春 ~前~
せっかく明るい色のカーディガンを買ったのに、と10代の女子みたいなことを思ってしまう。出掛ける寸前まで姉の瞳と口論になっていた。
「待ちなさいよっ、子供を置いてっ! いい気なもんねっ」
瞳は玄関への廊下で、あたしの腕を取ってきた。少し爪も立ててくる。子供の頃から変わらないムキになった時の癖だ。痛い。長袖の服を着ていないと流血させられることもある。コイツは猫だからしょうがない、と思うようにしている。
「いい気になってない。午後には戻ってくる。あたしが彼氏と会ったらアンタに何か不都合ある?」
掴まれた右腕に食い込んだ瞳の右手の指を握り潰すぐらいの勢いで、上から左手で掴み剥がしに掛かる。自分の右腕も痛いが、これぐらいしないと執念深い瞳の『捕獲』から脱出するのは難しい。
力ずくで瞳の指をあたしの腕から剥がしてやった。
「痛いっ! 馬鹿じゃないっ?!」
瞳は右手の指を掴み上げるあたしの左手を振りほどいた。
「お母さんっ! 藍子が私の指を折ろうとしてきたわっ。指をよっ?! 私のっ!」
リビングの方を振り返ってヒステリックに叫ぶ。車で子供達を習い事に送って、さらに小一時間掛けて朝から押し掛けて来てこの調子。地球で一番無駄なエネルギーの使い方だよ。
「藍子、瞳に謝っときなさい。二人とも朝からいい歳してみっともない。お父さんが書斎に逃げちゃったでしょう? まだ朝御飯食べてないのに」
母が、億劫そうに部屋履きスリッポンでリビングから出てきた。
「あたしは謝らない」
「姉として道義を教えてるのよっ? 私もみっともなくないっ」
「ああ、もうっ、知らない」
母はそっぽを向いてリビングに戻りだした。あたしもうんざりだったので玄関に降り、瞳は思ったより母が早く下がってしまったので少し焦ってリビングと玄関を交互に見たりしていた。
関係無い、と思い靴を履いて出ようとすると、リビングからの廊下の脇、玄関の上がり框の手前にある階段から小さな足音がした。
振り返ると遊馬だった。お出掛け用の帽子を被り、今年の戦隊の何とかレンジャーの戦士達が凄い体勢で決めポーズを取っている鞄まで持っている。地球はいつでもピンチなので、毎年誰かが地球の平和を守ってくれている。瞳はむしろ遊馬には甘いくらいだが、遊馬は瞳を怖がっていた。
「村岡のおじちゃんと会うんでしょ? 僕も一緒にいくっ」
あたしはすぐ戻るからと応えようとしたが、猛烈な勢いで瞳が吠えてきた。
「遊馬君っ! あんな中途半端な雇われコックに懐いちゃダメよっ! いい加減なあなたのお父さんより低収入で不安定じゃないっ。この間私が教えてあげたでしょう? 底辺同士が集まると貧困の連鎖が発生がしてしまうの。あなたは私の親戚なのよっ?!」
「え? 僕、底辺」
「遊馬っ! 行こうっ、聞かなくていいっ!!」
血の気も引いたあたしは土足で上がり框を越えて階段の遊馬の小さな手を取ると、外へ連れ出しに掛かった。
「藍子っ! 土足でっ! パートではトイレ掃除もさせられているんでしょう?!」
出勤したら毎日消毒する作業靴に履き替えて作業する。トイレ清掃の後は改めて靴と全身を消毒する決まりになっている。私が履き古しているこのスニーカーより私が業務で使っている靴の方が清潔だ。このスニーカーも3日前に遊馬の踵に蛍光材の貼られた靴と一緒にブラシで洗ってある。土足については確かによくなかったので帰ったら踏んだ所がそのままなら掃除しようと思う。だが、もう説明はしない。
「待ちなさいっ! 話がっ」
「落ち着きなさいっ、瞳」
父が階段の反対側にある書斎にしている洋間から出てきて興奮する瞳の両肩を掴んだ。
「お前が持ってきた苺を食べよう。お父さんまだ朝御飯食べてないんだ」
「離してっ! お父さんはいっつも藍子の味方をするっ! 子供時からっ」
瞳の怒りの矛先が父に代わった。幼稚園時代の『えこひいき』の恨みを捲し立て始める瞳。父は宥めながら、目で(ここは俺に任せて先にゆけ)と言ってきたのであたしは素早く遊馬に靴を履かせ、そのまま手を引いて玄関から出た。ドアを閉じる時、「藍子っ!」と瞳が叫んだがあたしは、
