春 ~後~
すぐ帰らされた大学生の新人アルバイトがどうやったらそんな風にできるの? といったあり得ない積み方をしたバックヤードの廃棄段ボールを氷川帆波と大型の格子の台車に積み直していた。今日は惣菜のヘルプに入っていたからこの後の消毒がややこしいけどしょうがない。
「帰らすくらいならクビにしたらいいんッスよっ」
帆波はさっきから不満ばかり漏らしている。手も遅い。パートに入った時期は七日しか違わないけど歳が結構離れているのと同じ夜学出身らしく、あたしが先輩で帆波が後輩ということになっている。ただ学生じゃないから『設定』がハッキリした方がお互い楽というのもある。
「大学の紹介だとめんどくさいらしいよ。それより帆波、手、動かしてよ。手っ!」
「やってますよぉっ」
帆波も大概雑に段ボールを積む。先月から担当が変わった回収業者の人がかなり神経質で、他の回収先でもしょっちゅうトラブってるらしく、店長はこのドライバーとモメるのを面倒がっていた。
うっかり回収時に居合わせるとあたしらも何を言われるかわかったもんじゃない。予定より早く来て「遅いじゃないかっ!」と怒鳴ってきたりするから最悪。いつ来るか時間も読めない。
「今日、あたし残業断ったから」
「おっ、それマジッスか? 藍子さん、今日金曜のセール用のお菓子、超来るッスよ?」
「よろしく」
「え~っ?! 無いわぁっ。今日若手の女子パート自分だけじゃないッスかぁ」
箱詰めのお菓子は他と比べると軽いから何となく若手の女子パートが男性従業員に混ざってずんずん倉庫に整理しながら積むことになっている。数が少なければ確かに軽くて楽だけど、月1回の『激安お菓子フェス』で取り扱う量はとんでもなかった。
しかし、あたしは今日帰る。前から約束していたから。
「ごめん帆波。今度、回転寿司奢ってあげるよ。あの国道の美味しいとこね」
「寿司っ? 二人ですよね? ・・・ん~ん、はい。あざッス。自分頑張ります」
帆波はさっきより手際よく段ボールを片し始めた。基本的には良いヤツだ。10代の頃は『バールのような物』を振り回して暴れたりしていたらしいし、今でも発作的に職場の冷蔵庫に入って写真を撮ったり(一応拡散公開するのは止めてあげた)してるけど、シンプルな考え方で、今より素っ気ない対応だったここで働きだした頃のあたしにも何だかんだで構ってくれた。
戻った実家で子育てだけしていると瞳がうるさいので、急場のしのぎで短期契約で入ったのに長続きしたのは帆波がいたからかもしれない。シフトに帆波がいない時は未だにあたしはボッチで御飯食べてるしね。
やっぱり今、帆波にも言っとくか。
「帆波、あのね」
「何ッスか?」
「あたし、今月一杯でここ辞めるんだ」
帆波は一瞬固まった。ん? そんなに驚かせちゃったかな?
「・・・ええええぇぇーっ?!! 何でッスかぁッ?!!」
凄い大声っ! 帆波は抱えてた廃段ボールの束を放り捨てた。えっ? 何? 何?
「いや、そのっ、そんなに? だから」
あたしも段ボールを置いて、説明しようと思ったけど、帆波は凄い勢いで両手であたしの肩を掴んで迫ってきた。おおうっ?
「自分のこと嫌いなんッスか? 嫌いなんッスかっ?」
「いやいやいやっ、違う違うっ! そんなことで仕事辞めないからっ、何? 何っ?」
「二人で茶髪同盟じゃないッスかぁっ、藍子さぁんっ!」
肩を掴んだまま泣き出す帆波っ。
「同盟っ? いやっ、入ってない入ってないっ。もう結構前から髪黒いよ、あたし? 泣かなくてもっ」
「藍子さんっ!」
帆波は頭突きするような勢いでキスしようとしてきたっ! 咄嗟に右の掌でそれを受けるあたしっ!
「どぅおおとっ?! 待て待て待て待てぇっ!」
焦るあたしっ。キスする気なのか? あれか? 欧米的な親愛表現かっ?! 首を捻ってあたしの右の掌を外そうとする帆波。
「好きッスっ!!」
欧米的な親愛表現じゃなかったぁっ!! ここから誠一さんと婚約したことを解説しろというのかよっ?! この店のバックヤードのすぐそこの棚にはバッチリ『バールのような物』が置いてある。ぶ、無事に定時で帰れるのか?
