな小指、しかも爪ほどの大きさ。どれくらい集めれば腹が満たされるのか考えるだけでもうんざりだ。腹が満ちるほど集めるだけで腹が空っぽになるほどの労力が必要となるだろう。それに見合ったうまさじゃないと許さないと、ヒナトは未だ手にしたことのない貝に闘志を燃やした。
見たこともない貝に驚き、説明文を読んでは笑い転げ。変な顔をした魚をからかい、説明文を読んでは震えあがる。毒があるだけならまだしも、自分達よりも大きな魚とはどんなものだろう。そんなものがうようよ泳いでいる水の器が側にあるとはどんな気分なのだろう。
脅え、驚き、けらけら笑いながら頁をめくる。
「海、見てみたいなぁ」
夢見るような口調でクリツは間抜けな大口を開けた魚を見つめる。これ、そんなに心躍るような顔か? 不思議な気持ちで何度も魚とクリツを見比べると、慌てて手を振り始めた。
「魚も気になるけど、海が、見てみたいなぁ」
やっぱり途中からうっとりとした声音になって、幾重にも重なる山並みに深緑色の瞳が向けられる。木漏れ日を浴びた若葉のような瞳で、遠い遠い先にある海を想うクリツに、ヒナトは呆れた。呆れ返った気持ちは声に出る。
「見に行けばいいじゃん」
「……無理だよ。だってここから一か月以上かかるんだよ。それに、僕達はまだ成人もしていないし…………兄さんじゃあるまいし、絶対に許してもらえないよ」
出るだろうと思っていたお決まりの台詞を、ヒナトは鼻で笑った。
「何が無理だよ。一か月以上かかるなら一か月以上かけていけばいいし、成人しなきゃならないなら成人してから行けばいいし、あのくそ兄貴は井の中の蛙だったことに気づかず、ここでやってた馬鹿を外でもやらかして王都の学校から叩き返された問題児だろ。お前いい加減、馬鹿親共の言葉丸呑みにして、あのくそ野郎を凄い人間みたいに思うの止めろ。あいつは身体がでかくて力が強いだけだ。あいつ以上に力が強い奴が現れたら、あっという間に用無しだ」
何度も何度も口にした言葉に、クリツは力ない笑顔を浮かべるだけだ。それが無性に腹立たしい。
両親から幾度も幾度も、お前は駄目だと言い含められるのはどんな気持ちなのか。幼い頃に流行病で両親を亡くしてしまったヒナトには想像するしかできないけれど、それはきっと、酷くつらい。
何故彼の両親は、彼の兄をあれほどに凄い凄いと持ち上げるのだろうか。
確かに体格には恵まれているし、大きな荷物を持ち上げられるのは凄いことだろう。けれど、どんなに難しい本でも楽しんであっという間に頭に入れてしまうクリツだって凄いと思う。それなのに彼の両親は、彼の兄が読書が趣味なんて軟弱な奴だといえば、そうだそうだその通りだ、まったく本ばかり読んでみっともない、もっと兄さんのように皆の先頭に立って外で遊びなさいと、クリツをぶって外に放り出すのだ。
だからクリツは、浴びるように酒を飲み、芸術品という名の真否の不確かながらくたをおだてられるまま買いあさる兄とは違い、こそこそと行商人から本を買い取るしかできない。
あれだけ本が好きなんだと目を輝かせてヒナトにも見せてくれていたのに、今ではまるで罪悪に塗れたようにこっそりと隠れて頁を開き、その姿を兄に見つかっては面白がる彼に本を取り上げられるのだ。
ああ、つまらない。なんてつまらないのだろう。金がないのは切ないし、腹が減ればひもじいし、馬鹿にされれば悔しいし、誰もいない家に帰れば寂しいし、雨漏りすれば不安だ。
だけど何より、こんな小さな町で、どうしようもなく変わらない理不尽がまかり通る明日しか来ないなんて、そんなつまらない話があって堪るか。そんな理不尽に飲みこまれるのが、自分の友達であって堪るものか。
「……僕には、無理だよ」
「無理じゃねぇ」
今にも消え入りそうな友の声に、ヒナトはいつも通りの返答を返す。