「逃げよう」
「うんっ」
遊馬と示し合わせて、何だか母子二人で楽しくなってきて少し笑い合って、走って実家から逃げ出した。お父さん、いつもえこひいきさせて、ごめんね。
詳しく理由は話さなかったけど、誠一さんは予定外の遊馬の同伴に気を悪くした様子はなかった。もう何度も面識はある。はっきりとは言わないが、遊馬も事情はわかってるらしく『コンカツ』云々の話はもう言わなくなった。瞳が色々言ってるだろうしね。
「藍子さん、遊馬君、少し早いけど、ここでお昼を食べようか?」
「そうだね。遊馬もいい?」
実家の近くの少し価格帯の高いファミレスで待ち合わせていた。
「いいよ。今日、瞳伯母さんが来たから苺しか食べてないもん。村岡のおじちゃんが作るの?」
「いや、おじさんが働いているのは別の店だから」
「えーっ? おじちゃんのオムライス食べたいよっ」
「遊馬、無理いわないの」
何度か誠一さんの勤めてる店に連れて行ったことがある。そこのちょっと芝居がかった店長さん(例のアメ車の)が気を利かせてくれて、いつも少しだけサービスしてくれるから、申し訳なかったりもする。
「また今度ね、遊馬君。この店のオムライスも美味しいんだよ? お子様ランチで付いてくるから」
「ホントに? どれぇ?」
本当はすぐに誠一さんの車で移動して、近くの大きな本屋に寄って美術書を見て回るはずだったけど、ま、いいよね? メニューに興味津々な遊馬をフォローしながら、目で(ごめん)と合図した。誠一さんはニコッと笑って返してくれた。この笑い方は好きだと思う。少し弱々しい笑顔。負けて、諦めて、また違うことを始めることをしてきた顔。「大きなトラブルもなく、ただ外食業界で転々としてきただけだよ」と言っていたけど、誠一さんには誠一さんのこれまでがある。
いい歳してちょっと気恥ずかしいけど、先月のバレンタイン辺りからあたし達は本格的に交際を始めていた。直樹や他のもっとロクでもないのを合わせても、こんなに真っ当に交際を始めたことはこれまでなくてあたしは正直緊張していた。たぶん遊馬がいなかったら真っ当過ぎることにビビッて変なことになっていたと思う。
子供をダシにして生きているなと思う。卑怯者。他の人みたいに普通のことが上手くできないから、普通のことをする理由と環境がほしい。
遊馬を産んでからも離婚する前はパーマ液が体に合わなくて毎日のように吐きながら、ムキになって美容師に復職したりもしてたけど、もう、いい。もう夢はいいよ。
昼食を三人でゆっくり食べて、駅のロータリーの手前辺りまで誠一さんに車が送ってもらった。誠一さんは今日もシフトが組まれている。それにあたしは約束があった。
「ありがとね」
「おじちゃんバイバイっ」
「それじゃ」
誠一さんの青い車を見送り、あたしは遊馬の手を引いて駅の西口の改札の方へ歩いて行った。今日、遊馬を連れゆくつもりはなかった。
「遊馬、桃華お姉さんって覚えてる?」
「知らなーい」
「忘れちゃったかぁ。でも桃華に優しくしてあげな」
「何で? その人、怒られたの?」
あたしは遊馬の応えに笑ってしまう。
「別に桃華は誰にも怒られてないよ。ただ優しくしてあげなさい、て言ってるんだよ」
遊馬は不思議そうにあたしを見上げた。
「わかった。桃華に優しくする」
そう、遊馬は桃華に優しくすべきだね。
桃華は西口の改札の向かいの案内板のある壁に持たれて待っていた。メールも何も知らせてなかったから、連れてきた遊馬を見て一瞬驚いていたけど、すぐにあの大きな口で笑顔になった。直接会うのは一年半ぶりくらい。遊馬に最後に会わせたのはたしか二歳くらいの頃だ。
「こんにちは。桃華、これあげる」
目の前に来るといきなり、遊馬は戦隊の鞄から家では父と遊馬しか食べない黒飴を取って、桃華に差し出した。早速『優しく』したらしい。
「・・・ありがとう。ありがとう」
桃華はしゃがんで受け取って、愛しそうに遊馬の頭を撫でた。
三月だから、菱田珈琲の前にはガーベラが植えてあった。形のはっきりした花でボタンみたい。
