37:意地と誇りと矜持と絆
決闘を申し込んだ刹那、黒メイドは異貌を開放し、たった一歩でネクロマンサーの目前まで踏み込んだ。
”不意打ちで相手に一撃を加えるのは、人狼同士の決闘においては由緒正しき作法である”。
黒メイドの武器は振りの早い懐刀ひとつ、完全な異貌を持たないこの黒メイドであってもラストウルフの恩恵による凄まじい膂力と柔軟な肢体は、文字通りその場の誰にも視認できぬほどに圧倒的な速度での攻撃を可能とする。
目撃者は語る、まるで演舞のように美しい姿であったと。
その場に集まった多数の人狼たちですら視認できない、避けられるはずもない一撃を、ネクロマンサーは優雅にその場へ膝を折り、自分の頸が有った場所を振り抜ける刃を気にも留めず、それどころか死霊すら出す事無く、彼女は優雅に膝を地面に着くのみでその一撃を躱して見せる。
その姿はまるで、敗者へ慈悲を与える強者の如く優雅であり、決闘前にこのネクロマンサーが黒メイドの牙を折る程の侮辱を見せる事もやむを得ぬほどの姿であった。
群れから追放されたオスカーが、異貌化すら持たない劣等種たる人間に群れに請うたと聞いた時、口には出さずとも失望した人狼は多かったという・・・しかし、攻撃を優雅に回避してみせたこのネクロマンサーの申し出た言葉に、今この場に集まっていた人狼達は確信する。
「降参します、どうか命だけはお許し下さい。」
ネクロマンサーは、膝を着き、頭を垂れる、彼女はネクロマンサーでありながら死霊すら出していない。
戦う姿すら見せないネクロマンサーに、武器を振り抜いたままの姿でその言葉を聞いた黒メイドの手は震えた。
私の不意打ちすら容易に避けられる実力者が、何故に私に頭を垂れるのか?
自問するまでも無い、私はこの身の屈辱を灌ぐ為に群れを捨てて決闘を申し出た。
ネクロマンサーはそれに答えて勝ちを譲った・・・それどころか命乞いすらして見せた。
力で他者を捻じ伏せる老害達と、目の前の獣相すら持たない少女・・・大義はどちらにあるか?
本当に・・・私は、今まで、何を見ていたのだろうか。
「お受けします、撤収を…
黒メイドはそう呟きかけて、自嘲する。
そうか、私はもう群れの一員では・・・。
「了解、全員撤収!」
誰かが、黒メイドの声に答えて声を張り上げ、周囲に居た”アストロ家の印章を自ら毟り取った人狼達が”ゾロゾロと路地裏に消えていく。
後に、目撃者は語る。
アストロ家に反旗を翻して群れの老人を虐殺し、新たな群れの主を名乗ることになる元黒メイドである彼女の原点は、この一戦に有ったという。
***
町を見下ろせる兵舎塔の上から、一人の大男がその決闘を見下ろしていた。
空から降り注ぐ絶望の光は一層強くなり、清々しい”絶望と疑心暗鬼”を降り注がせる。
それを仰ぎ見る彼・・・
裾の長いトレンチコートとキャスケットを身け白い目出し帽で顔を隠したその大男である彼は・・・正確に言えば幽霊管弦楽団と呼ばれる亡霊の群体から成る死霊である彼は、疑心暗鬼を起こすべき”個”が自分に存在しない事で、その恩恵を享受できない事を少し残念に思いながらも空を仰ぐ。
眠り姫は、こうなる事を理解したうえで自分をここに寄越したのだろうか?
彼の一部であり彼の中の誰かである誰かが感じた逡巡は、ほんの一瞬で溶けて消え、
亡霊の流動によって気まぐれに動いた体内のオルゴールが、不意に針を弾き音を立てる。
その音に合わせるように、亡霊達はオルゴールを動かし、オルゴールは主たる眠り姫の刻んだ旋律を再現し、大男の姿を成した楽器であるこの身の口を通じてその命令を再現する。
「《私の娘に危険が迫ったら、娘に知られないように排除して。》」
もはや冒涜的だと罵られるほどに死霊でありながら”天使的”な姿を持つ彼は、そんな悍ましい姿の自分を救済せしめた眠り姫に対して深い恩義を感じ、彼女に己のオルゴールの針と命令権を差し出した。
だから、彼は迷わない、彼にとって最も信じられるものは自らの内から奏でられているのだから。
「《私の娘に危険が迫ったら、娘に知られないように排除して。》」
もう一度、偉大なる主の声を聴きなおした彼は、兵舎塔の上で首を巡らせて、眠り姫の娘であるリンにとって危険だと判断できる何かを探し始めた。
あの黒メイドは、罰を受けるべきだろうか・・・いいや、それはないだろう。
彼女は誇りを胸に戦い、矜持と共に退いただけだろう。
黒メイドが率いていたアストロの人狼達が群れを捨てた事で、彼等に抑えられていた人狼王の率いるカワスズメの人狼達は勢いを増していく、怒り狂う人狼達の手により町の方々で火の手が上がり、衛兵達が次々と暗殺される。
リンの群れに居るネコと名乗る闇商人は、衛兵の勢力だったはず・・・怒り狂うカワスズメの人狼達は敵になるだろうか?・・・いいや、そうはならないだろう。
彼等は己の種族の誇りに殉じているだけである。
視界の端で、人狼達を必死で跳ね除けるインペリアルの兵隊が見えた。
衛兵と共に町を守る彼らは、狩人としての一面を持ち、ネクロマンサーにとっては天敵でもある。
火に炙られて、血しぶきを纏い、剣を振るその姿は猛々しく、気高くは見えようとも、
彼等は偉大なる眠り姫の娘に、酷い仕打ちを行った・・・彼等は、死を賜るべきだろうか?
・・・いいや、そうはならないだろう、彼らは既に罪の報いを受けている。
巡る視界はぐるぐると巡り・・・それが不意に目に留まる。
白い翼、立ち上る吐き気を催す薄汚い光。
盲信、諦観、独善、偏愛、無欲、背徳、吝嗇
それは、かつて沢山の人間に罪を導いた、
「天使・・・。」
花守の騎士を従えた、悍ましい鳥の翼を持つ女が、
銀髪の少年と共に、オスカーに立ち向かっている。
不意に、オルゴールが囁いた。
「《私の娘に危険が迫ったら、娘に知られないように排除して。》」。
そうだ、あのように恐ろしい物は排除せねばならない。
我等が、主の命令を守らなくては・・・。