「ちょっ、待っ!」
く、口がっ、近い近い近いよぉっ?!!
約束した霞ヶ丘の住宅街まで来た。近いけど、特に用がないから霞ヶ丘に来ることは滅多に無い。元は湿地だったらしく、六月は霧が凄い出て危なくて車で通りたくない街。まだ四月だけど、車は勤め先の近くの駅の駐車場に停めて電車で霞ヶ丘駅まで移動して、そこから15分くらいかけてここまで歩いた。
目当てのコミュニティバスは住宅街と商店街の近くと、あたしが働いている所より断然大きい大型スーパーマーケット『ウケモチマーケット』と、あとは診療所や銭湯なんかをぐるぐる細かく巡回してるらしいけど、駅までは来ないんだよね。
「南8番町、ここか。あ痛たたっ」
あたしはあちこち絆創膏だらけだ。
「酷い目にあったよ」
午後の変な時間だから無人の、南8番町のコミュニティバスの簡素な手作りの標識と、猫の絵の描かれたベンチの有る停留場で、一応コンパクトの鏡で顔を改めて確認してみる。主に引っ掻き傷の軽傷なんだけど、とにかく疲れた。女子に惚れられるの久し振りだな。ごくまれにモテるんだよ。
・・・誠一さんと会う前のあたしなら、結構詰んでいたからうっかり転んできたかもしれないな。帆波、あんた遅かった。明日、どうしよう? あの子、フルーツタルト好きだから駅前のケーキ屋で買って持って行こうかな? 明日はシフト昼番だし、ケーキ屋も開いてる。今なら少し苦い、桜の実のジャムがかかってるはず。あのタルトもしばらく買えないだろうし、今更誤解も何も無いか? よしっ、明日あの子にタルトを買ってゆこう。
「解決っ!」
一人で納得したあたしはコンパクトをしまい、猫のベンチに座った。標識の時刻表を見るとあと10数分は時間がある。
音楽でも聴こうかと思ったが、過剰にドラマチックな感じになるのも違うかと思い、やめた。代わりに普段は思い出すこともない直樹との結婚や、これまでのことを思い返そうとしたけど、それもやめた。心がザワザワする。
想いがあたしの中で灯って熱いくらいだけど、もう10代のエネルギーは無いから、わぁっ! と弾けたりはしない。代わりに奥の方でいつまでも何かの病気みたいにくすぶってる。曖昧なあたしの記憶。今は黙って、猫のベンチに座っていた。
しばらくして、定刻通りに猫のペイントのされたマイクロバスが来た。
整理券を取って乗り込むと、あたし以外の客は後部座席に座った学生服のたぶん中学生の男子だけだった。高そうなヘッドフォンをして何か音楽を聴いて目を閉じている。
あたしが運転手の近くの席に座ると、乗車口のドアが閉じて、バスは発車した。
「あの子、何?」
運転手の直樹に聞いてみた。
「不登校の中坊。たまに来るんだ。ずっと乗ってる。放っとけ」
運転しながら素っ気なく答える直樹。運転手の制服姿だから別人みたいだよ。
「いいコスプレですね、お兄さん。そのシャツ500円で買ってあげようか?」
「うっせ」
あたしは何だかくすぐったいような気がして背もたれに身を預けるようにして、座り直した。
「このバス、猫バスなの?」
「ただの鉄の塊だ。型が古いから廃ガスぶち撒きまくるぜっ」
「格好いいじゃん。モフモフしているよりメカメカしい方があたしは好き。友達になれないんだよ」
「知らね」
直樹は車内用の鏡でチラリと見てきた。
「猫と喧嘩でもしたのか?」
「そうそう、凄い大きい猫」
あたしがニヤニヤして応えると、直樹は運転しながら鼻で笑ってきた。何か、ツンツンしてるね。
「客いないじゃん。こんな仕事、やってけんの?」
「税金と、俺が元いた親会社で補填してる。ここの住宅街の開発にウチの会社が噛んでるんだ」
「上手いことできてんだ」
「悪いヤツがいねぇと世の中回らないよ」
「エロい接待にビビって逃げたクセに言うねぇ」
逆に鏡で顔を見てやったらムッとしていた。今日は何か可愛いね。