「……野盗だって獣だって出るし、三つ向こうの町に、鬼が、出たって」
「野盗が出にくい警邏がしっかり巡回してる道選べばいいし、そんな道だったら獣も少ないし、鬼なんて出るときは出るし、出ないときは出ないもんだ」
鬼とは、伝承の中にあるよく分からない異形に対しての名ではない。鬼とは、人が変異したものだ。人の身では抱えきれないほどの感情を宿した時、人は鬼へと変異する。角が生え、犬歯が尖り、瞳孔が裂け、人非ざる力で野を駆け肉を引き裂く。
喜怒哀楽。そのどれが爆発すれば異形となるのか。鬼への変貌は、怒りが主だといわれている。過ぎた喜びも悲しみも、力を得る理由には弱いらしい。怒りが、妬みが、憎悪が、人を鬼にする。何かを決して許せない憤怒が、人を鬼にし、力を与えた。
昨日まで普通の人間だった者が、ある日突然異形と化す。それはとんでもない恐怖だ。ヒナト達の故郷のように都会から離れた地域では、一生に一度目にするか否かの頻度でしかなくても、幻でも何でもなく確かに存在する現象なのだから、事実は小説より奇なり。
しかし、人々は普通に生活している。何故なら、鬼が現れればすぐに神院が動くからだ。鬼は人に戻すことができる。そもそも鬼となるのは人のみでは抱えきれない怒りが爆発したからだ。鬼となった感情を解きほぐし、人に戻すのが神院の仕事だ。
ヒナトもクリツも鬼を見たことなどないけれど、確かに存在していることを知っている。知っているけれど、それが何だというのだ。自分達の夢を妨げる理由にするには遠すぎる。
「無理じゃない」
更に重ねる。
「俺達はまだ十三だけど、来年は十四で、その次は十五で。そんでもって十六になれば酒だって飲める年齢だ。俺あんまり金ねぇけど、それまでには貯めるつもりだし」
「……父さんも母さんも、怒る」
「じゃあ、怒らなくなるまでずぅっと帰ってこなけりゃいい」
「兄さんが、殴る」
「殴られる前にさっさと出ていきゃいいけど、それなら俺が強くなってやるよ。今だってすばしっこさは勝ってる。あいつは酒かっくらって煙草ばっか吸ってるから、この先衰えるだけだけど、俺はでかくなって強くなる予定だから簡単だ」
何の根拠もないけれど、それはヒナトの中で決定事項だ。金がない故に悲しいかな、なかなか伸びない身長といつまでも薄い身体からは、彼の何倍も分厚い身体をしている男と対峙した場合欠片も安心感は醸し出せないが、ヒナトの中ではそうなることが決まっている。
「そんな俺は、数年内には必ず生まれて初めての海を見に行く予定なんだけど、お前一緒に来る?」
自信満々に胸を叩けば、クリツはようやく、今にも消え入りそうな貼りつけられた笑みではなく、くしゃりと零れ落ちるような笑顔を浮かべて頷いた。それを見て、ヒナトはふんっと鼻を鳴らす。そもそも、ヒナトに海への憧れを刷り込んだのはクリツなのだ。海は広いんだ凄いんだ大きいんだしょっぱいんだ色んな生き物がいるんだ美しいんだ。そう、何度も何度も、それこそ友達になった最初から。
兄にいじめられて逃げてきたこの木の下で、べそべそべそべそ泣き続け、こいつ寧ろ根性あるんじゃないかと疑ってしまう程それはしつこくめそめそめそめそ泣き続けたクリツに、木の上で昼寝をしていたヒナトは大層辟易したものだ。いい加減鬱陶しくなって目の前に飛び降り、飛び上がって驚きはしたもののすぐにしくしくしくしく泣き始めたクリツから辛抱強く理由を聞き、いつの間にか海への熱弁となった熱にきょとんとしたものである。
『それでね、海はほんとうにすごくて、いっぱい生きものがいて、どこまでもつづいてて、それでね、それで、ぼく、いつか海を見たくって。…………でも、兄さんは、おまえみたいなぐずでのろまなやつが見にいけるわけないだろって……ぼくも、そう、思うけど……でも、どうしても、見たくって……ぼくなんか、海にたどりつくまえに野たれ死にするって分かってるけど、でも……海が、すごいから、だから……』
