冬 ~後~
年が明けた1月の終わりの日曜、広瀬の一つ年下彼女の浜辺さんが里香の焼いた磁器が買いたいと言い出したので、俺達は磁器を置いている一番近い店に浜辺さんの車で向かっていた。車内には明るいピアノ曲が流れている。
一昨日少し降った雪がシャーベット状になって道の端に残っていたりしたが、浜辺さんの軽自動車は最近多いオフロード仕様で、チェーンは巻いていないがスタッドレスタイヤを使っていたので所々道が凍っていても走りは安定している。ブレーキとハンドル捌きがソフトな浜辺さんの運転の上手さも利いてる。こういうのはセンスだな。特にアウトドアの趣味は無いが、合理性からオフロード仕様の軽を選ぶ辺りも浜辺さんらしい。
俺は里香と並んで後部座席に座っていた。里香はずっと俺の手を握っている。緊張しているらしい。通ってる窯関係の知り合いに売ることはよくあるようだが、それは内輪のことで、『外』の知り合いに買ってもらうのは緊張するらしい。普段、店で赤の他人に買ってもらってもいるワケだから、不思議な気もするかな? 俺は家の棚や鞄からヒョイっと里香が出してくる小さな器をタダでもらっているので、『作品の売買』の基準の中には含まれないようだった。
「山瀬さん、急に言ってごめんねぇ」
運転に集中してあまり喋らない浜辺さんに代わって助手席の広瀬が軽い調子で言ってきた。
「いえ、あまり売れないので嬉しいです」
「興味がありますっ」
里香が謙遜しだすと不意に黙って運転していた浜辺さんが口を開いた。
「あなたは爪を綺麗に切り揃えていて、今日着ているセーターの色と柄も素敵です。あなたとお会いするのは3度目ですが、毎回同じ印象で、私はあなたの作品に興味を持ちました」
ガチガチの有名女子校を出て、そこから電子系の専門学校に進んでシステムエンジニアになったやや変わった経歴を持つ浜辺さんは終始こんな口調だ。女子校や男子校出身の人は打ち解けると独特の喋り方をする人が多いが彼女はその典型だな。今はちょっと口説いてるみたいになっちゃってるけど。
「あ、はい。ありがとうございます」
やや赤面する里香。いや、口説かれてるみたいになっちゃってるから。
「磁器を買ったら蟹スキ急ごう、蟹スキっ! 美沙、マッハで行こうっ」
「この車で音速は超えられないよ」
「気持ちだってっ、気持ちっ!」
「気持ちで音速は超えられないよ」
広瀬と浜辺さんのやり取りを聞きながらつくづく思う、よく付き合うことになったな。
「着いたらカフェの方で休もう、自分で焼いたの解説して売るの苦手だよ」
里香は手を握ったまま、顔を近付けて小声で言ってきた。耳がこそばゆい。
「わかった。俺は蟹スキ行く前にシナモンココアが飲みたいな」
「私はバニラコーヒー」
「アイス乗せるやつ?」
「乗せないやつ」
などと話しながら、俺達は目的のギャラリースペースのあるカフェに向かった。
カフェに着くと、後部座席で話した通り、里香はもう少しやんわり下がればいいのにと苦笑してしまうほどあたふたとカフェフロアのカウンターに退散し、俺は広瀬達に「シャイだから」とだけ言って、後に続いた。
「山瀬先生、ファンを引っ張ってきたんですか?」
と知り合いの店員にからかわれながら、里香は完全に赤面してホットのバニラコーヒーを頼み、俺はシナモンココアを頼んだ。
「・・・後で渡そうと思ったんだけど、大袈裟になりそうだから」
里香は鞄から、雑貨屋で売っている紐で止められただけの簡素な厚紙の箱を取り出した。付き合ってから何度もあったことだ。
「焼き物?」
「うん」
カウンターの上に差し出されたそれを手に取って、紐を解いて開ける。中には茜色の磁器が入っていた。酒杯にも小鉢にも見えた。鮮やかで鋭い茜色で、いつもの『シュッとしている』範囲を超えている気がした。
「何か、いつもより強いな」
「焼いたらそうなったよ」
隣に座っている里香は珍しく、真っ直ぐ俺を見てきた。こういう人と付き合うのは初めて、いや、いたのかもしれないが人の、自分と身近になった人の、真っ直ぐな顔から俺はどこか逃げていたのかもしれない。藍子からさえ。
「蟹スキ、皆で食べたら、後で二人で飲み直そう。話したいことがある」
「うん」
広瀬と浜辺さんはまだまだギャラリースペースの方を行ったり来たりしていたが、ほどなく俺と里香がオーダーした飲み物はきた。バニラと、コーヒーと、シナモンと、ココアの匂いが混ざった。
浜辺さんは皿を一枚、広瀬はお猪口を一つ買い、それから蟹スキの店に移って大いに食べ、浜辺さん以外は酒も飲み、特に広瀬は生ホッピーをグイグイ飲み、俺と里香は広瀬達と駐車場の手前で別れた。
「広瀬っ、さっさと出頭しろよっ!」
「うるせぇっ、川上ぃっ。逃げ切ってやらぁっ!」
中古車販売を始める前の広瀬の諸々の悪さはほとんど時効になってない。浜辺さんもそれは知っている。酔ってフラつく広瀬を支え「車内で吐いたら君が清掃するんだよっ」と警告しつつ、浜辺さんは広瀬を駐車場の中へ連れて行った。独特だけど、いい人だよな。