「はーいっ、フルーツサンドと、春限定ベリーベリーパフェと、遊馬君はミニチョコパフェねっ!」
手際よくスィーツの皿は並べられた。
「やったぁっ。ヨーコちゃんありがとう」
「いーえっ、それはそうと桃華さん。香港土産下さいよぉ」
丸っこい体で桃華にすり寄るヨーコちゃん。笑いのツボがシンプルな遊馬が即、ウケた。簡単な子だよ。
「あーっ、わかったわかった。これ、マスターと皆で」
桃華は鞄から紙袋を取り出した。
「おおっ! あっ、甘い匂いですね」
「ナツメと干しイチヂクと生姜を練り込んだクッキーだよ。無添加っ。オーブンで軽く温めると美味しいからさ」
「ありがとうございますっ!」
「いいなぁ」
「温めたら遊馬君にも持ってきてあげるよぉ?」
「ホントにぃっ? ヨーコさん、大好きっ!」
「あらぁっ、告白されちゃった。お義母さん、ふつつかな嫁ですが」
「却下っ! ショタコンにも程があるよっ、はい戻って戻ってっ」
「はーいっ。それじゃこれ、ありがとうございましたーっ」
ヨーコちゃんは大きなお尻を振り振り、クッキーの袋を持ってカウンターの奥へ戻って行った。やれやれだわ。
「お母さんショタコンって何?」
「忘れてしまいなさい。いいからパフェ食べてっ」
「うん? はーい。頂きまーす」
遊馬はパフェを食べだすとすぐに夢中になった。飲み物をこぼしそうなので、少し避けてもやる。これで、よしっ。あたしが一息つくと、春のフルーツてんこ盛りの自分のパフェを食べていた桃華が目を細めていた。
「ママだねぇ」
呟く桃華。3年前に卵巣の手術をしている。今、旦那さんと養子を取ることについて揉めていて、その冷却の為に一時帰国していた。桃華は香港で旦那さんと経営している日豪の事業所向けの賃貸物件仲介の仕事に専念することを望んでいた。本当は今日、その相談に乗るはずだった。
目で『ごめん』と伝えてみようとしたら、なぜか投げキッスされた。桃華らしい。夜学の頃からずっとこうだ。あたしは何だか泣きそうになって、堪えようとしたらもう泣いていた。
「藍子」
「お母さん?」
「あっ、ごめんごめん。目にゴミが入っちゃった」
「お母さん大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、ほら、パフェ食べな」
ハンカチで押さえて、何とか涙を止めた。桃華は頬杖をついて『困ったね』といったこれまで何度も見たポーズをしていた。元々桃華が直樹と付き合ってたけど、あたしが盗っちゃったんだよね。直樹は、呆れるくらい色んな女と浮気したけど、桃華とだけは浮気しなかった。桃華は観光の専門学校を卒業するとすぐに海外に出てバッチリ夢を叶えてお金も稼いでる。桃華は勇気の塊だと思う。あたしはもうさ、格好悪くて面目無くて消えちまいたいくらいだよ。
夜学に入学して、何か濃い変なヤツらばっかりの教室で、桃華だけ光って見えた。この子違う、って。同時に思った。私と違う所に行く子だ、妬ましい、って。何か盗れないだろうか? って。あたしが盗れそうなモノ、それが直樹だった。その直樹ともダメになって、子供だけ産んで、何だあたしは? ただの動物か?
「・・・桃華。そのパフェ、原価がヤバいからそればっかり注文されるとこの店潰れちゃうらしいよ」
「あら素敵。そういう痩せ我慢、嫌いじゃないよ」
桃華は何も見なかったように話を合わせて、大きな口でパフェを食べてくれた。黒飴は桃華の胸ポケットにしまわれている。
遊馬は手を止めて、涙の跡の残るあたしの顔を見上げていた。遊馬の少し茶色い黒目の中に、自分が映っている気がした。それは歳を取ってブスになってきた今のあたしのような気もしたし、夜学の頃の不貞腐れて髪の茶色い若いあたしのような気もした。
どちらのあたしもあたしのすることが不満で、どうしてくれるんだとか、どうでもいいとか、今にも瞳に「お前には道義が無い」と怒鳴られそうなボヤきを漏らしているようだ。
誰か、瞳以外の誰か。あたしを思い切りひっぱたいて叱ってほしい。いや、この際、ゲンコツで殴ってくれてもいい。今、この場で、気絶したい。