いつの間にかきらきらと輝いていた緑色の星が、次第に曇り、雨模様となっていく。またじとじとと梅雨が訪れようとしているクリツに、ヒナトはすっくと立ち上がった。熱弁の熱にしっかり焼かれていたヒナトは、今よりもっと小さかった胸を精一杯偉そうに張ってみせた。
『分かった! だったらおれがおまえを守ってやる! それで、いっしょにうみ見にいくぞ!』
『え……?』
『なんだよ、おれじゃ不満かよ』
出鼻を挫かれてむすっとしたヒナトに、クリツは慌てて両手を振った。
『ち、ちがう! ただ……そういえば君、だれなのかなって』
『おまえ……だれかも知らないやつにあつく語ってたのかよ』
擦りすぎて真っ赤になっていた目元と鼻以外の部分が、あっという間に赤く色づいていく様にヒナトは思わず噴き出す。けらけらお腹を抱えて笑い転げる様子をきょとんと見ている瞳がすっかり晴れたことに気づいてもっと笑うと、緑色も朝露を弾くようにくしゃりと笑った。
それが二人の出会いにして、最初に交わした約束だ。
それなのに、クリツが一抜けるなんて有り得ない。だって、海は凄いそうなのだから。海は素晴らしいものなのだそうだから。それを誰より熱心にヒナトに刷り込んだ幼馴染が、海への憧れを罪悪に代えてしまうなんて、馬鹿馬鹿しいではないか。
ここは山間の町。風の吹き溜まり。だからといって、夢まで滞る理由なんてどこにもありはしない。山に生まれたから海を知らず死ぬ必要なんてどこにあるというのだ。
「じゃあ、約束な」
「……うん」
海へ行こう。海を見よう。約束の形は出発点であるクリツに任せて見つめれば、彼は困ったように視線を落とす。けれど、ヒナトが拳を突き出したままじっと待っていると、肩の力を抜いてこつりと拳を突き合せた。
「海を、知ろう」
「おう! 貝食うぞ、貝! 毒ないやつな! 魚も、でっかいの食おうぜ!」
本が好きな彼らしい表現がおかしくて、ヒナトはかち合せた拳をぐりぐりと押し込んだ。痛いよと困った顔で笑いながらも、クリツは痛みに逃げて腕を引っ込めたりしない。ヒナトはそんな彼のことを、一度だって弱いと思ったことはなかった。
「地図出せ、地図」
いつもいつも、まるでそれが命綱だといわんばかりに暇さえあれば見つめていた地図を持っていないとは言わせない。ヒナトの予想通り、クリツは首を傾げながらも胸元から一枚の古ぼけた地図を取り出した。地図といっても、詳細な道順が描かれているわけではない。大まかな山と川と湖が、町を縫って王都を通り越し、海に続いているだけの簡単なものだ。
だけど、この小さな世界しか知らないヒナト達にとって、それはとても大きな世界だった。
「ん」
突き出された手を前にきょとんとした顔に、もう一度「ん」と突き出す。
「何?」
「書く物」
「え? 今は何も持ってないよ」
「じゃあこれでいいか」
別に自分が悪いわけではないのに弱り顔になり、ごめんねと謝る幼馴染に手を伸ばす。その髪に絡まっていた小枝には、黒っぽい実がついている。それを潰して指先に絡め、ヒナトは躊躇いなく地図に指を滑らせた。
海にでかでかと描かれた星に目を丸くした友達に、ヒナトは満足げに笑う。
「目的地は、やっぱ輝いてないとな!」
古ぼけた地図の中に黒っぽい汁で描きこまれた星は、最後まで汁が足らずに掠れていたけれど、どんな一等星にも劣らない輝きを二人に見せてくれた。自分で描いた安っぽい星に大満足して頷いたヒナトは、そういえばと声を上げる。
「なんだっけ、これ」
「え?」
不恰好な勢いだけの星を見ていると、懐かしい綴りが頭の中に浮かんで思わず口に出す。当然クリツは訳が分からないと首を傾げる。それには答えず、ヒナトは自分の中に浮かんだ綴りを追いかけた。記憶を漂う柔らかい声は、目の前の友の物だ。あ、思い出した。
