36:黒メイド
遠吠えは次々と繋がって響き、路地裏や雑踏のそこかしこから冒険者に混ざって都市に潜入していたアストロ家の人狼達が姿を現す。
例えネクロマンサーが対集団戦に特化しているとしても、これだけの数の群衆に襲われれば一瞬で襤褸切れに成り下がるだろう・・・しかし、彼らを率いる黒メイドはそんな事を指示するつもりはなかった。
”不意打ちで相手に一撃を加えるのは、人狼同士の決闘においては由緒正しき作法である”
黒メイドは自問する。
私は、誇り高い人狼に生まれたというのに、ナナ様の意思を顧みる事もせず、アストロ上層部の言いなりになって和解の使者など気取っていた・・・。
いつから私は、群れの老人共に従うままに動く駒に成り下がっていたのだろうか?
・・・オスカーは、アストロの上層部に腰抜けだと評され、追放された。
しかし、あの萎びた老人共にこの娘と同じように圧倒的な群れに自分の誇りを見せる事が出来るのか?
これは全くの偶然でありリンは知る由もないが、リンの起こした魔力爆発による一撃は馬車のフレームを歪め、この黒メイドのメイン武器であるロングハルバードをヘシ折る事に成功していた。
”決闘において相手の武器を破壊する事は、誇りと牙を奪われようとも抵抗できない程に服従せよ・・・という、本来は勝者から敗者に向けられる侮辱である。”
敵対すらしていない相手に不意打ちで行われたこの行動の意味は、少しだけ変わる。
彼女はリンに、”お前は私と戦う価値すら無い野良犬だと宣言された”と理解した。
黒メイドは、不安気に私の様子を伺う側近のメイド達を手で制して追い払った。
ここに居るのは皆、私と同じように群れから命じられてここに居るだけの、立場の弱い人狼ばかり、誇り高い者を全員で襲うなど、本来ならば屈辱以外の何物でもない。
彼らがここに居るのは他でもない、私がそう命じたから・・。
弱い物に対して権力を振りかざして従わせる・・・私は、群れの老人共と変わらない。
何か武器になるものを求めて探る手は、腰に据えた懐刀に無意識に伸びる。
閉所で戦いになれば長物では不利になるから、とナナ様が何気なく私に与えた小さな牙。
授かったその時は、人熊風情が何を心配するのかと心の中で嗤っていたというのに、無意識に触れた懐刀の柄は驚くほどに手に馴染んだ。
いつもなら、そんな事に疑問を感じる事すら無かっただろう。
空から降り注ぐ・・・疑心暗鬼の光が私の心を揺らす。
きっとナナ様は、私の手と武器の握りを見てこの懐刀の柄を調整していたんだろう。
そんなこと、一朝一夕にできる事じゃない。
ナナ様はずっと私を見てくれていたというのに・・・私は、一体今まで何を見ていたのだろうか?
禁忌を犯す恐怖で僅かに震える手で、強く懐刀を握りしめて首に巻いたアストロの印章を切り落とす。
部下に・・・いや、すでに部下ではなくなった周囲の人狼達に”群れを捨てた”姿を見せつけて、私は恐るべきネクロマンサーに懐刀を向けて堂々と告げる。
「この身の屈辱を灌ぐ為、貴女に決闘を申し出る。」
***
ちなみにこの時点でリンは既にパニックを通り越して悟りの境地に達していた。
和解しようにも「間違って攻撃しちゃった、ゴメンね?(はぁと)」などとホザけば明日の朝まで”死ねない”目に遭うのは間違いない。
アストロ家はかつては勇者を多く輩出してきた”傾向でいえば善寄りの人獣貴族”であり、完全な悪側のネクロマンサーとは相性が良くない。
ネコに頼んで周囲の人払いをさせた事が事ココに至ってさらに最悪の事態へと発展していた。
というか、目撃者すら居ない場所で「私VSブチギレた人狼60名」・・・あれ、控えめに言ってリンチにされるよねコレ?
路地裏にはネクロマンサーの天敵である祈祷師や聖印士らしき人影もちらほら・・・例え死霊を出してもマトモに戦えるとは思えない、何より目の前に居る黒メイドはどう見ても上級冒険者に匹敵する実力者である。
そんな中にあっても誇り高いネクロマンサーであるリンの思考は鋭く巡り、かつての経験からこの状況の打開策を導き出していた。
(これはもう、土下座して命乞いするしか・・・)
結論、何をどうやっても死ぬ。
人狼というのは非常に執念深い、ここで自害しても間違いなく地の果てまで追われるだろう。
それなら、もはや出来る限り情けない命乞いを見せて思い知らせる価値すら無い雑魚だったと思わせるしか・・・。
そうやってグルグルと無意味な思考を巡らせている間に黒メイドは短刀で己の首に嵌る首輪のようなアストロ印章に刃を当てるのが見えた。
(終わった・・・。)
失禁しなかったのは行幸かもしれない、いやこれから色んな物ブチ撒けて死ぬんだけどね。
他にも数多存在する獣人の家系を制して人狼であるアストロ家が勇者になれた事には理由が有る。
一瞬でありながら、永遠のように長く感じる一瞬の間の中で、キリリ、キリリ…と音を立てて、
黒メイドの首に掛けられた首輪型の印章にナイフが食い込む。
かつて数奇な運命の果てに全ての仲間を失ったとある人狼は、自種族に掛けられた枷に気付いた。
枷を外したその人狼は、多くを殺し、多くを奪い、多くの悲劇の果てに世界を救う事になる。
パリン、と乾いた音を立てて印章が切り落とされた。
黒メイドは”群れの所属を示す印章を切り落とした”つまり”群れから外れて単独になる”。
先ほどまでの彼女とはもはや比べ物にならない魔力と覇気を帯びた怪物、全てを失った人狼となった黒メイドが、短刀をこちらに向けて堂々と告げる。
「この身の屈辱を灌ぐ為、貴女に決闘を申し出る。」