「養育費、もういいから」
「おう」
後ろから首筋をよく見ると、以前は馬の首みたいにたくましかったけど、少し細くなっていた。直樹もアラサーか。
「来年の春から大型バスに移る契約になってる。そしたら収入が増える。また金がいるなら言えよ、月3万くらいまでな」
「ケチ」
「大型に移っても長距離やらねぇから」
「高速恐怖症? チキンだね」
「怖ぇもんは怖ぇんだよ。もうオッサンだから無理しねぇ」
「オッサンでも無理しないと人生開けないよ」
「このオッサンは転職でもう無理したから、これ以上はマジ勘弁」
あたしは笑ってしまう。ついでにちょっと泣きそうになっちまうよ。
「桃華はこの間、香港に帰ったよ」
「ん? そうか。元気だったか?」
「元気だよ」
「なら、よかった」
「パーマ液がっ!」
急に口に出た。
「体に合わないから、美容師にはもう復職できないから。言ってなかったけど」
直樹は少しの間、黙ってバスを運転していた。
「・・・わかった。お疲れ」
「うん」
もう泣いてた。
「宇都宮の店、見に行ったんだろ? どうだった?」
声が詰まってすぐに応えられない。
「・・・結構広い。オーナーも誠一さんの知り合いでさ、給料は変わらないけど、社宅は広かったよ。セントラルキッチンから来たパーツを仕上げるだけじゃなくて、ちゃんと料理できるって、張り切ってた」
「餃子屋?」
「違うって! 洋食だよっ。前言ったろ?」
鏡越しに笑っていた。夜学の頃、あたしが教室で一人で何もかもにムカついて黙って座っていると、直樹が初めて話し掛けてきて、その時もこんな笑顔だった。
すぐ泣き止もうと思い、自分でハンカチを取り出して目元を拭った。
「そっちはどんな感じ? あの人」
「この間、里香のお母さんに会いに、静岡の老人ホームに行ってきた。あまり話はできなかったけどな」
「老人ホームって、そんな歳?」
「遅くできた子供なんだ。ちょっと複雑。父親は、会ってくれなかった」
また、めんどくさそうな人に引っ掛かってるよコイツ。懲りないなぁ。
「まぁ、そっちはそっちで、上手くやんなよ」
「ああ。おっ? 南5番町、客来てるな。もう、喋らないぜ?」
「いいよ。あたしは公園前で降りるから」
「あそこは正面入り口の近くに鉄道系の循環バスが来るから。ウチのバスは夕方までもう通らねぇから、駅まで行かないしな」
「はいはい。ほら、お客さん」
あたしは何とか涙を止めた。手作りの小さな停留所にお婆さんが一人待ってた。
直樹はマイクのスイッチを入れて、バスを南5番町のバス停に停めた。
「お足元、お気を付け下さい」
マイクから口調の変わった運転手の声がして、乗車口からお婆さんが乗ってきた。
「南5番町、発車します。次は朧桜公園です」
運転手はバスを出した。あたしは降車ボタンを押して、チンッと鳴らし、固く黙ってやり過ごす。公園はすぐ近くだった。戦国時代からある霞ヶ丘の名物の桜の木の実の種から苗木を育てて、明治時代に植えて公園にしたもので、結構広い。コミュニティバスの停留所はその側面の通りにひっそりと作られていた。
「朧桜公園です」
このバスは鉄道のカードが使えないから、あたしは整理券と一緒に必要な小銭を支払い、降車口から降りた。
「朧桜公園、発車します。次は南4番町」
運転手はドアを閉じ、バスを出して行った。特に視線は感じなかった。この運転手らしい、と思った。あたしはため息一つ、
「ああっ、降りた降りた。喉乾いたな」
あたしは小さな、やっぱり猫の置物のある側面入り口から自販機を探して、もう花の見頃も過ぎた、それでも花吹雪の公園に入った。少し休憩する。これからまたバスに乗って、電車に乗って、軽自動車を運転して、もうすぐ離れる長くは住めなかった実家に帰って、そして求められる様々な顔に、あたしは応えてゆくんだと思う。その時の顔で。