「お前が好きな本にあったな、こういうの」
「え、えっと、どれ?」
好きな本がたくさんあるクリツは見るからに戸惑った。うきうきと心当たりを探せばいいのに、まるで沢山あるのが悪いことのような顔をする友達に、ヒナトは額をぶつける。ちょっと勢いをつけすぎて、がつんとぶつかった。痛い。ヒナトの友達は、気の優しさと自信の無いびくびくとした態度とは裏腹に、結構な石頭なのだ。いてぇと呟いて、全く痛みを浮かべていない顔めがけてやせ我慢七割でにかりと笑う。
「星の旅人」
「え、あっ、ああ!」
荒野に住む男が、星に行きたくてたまらない話。星に行きたくて、それだけが夢で。でも行けなくて。なのに諦められなくて。ぐずぐす悩んで、めそめそ泣いて、そんな、一人ぼっちの男の話。面白いかどうかなんてヒナトにはよく分からなかったけれど、絵本のように簡単で単純な言葉の組み合わせのその本を、クリツがいたく気に入っていたのは知っている。
思い至ってほっとした顔をしたと同時に、クリツはお気に入りの一節を紡ぐ。
「星を解いて夢を編む。夢を飲みこみ、星を抱く」
簡単に諳んじて、本当だと笑う。
「星だ」
不恰好な星を、まるでずっと読みたがっていた本の表紙のように撫でて、クリツは嬉しそうは笑う。
「ヒナトと一緒に、海が見たいなぁ」
柔らかい声で、ずっと変わらぬ彼の優しさを形にした笑顔で夢を編むクリツが、ヒナトは好きだった。
「ヒナト! おいヒナト、いるんだろ! 出てこい!」
扉を叩き割れんばかりの乱暴な音が小屋全体を揺らし、ヒナトは目を覚ました。何を考えるより早く、ぐわっと口を開く。
「朝っぱらからうるせぇ! あと叩くな! 崩れるだろ!」
崩れていないからかろうじて小屋の風体を成してはいるものの、百歩譲ったってあばら小屋としか呼べないヒナトの家は、来訪者の乱暴によって全体を軋ませ、天井といわず壁からもぱらぱらと破片が零れ落ちてくる。だが、誰がなんといおうがここはヒナトの城だ。壁があり、屋根がある。なんて立派な城だろう。城の条件をすべて兼ね備えているではないか。これを城と呼ばずなんとする。ちょっと屋根の一部腐り落ちて持ち上げられるけど。直そうと屋根の上に上がると全部が抜け落ちそうなので直せないけど。
粗末と呼ぶのも憚られる壊れかけのベッドから飛び起き、適当に靴を履く。左足のかかとは踏んだまま、ぼりぼりと腹を掻く。城を破壊せんばかりのノックは治まったけれど、来訪者が去った訳ではない。
靴は引っかけたもののベッドに座ったまま大欠伸をして、腹を掻いていた手を茶色の髪につっこんで掻き回す。毛艶のよくないぼさぼさの髪を後ろで一纏めにしてぼやく。深い眠りから強制的に叩き起こされて、目の奥ががんがん痛む。ああ、頭が痛い。
幼い頃に両親を流行病で亡くして以来、一人で生きぬいてきた。自慢できるのは根性と金の無さと立派な城と、素直で気のいい友達だけだ。残念ながら寝起きのよさは自慢できる分類には入らず、寝汚さに軍配が上がる。
「うっせぇなぁ……今日は俺、休みなんだから寝かせろよ……」
「おいヒナト! 早く出てこい! まさか二度寝してんじゃねぇだろうな!?」
「起きてるよ! 身支度ぐらい整えさせろ馬鹿野郎!」
「整えるもくそも、お前いつもそのままだろうが! さっさと出てこい!」
「その通りだよ畜生が!」
褪せて擦り切れたシャツとズボン。寝巻はこの前本当のぼろきれとなったので、今はこれしか服がないのだ。がしがしと頭を掻き回し、肩を怒らせて閂を外す。城には当然閂がある。こんなぼろ小屋に入る盗人はいないだろうとか寝ぼけたことをよく言われるが、気持ち的な問題だろうとも言われる。何をぬかす。こんな立派な城、いつだって防犯に心掛けないと危なくて夜も眠れやしないだろうと、ヒナトはいつも胸を張る。