「寒いし、タクシーつかまえる?」
「いや、すぐ近くにあるから」
目指すバーはすぐ近く、藍子と結婚していた頃、浮気相手とよく来ていた店で、これまで里香を連れてくることは避けていたが、自分を試してみたくなった。
蟹スキ屋の近くの古いビルに入り、お互い話せず狭いエレベーターで上階へ上がり、バー『山羊亭』に軋むドアを開けた。あまり花は飾らない店だが、入って左手の壁には隔月で変わる大きな花の絵が掛けてある。今は寒椿だ。作者はわからないが、見ていて落ち着く絵じゃないな。
「いらっしゃいませ」
「奥の席、いいですか?」
「どうぞ」
席に着いて、俺はジンライム、里香はダイキリを店員に頼んだ。
「広い店」
「だな」
普通の価格帯の普通の品揃え店だが、妙にフロアの広い店だった。酔うと壁やカウンターや出入り口までの距離感が掴み難くなってよろめくことがある。この広さでいつ来ても3割から4割、席が埋まっていて、今日もそんなところ。
里香は寒椿の絵を見ていた。暗めの照明でもわかる。眼鏡の奥の目元に、藍子と同じ若さの衰えの兆しが見える。画家になりたかったらしいが、里香の部屋にはもう焼き物の簡単なデザイン画以外は一枚も無かった。普段は美術と無関係な仕事をしている。
俺は、腹を決めた。
「里香、実はさ」
「何?」
「俺」
「・・・うん」
「転職しようと思ってるんだ」
「えっ?」
里香は口を開けて固まった。ん? そんなに驚かせた?
「いや、何か店を始めようとか、移住しようとか、そんな大事じゃないんだ。今勤めてる所の系列にバス会社がいくつかあってあってさ、そこの運転士の募集が」
「あっ、待って。ごめんごめんっ」
里香は俺の腕に手を置いて、遮ってきた。
「どうした? 嫌かな? 確かに収入は減るけど」
「違うの。ごめん、私今、勘違いしちゃって」
「勘違い?」
「だからっ」
里香は今日何度目かで赤面した。
「今、プロポーズされるのかと思っちゃって」
今度は俺が、一瞬固まってしまった。
「あっ、そっちかぁ。ごめんごめんっ! いや、いつか、そのっ、これから安定したらもちろんっ」
俺は慌てた。何の準備もしていないぜっ。
「いいのいいのっ。忘れてっ! 新年早々みっともないっ。アラサー丸出しだよねっ、もうっ」
里香は泣きそうで、帰りだす勢いだ。そんなつもりじゃなかった。俺は里香の腕を取った。
「ごめん、切り出し方が悪かった。もうすぐドリンク来るし、飲み直そう。な?」
「・・・いいけど」
何とか宥められた。すぐに背の高い女のバーテンがジンライムとダイキリを持ってきた。
「ありがとう」
「ごゆっくり」
お互い一口、自分のグラスをあおる。ライムが苦い気がした。いい気になって蟹を食べ過ぎて口が馬鹿になっているのかもしれない。
俺はふと思い付いて鞄から里香からもらった茜色の磁器を取り出した。
「何?」
「これ、見てるとツマミになりそう」
「そんなこと」
里香は苦笑した。俺も笑って、磁器を見て、実際飲んでみた。
「あ、美味くなった」
「ばか」
ホントに美味く感じた。
「ここ一年くらい、内勤を勧められていたんだけど、引き換えに接待や雑用の仕事が増えてさ、雑用はどうってことないんだけど、接待がさ。俺、もっと要領がいいって自分で思ってたんだけど、しんどくて」
「バスの運転、嫌って言ってなかった?」
詳しいことはこれまで話していなかったし、今後も話さないと思う。里香は信用できるが、あの女達のことを不必要に広めるのは女達に済まないような気がした。他にもややこしい愛人の送迎や、女絡みの仕事は多かった。
「長距離はな。高速が怖いんだ。夜、真っ直ぐな道を凄ぇ速さでさ、『間に合わねぇ』って思いながらいつまでも走ってさ、ミスったら死んじまう。巻き込んだら殺しちまう。疲れて眠くてさ、寂しいとか、思っちまう。度胸が足りねぇんだ。もっと、自分や他人に残酷になれるヤツだって、期待してた。上手く、できねぇ」
「直樹」
里香は俺の手を取ってきた。
里香はいつでも正しい人だが、過去やこれから何をしたい、といったことはほとんど話さない人だった。静岡にいるが絶縁しているらしい家族のことも詳しく話してはくれない。
俺は子供の頃から藍子と離婚するまで全て気楽に話したが、考えてみれば仕事のヤバいこととか、藍子があっさり髪を黒くしたことに焦ったこととか、遊馬に会えなくなるんじゃないかと怖くなってるとか、養育費を払わなくてよくなったらまた俺はいい加減なことを始めるんじゃないかとか、転職の話を切り出したら日下さんに簡単に見切られるだろうことが耐えられねぇくらい情けねぇとか、俺が、今、里香に言ってないことは多かった。
少しでも話したら、里香にとっての俺は変わるんだろうか?
「里香、飲もう」
「いいよ」
俺と里香はそれぞれのグラスをあおった。テーブルに置いた空の茜色の磁器から、後から後から、酒が湧いてくるように感じた。