開いた扉の先は、まだ明けと星が混在する空だった。思わず眉を顰める。夜明けもまだじゃないか。昇りかけの朝日はまだ山から顔を出さず、先走った明けの光だけで星を追いやっていく時間帯に、何故叩き起こされなければならないのか。
雲は見えないので今日は晴れのようだが、天気がよければ晴れやすいはずの気分は、朝っぱらからずらりと並ぶ知った顔に曇天模様だ。先頭を陣取るのは図体も態度もでかい肉屋の親父だ。捌き売る肉より先にてめぇの腹肉をどうにかしやがれといつも思う。
「なんだよ、うるせぇな……って、おい!」
悪態をつこうとしたヒナトを押しのけて、肉屋の親父が中に入ってくる。ここはヒナトの家であり城だ。勝手に上がられて黙っている謂れもない。一言どころか二言三言怒鳴っても誰に責められる謂れはなかった。陽光が、染みる瞳と頭をがんがんと痛ませてくる八つ当たりも兼ねて、すぅっと息を吸う。
「お前、クリツ様を匿ってないか!?」
「はぁ?」
繰り出そうとした文句は全て霧散して、間の抜けた音だけが響き渡った。だが、それを笑う人間も、舌打ちする人間もいない。それが酷く奇妙で、胸騒ぎがしてひどく不快だった。
頭が働かない。さっきまで身近にあった世界が突然遮断され、水底から水面を見上げているようだ。この感覚を知っている。非日常が転がり込んで、日常が音を立てて砕け散っていく予兆だ。ヒナトの世界が塗り替えられる。当たり前が当たり前じゃなくなって、ぐしゃりと崩れ、朽ちていく音が世界に幕をかけるのだ。そうして上がった幕の先には、これだけは訪れてくれるなと叫んだ世界が訪れる。これが観劇ならパンフレットを投げ捨てて劇場を飛び出していくのに、これは自分の意思では終わりを選べない類の、酷い現実だ。
一枚隔てた世界から、見知った面々が震える指でヒナトを指さす。
「お前、その服、どうした?」
「……あ? 服?」
一拍遅れて返事をする。かろうじて音になった返答にほっとした。ほっとしたのに、身体は強張ったままだ。息が、うまく吸えない。眩暈すら呼び起こす張りつめた空気に、呼吸の仕方を忘れてしまった。赤ん坊以下のへたくそな呼吸で痛む胸を無意識に押さえてぎょっとする。
擦り切れごわつき、ささくれたとさえ思える着慣れた荒れ生地に触れると思った予想は外れた。ヒナトが着ていたのは滑らかでしなやかで大きくも小さくもない、触れなくとも仕立てのいいと分かるシャツだった。真夏の雲から切り取ったみたいに真っ白な、クリツのシャツだ。
「なんで俺、クリツのシャツ着てるんだ?」
混乱を極めたヒナトの両肩を、ごつい掌が掴んだ。加減を忘れた力を咎めようと、反射的に怒鳴りかけたヒナトよりも肉屋の男のほうが早かった。
「クリツ様がここにいたのか!?」
「……知ら、ねぇ。そもそも俺はさっき起きたばっかりで……だから……待て、ちょっと待て。あんたら、どうしてクリツを探してるんだ? クリツいないのか? いつから? なんでだ? おい、何があった? 説明しろ! クリツに何があった!?」
肩を掴む手を逆に掴み返し、動き出した頭の勢いのまま詰め寄ったヒナトの剣幕に、大の男達は一歩下がった。下がり、さっきまで己達が掲げていた剣幕をばつが悪そうに仕舞いこんだ。ヒナトが事態を把握していなかった以上、当然何事だと問われる。問われれば、答えねばならないのだ。
結局視線が集まったのはヒナトに掴まれていた肉屋の男だった。最初家に押し入ってきた剣幕は鳴りを潜め、男は視線逸らしてぼそぼそと答える。
ヒナトは世界が遠くなっていく音を聞いた。男の台詞と、全く別の言葉が重なる。音が重なった訳ではない。ただ、遠くなって現実のように思えなくなった世界の中で、まるで本を読むように台詞が文章となり、重なった。
「クリツ様が」
ああ。
「鬼になった」
もう駄目だ、と──。